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2007-04-19

表象暴力と「やおい」、あるいはサルトルの「見るか見られるか」の戦い

|  表象暴力と「やおい」、あるいはサルトルの「見るか見られるか」の戦いを含むブックマーク



永野潤 著『図解雑学 サルトル』(ナツメ社)を読んだ。ジャン=ポール・サルトルについての解説書で、絵と文章でプレゼンテーションされている。平明でわかりやすく、サルトルの多彩な思想・活動を、改めて、概観できる。

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)

図解雑学 サルトル (図解雑学シリーズ)


とくに興味を惹いたのが、第4章『存在と無』の哲学。「まなざしの問題」「対人関係根本的なあり方としての相克」と題された部分である。サルトルによれば「他人のまなざしが向けられることによって、人間はモノに変えられてしまう」のだという。

私は今、かぎ穴から中をこっそりのぞいている。私は、まさに「我を忘れて」部屋の中を「見ている」。私はこのとき、世界に関わっている。ところが、突然廊下で物音が聞こえ、誰かが私に「まなざし」(regard)を向けていることに気がついたとする。その瞬間、私は「見られている」モノ(対象)に変化したのである。つまり、私は世界に関係する存在から、他人に関係される存在に転落してしまう

このとき私は激しい恥ずかしさを感じるわけだが、サルトルは、「恥」とは対象となった自分をとらえる意識だと考える。


私はまなざしによって対象となり、モノとなってしまう。ギリシア神話には、まなざしによって相手を石に変えてしまうメデューサという化け物が登場するが、それと同じように、他人のまなざしは、私をモノに変えてしまうのである。




「まなざしの問題」p.100

他人の「まなざし」は、私をモノにしてしまうのだが、それは、私が他者にとって何もの「である」かが決まってしまう、ということでもある。我を忘れて部屋をのぞいているとき、私は「何ものでもない」存在だった。ところが、他人に見られた瞬間、私は、他人にとって私はのぞき魔「である」ものとして存在しはじめる。つまり、意識としての人間が「他人に関係される存在」(対他存在)であるということは、否応なく他人にとって何ものか「である」という人間宿命を示しているのである。


(中略)


他人に「見られ」、他人の「まなざし」に支配されてしまった私が、そこから逃れ、自由を取戻すにはどうすればいいか。サルトルによると、それは、私が他人を見返し、まなざしを返すことによって相手をモノにしてしまうしかない。

サルトルは、私と他人との関係は、お互いに相手を見ることによって自分の自由を守ろうとする戦いのようなものにならざるをえない、と考える。こうした、私と他人の「見るか見られるか」という戦いのことを、サルトルは「相克」と呼ぶが、サルトルによると、それは対人関係根本的なあり方なのである。




「対人関係根本的なあり方としての相克」 p.102

ここで賭けられているのは「自由」である。「他人にとって」何もの「である」、のではなく、「私にとって」何もの「である」かを決められる存在。それが「自由な存在」なのである。


このようなサルトルの主張を、現在 nogamin さんが問題にしていることへの、とりあえずの、ご返事とさせていただきたい(他にもいろいろとあるんだけどね)。




[関連エントリー]

nogaminnogamin 2007/04/19 23:38 >HODGEさん
お答えいただきましてありがとうございました。
重大な問題だと思いますので、これからも引き続き考えたいと思います。
まなざしと自由の獲得の問題について、そのとおりだと思います。
ただやおいの表現は、あらかじめ女性性の記号に劣位と男女間の非対称性(まなざしの非対称性も含んで)が制度によって刻印されていたために、特定の形以外の表現を阻まれたゆえの表現欲求からくる迂回路だったのではないかと考えています。
加えて、HODGEさんがご覧になったやおいとやおい論の地点から、若干現在は転換が起きていると思います。ペニス羨望の心理や、自己疎外、異性愛を正常とする逸脱の表現が原理ではなく、男性同士のような関係から、男女関係のような関係から、女性同士のような関係(女性同士でないのに百合、とか)まで多様なジェンダー表現がみられます(それらは商業BLではなくどちらかというと同人誌市場においてみられる多様性なので見えにくいかもしれません)。それらは、もともと従来の男女関係の描写ではなく、一端そのやおいという迂回路を経なければたどり着けなかった場所なのではないか、それゆえそのときやおいという形が必要とされたのではないか、等と考えることがあります。
とはいっても、当事者の方にとって十分不愉快な表現であるものについて、理解していただきたいというのもずうずうしいと考えますし、ゾーニングやレーティング等といった対策が必要な現状は大いに感じています。
しかし、そうした表現の多様性が、むしろ従来の性制度にとらわれない価値観を生んでいるかもしれない、という予感を、個人的には持っていることをお伝えしたいと思いました。
それでは、長々と失礼いたしました。

HODGEHODGE 2007/04/20 00:36 nogamin さん、こんにちは。
僕の言いたかったことは、どちらかというと、nogaminさんが紹介されていた「やおい論」方に不備というか疑問を感じたことです。というより、なぜ「やおい論」が蔓延るのか、という疑問です。なんというか、ポルノを見るための「アリバイ探し」に翻弄するというか、是認のための「言語ゲーム」に興じているというか。

はっきり言えば、「やおい」にしても、異性愛男性が主に見る「ポルノ」にしても、もちろん「ゲイ・ポルノ」にしても、それを見る理由は、単に「見たい」だけ、だと僕は思っています。事後的な理屈は無用だと個人的に思っています。そしてポルノにおいては「正常な表現」/「逸脱の表現」という区別も無効だと思っています──ポルノは「すべからくアブノーマル」だと思います。

「やおい」が問題なのは、「すべからくアブノーマル」であることを忘れて、ノーマル・カップリング/「やおい」カップリング=同性カップルという、二項対立的な規定をしていることです。この点に限れば、異性愛男性が好む「ポルノ」の表象より、はるかに罪が重く人権侵害的だと思います。それが「ポルノ=やおい」を離れて現実的・現実社会でもおいても「語られる」とするならば、キャサリン・マッキノンの理論は「正しい」──ポルノを規制することは「正しい」ことになると思います。
……と書きましたが、まだ自分の方も考えることがありますので、nogaminさんのご意見も今後ともお聞きしたいな、と思います。エントリーを立てていだだいたり、コメントをしていだだいたり、ありがとうございます。

transnewstransnews 2007/04/20 12:10 日曜日はこちらの選挙にも注目
http://news.bbc.co.uk/2/hi/europe/6570947.stm

セゴレーヌ・ロワイヤル候補の応援に、スペインのサパテロ首相が来るって凄いですね。

HODGEHODGE 2007/04/20 23:15 もちろんフランスの選挙しか眼中にないです(笑)。
でもホントに外国の政権の長が応援に来るってのは、日本じゃ考えられないですね。まあ、二人ともカトリックで社会主義だから気があうと思いますが。
http://www.eitb24.com/new/en/B24_45113/politics/PRESIDENTIAL-ELECTIONS-French-candidates-hold-final/
>>
Spain’s Socialist prime minister, the first major international leader to publicly take sides in the French election this year - was effusive in his support of Royal. ”Segolene is change, Segolene is the future,” Zapatero told an estimated 15-thousand supporters at the rally.

Royal praised Zapatero for withdrawing Spanish troops from Iraq. ”We will not bow down on bended knee in front of George Bush,” she added.
<<

それと米ヴァージニアの銃撃事件は、選挙に影響するかな、とちょっと心配です。

nogaminnogamin 2007/04/21 00:40 >HODGEさん
お答え頂き、ありがとうございました。しつこくて申し訳ないですが、2点だけ。。。
 「やおい論」をやりたいという欲求は、実は私個人にはあまりなく、それゆえ的を得ているかわからないのですが、アリバイとしてのやおい論によって「正常」な欲求として捉えたい、というのはちょっと私の感覚とは逆だなぁと感じます。論をやりたい人というより、単なる受容者の一人としての感覚においてですが、自分たちにとってそれが何か非常に切実な表現様式であるにもかかわらず、その正体がよくわからないものであるゆえの興味というのはあります。(あとよしながふみの言説は気になるので追っています)ノーマルという用語の区別には、便宜的な区別以上のものをあまり感じたことはないのですが、(確かに考えてみると変な表現です)というのも、欲求が「切実」であればあるほど、やおいの方がよほど「自分たちにとっては自然で、必要である」、という感覚で受容されているように思うからです。それ以上の意図がやおい論自体にあるのかどうか、よくはわかりません。(異性愛的解釈にすぐ結び付けてしまうのは、おかしいなぁ、色々あるのに、とは思います。「やおいは難しい、簡単にいえない」と最初のエントリのほうで書いているのは、そのせいでもあります)
 ポルノ的なものは全てアブノーマルというお考え、深く納得いたします。今回乙女ちっくとやおいを結ぶ回路として取り上げたのは、やおいと乙女ちっくに共通する、ある種の「不自由」さの方に興味を持ったことがきっかけでした。やおいについては、その内部ではなく、そこに至る道筋にある何かの方です。その機会をもって、HODGEさんにコメントを頂きまして、考えをアップさせていただいた、という経緯になります。
こちらこそ、重要な視点を頂けましたことを、大変感謝いたしております。

HODGEHODGE 2007/04/21 02:13 nogaminさん、どうもです。
僕が思うのは、その「切実さ」が、「やおい」を表現する人・受容する人だけのものなのか、ということです。例えば男性がフィギュアを製作したりするのだって、どこかに「切実さ」があるはずです。もちろん、男女間の権力関係を視野に入れれば、しかし、それでも、「やおい」に関係する人/関係しない人がいるわけなので、「やおい」だけ、特殊なものとして論じられるのは、「その対象」=同性関係を扱っていることを「特殊化」しているから、すなわち同性関係が「特殊」だから、というような、理路で論じられてしまう危惧が僕にはあるわけです。それを象徴しているのが「ノーマル」という言い方です。「アブノーマル=やおい」に「語らせて」、「ノーマル」については語らない……「アブノーマルではない」=「ノーマル」という図式があるのではないか、です。

>>「自分たちにとっては自然で、必要である」、という感覚
というのは、別に男女、ストレート/ゲイに関係なくあると思います。「やおい」関係者が「より」強くそのように思う……と思いこんでいるというのは、「やおい」製作・受容と、それを「語り」承認する、言及関係の中から「効果」として生まれてくるものだと思います。
それと「欲求」ならば、機械的な反応であるし、満たされれば消えて、持続するとは思えないんですよね。
……と書きましたが、やはり僕の方も未整理です。しかし「やおい」を特殊化する「やおい論」には抵抗していきたいと思います。

nogaminnogamin 2007/04/21 04:35 >HODGEさん、引き続きお話くださり、ありがとうございます。
>「やおい」だけ、特殊なものとして論じられるのは、「その対象」=同性関係を扱っていることを「特殊化」しているから、すなわち同性関係が「特殊」だから、というような、理路で論じられてしまう危惧が僕にはあるわけです。それを象徴しているのが「ノーマル」という言い方です。

内容が同性同士であるために「アブノーマル」なものとして有徴的に可視化させている、ということでしょうか。
どうでしょう。このノーマルという記述は、同人の現場において、やおいが広がるにつれてやおいよりあとに(おそらく表現内容の区別のためそのように記述する必要が出てきて)発生したもので、便宜的以上の意味合いとしては、従来の男女異性愛的な欲望に「乗ることができない自分たちのセクシャリティ=やおい」という抑圧的な意識がまずあって、それに対置して作られた用語であるように思います。
つまりノーマル/アブノーマルという対置は、後者のやおいが「同性同士の表象だから」という表象内容の意味でのアブノーマルではなく、「男女カップリングのnorm」の欲望に乗ることができなかった「私たちのセクシャリティ」を基準としているのではないでしょうか。(やおい自体が自己卑下の用語であるように、自己抑圧的な概念として)

>「やおい」関係者が「より」強くそのように思う……と思いこんでいる
もしもより強く思い込んでいるということがあれば、それは「通常の異性愛表現になじむことができない」自分たちのセクシャリティを抑圧的に感じているという意味合い以上のものではないように思いますが、そんなにやおいは有徴的に語られているのか、例えば最近隆盛している男性のオタク文化を射程にした言説よりも目だって大きいのかどうか。(単に補足できていないのかもわかりませんが・・・)というのはいまいち感覚としてはつかめないところはありますが、注意して見ていこうと思います。

>それと「欲求」ならば、機械的な反応であるし、満たされれば消えて、持続するとは思えないんですよね。
なるほど、それを考えると、欲求ではなく、もはやそのようなセクシャリティとしてあるのかもしれない、と思えてくるところもあります。
私もここ1年くらい、男性オタク向けのアニメなどを見ることがあって、どういうものか色々考えてはみたのですが、うん、これは、やおいもロリもエロも何もかも同じだ、という結論以外何も浮かんできませんでした・・・。

HODGEHODGE 2007/04/21 09:14 >nogaminさん、こちらこそどうもです。

その論法でいくなら、
>>「男女カップリングのnorm」の欲望に乗ることができなかった「私たちのセクシャリティ」を基準としているのではないでしょうか。

は、そもそも「現実の」恋愛関係、コミュニティ関係に「乗れなかった」人たち全てが、そのように感じていても、不思議ではないはずです。しかし、創作の場=「非現実の場」における、異性愛とは違う「やおい」が<ある>ということですよね。
であるならば、「現実の抑圧」→「やおい」に向かうという最初のnogaminさんが紹介していた「やおい論」との整合は付かなくなると思います──僕としてはそれは、当然のように思うのですが。

それと「欲望」という言葉を待っていたんですが(「欲求」と区別することにおいて)、それは結局、作品の中で、登場人物Aが登場人物Bを「欲望」しているのを、<わたし>が「欲望」しているという、精神分析をなぞることになりますよね、どうしても。そうすると「現実の」異性愛関係の欠如とか、代償とか、そういった方向に向ってしまうと思います。

>やおい自体が自己卑下の用語であるように、自己抑圧的な概念として
それは、自己卑下を装った「防御」かもしれないと、最近思い始めています。「腐女子」という言葉にしても。つまり外部から「単なるポルノ愛好家」という「レッテル」を貼られる前に、「自分たち」でそれを避けるべく、しかし「<ある種の>ポルノ愛好家」としての「アイデンティティ(同一性)」を組み込んだ「形式」として。それが、「男性のポルノ愛好家」/「女性のポルノ愛好家」の区別を、ひいては男女の「制度」として、そこにあるのではないかと。
「自分たちのセクシャリティを抑圧的に感じている」「そんなにやおいは有徴的に語られているのか」っていうのは、フーコーの抑圧の仮説を引き出せば、それこそ「やおい」が欲望を生産しているのかな、と、非常に単純ですが。

transnewstransnews 2007/04/21 12:34 サパテロだけじゃなくて、ベルリンのヴォーヴェライト市長もセゴの応援にきたみたいです。すげえ。
http://www.tetu.com/rubrique/infos/infos_detail.php?id_news=11355&date_info=2007-04-20

HODGEHODGE 2007/04/21 15:50 っていうか、これTetuのサイトじゃないですか! alfayokoさん情報通ですね(笑) ありがとうございます──二重に嬉しい情報でした。
トップページのラガーマンのCMはさすがって感じ。

nogaminnogamin 2007/04/21 17:23 >HODGEさん
お返事ありがとうございます。
>は、そもそも「現実の」恋愛関係、コミュニティ関係に「乗れなかった」人たち全てが、そのように感じていても、不思議ではないはずです。しかし、創作の場=「非現実の場」における、異性愛とは違う「やおい」が<ある>ということですよね。

正確には、現実の恋愛に乗れていても、乗れていなくても、女である限りそうなる可能性はあるという風に思うのですが、創作の場においてそのような場がある、というのはそのとおりです。それに関しては<多重見当識>という東浩紀の概念がある程度役に立つかと思われます。

>であるならば、「現実の抑圧」→「やおい」に向かうという最初のnogaminさんが紹介していた「やおい論」との整合は付かなくなると思います──僕としてはそれは、当然のように思うのですが。

成り立たなくはないと思います。それがダブル・スタンダードであり、どちらを選んでも結局は自分たちの言葉と女性性の記号をそのものとして持つことができない、という不自由さであり、抑圧なのであると考えます。女、という記号が、女らしくあっても卑下され、女らしくなくても罰せられるという二重の抑圧を持っていることに由来すると思います。

>それは、自己卑下を装った「防御」かもしれないと、最近思い始めています。「腐女子」という言葉にしても。

うーん、これは、どうでしょう。装っている、というのは、何を根拠にそれが言えるのでしょうか。本当は抑圧されていない、あるいはまた、開き直りのための方便、ということなのでしょうか?
腐女子という言葉が生まれたのはおそらく80年代にやおいが認知され始めてから20年もたったつい最近のことだと記憶しています(これはマスメディアによるおたく消費言説に付随する形で現れた)。
それまで、彼女たちは名づけられもせずにいた。そして『オタク女子研究 腐女子思想大系』という本を書いて腐女子という言葉を有名にした杉浦さん本人でさえ、「腐女子ではなかった」のです。
http://www.st.rim.or.jp/~nmisaki/topics/otakujoshi.html

やおいそれ自体が欲望を生産しているのは確かかもしれませんが、そこに至る道筋自体はやおいよりずっと以前につけられていた、そのように思います。

HODGEHODGE 2007/04/21 18:57 >nogaminさん、コメントありがとうございます。いろいろと参考になります。

ただですね、僕がわからないのは、「抑圧」があるとしたら、ラディカル・フェミニズムのような運動に、なぜ、加わらないか、ということですね。あるいはリベラル・フェミニズムのように法改正のようなものに向わないか。それに「創作」に向うとしたら、エクリチュール・フェミニンのように「女性を称揚」すべきなのではないか、と。
>女らしくあっても卑下され、女らしくなくても罰せられるという
というのは、つねに男性を視野に入れているからですよね。その場合に、「女らしくあって卑下される」ということが、わかりません。保守的な規範にはそれこそ合致するのではないかと思いますが。

そしてもし彼女たちが「その抑圧の意味」を「本当に理解」しているのだとしたら、なぜ、セクシュアル・マイノリティである同性愛者の表象を、暴力的に、差別的に、偏見を助長する形で表現するのでしょう。「理解している」としたらです。少なくとも、「ノーマル」という言葉の使用や差別語や侮蔑語の使用が相手に与える影響ぐらいは「理解」できると思うのですが。「開き直り」というのは、「あえて差別をしている」「あえて搾取している」ことは「理解」しているという<アリバイ>のためにしか、思えません。
もっと言うなら、「抑圧されているというアリバイ」を手に入れた彼女たちは、異性愛男性が「憚るような」差別的な表現も、「より抑圧されている人たち」や「未成年」のような弱者に対して行っているのではないか、という危惧があります──自分たち「マジョリティ」が絶対にされたくない「レイプ」のようなものを、それこそ気楽に、他人事のように享楽するために。

nogaminnogamin 2007/04/21 21:41 >HODGEさん
非常に核心的な部分をご指摘いただいたと思います。私で答えられる範囲ですが、お答えしてみようと思います。

>僕がわからないのは、「抑圧」があるとしたら、ラディカル・フェミニズムのような運動に、なぜ、加わらないか、ということですね。

それに気づいている人もいれば、そうでない人もいる、ということがあります。そうした意識を持った人の中で、フェミニズムに理解を深めて意識的になっていく人はいると思います。
しかし、その表現に対して、こうした運動が代わりになるのだから、それをやめろと言われたところで、はたして有効なのかどうか。そのような形でしかあることができなかった意識の表出として、またそのような意識がたどり着かざるを得なかった場所としてあるのだと思います。そしてそうした男女の非対称性の問題が、現行のフェミニズムを推し進めたところで現実世界で完全に達成できるのかといえば、それには希望を持つことができない女性の諦念とも関わっているのではないかと思うこともあります。よしながふみのような人が、フェミニズムとのかかわりに頻繁に言及するようになりましたが、フェミニズムを支持する女性としない女性で、現実には分断されている状況があることも確かです。よしながふみによれば、それらをつないでいるのもBLだとしていますが。

>「女らしくあって卑下される」ということが、わかりません。保守的な規範にはそれこそ合致するのではないかと思いますが。

これは、基本的な女らしさの規範に関わる問題ですが、例えば女らしさを受け入れるのだとすれば、サッカーや野球をしてはならず、理科や数学や駐車が得意ではなく、あらゆる公的な領域で男性より能力が「ない」ゆえ補助的な地位を出ることができない、という条件をも呑まないといけない、ということが、恣意的に定められた「女性らしさ」に従う上での条件になります。よって女性らしくあるということは、規範に従って受け入れられる反面、それらにおける劣位を受け入れることであるのです。女らしさの記号、女の記号というのも同じ条件の元にあります。

>「抑圧されているというアリバイ」を手に入れた彼女たちは、異性愛男性が「憚るような」差別的な表現も、「より抑圧されている人たち」や「未成年」のような弱者に対して行っているのではないか、という危惧があります──自分たち「マジョリティ」が絶対にされたくない「レイプ」のようなものを、それこそ気楽に、他人事のように享楽するために。

外側から見ればそこのところが最も理解しがたい部分であり、まさにその表象における暴力を自分のことのように感じてしまう、ということにお怒りがあるのだと想像します。

私が最初なんの予備知識もなく少女ポルノ(2次元)画像を見たときに、同じく、許しがたい気持ちになりました。大の男が少女を犯す、という表象も、嗜虐心にもとづいたペドファイル的欲望にしか見えませんでした。しかし、それらを支持している男性たちが、全員ペドファイル的欲望を、つまりその表象のとおりの欲望を持っているわけではなく、また自分より弱者であるからという理由で暴力を及ぼしたいとする表象でない、ということが少しずつわかってきたのは最近のことです。(例えば女性が陵辱されるビデオが好きな男性が女性蔑視的な価値観を持っているかどうかといえば実はまた別であるのです)また、抑圧された彼らの心性から見ると、少女とは、対象でもあり自分でもある、という重ね合わせがあるようです。
また、表現上のレイプ幻想と実際のレイプ体験はやおいを問わずそれを区別されなければなりません。やおいだけでなく、一部の少女コミックや、レディースコミックでもレイプ幻想というのは頻繁に出てきますが、彼女たちが実際にレイプをされたいと望んでいるわけではなく、また何者かに対して暴力を及ぼしたいという欲求でもないと思います。
そしてやおいにおいて、<自分より弱い立場>の「より抑圧されている人たち」や「未成年」という認識の下で「同性愛者」を欲望の対象にしている、というのはおそらく(そのようにしか見えないというのは最もなのですが)誤解ではないかと私は感じます。
やおいがその対象にしているのは、最も原初的なものについていえば、(自分より強者である)「男性」を性的客体化するという視線です。しかし、その視線の持ち主にふさわしい記号は、<「女」ではありえない>という否定に始まっている、ということが、その表象を男性同士という形をとることにさせているものではないか、と考えます。
そして結果的には、同性愛関係に見える性的ファンタジーを生むに至ったのではないか、と捉えていますが、なかなかこみいっていて、わたし自身理解が不足しているところがあると思われます。ただし、もろもろの理由で、やおい支持者たちがそれを男性のおたく的表現のようにあえて表に出さない、というのは、そうした嗜虐心を抑圧の名の下に正当化しつつ満たしたいというような意図ではない、と感じていることをお伝えできればと思いました。

nogaminnogamin 2007/04/21 22:53 補足というか蛇足です。
>「エクリチュール・フェミニンのように「女性を称揚」すべきなのではないか」

について。
称揚とまでは行かないかもしれませんが、現在、これまで少女マンガが伝統的に作り上げてきた固定的な女性像、というものを「超えて」、新しく「女性らしさにとらわれない」女性像の意図を持って女性を描く作家というのも、実はやおい出身の人であることがあります。
オノナツメ、今市子、よしながふみなどがそうですが、そうしたフェミニズム的な意識に基づいた女性描写をする人が、やおいを書いている(いた)、ということも、実はやおいがそうした人に書く場所を与えていた、という意味で注目する部分ではないかなと考えることがあります。

HODGEHODGE 2007/04/21 22:54 >nogaminさん、ありがとうございます

以下のところが決定的だと思うのですが。
>>やおいがその対象にしているのは、最も原初的なものについていえば、(自分より強者である)「男性」を性的客体化するという視線です。しかし、その視線の持ち主にふさわしい記号は、<「女」ではありえない>という否定に始まっている、ということが、その表象を男性同士という形をとることにさせているものではないか、と考えます。

前半の「見返す」ことはそれなりに納得がいくのですが、後半の<「女」ではありえない>記号というのが、よく理解できません。なぜならば、「やおい」の作者や享受者は、(ほとんどの場合において)女性であるということは、誰が見ても、あきらかではないですか?
そして「男性を性的客体化するという視線」は、強者に対する「復讐」なんでしょうか。「処罰」なんでしょうか。
さらに、
>その視線の持ち主にふさわしい記号は、<「女」ではありえない>という否定に始まっている
なぜ、男性を「性的客体化」する「記号」が、「女」ではありえないのでしょう──「女」であっていけないのでしょう。しかしながら「同性愛的関係に見える」ファンタジーそれ自体に、「視線」を注いでいるのは、その視線の「持ち主」は<女>ですよね。
「男性」に、「性的客体化」としての視線(まなざし)を注ぐのは、<女ではありえない>のに、「男同士の関係」に対して視線(まなざし)を注いでいるのは、<女でしかありえない>(「やおい」が女性向けであるという前提で)。
このように整理してみましたが、やはり納得はいかないですね。例えば、「現実の」同性愛差別を、その内容において持ち込んだりしてますよね。以前も別の方と議論したときにも、エイズのような「現実の」差別的事象が含まれていることも教えていただきました。つまり「強者である、異性愛の男性」についての「性的客体化」だけではなく、あるいは、その「性的客体化」を行うプロセスにおいて、「抑圧されている同性愛者」を<利用>していることは、ある程度、明白なのではないでしょうか。

それと、これは大事なことですが、「蔑視的な価値観」を持っていることと、「蔑視的な価値観」を「表明」「語る」ことは、まったく意義が異なります。ゲイ男性が、「やおい」について反発を覚えるのは、「やおい」の「内容」だけではなく、「やおい」関係者の「態度・言動」がとても大きいと思います。

HODGEHODGE 2007/04/21 23:06 >オノナツメ
は勧められたことがあります、まだ読んでませんが(笑)、カヴァーを見ると「詩的な」感じがして、エクリチュール・フェミニンと相性が良さそうですね。あの絵は気に入っています。

nogaminnogamin 2007/04/22 04:43 >HODGEさん
お返事をありがとうございます。オノ・ナツメはおすすめです。
このようなお話ができること自体、貴重な機会を頂いたと思い感謝しております。

>「男性」に、「性的客体化」としての視線(まなざし)を注ぐのは、<女ではありえない>のに、「男同士の関係」に対して視線(まなざし)を注いでいるのは、<女でしかありえない>(「やおい」が女性向けであるという前提で)。

まさにそのとおりです。おかしいようなのですが。
これはやおいが伝統的な少女マンガの表象を引き継いだものであることに由来していて、少女マンガでも常に、まなざしを注がれる側は固定されていました。現実の制度の表出として、少女マンガの中でも、欲望され、まなざしを注がれる側は常に女性であった(少女マンガの目は、<見られる>目である)という決まりごとが、内部においても女性と男性の関係の倒置を「許さない」のだと考えます。しかしそこに男性に対して見る側としてのまなざしを導入したのが、24年組の少年愛描写をはじめとした、やおいの始祖となった表現であり、基本的にはそれを踏襲するかたちでしか、今のところその見る側としての物語を描けないということではないかと考えます。よって、やおいの表現上では、見る側には女がいる、というよりは、おそらく<見る側にはだれもいない>という構造になっているのです。(しかしある程度現在は転換が起こりつつあると思われます。それにつれ多様化し、見る側も、女性だけではなくなってきたようです。)
やおいをある種の不自由な表現と書きましたが、それはこのような目に見えないがそこにある表現上の制約にも関係していることの上に、女性の性表現における主体性の欠如そのものを表象しているのだと考えています。やおいはそれ自体不毛な回路から逃れることができません。しかし、そこを経由して出てきている新しい表現の方に、私は一縷の望みを持っています。

それと、男性を性的客体化することに、復讐とか処罰といった意味合いはないと思います。異性愛男性ポルノにおける女性の陵辱は復讐とか処罰なのでしょうか。一見そう見えますが、必ずしもそうとは言えないと思います。
異性愛男性向けポルノにおける女性の表現を前にして、「こんな女がいるか」と私自身心の中で何度叫んだことでしょうか。それでもそうした表現は「正常」として責められません。女性についての偏見や誤った見方がそれらによって広がっているからといって、それを取り締まれば終わりだと私は思っていません。女性の差別の問題は、その意味で言えば、もっと大枠の制度の方にこそ、その原因があり、目的もあります。あるいはそのような表現の送り手の非対称性こそが検討すべきものではないかと思っています。
例えば性的表象において、レイプ描写だけがいけないのでしょうか。和姦は陵辱でなくて強姦だけが陵辱だとどうして言えるのでしょうか。性器の挿入は暴力ではないのでしょうか。暴力だとわかった上で、やっているはずです。表象における強姦と和姦の区別なんて方便にすぎません。私は性的なまなざしを注ぐことがそもそも人権侵害につながるものと踏まえています。それをわかった上でまなざしは注がれるのです。まなざしとはそういうものだとやおいを手にして初めて学びました。おそらく腐女子と呼ばれる人たちが持っている後ろ暗さというのはそこに由来しています。性的客体化の元に相手を思うがままに表現するということが、すでに人権侵害です。相手が気持ちよがっていればセーフなのでしょうか、その逆はだめなのでしょうか。どれも同じではないでしょうか。

>つまり「強者である、異性愛の男性」についての「性的客体化」だけではなく、あるいは、その「性的客体化」を行うプロセスにおいて、「抑圧されている同性愛者」を<利用>していることは、ある程度、明白なのではないでしょうか。

ものによる部分もあり、また、受容者側の理解において厳密にどうであるのか、ということを置いておいても、そのように見える、また利用していることは確かだと思います。その点について、弁明をすることはできません。
そして、表現内容における直接に差別的な表現など、どちらにしても当事者の方にとって不快に受け取られる描写が見られることは事実であって、やはりどう考えても、いかなる形でも正当化はできません。
私も受容者の一人として、大変申し訳ないと思っています。最初からお伝えすればよかったのですが、機会があればやはり謝るべきではないかとずっと考えていました。謝って済むものでも到底ない、とは考えますが、この機会を頂きましたので、言わせて頂きたいと思います。本当にごめんなさい。

>ゲイ男性が、「やおい」について反発を覚えるのは、「やおい」の「内容」だけではなく、「やおい」関係者の「態度・言動」がとても大きいと思います。

それが確かに最も悪影響と呼べるものかもしれず、非常に残念に思います。やおいについて知っているだけで同性愛について知っているような気になってしまう人がいるような部分は確かにあると思いますし、そういう人ほど興味本位で同性愛者の方と接触してみたいと思ってしまう傾向にあるような気がします(もちろんファンタジーと現実をちゃんと分けて考えることができる人が大半だと思ってはいますが・・・)。

また、やおい内部での表現が、そうした偏見をときに助長させる表現をとっているかもしれない可能性についても、認めるべきであると思っています。

ただ、やはり難しいのですが、差別の主体としてやおいの表現者、そして受容者が全員差別主義者か、という事は言えないと思うのです。やおいの受容と現実の同性愛の現状に対する知識といったものは相関しません(女性同性愛者でやおいの支持者もいます)。
その点においても、やおいと同性愛は最初から別のものであると受容者に捉えられている可能性があると思うのですが、そうした混乱をあらかじめ孕んだ描写に原因があるとは思っています。
当人の無知や偏見は、やはり当人のものである。やおいにおける差別的表現は、人にもよるし、表現にもよる、そのように状況を捉えています。といっても、私もここまでに、自分の無知ゆえに、色々と失礼な言動があったかもしれず、その点はお詫び申し上げます。

80年代後半から90年代にかけて、同性愛者の方たちに直接やおい受容者からの暴言のような出来事が相次ぎ、いわゆるやおい論争が起こったことを受けて、やおい内部からの見直しの動きがあったという風に藤本由香里さんが講義で言っているのを聞きました。代表的な作品としては羅川真里茂(JUNE出身の人です)の『ニューヨーク・ニューヨーク』というものがそれにあたるそうです。これは私も読んでみましたが、ゲイの男性をモデルにした物語として、できるだけの知識をもとに誠実に描かれ、差別の問題にも正面から向き合って描かれているといった印象を持ちました。しかし、そうした表象上の差別の問題はこれからもやおいが抱えていくものとして、考え続けていくべきものだと認識しています。
長くなってしまいました。すみません。

HODGEHODGE 2007/04/22 09:33 >nogaminさん これだけ真摯なご意見を聞けて、こちらこそありがとうございます。
<女ではありえない>/<女でしかありえない>、は本当は、そんなことは<ありえない>ということを言いたかったのですが・・・まあいいです。
>>ファンタジーと現実をちゃんと分けて
多分ここが、「やおい」と「現実の同性愛者」の齟齬が出てくるところでしょうね。そしてこうなると、結局、内容の分析において、それが「良い」か「悪い」かををめぐる、それこそ不毛な議論に陥ってしまうと思うのです。さらに「表象と行為は別だ」と「表象と行為は<必ずしも>異なっているわけではない」とかいったような。


そこで「現実的な」「前向きな」提案というか意見なんですが、例えば、ゲイ・パレードに「やおい関係者」の人が参加してみるとか、同性婚などの話題にも、積極的に触れてみるとか、そういった姿勢があるとかなり「印象」が変わると思うのですよね。そしてゲイの方も、それなりに楽しめるような「作品」──「絵」なり「ストーリー」(もちろんホモフォビアのない)、「BL」(「やおい」というネガティブな言葉はどうしても好きになれないので)を探して、紹介してみるのも、「齟齬」を解消するという意味ではよいのではないかと思います。
久しぶりに「静かな朝」を迎えられて、そんなことを思いました。

nogaminnogamin 2007/04/22 21:56 >HODGEさん
こちらこそ、不快にお感じになるかもしれないような内容にもかかわらず、HODGEさんが冷静に受け止めてくださいましたので、ここまでお伝えすることができたと思います。ありがとうございました。

><女ではありえない>/<女でしかありえない>、は本当は、そんなことは<ありえない>ということを言いたかったのですが・・・まあいいです。
なるほど、そうでしたか、すみません。ちゃんと女性が読んでいることを受け止めるところからはじめなくてはならないですね。そこから書く側の責任とか、表現上の問題もちゃんと批判されつつ外部に開かれていくという可能性もあるのだと思います。
そうした齟齬をどうやって埋めていくか、これからの動向も見守りながら考えていきたいと思います(やはり受容者内部での意識を高く持つということは重要だと思いました)。

ご提案について、なるほど〜という感じです。読む分には、ゲイのBLファンの方のレビューなども読ませていただいてるものはありますが、自分ですすんでそうした情報を紹介してみたりするというのはなかなか思いつかなかったので、ぜひ取り入れてみたいと思います。

BLを読んでいるとき、私の感覚でも、ときどき「この表現はホモフォビア的だなぁ」と感じるようなものがあると、これまでもやや引っかかりながら読んでいるところがありました。より意識的に読んでみて、よさそうなものはレビューに取り入れていくようにしたいと思います。
そしてやおいよりBLの方がネガティブなイメージが少ないというのも、気づかなかった視点で、とても参考になりました。

それだけでなくお話をしていただいた中で、忌憚ないご意見を頂き、かつ新しい視点を頂きましたことも含めて、大変感謝しております。重ねてお礼申し上げます。