HODGE'S PARROT

はてなダイアリーから移行しました。まだ未整理中。

ささやかな宣言 〜 リュス・イリガライ



リュス・イリガライ(Luce Irigaray、b.1930)の『差異の文化のために』*1を読んだ。その第1章「ささやかな宣言──平等を要求する女たちか、それとも差異を主張する女たちか」についてメモしておきたい。

「女なら『第二の性』を読んだことのない人がいるだろうか。『第二の性』によって元気づけられなかった女がいるだろうか。おそらく、誰もがこの本を読んで、フェミニストになったのではないだろうか」。冒頭、このように、まず、シモーヌ・ド・ボーヴォワールに対するイリガライ自身の回想が綴られる。しかし、それは、ボーヴォワールとイリガライの、ほとんど擦れ違いといってもよい思い出に他ならない。イリガライとボーヴォワールの間には「世代の差」だけではなく「立場の差」があったことを率直に書き記す。しかも「わたしはその違いを友情や相互の助け合いのレベルで乗り越えることができると期待していた。実際には、わたしたちの違いは乗り越えられることがなかった」と率直に振り返る。

わたしは自著の『検鏡』を姉にでも送るような気持ちでボーヴォワールに宛てて送ったが、彼女は一度も返事をくれなかった。正直なところ、返事がもらえずにかなり悲しい思いをした。この本のせいでわたしは大学の制度的な困難に巡りあい、この困難な局面においてわたしを援助してくれる姉、注意深く聡明な読者をボーヴォワールに期待していた。残念ながら、その期待は実現しないままだった! 
シモーヌ・ド・ボーヴォワールがわたしに対して示した唯一の意思表示は、彼女が老いについて本を書いていたとき、『痴呆症患者の言語』について情報を求めたことだけだった。わたしたちの間で、女性の解放に関しては一言も言葉が交わされたことはない。



リュス・イリガライ『差異の文化のために』(浜名優美 訳、法政大学出版局) p.2-3 *2

共に働くことができたはずの、そればかりか共に働くべきだった二人の女の間にあったこの隔たりをどのように理解すべきなのか──イリガライは主に「大学制度」と「精神分析」に対する二人の相違を挙げる。ボーヴォワールは大学制度とは無縁だった、しかし自分はそうではなかった。ボーヴォワールサルトル精神分析に対してつねに抵抗してきた、しかし自分は精神分析(そして哲学)の教育を受けた。もちろん、イリガライにしても女性の権利獲得のためのデモ行進などへは積極的に参加した。しかし女性解放についての自分の考察は、男女の平等を求めるものとは違った次元のものとなる──そのようにイリガライは宣言する。女であることに価値を見いだすこと。

女として、平等を要求するのは、客観的な現実を間違って表現していると思われる。平等であることを要求することは、比較の項を前提としている。女は、誰と平等であろうとしているのか、あるいは何と平等であろうとしているのか。男と平等であろうとするのか。賃金の平等か。公職の平等か。いかなる基準で平等であろうとするのか。なぜ女自身に平等であろうとしないのか。
平等を主張する者たちを少し厳密に分析してみれば、彼女たちの主張の妥当性は文化の表層的批判のレベルにあるばかりでなく、女性解放の手段としては彼女たちのユートピアであることがわかる。女性の搾取は性的差異に基づいているし、また女性の搾取の問題は性的差異を通してしか解決しえない。わたしたちの時代のいくつかの傾向として、現在の何人かのフェミニストは、性の中性化を騒々しく要求している。この中性化は、もしそれが可能であるならば、人類の終焉に一致することになるだろう。人類は、〈二つの性〉に分れて、この二つの性が生産と再生産を確保しているのだ。性的差異を消滅させようとすることは、歴史において存在しえたすべての破壊以上に根源的な皆殺しを求めることである。
その反対に、重要なことは、男女両性のそれぞれにとって有効な一つの性への所属の価値を定義することである。その際不可欠なことは、両性を敬いつつ、まだ存在していない、性的なものの文化を入念につくりあげることである。歴史のなかで女性支配の時代、母権性、父権制、男根支配の時代のずれがあるために、現在は文化的には、わたしたちは性別のあるものとしての性(ジェンダー)にではなく、生殖に関係のある性的な立場に置かれている。これは女は家庭のなかで母親であり、男は父親であるべきだという意味であるだけではなく、同じ世代の両性がただ単に生殖的であるのではなく、創造者としての人間的カップルになることを可能にする肯定的、倫理的な価値をわたしたちが持っていないという意味である。そのような価値の創造ならびに価値を認めることに対しての主な障害の一つは、何世紀か前からわたしたちの文明全体に対して父権的、男根支配的なモデルがなんとなく支配していることである。女性のセクシュアリテに文化的な価値を与えるかまたは取り戻すことによって、一方の性が他方の性に対して持つこの権力の均衡を回復させることは、端的に社会正義である。今日、重要な論点は、『第ニの性』が書かれたときよりもはるかにはっきりしている。
この段階を通過しなければ、フェミニズムは女性の破壊のために、もっと一般的には女性の持つあらゆる価値の破壊のためにはたらく危険がある。実際、平等主義は、いくつかの肯定的な価値を拒否したりつまらないことを追いかけたりすることに時には多くのエネルギーを注いでいる。だから女性解放運動において危機、落胆、周期的な後退が生じ、歴史のなかに女性たちが永久に記されないのだ。
男と女の平等は、〈性別のあるものとしての性の思考〉ならびに社会的な権利と義務において、〈差異のあるもの〉として、それぞれの性の権利と義務の再記載がなければ実現することはありえない。



p.4-6

*1:Je, tu, nous. Pour une culture de la différence(1990)

*2:

差異の文化のために―わたし、あなた、わたしたち (りぶらりあ選書)

差異の文化のために―わたし、あなた、わたしたち (りぶらりあ選書)