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コンシャンス



増田祐志 編『カトリック神学への招き』の実践神学-倫理神学より、〈良心〉についてメモしておきたい。まずは〈良心〉なるものについて。

良心は、人格的存在としての人間の深奥に生得的に刻み込まれている。それは存在論的に人間存在を根拠づけ、倫理的に人格の成長を促す。「善をなし悪を避けよ」──これは私たちに対する良心の要請である。良心は、ただ単に、正・不正や善・悪の識別・判断に尽きるものではなく、むしろ、人間が人間として生きるための根本的な在り方を開示する。それゆえ良心において、人間は、自らの究極的根源(神)の声を聞き、それに応えることができる。
良心はまた、人間に求められる二つのこと──善い人間であること(倫理)と聖なる人間であること(霊性)──の邂逅の場でもある。




竹内修一「倫理神学」(『カトリック神学への招き』より、上智大学出版)p.234-235

「人間は人格的存在である」という命題には、人間は本来単独で存在するのではなく、常に他者との関係の中に生きていることが示されている。それが人間の本質なのである。〈人格的〉を意味する英語の「personal」はラテン語の「persona」に由来する──その意味は、例えば、「仮面、役割、人格」などである。その動詞「personare」には、「響く、響き合う、反響する」という意味がある。
〈良心〉は「コンシャンス」(conscience)で、語源的にはギリシア語の「シュネイデーシス」(syneidesis)に遡る。一方、日本語の「良心」は孟子に由来する。「コンシャンス」という西洋の概念が、日本において、「良心」という儒教の言葉によって置き換えられた──翻訳されたのである。したがって、当然のことながら、そこには、意味の上で、重なる部分もあれば、一致しない部分もある。

「コンシャンス」は、「コン」(con 「〜とともに、全体」)と「シャンス」(science 「知」)とから成り立つ。このことからもわかるように、「コンシャンス」には、「何かをともに知ること」「共通の知を持つこと」「全体的な知」「共通の知」などの意味がある(共同体性)。
同時にまた、そこにはなんらかの共通の地平があり、それを「コン」に見出すことができる(普遍性)。すなわち私たちは、「コン」によって倫理的行為に関する知を分かち合うことができ、「シャンス」によって人間についての倫理的・実存的知識を得ることができるのである。




「倫理神学」 p.235

〈良心〉と〈人格〉は、ある意味で、同義である──ある人間の良心が問われるとき、その人の全人格が問われているのだから。それは、自己に対する誠実さにあり、それに反するとき、人間は良心の呵責を覚える。この経験は、倫理的・道徳的側面を表しているだけではない。倫理的意識が相互の信頼の根拠でもあるのだ。

良心の体験は、例えば、次のような三つの観点からとらえることができる。まず、善悪の判断基準・規範としての良心である。次に、誤った行為に伴う良心の呵責として経験される良心である。ここには良心のパラドックスを見ることができる。すなわち、良心は本来、善いものとして与えられているにもかかわらず、その経験は否定的な経験なのである。第三は、宗教的次元としての良心である。いわゆるこれが、一般的に「良心の声」と言われているものである。良心は、厳密に言うならば、神の声ではなく、そこにおいて神の声を聴くことのできる場である。




「倫理神学」 p.236

カトリック神学への招き

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