HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

邪悪



『人権について オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ』に収録されているアグネス・ヘラーの講義録「自然法の限界と邪悪のパラドックス」より、〈邪悪〉についてメモしておきたい。アグネス・ヘラー(Agnes Heller、b.1929 - )はハンガリー生まれ。1973年に政治的理由でブダペスト大学を免職され、オーストラリアを経てアメリカに渡った人物だ。
アグネス・ヘラーの問題提起は、

  • 暴虐な政治体制のもとでなされた悪事が、処罰されうるか、処罰されるべきか、処罰されることになるか
  • 殺人や誘拐や大量投獄や差別行為の責任者に、みずからの行為の償いをさせることが可能か、実際に償いをさせることになるか、あるいは当然償わせるべきか

である。彼女はナチス体制とソビエト体制──全体主義の名のもとにおかされた極悪非道な犯罪──に焦点を当てる。このような犯罪の実行者を処罰するべきかどうか。直面しているのは、訴追か無為か、という選択である。訴追する法律的根拠があるのか、訴追する道徳的責務があるのか。ヘラーは、法律的な見地と道徳的な見地の組み合わせにより、以下の6通りの選択肢を提出する。

  • A 訴追は一切なされるべきでなく、不可能でもある。
  • B 訴追することに障害はないが、訴追するべきではない。
  • C 実行者は訴追されるべきであるが、それは不可能である。
  • D 実行者は訴追されるべきであり、訴追可能である。
  • E 歴史的正義は貫徹されねばならない。ゆえに実行者は訴追されるべきである。
  • F 実行者は罪を償うべきである。が、同時に彼は訴追されるべきではない。

CDEFには極悪非道な犯罪の実行者が「処罰されるべきだ」という定式に「正義は貫徹されるべきだ」という含みがある。他方、「彼らは処罰されるべきではない」という定式には、可能性として3つの意味が見出せる──すなわち「正義は実行に移されるべきではない」という極端な見地、「このことにはいずれにせよ正義は存在しない」という諦念としての見地、「彼らを処罰するのは正義にかなったことではない」という積極的な道徳的見地。
この「極悪非道な犯罪の実行者」を処罰するべきかどうかという問いに答えるために、ヘラーは、〈邪悪〉について論じていく──ヘラーにとって、歴史的正義の精神を広めるために処罰すべき極悪非道な犯罪とは、邪悪のあらわれと見なされる犯罪なのだ。スティーヴン・シュート&スーザン・ハーリーの序文でも記されているように、ここでヘラーは、邪悪と、悪しき欲望や性格の弱さから生じる道徳の軽視とを区別している。個々人の主観的な行動原理(格率)への影響が問題なのだ。邪悪は感染する、流行病のように。ヘラーは次のように説明する。

邪悪とは、他のあらゆる悪の範疇から量的に区別される道徳的な悪の累積したもの、あるいは過度のものという意味ではありません。邪悪は道徳的に悪いこととは質的に異なるのです。すでにユダヤ預言者ギリシャの哲学者のなかには、それに気づいていた洞察力のあるモラリストがいましたが、質的な違いが際立ってきたのは現代になってからです。道徳的邪悪についての知は省察を通じて生まれます。行動原理を選択する自由のないところでは、悪行はありえますが邪悪は存在しえません。道徳的邪悪は、精巧で一貫した自己正当化の体系を必要とします。悪人は不正義を忍ぶよりも不正義をおかすことを選びます。つまりこの人物は自分だけを例外とするのです。とはいえ悪事を正しいといいくるめる原理を発明するわけではありません。悪人は妬みなどの基底にある情念に屈し、臆病な態度でふるまいます。それでも彼は良心の呵責を感じることはできますし、すっかり取り乱して悔恨の情に身を委ねることもあるでしょう。


ひるがえって、私たちの論じる邪悪のモデルはサタンです。それはみずから間違ったことをするからではなく、邪悪を正しいといいくるめて他人を悪事に誘い込むからです。プラトンの著作に登場するトラシュマコスやカリクレスが悪魔的なのは、彼らが悪人だからではありません。人間の善悪を区別する能力を台無しにするような格率を裏づける強力な主張を彼らが唱えるからです。カントが指摘したように、邪悪は邪悪な格率のうちに宿るのであり、個々の人物のもつ願望や弱さに宿るのではないのです。
伝統的な道徳が衰退した現代では、邪悪な格率はたやすく優位を占めます。とくに全体主義は邪悪な格率に道徳的基礎をおきます。全体主義体制において創造され、いわゆる「どこにでもいる人」を引き込んでいく言説の基礎を、こうした邪悪な格率がかたちづくっているのです。全体主義の言語を市民が話すようになり、その結果、一年前ならまず受け入れなかった行為や、まったくその人らしからぬものへの支持を当然と思うようになります。こうした言説を自分の内に取り込む過程を経ないかぎり、誰が自分の親を警察に密告したり、絶対に身に覚えのない罪を自白したりする義務があると思うようになるのでしょうか。


(中略)


全体主義の崩壊後は、生来邪悪な者と二次感染によって邪悪になった者とを区別するのはさほどむずかしいことではなくなっています。前者は邪悪の格率を創造して、後者に自分たちの原理を押しつけ、彼らの良心を磨耗させ、みずからの原理の破綻や失敗を追随者の弱さのせいにします。一方、追随者たちは、困惑し、自分の過去を書き換え、自分が手を染めた邪悪な行為を忘れて、こうむった邪悪の数々だけを覚えています。追随者たちは全体主義的自己の殻を脱ぎ捨てることができるのです。ハンナ・アーレントにとって邪悪が陳腐なものに映るのはこういうわけです。しかし、邪悪は陳腐なものとはいえません。たとえ邪悪な者たちがその権力基盤が崩壊したのち陳腐になるとしても。流行病が去ったからといって、魂はそれだけでは癒されません。絶望的なほど陳腐な魂は、罪の意識を感じることすらないのです。彼/彼女は負け馬に賭けてしまったことを悔いるだけで、良心の痛みや悔恨のために苦しむことはほとんどありません。


(中略)


邪悪の格率は今も身近にあります。選ぶべき格率があり、格率を選ぶ自由があるうちは、邪悪の格率もつねに存在するのです。(……)邪悪はふとしたはずみに魂に入り込み、やがて出ていきます。




アグネス・ヘラー「自然法の限界と邪悪のパラドックス」 p.190-193

人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ

人権について―オックスフォード・アムネスティ・レクチャーズ