Anthony Earnshaw (1924-2001).

アンドレ・ブルトンが「シュルレアリスム宣言」を発表した1924年に生まれる。
40年代から制作を始める。67年にエクセターで行われたシュルレアリスムの展覧会"The Enchanted Domein"に参加。2001年に亡くなるまでリーズを拠点に数多くの油彩画、ドローイング、コミック・ストリップ、オブジェを制作した。
 
世代的には、ブルトンが亡くなり《歴史的シュルレアリスム》がひと段落する60年代から、イギリスやスウェーデン、スペインなどで現在活動しているグループが形成され始める80年代末〜90年代初頭の、ちょうどあいだの人になる。

He belongs to the generation of surrealists in between so-colled "end of historical surrealism" in 1960s and the present movements.
 

アリスバーリーの古代の日々 /1948年
In Aylesbury's Ancient Days

アリスバーリーの古代の日々(パート2) /1948年
In Aylesbury's Ancient Days(part 2)
 
6月にブラッドフォードで彼の回顧展が行われており、ちょうどイギリスを訪れる用事があった際にLeeds Surrealist Groupの人たちに連れて行って頂いたのだった。以来こっちで紹介せねばなあと思っているうちにすっかり時間が経ってしまった。

Kenneth and Sarah from Leeds Surrealist Group took me to Earnshow's exhibition held in Bradford in June (really really appreciate it!!). Since then I've been thinking I should introduce his works on this blog...



Wok's Wokker
友人のEric Thackerと共同で、71年から72年にかけて制作されたコミック・ストリップ。一度見たら忘れられない攻撃的な態度とフォルムの(でもちょっぴり間の抜けた感じもする)Wokker。
アンソニーの寝室の壁はこの子で埋め尽くされていたとか。

おそらくは多くの人にジョゼフ・コーネルを思い出させるであろう、箱のオブジェも多く作っている。アンソニーの場合、偶然性の契機を出発点として保ちつつも、その仕上げは知的なユーモアに満ちているように思う。

His boxes would remind some people of Josef Cornell's artworks, but unlike Cornell, Earnshaw seems to start from spontaneousness and finish with intellectual humour.


この場所まで尾けてくる黒い影に僕は気がつかなかった /2000年
I didn't realise dark shadows would follow me to this place


ダンボの左耳を切り落としたミッキー /1999年
Mickey has chopped off Dumbo's left ear


展覧会に行った時に見た彼の字がすごく好き。その端正な筆跡で彼はオブジェに仕上げの魔法をかけるのだ。
He enchants his object with his decent handwriting.

彼の作品群は遺族によって管理されており、以下のサイトで見ることが出来る。
http://www.anthonyearnshaw.com/

文字と対話をこころみる、いくらかの実験。
Some trial of conversations with Japanese letters.


ハル・フォスター、室井尚/吉岡洋訳『反美学――ポストモダンの諸相』、勁草書房、1987年 204ページ
ルチオ・フォンタナ「空間概念」が含まれたレジュメ
Hal Foster, The Anti-Aesthetic: Essays on Postmodern Culture, Translated by Hisashi Muroi and Hiroshi Yoshioka, Tokyo:Keiso Shobo, 1987, pp.204
A paper includes Lucio Fontana's Concetto Spaziale, Attese.




ユリイカ 2008年12月臨時増刊号、総特集 初音ミク――ネットに舞い降りた天使、114-115ページ
Yuriika Special: Hatsune Miku - An Angel Who Came Down on The Internet, pp114-115

あんまりうまく画像化できないのでもう少し考えます。I should reconsider the way to make such drawings into digital images...

シュルレアリスムは、今日? その3-2

■夢は第二の人生――ヤン・シュヴァンクマイエルによる精神分析コメディについて(後篇)

Bruno Solařík

和訳:かわかみはるか / Haruka Kawakami
前篇はこちら。


 探偵ものの観客に先に犯人を教えてしまうのは、あまり褒められたことではない。この映画でシュヴァンクマイエルがやってのけたもうひとつの離れ業のことを考えるなら、この評論もそうしたルールから逃れるわけにはいかないだろう。彼は(この作品のグロテスク的なつくりにもかかわらず)精神分析とは結局のところ探偵小説に他ならないということをうまく暴露している。まず初めに、いくつかの手がかりからなるひとつながりの鎖が構成される。そのひとつひとつは気味が悪いほど不可解なものだが、そうであるからこそ鎖は環を形作ることができる。この環の中で、当初はまったくわけのかわらないものだった幾つもの徴は、すべての欠片が正しい場所に置かれた恐ろしいまでにはっきりとしたモザイクを出現させる。

 ここでプロットを明らかにしておかなければなるまい。妻との関係に満足している壮年の男性エフジェンは、夢の中では他の女性と不倫をしている。彼を現実に引きずり戻すようなかかりつけ医の紹介を通じて、彼は精神分析家の世話になる。「彼女は夢のことなら何でも知っている。それで生計を立てているからね」だがエフジェンは自分の症状に対処してほしいのではなく、その逆に、眠りに落ちてから意図的に恋人と会うための方法を知りたがっている。自分の夢をコントロールするにはどうすればいいのかというエフジェンの性急な質問に、ホルボヴァー女史は科学的にはそんなことは不可能だとつれない返事だ。しかしエフジェンはさらにとんでもない言葉を返す。「なら……非科学的な方法では、どうです」結局、エフジェンは古書店で、エルヴェ=サン=ドニ侯爵の『夢とその操向法――実践的考察』*1を見つけ、望むような結果を引き出すためには眠っている間の雰囲気づくりが重要であると知る。侯爵本人は、自分が夢の中で会おうとしている女性がアヤメを好んでいたということで、半睡状態の時にアヤメの根を口に咥えさせていた。そういうわけで、エフジェンは家の物置から、自分の恋人が夢の中で見せたことのある母のワニ皮の鞄を持ってくる。その持ち手を咥えて眠りにつくと、勿論、彼の企ては成功する。夢へと侵入するためのこの<非科学的な>方法はまた、原始的な<接触>の魔術の発想とともに後でふたたび登場する。この方法には伝染性があるのだ。

 この原始的魔術に似た、あるいは魔術的な原始に似た性質――他の書き方もあるだろう――は、充分に有機的なかたちで、この映画のグロテスク的な全体を特徴づける、野蛮で残酷なコメディを推し進める。結局のところこうした性質は、言葉の本当の意味で幼児的な、徹底的に「ブルー・ユーモア」*2 的な(厚かましいまでに露骨な)生々しさを映画全体に与えるのだ。エフジェンの妻ミラダは彼の夢に侵入し、愛人を探し回る。彼女は例の、夢の中に遍在する老婆に愛人の行方をたずね、その女はワニ皮のハンドバッグを持っていると話す。老婆は爆発しそうに意味深な例えをもって返答する。「ワニは本物の猛獣さ、ごらん!」袖をまくると、ワニに咬まれた傷で覆われた汚い腕が露わになる。

 こうした生々しく露骨な出来事は、先述したように、すでに物語の「背景」に自らを顕現させていた。モンティ・パイソンめいたシーンが大量に展開する。静まり返った通りをはさんで、文字通り立ち上がって互いに近寄る二軒の家。様々なオブジェに混じって窓から窓へと飛び交う人間の身体。(まるでそれがごくありふれたことであるかのように、ストーブが煙を吐きながら飛んでゆく)。もっとも露骨な精神分析的象徴にはこんなものもある――ガスボンベを満載したトラックが俳優の背後を通り過ぎてゆき、続いて反対側からスイカを満載したトラックが、そして少し間を置いて、こんどはボンベとスイカを一緒に載せたトラックが横切ってゆく。また直径二メートルはあろうかというリンゴがひとつ、何の脈絡もなく通りを横切ってゆき、壁にぶつかってこなごなになる。それらを背景にまるで何事もないかのようにエフジェンの対話が進行する、この不条理ときたら。言うまでもなく、ホルボヴァー女史のオフィスでは、見紛いようもない二枚の肖像写真が、互いに殴り合いを続けている……。





 後から吹きこまれた俳優の声が、コメディを演じていることを意識しすぎているように聞こえてしまうことで、この映画のユーモラスな効果はやや減じられてしまっているようにも思われる。彼らが深刻さのイリュージョンをもっと上手く作りだしていたなら、映像との対比がすばらしい効果を生みだしていただろう。

 子どもの頃に親しんだシンプルな道具や古いおもちゃといった、相互に絡み合うモティーフについてのシュヴァンクマイエルの強迫観念は、これまでの作品の背景、とくにアニメーション映画においてある種のクリシェを形作ってきた。それはエルンストやダリ、あるいはマグリッドなどのクリシェというわけではないにしても、<シュヴァンクマイエルの>クリシェとして定着している。だからますます、この『サヴァイヴィングライフ』という映画に置いて用いられているスタイルがもたらす、唐突で目を見張るような新鮮さを、わたしたちは熱烈に評価するべきだろう。

 誤解のないようにつけ加えておくと、彼のこの作品に限らず、映画や美術作品においてはスタイルのあり方だけが重要な役割を担っているわけではない。まったくそんなことはない。ただ大切なのは、スタイルが形式主義へと陥ってしまうぎりぎりの所で「スタイルを変える」ということは、逆説的に、作品の実際の中身に匹敵するほどに重要であるということだ。シュヴァンクマイエルが(これが初めてではないにしろ)実験的で不安定な、難しいアプローチを行うために、よく馴染んだスタイルから一歩を踏み出したことは注目に値する。

 この大胆さは、シュルレアリスムを是認するこのアーティストが――創造行為の場を含む――芸術運動としてのシュルレアリスムではなく、表現活動の凝縮された自由の場としてのそれを大切にしているということの証だ。こうした意味でのみ、シュルレアリスムは十全に理解されうる。

 もし、シュヴァンクマイエルのこの新しい<夢=映画>が、彼の作品の長年にわたる<独自のスタイル>に馴染んだ観客から歓迎されなかったとしても、わたしは驚きはしないだろう。ただ、この作品は、いわゆるスタイルに関心を払わない人たちの間でも多くの支持者を獲得するのではないかと思う。そのスタイルがどのようなものであれ、アーティストの感覚のパーソナルな独自性からくる、驚きに満ちたユニークな体験を好むような人たちなら……。

 みずからの人生を生き抜くためにはみずからの夢を理解しなくてはいけない、という認識こそがこの映画に込められたメッセージだ。二つの状態――一見、はっきりと対立するような夢と現実――をある種の究極的な現実、もしこう言ってよければ超-現実へと合一させようとする要請は、この映画では(<超-現実>がしばしば誤解されているような意味での)哲学的、イデオロギー的公理としてではなく、ひとつのリアルな人間の経験として提示されている。<超-現実>は、認識を超えた事柄の神秘的な経験に対する、プラトニックでユートピア的な信仰ではない。逆にそれは個人ごとの経験的な知識、現実に対立するものが認識可能なかたちで合一するような、そうした経験についての知識に基づいたものだ。
主観的な(「内的必然性」に則って)イメージを産出する概念と、客観的で手に触れることのできる感覚と、この二つを統合する経験を追い求めるシュルレアリストの挑戦は、現実がそれぞれの生に影響を及ぼすのと同じように想像的なものもまた実効性を持つのだという、堅い信念に基づいている。
 夢の内側からの叫びは、<意識のある>ときにうっかり熱いやかんに触れた時の声と同じくらいに意味のあるものだ。夢は現実にこのようにして作用する――誰もが似たような経験をしてはいても、そこから実際的な結論を引き出せる人は多くはない。ヤン・シュヴァンクマイエルはそういう人々の側にいる。


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最後になりましたが、翻訳・掲載の許可を下さったLeeds Surrealist Groupとブルノ・ソラジーク氏にお礼申し上げます。
I appreciate Leeds Surrealist Group and Mr. Bruno Solařík for the permission of translation and reproduction of this article.

*1:ブルトンが「通底器」の冒頭で言及している書物。1867年に無署名で刊行され、「通底器」が発表された1931年にはすでに手に入れにくい本だったらしい。「どうやら彼はつぎのように考えた最初の人だったように思われる、つまり、およそ最高の美女のつれなさにも首尾よく打ち勝ち、その美女がたちまちのうちに最後の大切なものまでも与えてくれるようにすることは、何もそのために――魔術に助けを求めたりしなくても、十分可能である、と。」

*2:差別、暴力、性などにまつわるきわどいユーモアのこと。ブラック・ユーモアとほぼ同義。

シュルレアリスムは、今日? その3-1

■夢は第二の人生――ヤン・シュヴァンクマイエルによる精神分析コメディについて(前篇)

Bruno Solařík
和訳:かわかみはるか / Haruka Kawakami


{以下は、Phosphorの第3号「取り戻される記憶/Memory Reclaimed」(2011年)に掲載された、ヤン・シュヴァンクマイエル最新作『サヴァイヴィング・ライフ』の評論です。著者のブルノ・ソラジーク氏は1968年生まれの作家、写真家、歴史学者チェコシュルレアリスト・グループのメンバーであり、現在は雑誌ANALOGON編集委員、また2月の展覧会Jiny Vzduch/Other Airではキュレーション・チームのリーダーを務めた人物でもあります。}


――この本が吐露している信念のすべてでさえあることは、精神のもっとも非反省的な活動の内容をつぶさに検討しつつ、表面に生ずる驚くべき、心安らかならざる沸き立ちへともし強引に移行するならば、一つの毛細繊維のごときものを明るみに出しうるということであって、それについて無知である場合、精神の循環を思い描こうといかに巧みをつくしても空しいであろう。この繊維の役割とは、すでに見たように、思考のうちにおいて、外的世界と内的世界とのあいだに生じうべきコンスタントな交換を保証することであり、この交換は覚醒状態の活動と睡眠の活動との絶えざる解釈を必要とするものなのだ。

――アンドレ・ブルトン「通底器」、豊崎光一訳
アンドレ・ブルトン集成』1巻、332-333ページ。


 ヤン・シュヴァンクマイエルは、彼の映画『サヴァイヴィングライフ』の解説として上記の文章を選んだ。この映画で彼が成し遂げたのは、実に希少な事態だ――つまり、変えることのできないものごとの状況に対して、長年にわたって変わることのないスタイルを保持してきたアーティストが、ラディカルに反旗をひるがえしているということ。その兆候はより以前からあったものの、本作のひとつ前の『ルナシー』で、シュヴァンクマイエルは自身の長編映画におけるオブジェのアニメーションの位置づけを、さらに深く転換させていた。彼のアニメーションの<古典>ともいうべき典型的なイメージ(みだらな遊戯に興じる肉片たち)が用いられているとはいえ、それはむしろ[映画の中心的モティーフであるというよりは]物語の筋を縫い合わせる役目を担っていた。そして今回、シュヴァンクマイエル長編映画にふたたびアニメーションの原理を持ち込む。『ルナシー』とは対照的に、今回、生身の人間が演じるシーンはアニメーション化された全体につけ足されるのみだ。ただ彼は、よく知られた、そしてわたしたちも見慣れた<シュヴァンクマイエルふうの>オブジェのストップモーションではなく、それまでの作品ではあまり無かったようなかたちとモノの動かし方によって、アニメーション化された全体を予期せぬ形でひっくり返した――彼が選んだのは、子供や若者向けのカートゥーンに用いられるような、切り絵アニメーションの手法だった。その成果は斬新という以上のものだ。切り絵アニメーションの技法が、グロテスクな戯画を動かすのではなく、プラハの古風な風景をバックにして実際の俳優たちの写真に生命を吹き込んでいるということも、また新鮮な効果を生んでいる。これが何のエフェクトもかけられていない、ごく普通の写真であるのもいい。時折生きた俳優の映像と幻想的に入れ替わるこの人々は、しかし映画を織りなす唯一の登場人物というわけではない。映像の文法に則れば背景として扱われる部分の、その自由気ままな構造こそが、この作品の際立って重層的なストーリーラインを形作っている。中心的な物語の中で起こるできごとの意味は、しばしば背景(つまり映画の周縁)に反映されるか、あるいは夢に似たやりかたで、暗号化されたアレゴリーへと歪められていく。

 物語の筋は「精神分析コメディ」という映画のサブタイトルによってすでに充分に表されている。あるいは「精神分析についてのグロテスク」と言い換えてもよいかもしれない。この作品では、科学としての精神分析は、ゆたかな笑いと冷やかしのネタにされている。シュルレアリストとしてのシュヴァンクマイエルの立ち位置からは想像しづらいことだが、しかしそう感じるのは初めのうちだけだ。もっとも威力のあるアイロニーとはつまり自己に対するアイロニーなのであって、精神分析に対するこれらの冷やかしが、実のところは新しい発見への愛着とあらゆる――精神分析的なものを含む――クリシェへの軽蔑からきていることは明らかだ。<治療行為>につきものの「すべてを解決する手段」というロマンティックな理解をくじくような、筋の通った論理の鎖を持ちこむのは、たとえば精神分析家のホルボヴァー女史のモノローグだ。現実が及ぼす圧力のもとでは、自らの職業的な理想に妥協をしなくてはならないということに、彼女は不平をこぼす。ホルボヴァーは、患者が自由連想のメソッドに基づいて話をするべきだと強調する一方で、教師のように嘆息する。「でも、そのための時間はないわね。わたしが何人患者を抱えていると思う? 虫歯を抜くように、ひとりひとりから問題を取り除いていかなくてはならないの。」そして物語の方も、同じように、強力な偶像の愉快な冒涜といった調子で展開してゆく。[ホルボヴァーとエフジェンの] 対話は、通俗的な言い回しを翼のようにひろげてゆくことだろう。主人公のエフジェンが、自分は妻との関係に満足している、と述べたのに対して、ホルボヴァーは言い返す。「幸せならよかったわね、でも無意識の方はどうかしら?」そして仕上げに、大口を開けた株仲買人のごとき力強さで打ち明けるのだ――「まだ話していなかったけど、奥さんがここへいらっしゃってあなたのことを尋ねるものだから、何から何まですべて話したわ」

 「呪われた」詩人、ジェラール・ド・ネルヴァルが記したように、夢とは第二の人生である。映画の中で、この命題は恋人によってエフジェンに提示される。そしてシュヴァンクマイエルがそこへ付け加えることには、人生とは曖昧なものだ。具体的には、悲喜劇だ。すべてがあらかじめ決まってしまっているにもかかわらず、わたしたちは何事かを為そうともがくのだから――それでも勿論、すべては同時に偶然でもあるのだけれど!「わたしたちの知識のすべては、実のところ、受け継いできたものを思い出してゆくことでしかないんだ」と、元カメラマンのフィケイズ氏が語る。彼は入院着を身にまとい、白鳥にパンをやる代わりに、蛇男にカエルを与えている。映画におけるフィケイズの役割は老いた賢者だ。コメディというジャンルにしてはむしろ感傷的に表現されたこの役柄は、多くの観客に鳥肌(かもしくはワニ肌)を起こさせるかもしれない。あるいはこの映画の中での別の場面、[フィケイズとは] 対照的な、醜い老婆の存在を思い出させるだろう(彼女は本作全体を通して、もっとも興味深いキャラクターのひとりだ)。彼女は奇怪な赤ん坊(ストーブ、巨大な卵やそれに似たもの)を入れた乳母車を押してエフジェンの夢の中を練り歩き、自らを神や偉大な権力者になぞらえ、果てはナポレオンやカール・マルクスであるとまで自称して、ホルボヴァー女史の注意深いまなざしの前にその正体をさらけ出す。老婆はエフジェンの超自我だ(このことは、彼女がエフジェンの夢の中で怒鳴るときの性的なアンビヴァレンスにも見て取ることができる「あたしを買収しようってのか、このクズ野郎! その手にはのらないよ!」*1 )。この映画における、あいまいで悲喜劇的な出来事の性質は、その危うい愉しさについてのシリアスなメッセージを伝えてくれる。笑いは究極的にはシリアスなものであり、そしてシリアスな致命的事態とはまた――同時に――笑えるものなのだ。最も重要なことは、これらすべてが一度に、まさにひとつの同じ瞬間に、やってくるということだ。

(後篇に続く)

*1:原注:ここでは女性のキャラクターが男性形の動詞を用いていることが、チェコ語話者の観客にはすぐに理解される

シュルレアリスムは、今日? その2

■To be Continued... / ものがたりはつづく
Kenneth Cox
日本語訳:かわかみはるか / Haruka Kawakami
 
[以下は、Leeds Surrealist Groupによる雑誌Phosphorの創刊号「Narratives of Absence/不在についての物語」(2008年)の巻頭に掲載されたテクストです。]
 
シュルレアリスムの「遺産」をあちこち探し回るひとたちが、シュルレアリスムそのものの継続に目を向けようとしないのは皮肉なことである。だったら、と彼らは訊くかもしれない、今日どこにシュルレアリスムを見出すことが出来るというのか? シュルレアリスムの中心を設定することは――それはパリ以外のどこでもないと長いこと信じられてきたが――無意味なことだ。またその円周を、決して手の届かない場所か、さもなくばあらゆる地点に描いてみせるのは、もっと問題のあることだろう。言うまでもなくそれは、ある種の専門家たちがわたしたちに信じ込ませてきたように過去に限定されるものではないし、未来のほうはといえば「それがある限り続く」のである。

では、今日シュルレアリスムはどこにあるのか? わたしはためらうことなく、シュルレアリスムシュルレアリストがいるところに見出される、というジェラール・ルグラン*1の話を繰り返そう。もちろん、今度は、「シュルレアリストとは誰か?」という問いが持ち上がる。“あなたがその問いの意味を理解したときにだけ、わたしたちは答えを示すだろう”。
 
今日のシュルレアリスムの力学は、組織化されたグループと彼らの公共の場への活動・投影などにとどまらず、独りきりの冒険を好む個人の間においても、さまざまな動径を世界中で形成している。これらの動径を、ひとつの動態によって立ちあげられる「ムーヴメント」と呼びうるような形にまとめるものは何だろうか? 端的に言って、シュルレアリスムはひとつの活動や活動の一カテゴリ、あるいはひとつの公式などに矮小化されるものではないのだと、わたしは強く主張したい。「シュルレアリスム的」と呼ばれる実践を規定するのは、社会的、政治的、そして倫理的な側面から駆り立てられた、意思と知性に対する疑問である。だから、さらに言えば、それはひとつの“感受性”、つまり世界に対する見方と行動の仕方なのである。
 
そうした「動径」のうち最も新しいもののひとつであるこの“Phosphor”において、わたしたちは、シュルレアリスムの創造的なルミネセンス*2が現在もなお続いている証を示し、その独自の感受性を確認することを目的としている。その過程で、わたしたちは芸術も文学も、また、わたしたちが示したものがその表現形式のみによって誤解されることも、恐れはしない。わたしたちは今でも、必然的に伴うであろう誤解のリスクを背負って、こうした土俵に上がることができる。“わたしたちにはその違いがわかっている”。
 
■Leeds Surrealist Groupについて
1994年にKenneth Cox, Bill Howe, Sarah Metcalfの三人がイングランドのリーズで立ちあげたシュルレアリスト・グループ。現在のメンバー数は11人。
2008年から機関紙Phosphorを不定期に発行しており、ここには詩やオブジェなどの作品、グループによるワークショップの報告、各国のシュルレアリストによるテクストの英訳や出版物についての情報が掲載されています。今回訳出したのはその創刊号の編集前記にあたる文章です。
また、リーズのグループは他国のシュルレアリストたちとのコラボレーションも活発に行っているようで、以前紹介したOther Airにもここのメンバーが作品を寄せています。
 
公式サイトは以下。
http://leedssurrealistgroup.wordpress.com/
また、Phosphorの他、彼らの出版物は下記のサイトから購入できます。
http://www.surrealisteditions.co.uk/
 
最後になりましたが、翻訳・掲載の許可を下さったLeeds Surrealist Groupの皆様に感謝致します。
I deeply appreciate Leeds Surrealist Group for their permission of translation and reproduction of this article.

*1:最初期のパリのグループの、最後の世代にあたるメンバー。69年のグループの解散後、ポスト・シュルレアリスムを標榜する『クーピュール』紙の編集に携わる。参考http://blogs.yahoo.co.jp/art_nippon/21892305.html

*2:http://bit.ly/Ht9UT8

Drakatit

チェコシュルレアリストプシェミスル・マルティネツ(Přemysl Martinec)氏の展覧会が、チェコ北部のトゥルトノフで行われています。



(Photos from:Trutnovinky)
彼も他のシュルレアリストと同じように、オブジェやドローイング、パフォーマンスと幅広く作品を発表しています。わたしは特にかぶりものが好きだったり。

こわいけどかわいい。
会期は4月8日までみたいです。

チェコにもそろそろ春が来るころかなあ。