HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

デリダとオーストラリア

そういえば、『デリダ脱構築を語る シドニーセミナーの記録』(岩波書店)は、オーストラリアで語られた「肯定的な脱構築」のお話だった。

デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録

デリダ、脱構築を語る シドニー・セミナーの記録



対談者ポール・パットンは言う。

『法の力』においてあなたは、脱構築可能なものである法と、脱構築不可能である正義とを対置しています。オーストラリアにおいて、現在、この区別は格別の妥当性をもっています。というのもオーストラリア連邦高等裁判所は、先住民の法と習慣にもとづいた、財産所有権の形態と土地所有権の形態をはじめて承認する決定を、最近下したからです。先住民の法にもとづくいかなる形態の所有権も認められないこと、これは、1788年の植民地設立以来、英国法に、その後はオーストラリア法に深く定着していたのですが、この判決はそれをくつがえしたのでした。これは部分的な脱構築の顕著な例です。


すなわち、ある法制度──これは確立されたものであるとともに歴史的に偶然なものですが──に対して、先住民への正義の名において、部分的な脱構築がなされたのです。けれども、もちろん同時に、これが、植民地化を行ってきた権力がつくった法のなかでなされた判断を含んでいるかぎりで、この植民地化された先住民たちへの正義の行為は、根底的な不正義の継続を前提としているのです。



p.96-97

それに対してデリダは、

あなたが言った、高等裁判所によってなされた決定の事例に立ち戻りましょう。もちろんこの場合、部分的な償い、部分的な正義の行為はあったのですが、あなたが述べたように、それが、植民地化したものの名において表明され、生み出されたものであるがゆえに、依然として不正義でした。これは、私が法と正義のあいだで定式化しようとする逆説的な関係の一例です。つまり、一方で、脱構築可能な法があります。これは、つねに変わりつつある立法の集合体、実定法の集合体です。これらは脱構築可能です。なぜなら私たちはそれらを変化させ、改善し、改善しようと望み、また改善できるからです。たとえば人権宣言はこの二世紀のあいだに改善されています。労働者のための権利、女性のための権利など、新しい権利を付け加えた一連の諸宣言がありました。


このように、私たちは法や法律体系を改善することができます。改善することは脱構築することを意味します。それは法の以前の状態を批判し、それをよりよいものに変えるためです。それゆえ法は脱構築可能です。他方で、人が法をその名において脱構築するところの正義は、脱構築可能ではありません。ですから法と正義という二つの異質な概念、別の言い方をすると、二つの異質な目的があるのです。



p.103-104

ウィトゲンシュタイン哲学宗教日記

出た。

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

ウィトゲンシュタイン 哲学宗教日記

訳者は『ウィトゲンシュタインはこう考えた』の鬼界彰夫



それと講談社現代新書から冨田恭彦『対話・心の哲学―京都より愛をこめて』が、出た。

対話・心の哲学 (講談社現代新書)

対話・心の哲学 (講談社現代新書)

「生島シリーズ」の完結編だそうだ。