HODGE'S PARROT

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サザビーズの現代芸術コレクション



オークション・ハウスとして著名なサザビーズSotheby's)によるコンテンポラリー・アート・コレクションの映像があった。しかもクールなジェントルマン=競売人、 Tobias Meyer*1による端正な「イギリス英語」による解説付きだ。


Tobias of Sothebys / Contemporary Art Evening 2006


それにしても、フランシス・ベーコンから、アンディ・ウォーホル、ロイ・リキテンシュタイン、デイヴィッド・スミス、ゲルハルト・リヒター、ウィレム・デ・クーニング……と綺羅星のようなアーティストの作品が紹介されていく。しかもそのプライス!


[art.net auctions]

RAH リアルアクションヒーローズ ANDY WARHOL '80 STYLE 1/6スケール ABS&ATBC-PVC製 塗装済み可動フィギュア

Gerhard Richter: Forty Years of Painting

Gerhard Richter: Forty Years of Painting

Roy Lichtenstein (Basic Series)

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ANDY WARHOL 36インチ プラッシュ バナナ (ノンスケール ぬいぐるみ)

ANDY WARHOL 36インチ プラッシュ バナナ (ノンスケール ぬいぐるみ)

David Smith: Sculpture and Drawings (Art & Design S.)

David Smith: Sculpture and Drawings (Art & Design S.)

Francis Bacon : Commitment and Conflict (Art & Design S.)

Francis Bacon : Commitment and Conflict (Art & Design S.)

絵画を破壊する (叢書・ウニベルシタス) M・フリードの言葉を一般化して言えば、どんな絵画も、どんな絵画作品も、とりわけ表象絵画はすべて、明示的ではないまでも少なくとも暗黙のうちには、自己批判的なのである。というのも、表象絵画は、絵画や絵画表象そのものに内在する基本的な諸問題を、絵画的に提起するからである。表象絵画が絵画の基本問題を絵画的に提起するということは、それが表象そのものを、表象を産みだした過程を表象し、見るべきものとして与えるという意味である。




ルイ・マラン『絵画を破壊する』(梶野吉郎、尾形弘人 訳、法政大学出版局) p.128

サハラ―ジル・ドゥルーズの美学 (叢書・ウニベルシタス) ドゥルーズマルクスにおいて批判しているのは、(ア・ポステリオリに再導入した)形態を、あたかもあらかじめ与えられたものであるかのように見なしていることであり、ところが、彼がすでに充分に予感していたように、現実とは根本的に無形態的で強度的なものであるのだ。
マルクス主義フロイト主義の詐術はここにある。すなわち、作り出されたものである構造をあたかも起源にあるものであるかのように提示し、それらに真実性の重しをつけ、結果として世界の流動性を否定することにあるのだ。




ミレイユ・ビュイダン『サハラ ジル・ドゥルーズの美学』(阿部宏慈 訳、法政大学出版局) p.93

(オブリスト*2) 「テクスト」のなかには、あなたの思考の特定の基本構造が繰り返し現れてきますね、たとえばイデオロギー嫌悪というような。


(リヒター)  イデオロギー嫌悪というのを僕はもう生まれつきもっていたんだろう。十六、十七歳のときには、神が存在しないということは僕にとって明らかだったので、キリスト教のなかで成長してきた僕にとって、それは初めての不安な経験だった。そしてそれと同時に、あらゆる形式の信仰とイデオロギーに対する根本的な嫌悪は完成された。


  それはそのほかのすべてのテキストを貫通しています。ある程度「通奏低音」として。


  そして他方で、われわれが信仰を必要としている、ということも僕は知っている。それを僕は、生存するため、そしてなにかを行うための、狂気や幻想、あるいは衝動とも呼んだ。さらにそれとならんで、われわれは根本的に獣とはなにも変わるところがなく、自由と自由な意志決定など存在しないという俗な唯物論的な見解についてもね。




ゲルハルト・リヒター、インタビュー (清水穣 訳、美術出版社『美術手帖』1996年4月号より)

ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論

ゲルハルト・リヒター写真論/絵画論


Masterclass ……パリではすでに(画商の)アンリ・シャルル・ベルシュマンが戦闘要員を集め、戦略を練っていた。頭の中でかき集めた人員は膨大な数にのぼり、作戦を展開する地域も広範囲に及び──ただ高価な美術品を気ままに売り買いするだけでなく、世界中に代理人や顧客のネットワークを張りめぐらし、常に情報収集を心がけつつ商売にしているベルシュマンであればこそ可能な作戦だった。


たとえば主要先進国の銀行や保険会社に頼まれて美術品の価格の見積もりを出すこともあれば、コレクションの仕方、処分の仕方についてアドバイスすることもある。美術品の流行の仕掛け人である。金の価格変動でロンドンやチューリッヒの銀行が果たすのと同じ役割を、彼は美術の世界で果たしていた。供給過剰になって価値が底値を割らないよう気遣うところは、南アフリカのダイヤ商人と同じ。オークションに活気がないときには、裏からそっと市場介入するが、オークション前に作品を購入して高めの価格が巷に流れるようにする。専門家たちはベルシュマンがあの値段で買ったのなら、それだけの価値があるものなのだろうと口々にいう。その結果、自らの在庫の価値も上がり、ディーラーにとってもオークショニアにとってもベルシュマン様々となる。




モリス・ウエスト『マスタークラス』(小梨直 訳、東京創元社/創元ノヴェルズ) p.241-242


で、サザビーズやクリスティーズに関する本がないかな、と探していたら、面白そうなのがあった。Anna Nilsen著『Art Auction Mystery』。子供向けのミステリーのようだ。

Art Auction Mystery

Art Auction Mystery

*1:サザビーズ現代アート部門ディレクター(worldwide head of contemporary art)。独フランクフルト・アム・マイン生まれ

*2:ハンス・ウルリヒ・オブリスト/Hans Ulrich Obrist。スイスのキュレーター。『美術手帖』によると、1992年にジルス・マリアのニーチェの別荘で、鏡とオイル・フォトによるリヒターの展覧会を企画したという。関連情報→Google Scholar:Hans Ulrich Obrist

Hans Ulrich Obrist: Interviews

Hans Ulrich Obrist: Interviews

”ブラウン管のアダム”のピアノ




久しぶりにマーク・コスタビの『I Did It Steinwayを聴いた。あの独特の質感を持った、のっぺらぼうの人物(群)を描いた「絵画芸術」で御馴染みのアーティストによる「音楽作品」である。

I Did It Steinway

I Did It Steinway


ミニマル風、環境音楽風、あるいは「家具の音楽」のエリック・サティ風。特徴がない、という「感じ」の特徴がある。そんなスタインウェイの響きである。「ベットサイド・ストーリー」のようなノスタルジーを喚起させる。

De Chirico: The New Metaphysicsヒューマノイド(humanoid)」とも「アンドロイド(Android)」とも呼ばれるアダムは、無限に増殖している。一体何人なのかわからない。しかし、コスタビの作品の無数の登場人物も、すべてはアダムから発する一族なのである。


(中略)



顔のないアンドロイド(人造人間)のような人物──アダムに一番近い親類は20世紀イタリアの画家ジョルジオ・デ・キリコ(Giorgio de Chirico, 1888-1978)の描く人物たちであろう。ギリシアに生まれ、アテネミュンヘンの美術学校で学んだデ・キリコは、ドイツ・ロマン派絵画や象徴主義ニーチェの哲学の影響を受け、イタリアに戻ると「形而上絵画」を提唱した。ローマの古代建築を素材に、光と影を強調、原色を多用し、描かれた風景や人物の背後に、形にならない幻想と思想を暗示した。




岡部昌幸「情報化社会のヴィルトゥオーゾゥ マーク・コスタビ」(『Art Wave from New York マーク・コスタビ展』1992年 カタログより)


ところで『I Did It Steinway』のCDや『マーク・コスタビ展』のカタログを引っ張り出してきたのは、”ブラウン管の国のアダム”という異名で一世を風靡したアーティストを「21世紀のメディア=ブラウン管」YouTube で見かけたからだ。


audience pov of Mark Kostabi TV show Name that Painting

「アダム」とは何なのか。……顔もなく、名もなく、個性もない人物像──「アダム」が人間の物質的表現の単純化であることがわかるであろう。「アダム」とは、作者であるマーク・コスタビが現代の精神界の問題を表現しようとする際の「メディア」であり「メタファー」なのである。
デ・キリコの題材、「ストック・イメージ」とともに、マーク・コスタビの「ストック・イメージ」である「アダム」は19世紀までとは違う、高度な情報化社会と機械文明に登場する新しい人間像といえる。


(中略)


新しい時代には、新しいメディア、新しいメタファー、新しい人間像が必要とされている。





「情報化社会のヴィルトゥオーゾゥ マーク・コスタビ」

Kostabi: The Early Years

Kostabi: The Early Years



[Mark Kostabi]

しかし僕は、皆さんに「虚」を見せようとしているのではありません。手品師は「真実」と見せかけて、実は裏側で「仕掛け」をもっていますが、僕は素晴らしい「仕掛け」を見せながら、逆に「人生の真実」や「価値」を味わっていただこうと思うのです。


ですから見ていく中で、どれが「虚」でどれが「実」か分らなくなってしまうかもしれません。
そんな時は、このTV番組が映っているブラウン管のスウィッチをオフにして下さい。
そうすれば・・・そうすれば、すべてが消えてなくなってしまいます。




マーク・コスタビ (『マーク・コスタビ展』カタログより)

Conversations With Kostabi

Conversations With Kostabi