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2007-04-25

未来の男性〜エレーヌ・シクスーのジュイサンス

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パリ第8大学ヴァンセンヌ校に「女性センター」を立ち上げた、エレーヌ・シクスー(Hélène Cixous1937年アルジェリア生まれ)の著書『メデューサの笑い』の「新しく生まれた女」と題されたエッセーに、同性愛に関する興味深い記述があったので引用しておきたい。

シクスーはフランスフェミニスト*1で、「エクリチュールフェミニン」(女性エクリチュール écriture féminine*2)の提唱者。英文学専攻で、ヘンリー・ジェイムズに関する論文ヘンリー・ジェイムズ投資としてのエクリチュールあるいは、利息の両義性について」も邦訳されている(筑摩世界文学大系49『ジェイムズ』所収)。また、小説、詩、戯曲など創作の分野でも実に多彩で旺盛な活動をしている。

邦訳は他に『狼の愛』(紀伊国屋書店asin:4314007044)、『ドラの肖像』(新水社、asin:4883850226)があり、エレーヌ・シクスス表記で『内部』(若林真訳)が新潮社から出ていた。


未来の男性



Writing Differences: Readings from the Seminar of Helene Cixous いくつかの例外はあります。過去にも絶えず例外的な男性はいました──これらの人々とは、同性愛的な要素を冷酷にも抑圧することで型にはまったマネキン人形のようになることを拒否した、不確かで詩人のような存在なのです。男でもあり、女でもあり、複合的で動的で開かれた存在。他性を構成要素として認めると、動的になるために非常に脆くなる可能性はありますが、そのような人々をいっそう豊かで、複数的で、力強くします。このような条件においてのみ創造が可能なのです。


思想家芸術家、新しい価値の創造者、ニーチェ風の狂気の≪哲学者≫、概念・形式の破壊者・創造者、つまり人生を変える人々は、相補的であるかあるいは矛盾に満ちた独自性に心を躍らせずにはいられません。だからといって、創造するために同性愛が不可欠だと言っているわけではありません。しかし創造的主体の中に、他者や多様な人がたくさんいる、言い換えれば、自己を離脱し、省察を加え、無意識に活力を求める人々がいなければ、哲学であれ詩であれ真の創造活動を行うことはできません。


こうすることによって、砂漠が突然活気づき、今まで知らなかった自我──女たち、怪物、ジャッカルアラブ人、同類、恐怖──が立ち現れてくるのです。

Stigmata: Escaping Texts (Routledge Classics) 自我にある「主体をはみでるもの」が、ある種の同性愛(つまり両性具有性の操作)によって結晶化されることがなければ、他の「私」、ポエジー、フィクションを創造することはできません。「新しい私」は、個性的で豊かで陽気、男性的でもあれば女性的でもあり、もっと別の存在になることもできます。そして別の存在になって、「私」は、誘惑したり、悩んだりするのです。「私」と称する様々な個性が合奏をかなでる時に、ある種の同性愛が抑圧されることがあります。これは、象徴作用や代替現象において起こります──つまりさまざまな記号・行動様式・仕草を通して現れ、とりわけエクリチュールにおいていっそう顕在化します。


こういうわけで、分裂し、砕け、再構成されるテクストの運動に、ジャン・ジュネの名において刻み込まれているものは、豊で母性的な女性なのです。男、雄、紳士、君主、王子、孤児、花、母、乳房などが奇妙に混じりあって、愛というすばらしい≪太陽エネルギー≫の周りに集まります。すると今度は太陽エネルギーが、この愛に満ちた束の間の個性的な人々を爆破し、粉々にします。そこでこれらの人々は、新しい情熱を求めるために、別の肉体として再構成されるのです。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』(松本伊瑳子、藤倉恵子、国領苑子 編訳、紀伊国屋書店) p.140-141

Hélène Cixous, Rootprints: Memory and Life Writing

Hélène Cixous, Rootprints: Memory and Life Writing


で、どうしてあなたは書かないの? 書きなさい! エクリチュールあなたのためにあり、あなたはあなたのためにあり、あなたの体はあなたのもの、それをお取りなさい。あなたがどうして書かなかったのか私にはわかっています。(それから私が二七歳になる前に書かなかったかも)。その理由は、エクリチュールはあなたにとってあまりにも高尚であまりにも偉大なことであり、立派な人々、つまり≪立派な殿方たち≫専用のものだからというわけです。でもそれは≪馬鹿げた話≫です。


First Days of the Year (Emergent Literatures Series) もっとも、あなたはこっそりとではあれ、少しは書いてみましたね。でもそれが立派だといえないのは、人目を忍んでだったし、書いたことで自分を罰したし、最後までやりとげなかったからです。

あるいは、丁度私たちがこっそりマスターベーションをやったように、書きたい気持を抑えられずに書いてしまったとしても、それはより遠くへ行くためだったのではなく、いらだちを少々鎮めることで、〔書きたいという〕過剰なまでの思いに苦しめられることを、なんとか食い止めるためだったのです。それから、私たちは快楽を得るや否や、──自分を許してもらうために──急いで罪責感を覚えるか、あるいは、次の時まで、忘れ、埋葬してしまおうと急ぐのです。



(中略)


私は女性を書きます。女性女性を書かねばなりません。そして男性は男性を。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.11


Helene Cixous: Writing and Sexual Difference (Transitions)

Helene Cixous: Writing and Sexual Difference (Transitions)


あなたを書きなさい。あなたの体の声が聞かれねばならないのです。その時、無意識から巨大な資源がほとばしり出るでしょう。私たちのナフサは、黄金のドルや汚れたドルなしに、相場のない価値〔証券〕を世界に広め、古いゲームの規則を変えることでしょう。


書くという行為が《実現する》であろうことは、女性が自分のセクシュアリティ、および自分の<女性としての存在>に対する関係を検閲しなくなることです。またそれは、女性に自分自身の力に近付く道をも奪い返させます。そして女性彼女の富と、彼女の快楽と、彼女の器官と、封印されてきた彼女の身体の広大な領域を返してくれることでしょう。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.17

……「ペニス羨望」(Penisneid)の童話はもうおしまい。私たちが彼らのペニスを死ぬほど羨望していて、私たちは彼らのペニスに対する羨望で縁取られたあの穴なのだと彼らが信じること、そう信じることが自分自身を重視するために彼らにとって必要だということ、これは遠い昔からの彼らの問題なのです。


明らかに(私たちはそのことを、私たちの苦い経験を通じて──でも同時に、私たちにとっては楽しくも──確かめています)、彼らが勃起するのは、彼らが勃起でき、彼らがまだ性器を持っていることを、私たち(彼らが持っている小型記号表現(シニフィアン)〔=ペニス〕の母親のような愛人である私たち)が彼らに保障してあげるため、男性が男性であるのは〔ペニスという〕羽根をはやしていることによってのみだということを、私たちに知らせるためなのです。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.38-39

The Laugh of the Medusa (1975)



The Third Body "The Laugh of the Medusa," an extremely literary essay, is well-known as an exhortation to a feminine mode of writing (the phrases "white ink" and "écriture féminine" are often cited, referring to this desired new way of writing).

It is a strident critique of "logocentrism" and "phallogocentrism," having much in common with Jacques Derrida's slightly earlier thought. The essay also calls for an acknowledgment of universal bisexuality, or polymorphous perversity, which is clearly a precursor of queer theory's later emphases; and it swiftly rejects many kinds of essentialism which were still common in Anglo-American feminism at the time. The essay also exemplifies Cixous's style of writing in that it is richly intertextual, making a wide range of literary allusions.




Hélène Cixous [Wikipedia en]

私の言語において、私の母なるドイツ語を孕んでいるのが私の父のフランス語であるのに、どうして性差に混乱を来たさずにいられるでしょうか?




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』より「エクリチュールの到達」 p.281

無人島 1969-1974『中性』という作品の素材は、組み合わされた無数の要素で出来ている。例えばそれは、様々な欲望によって形成された虚構的な要素であり、また文字によって成り立った音韻的な要素であり、他にも、文彩(フィギュール)によって構成された言語的な要素、引用によって作られた批評的な要素、様々な場面によってできた活動的な要素である。これらの要素は、われわれが速度ゼロにとどまる間は、不動の、複雑な、解読するのがとても難しい「中性」のまとまりを形づくる。しかし、徐々にに速度を出して行くと、それらの要素は、相互に置き換わる数々のつながりの中に入って行き、ある話とは明確に区別される。


(中略)


要するに、読み手の様々な連結の速度に応じて、動き出すのは読書のほうなのだ。




ジル・ドゥルーズ「エレーヌ・シクスーあるいはストロボスコープエクリチュール」(『無人島』所収、稲村真実 訳、河出書房新社



YouTube にはエレーヌ・シクスーのテクストに依拠した──彼女テクストを読み上げる──興味深いビデオ映像があった。しかも英語だ。

i am not expecting (myself in) death

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急ぎましょう。大陸は踏み込めない暗黒ではないのです。私は大陸へよく行きました。私は大陸である日、嬉しくもジャン・ジュネに出会ったことがあります。『葬儀』の中のことでした。彼は彼のジャンに導かれて大陸に来ていました。女性性を恐れぬ(とても少数の)男性がいるのです。

女性は、女性性についてほとんどまだ何も書いていません。つまり、女性セクシュアリティ、すなわち無限の変動する複雑さについて、女性の性感帯について、女性の肉体という微細でありながら広大な領域のまばゆい燃焼について。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.28-29


video book 1

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シクスーが十八歳になるまで過したアルジェリアは当時フランス植民地であり、彼女アルジェリア人が尊厳を踏みにじられ、過酷な環境の下で暮らすことを余儀なくされている姿を目のあたりにして、心を痛めながら少女時代を過した。


Stigmata: Escaping Texts シクスーによれば、この「支配/被支配」の構図は、太陽/月、文化/自然、能動性/受動性などの二項対立、しかも一方が他方よりすぐれているとされる二項対立によって支えられた西欧の思考体系そのものに結びついていて、それは「男/女」の関係でもある。また、女性の劣等性・受動性の役割がわりふられるような「男/女」の関係は、母系制から父系制への移行が始まる時期に成立し、フロイト男根(の有無)を中心とした、現在の人間理解に至っているのである。

このような、論理男根に優位性をおく社会の中で、女性は完全な沈黙を強いられ、居場所としてはベッドをあてがわれてきただけであり、女性はベッドの中で出産するか、せいぜい夢を見るしかなく、言語・文化活動の場としての象徴界から排除されてきたのである。


しかし、序列化されたニ項対立的思考体系およびそれを基礎とする社会体制は、シクスーにとっては、女性社会の周辺部へ押しやるというにとどまらぬ、生死に関わる問題であった


彼女と同じユダヤ人ドイツで大量虐殺されていた。その一方で、ユダヤ民族は父と息子の民族であり、女性には占めるべき場がなく、これは女性-シクスーにとって、生きながらの死を意味していた。


ニ項対立的思考を崩壊させ、差異が序列化されることなく認められ、誰もが生命の危険なく暮らせる社会の到来をシクスーが願ったのは、当然のことであった。エクリチュールフェミニンにみられる、男性性に対する差異としての女性性の強調、および、抑圧されているものの解放という特徴は、彼女のこのような生まれなしには考えることはできない。




メデューサの笑い』訳者あとがきより

Dream I Tell You (European Perspectives)

Dream I Tell You (European Perspectives)

書きなさい! そうすれば自らを探求している〔あなたの〕テクストは、肉と血以上のものであることがわかります。つまり、響きのよい音と芳香のする成分を持った、自らを捏ね、発酵して膨れる蜂起的なパン生地、固定されないさまざまな色が変化に富んで結合されたもの、草むらであり、わたしたちが養う海に合流する河。「ああ、あれが彼女の海だってさ」と、彼が私に言うことでしょう。離れることのできない小さな男根母親の水で一杯になったタライ〔骨盤〕を私に差し出す彼が。


でも、ほら、私たちの海とは、魚がいようがいまいが、半透明であろうが透明であろうが、赤かろうが黒かろうが、満潮であろうが凪であろうが、内海であろうが岸がなかろうが、私たちが海をそのようにしているのであり、また、私たち自身が、海、砂、珊瑚、海草、潮、泳ぐ女性子供、波なのです。




エレーヌ・シクスー『メデューサの笑い』 p.37

The Hélène Cixous Reader

The Hélène Cixous Reader

ドビュッシー≪忘れられたアリエッタ≫

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フランスエスプリ……と言えば、これだろう。と、クロード・ドビュッシーの歌曲集(メロディ)を聴く。ソプラノはドーン・アップショウ、ピアノがジェイムズ・レヴァイン。二人ともアメリカ人だけど。

Sings Debussy / Forgotten Songs

Sings Debussy / Forgotten Songs


≪ヴァニエ歌曲集/Recueil Vasnier≫はポールヴェルレーヌ、テオフィル・ゴーチェ、ポール・ブルジェの詩を、≪忘れられたアリエッタ/Ariettes oubiées≫はヴェルレーヌ、≪ボードレールの五編の詩/Cinq Poémes de Charles Baudelaire≫はその名の通りシャルル・ボードレール詩集『悪の華』がテクストとして選ばれている。もちろん原語=フランス語だ。

意外に快活で明るくメロディアスな≪ヴァニエ≫に比べ、≪忘れられたアリエッタ≫と≪ボードレールの五編の詩≫は、アンニュイという言葉がこれほどピッタリくるものはない。ドビュッシーならではの繊細で洗練されたピアノの煌きの中で、アップショウの声が美しく響く。アップショウの透明な声は好きだな──シェーンベルクの≪月に憑かれたピエロ≫とアルバン・ベルクの≪アルテンベルク歌曲集≫を歌ってくれないかと、いつも思っている。

意味するものは、その「音声」からは聴き取れないけれど、何かしらのニュアンスは伝わってくる。その表現は何かしら暗示させてくれる。何かしらの快感が喚起される。

でもいちおう「意味」も知りたいのでCDのブックレイトを紐解く。≪ボードレールの五編の詩≫の最後の曲「恋人たちの死」は次のような内容のテクストだ。

Las flores del mal / The Flowers of Evil (Letras Universales / Universal Writings) 我らのベッドは仄かな匂いに満ち満ち、

椅子は墓のように奥深いだろう、

また飾り棚には珍しい花が置かれていよう、

我らのため、より美しい空の下で開いた花が。


最後の熱を互いに競って燃やし合い、

二つの心臓は二つの大きな炎となり、

その二重の光を映し出すだろう。

我ら二人の心、対をなすこの鏡のなかに。


薔薇色と神秘な青に彩られたある夕べ、

我らはただ一筋の稲妻を取り交わすだろう、

別れを担った、長い嗚咽のように。


やがて一人の「天使」、扉を半ば開いて、

忠実に、嬉々として、蘇らせにくるだろう、

輝きをなくした鏡と消え去った炎を。


ちなみにこのCDはヘネシー社がタイアップしていて、コニャックにおける「オー・ド・ヴィー」(Eaux-de-vie)の「とても複雑で、それでいて完璧ハーモニーを奏でる」さまが音楽と重ねあわされている。もっとも僕はいつものごとくスコッチ・ウイスキーを呷っているが。

仏大統領選 グリュックスマンが右、BHLが左

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仏大統領選、サパテロ首相とヴォーヴェライト市長も応援に」の結果は、周知のように、右派国民運動連合(UMP)党首ニコラ・サルコジ候補が31%強、左派社会党(PS)セゴレーヌ・ロワイヤル候補25%強の投票率を獲得、この二人が5月6日の決選投票に望むことになった。

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仏大統領選 サルコジVS.ロワイヤル 中道票獲得がカギ [Yahoo!ニュース産経新聞]

世代交代に加え、グローバル化や拡大欧州の中でのフランス未来への関心などから、投票率は83・78%(有権者数約4450万人)と、第5共和制初の直接選挙となった1965年大統領選過去最高記録84・75%に迫る高さだった。


 サルコジ氏は22日夜、「フランスの新しい夢の周囲に国民を結集させたい」と述べ、「最も弱い者を恐怖から守りたい」と弱者救済を宣言。23日はベイユ元厚生相を伴って家庭内暴力の被害女性保護施設を訪れ「実行の人」をアピールした。


 ロワイヤル氏も22日、「フランスを改革できると考える者」の「結集」を呼びかけ、23日夜は南部で大集会を開き対戦の火蓋を切った。


 前回2002年大統領選の第1回投票では、社会党のジョスパン首相が高失業率治安悪化など失政の責任を問われて敗退、極右政党国民戦線ルペン党首が決選投票に躍り出る事態となり、同投票極左から右派までが反ルペンで結束した結果、右派シラク大統領が勝った経緯がある。


 今回、サルコジ氏は終盤で、「移民国民アイデンティティー省」創設の公約など移民治安問題を前面に押し出し、前回の極右票の4分の1を奪取したとみられ、ルペン氏は10・44%と、74年の初出馬の際を除けば最低の得票率に終わった。


 ただ、今回、こうした極右を含む右派全体の得票率は45%に達したのに対し、決選投票ではロワイヤル氏支持を表明している極左共産党緑の党などと同氏の分を足し合わせても、左派の得票率は36%止まりである。


 そこで、注目されるのが、前回の約3倍の18・57%へと大きく躍進したバイル氏の中道票だ。


 UDFは総選挙などでUMPと共同戦線を張るもともと中道右派政党で、決選投票では左右両候補に五分五分の流れ方をすると見られる一方、最近、UDFが左派寄りになっているとの見方もあって予断は許さない。


上記の記事は産経新聞社パリ支局長、山口昌子氏のものだが、その山口氏の別の記事に、とても興味を惹くものがあった。

やはりフランス大統領選挙関連で、アンドレ・グリュックスマン(André Glucksmann)が『ル・モンド』紙に「なぜ、ニコラ・サルコジを選んだか」を寄稿しサルコジ候補支持を表明、一方、ベルナール・アンリ・レビ(BHL、Bernard-Henri Lévy)がロワイヤル候補と夕食をともにした、という、かつての「新哲学派」(ヌーヴォー・フィロゾフ)たちの「転向」とも言える「ねじれ現象」についてだ。


【緯度経度】左翼知識人の右傾化 山口昌子 [イザ!]

 寄稿は、『フランスが寒気の時、私も行動を起こそう』と、アルジェリア戦争が泥沼化した1958年に政権に復帰したドゴール将軍の言葉を引用してフランスが現在、「寒気」に見舞われているとし、一種の救世主の必要性を暗に示唆した。


 さらに、保守中道の与党国民運動連合(UMP)にともに所属するドビルパン首相サルコジ氏の確執により、「フランスと世界に関する2つのビジョンの対峙(たいじ)が明瞭になった。サルコジはもったいぶったコンセプトの背後に空虚さを隠している従来の右派とは明確に断絶した」と、サルコジ氏が旧来の保守とは異なった新しいコンセプトを提示している点を指摘。


 「ニコラ・サルコジのみが今日、(寛容の)心あるフランスの航跡の中で行動する唯一の候補者だ」と言明、「私の決断は過去の苦悩と新しい展望により熟慮されたものだ」とサルコジ氏支持の決意の固さを強調した。

左派陣営からは当然ながら、グリュックスマン氏への批判が聞かれる。グリュックスマン氏らを「新反動主義者」と批判する社会学者ダニエルランデルベルグ氏らだ。左派系の歴史家、バンジャマン・ストラ氏に至っては、「左派知識人よ、立て」と左派知識人に檄を飛ばしている。


 左派哲学者ながら、保守週刊誌、ルポワンのコラムを毎週、執筆している哲学者のベルナール・アンリ・レビ氏は「知識人選挙運動に参加すべきではない」との立場を取りつつもロワイヤル氏と夕食をともにしたことを明らかにするなど、グリュックスマン氏の一種の“カミングアウト”に刺激された格好だ。


さらに大統領候補者自身の言動も注目される。ニコラ・サルコジ候補がジャン・ジョレスという社会主義政治家で「仏社会党の象徴」に言及、一方、セゴレーヌ・ロワイヤル候補がドゴール政権で文化相を務めた保守本流作家アンドレ・マルローの言葉を引くなど左右の「ねじれ現象」が起こっているという。

ということで、やはり「中道派」バイル票の動向が気になるところだ。



[関連記事]

Let's not kid around. I strongly advise people like me, who were in favour of the yes, not to underestimate the French no. It is the manifestation of a movement that cuts to the heart of Europe. The majority no appears to be a protean, contradictory mobilisation, coagulating disparate fears and frustrations, cheekily pooling the prejudices of the extreme Right and the ultra Left.

もちろん、自分を現代のサルトルとして演出しようというBHLの意図は、見えすいているといえば見えすいている。この時期にサルトル論を刊行し、あらゆるメディアでインタヴューに応じてみせるあたりは、かつての「新哲学派[ヌーヴォ−・フィロゾーフ]」のリーダーらしいメディア戦略と言うべきだろう。だが、そのダイナミックな思考において、また、歯切れのいいスピーディな文体において、BHLは、古き良き人間主義・人権主義に回帰するばかりの同世代の講壇哲学者たちを遥かに凌駕している。

Wut eines Kindes, Zorn eines Lebens

Wut eines Kindes, Zorn eines Lebens



[関連エントリー]

*1:『メデューサの笑い』の訳者あとがきによると、シクスー自身は「私は女性解放運動に携わる者であって、フェミニストではない」と主張した。また、『archiv für text und nichtext』にある「デルフィの唯物論フェミニズム」は「フランスフェミニズム」に対する再考を促してくれる。

*2:gendered women's writing。”Woman must write her self: must write about women and bring women to writing, from which they have been driven away as violently as from their bodies.”  WikipediaÉcriture féminine”より

transnewstransnews 2007/04/27 19:12 チェリストで指揮者のロストロポーヴィチ氏が亡くなったそうです。先週からソクーロフ監督によるドキュメント映画が公開されたばかりだと言うのに。。。

HODGEHODGE 2007/04/27 19:57 今、YouTube でロストロポーヴィチの映像をいろいろと観ています。あのバッハの無伴奏を聴いていると、涙が出てきそうです……。