2009-10-06
創価学会と大乗非仏説
仏教 | |
前回のエントリーで「大乗非仏説」(大乗経典は後代の人が考えたもので釈迦の教えではないんでないの?)について触れました。この説によれば、真言宗とか天台宗とか日蓮宗とか浄土宗とかは誰が考えたのか良く分からん教えを守ってずっと修行したり説法してきたことになります。
しかし、大乗非仏説は日本では明治以降にもたらされた考え方です。それまでの日本では、「たくさんお経があるけど、釈迦はいっぱい教えを説いたんだなぁ」と素直に思っていたわけです(※1)。で、そうなると、どのお経を一番重視すればいいのか、という問題になってきます。そこで人それぞれにお経にランク付けをしていきます。仏教宗派が色々と分かれているのは、一つにはこのランク付けがあったからです。「うちはこのお経が一番効果絶大だと思うんだ」「うちはこれだと思います」といった具合に分かれていったのです。
そして、最澄の天台宗では「法華経」を最重要視しました。しかし、比叡山(天台宗)は当時の総合大学ですから、法華経以外にもアレやコレやと色々なお経を取り扱います。まあ、そりゃそうですよね。お経が全部釈迦の教えだとすれば、たとえ法華経が一番重要だとしても他のお経だって尊いってことになりますから。ですが、そんな比叡山の八方美人な姿勢をディスったのが、鎌倉仏教を代表するヒップホッパーであるMC日蓮でした。
マジでリアルな日蓮は「一番大事なのはとにかく法華経なんだYO!」と主張します。比叡山で学んだ彼は、おそらく「法華経が一番大事」という比叡山の教えに影響を受けたのでしょう(伝説では「虚空蔵菩薩から智慧の宝珠を授かり、経典の勝劣を見極められるようになった」らしいですが……)。それで、ここから日蓮宗が生まれ、現在の創価学会にも繋がっているわけです。だから創価学会でも法華経が一番大事で、「南無妙法蓮華経(法華経にマジで帰依しますよ!)」と朝晩唱えているわけです。
さて、大乗非仏説は創価学会にとっても問題になってきます。天台宗では「法華経は釈迦が最後に説いた教えだから一番スゴイんです」と言ってたわけですが、大乗非仏説を採るならば、そもそも法華経は釈迦の教えではなかったことになります。釈迦の教えではないから「一番最後だから一番スゴイ」という論理も成り立ちません。日蓮は天台宗のこの判断を信じてたわけですから、「法華経がとにかく一番エラい」という日蓮宗や創価学会の言い分にも意味がないことになってしまいます。これは一大事ですね。日蓮系宗教存亡の危機と言ってもいいくらいです。
では、創価学会の信者の人は、どうやってこの問題を心理的に解決しているのか、こういった問題点をどうやって乗り越えて信仰を保ち続けているのか。僕はその点に興味があり、かつて、ある信者の方にその点を聞いてみたんですが、
「へぇー。そんな話があるのか、全然知らなかった」
「でも別に知ったからってどうってことないなあ。フーンって感じ」
「たぶん、他の人に聞いてもそんな感じだと思うよ」
という返事が返ってきました(※1)。心理的にどう解決するかという以前に、こういった疑問に至る機会がそもそもあまりないみたいです。そして、それを知ったところで特に何を思うわけでもない、と。僕みたいな外部の人間からすると、「えーっ、そこって一番重要なトコじゃないのー!?」って感じなんですが、どうも外部者が思うよりも「どうでもいい」ことのようです。
ちなみに、創価学会の人にとっては釈迦の位置付けもそう高いものではありません。僕たち部外者からすれば、「そうはいっても創価学会も仏教系なんだから、釈迦を一番リスペクトしてるんだろう」と考えますが、実際は、
こんな感じです。彼らがリスペクトしているのはあくまで日蓮であって池田さんであり、釈迦などは「昔のインド人」くらいのニュアンスでしかないのです。これは別に創価学会に対するレッテル貼りでもなんでもなく、信者の人から直接に聞いた話です(もちろん信者さんの中にも個人差はあると思いますが、「他の人もたぶん大体こんな感じ」とのことです)。
どうも彼らの感覚からすると、釈迦の教えは古臭くて使い物にならず、それを鎌倉時代に使えるようにしたのが日蓮、そして、現代でそれを使えるよう解釈しているのが池田さんといった感じのようです。「法華経読んでも難しくて全然分からんけど、池田先生なら僕たちでも現実に使えるよう巧く解釈してくれる」といったイメージで捉えると分かりやすいかと思います。
まあ、「法華経が釈迦の教えであろうとなかろうとどうでもいい」という態度は、日蓮宗のそもそもの起こりを考えるといい加減っちゃいい加減なのかもしれませんが、翻って考えると現実主義的とも言えるかもしれません。創価学会の人たちは「比叡山のランク付けで法華経が一番大事とされているから」法華経に帰依しているわけではなく、「実際に法華経に帰依してたら幸せな実感があるから」法華経に帰依しているわけです。宗教が人をハッピーにするものだと仮定するならば、これも本質的っちゃ本質的な態度なのかもしれませんね。
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ちなみに、こういうことを考えると、カルト宗教にハマっている人を説得する時に、「あの宗教は間違っている。だって、**が**なんて論理的におかしいじゃないか。そういうおかしなところに気付けば、お前も脱退した方がいいって分かるだろう?」というやり方はそれほど効果的じゃない気がしてきますね。創価学会の人も「学問的には破綻している」と指摘したところで特に信仰が揺らぐことはなかったわけです。皆が皆そうではないでしょうが、論理的な問題点は彼らが現に感じている「幸福感」からすれば、大した問題ではないのではないかと思われます。
※1 なお、創価学会の幹部の人にも聞いてみたところ、彼は流石にこの問題も知っており、「私は他にもいろんな経典を読んで読み比べてみたけど、その結果、やっぱり法華経が一番スゴイことが分かったから法華経を帰依してるんだよ。別に天台宗がそう決めたからじゃないよ」とのことでした。
紹介:江戸時代に大乗非仏説に気付いちゃって、みんなから総すかん喰らった人





僕は元2世学会員なので、かがみさんの宗教関係の文章は興味深く読ませてもらっています(難しくてスルーすることも多いですが)。
ちなみに、「元」とは言っても、自分で一方的に脱会の意思表示をしただけで、籍はまだ残っているかもしれませんが。
>私は他にもいろんな経典を読んで読み比べてみたけど、その結果、やっぱり法華経が一番スゴイことが分かったから法華経を帰依してるんだよ。
僕も幹部の人にかがみさんと同じ質問をしたことがありますが、同様の答えが返ってきました。
これについては、共通の逃げ文句なのではないかなあと訝っています。
また、創価学会には教学試験というものがあり、僕はその受験勉強のために、創価学会の教義を勉強会に参加する等して結構がんばって学んでいたことがあります。
勉強の甲斐あって青年二級だか三級だかにも受かりましたが、もう何年も前のことなので、ほとんど忘れてしまいましたけど。
僕の記憶では、法華経を実際に説いたのは釈尊ではないとの話題は勉強会でもあがっていたと思います。
以下、うろ覚えですが当時学んだことを記します。
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確かに、釈尊は実際に法華経を説いてはいなかったが、それは、釈尊の入滅前と入滅後しばらくの間は、たとえ法華経を説いても衆生はそれを理解して正しく使うことができないからだった。
だから、釈尊は法華経を明確には説かず、時が熟せば未来の弟子達が自らの教えから法華経を取り出すことができるように、文底に法華経の悟りを沈めて教えを説いた。
そして釈尊入滅後はるかな時が過ぎて、時が熟した時に、釈尊の教えの文底から法華経が取り出され、教典として後世に伝えられた。
その後のマジでリアルな日蓮大聖人のくだりはかがみさんの言うとおりで概ねよろしいかと。
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以上、とんでもなくアバウトに書きましたが、こんな感じで良かったかと思います。
間違えてるところがあったら、現役の学会員さん、指摘してください。
と言うわけですので、大乗非仏説は少し熱心な学会員さんならきちんと認識されている問題かと思います。
じゃあ、創価学会としては「法華経は釈迦が直接に説いたものではない」「でも、法華経はフロム釈迦」っていう感じで解釈してるわけですね。
『法華経の智慧』では、釈迦滅後数百年の大乗仏教成立の時点で、既に上座部派から偽教典批判を受けていたことが言及されており、池田会長は幹部からの質問に答える形で「核心となる釈尊直説の思想が、編纂当時の時代状況、思想状況に応じて、一つの形をとったと考えられます」(聖教ワイド文庫版 1巻 p.83)と述べています。
その上で、科学的考証の結果として法華経の創作者など新たな事実が明らかになれば、その成果を大いに受け入れるべきと述べ、法華経のオリジナル性について、必ずしも固執しない姿勢を示しています。しかし、それは「法華経が釈迦の教えであろうとなかろうとどうでもいい」という態度とは少し違うと思っています。
つまり、釈迦滅後の教団発展の流れの中で、大乗学派の研究成果として法華経が成立したという捉え方ができるかと思います。しかしそれは必ずしも釈迦の真意に反するものでなく、むしろ社会の変化、あるいは未来を見据えた仏教思想の純粋結晶化として我々はとらえている訳です。
法華経に登場する釈迦に着いても、歴史上存在した一人の人間であるところのゴータマ・ブッダその人ととらえるべきでなく、一種の方便としてあらゆる生命に偏在する仏性を開かせるための概念上の存在である、としています。
私は不勉強にして他の教典を詳しく学んだことはまだないのですが、以上の認識を礎にした学会の法華経解釈は私が学んだ範囲では理にかなっており、また生活を豊かにする上での人生思想としても、きわめて有効な考え方を法華経は示していると考えています。
釈迦よりも日蓮大聖人を末法の本仏として上位に据える教義については id:Halaneet 三の認識でおおむね間違いありません。ただ、日蓮大聖人よりも池田名誉会長が上位に存在するともし id:Halaneet さんの友人である学会員が答えたとすれば、その学会員は大変間違った認識を持っているといわざるを得ません。名誉会長はあくまでも一人の人間です。
それが、根本になってるなんてスゲーデスね