ブログトップ 記事一覧 ログイン 無料ブログ開設

HeDis このページをアンテナに追加 RSSフィード

2011-01-28

僕がとあるSNSを辞めた理由と、コミュニケーション能力は量に比例しないということ

とあるSNSを利用していたのだが、いろいろな思考が交錯した結果、数ヶ月前に辞めた。
辞めた理由の一つとしては、ニュースやコラム、その他のコンテンツに対して「言いようのない気持ち悪さ」を感じていたためである。その言いようのない気持ち悪さが何であるか、最近分かったのでまとめてみたいと思う。


■ニュース・コラム・日記・つぶやき

とあるSNSのニュースは、大手新聞会社などのネットニュースを配信している。そのため、新聞紙や情報誌に比べると圧倒的に情報量が少ないものとなってしまう。情報量が少ないにも関わらず、とあるSNSの住民はそれを元に日記を書く。それはすごく自然なことで当たり前の流れである。
しかし情報量が少ないにも関わらず、あれこれ意見を述べるという行為は、本質を見極めずに物事を捉え、己の意見、考えをまとめる行為になる。これは非常に浅はかな論理を形成することになる。しかもSNSという特性上、それが伝染するのである。これは負の連鎖の何物でもない。このような負の連鎖SNS上の日記だけではなく、Twitterも同様な負の連鎖が起こる。これは情報量の少なさとそれを消化する人のレベルの低さが原因にある。このような流れは、そのコンテンツの雰囲気を形成する一因になる。そのため、負の連鎖が起きたコンテンツは非常に低俗な雰囲気を醸し出す。これが一つの気持ち悪さである。
また、ソーシャルネットはサービスは違えど、TwitterブログSNSなどのたいていのソーシャルネットは「ソーシャルネット」と一括りに語られることがある。しかしSNSは、Twitterブログに比べると大きな違いがある。それは自然と目に触れる事ができる知識人たちの有無である。例えば、Twitterは多くの起業家政治家、社長、アルファブロガーの方々など、多く知識人がフォローされている。このような状況は、何かコトが起きた際に知識人アクセスすれば論理的or公正or中立な解釈を得る事ができるため、一種の集団ヒステリー的な状況や感情論に満ちた場になりにくい。少なくとも、正しい情報を見極めたいというポスト知識人は、浅はかな論理に流されずに済み、流される人は勝手に流れて下さいという状況になる。またさらに、Twitterブログサードパーティが充実している。見識に富んだ発言はTogetterにまとめられたり、ソーシャルブックマークで拡散したりと、知識人たちの解釈を伝達&伝受することができる。
その一方、SNSでは自然と目に触れる知識人たちの情報(日記)はあまりない。知識人たちもSNSを活用しているが、多くの知識人たちはSNSの日記ではなく、自身のブログで個人の見識を述べている。そのため、SNSの日記では有益な情報はあまり拡散されない。

このような理由から、僕はとあるSNSから遠ざかった。


コミュニケーション

コミュニケーション能力は非常に重要である。しかしながら、コミュニケーション能力を高める上では、コミュニケーションの質と量は比例しないということに気付いている人は多くないように感じる。これはSNSの日記やコラム、そしてニュースを読むことで痛切に感じた。

例えば、とあるSNSには恋愛に関するのコラムがあり、その記事がアクセス数や日記数ともに上位に上がる。そして内容に目を向けると、恋愛における上辺だけのテクニックが披露されている。このようなテクニックは、その人の内面的人格を外面からチープな塗料で上塗りするようなモノで、その人の内面的人格が磨かれるわけではない。
内面的人格を磨くことについて述べると、一昔前に流行った自分磨きが最たる勘違いを引き起こしていた。自分磨きのために資格を取ったり、スポーツを始めたりする人が多く現れた。しかしその反面、その資格を持つ意味や意義、スポーツを行う意味や意義を考えず、短絡的な目標を達成することで、自分磨きが成功したと勘違いを起こす人たちも多く現れた。重要なのは、その資格を持つ意味と活用方法、スポーツを行う意味と意義であるにも関わらず。これも恋愛テクニック同様に内面的人格が磨かれたわけではなく、さらに磨かれたわけではないにも関わらず磨けたと思い込んでしまうという非常に残念な状況を発生してしまうのである。このような人ほど、「自分磨き」の中で生ずる量的なコミュニケーションを良しとしている。

このこようなことからコミュニケーション能力において、先ほどの恋愛テクニックの件や自分磨きの件を踏まえて考えると、量は重要ではないのである。むしろ質を伴わない量は害である。重要なのは質である。確かに質を伴わなくても量をこなすことで、ある程度向上できるかもしれない。でもそれは所詮、チープに塗りたくった能力である。
さらに付け加えると、有能な人ほどコミュニケーションが不必要になる。なぜならば、人と関わらなくても能力が高いが故、困ることがないからである。例えば身近な例で考えると、仕事が行き詰まっても自分で解決できるため、人の助けや関わりが必要になる状況が発生しない。さらに例を挙げると、何か壊れても自分で直せる、家事を自分で行える等、必要なコミュニケーションは有能な人ほど減少する。天才は孤独であるという言葉があるが、それはこのような意味なのであろう。

逆に低俗な人ほどコミュニケーションが必要になる。それは能力が低いからという理由だけではない。同じ仲間を見つけ共に享楽を過ごすことによって、無能感を紛らわし安心感を得るためである。その享楽から安心感は得られよう。専業主婦が「専業主婦も大変なんです」と専業主婦仲間で言い合う状況は、ここ最近では当たり前の風景になった。しかしそのような井戸端会議は実に虚無的であり発展的ではないどころか、人としてさらなる閉塞と退廃を生じさせるのである。例として専業主婦を挙げたが、ビジネスマンも同様に、そのような井戸端会議的行為は虚無的であり発展的ではない。
そのような中でも本質的な発展を求める人は良い。むしろ本質的な発展を求める姿勢は讃えられるべきである。なぜなら社会に対して価値を生み出すからである。ミクロで言えば社会であるが、マクロでみれば人類にとって重要である。時代は進むのだ。となれば、時代を生き行く人の価値を考えると、本質的発展を望まない人の場合、良くて±0、たいていはマイナスである。生物も街も文化も発展を求めない限り退廃する。このような人たちを一括りにして概観すると、本質的発展を求める者ほど多忙と困苦を受け入れる。しかしながら本質的な発展を求めない者ほど多忙と困苦を訴えるのである。

とあるSNSの話しに戻る。SNSはリアルの逃げ場を求めた結果、バーチャルであるSNSに辿りつく人が少なからずいる。このような人たちは困苦を回避するためにSNSを活用している人であるため、本質的発展を望む人ではないのである。それらの人はバーチャルの中でさえもコミュニケーションにおいてトラブルを起こす。そのような人たちは享楽と安心感を得るためにコミュニケーションを非常に求める。しかしコミュニケーション能力が高いわけではない。そのような光景を目の当たりにする度に残念な気持ちになるのである。これがもう一つの言いようのない気持ち悪さである。この「気持ち悪さ」は、嫌悪ではなく失望に近い。

量的なコミュニケーションが悪であるような書き方をしてきたが、一概に悪とは言えない。質を蔑ろにした量が悪なのである。またコミュニケーションが重要であるとは言えども、己の能力を閉塞し退廃するようなコミュニケーションは避けた方が良いというのは明白である。
敢えて言うが、そのようなことを気にせず楽しく続けられる人もいる。僕が期待し求めたニーズと実際の環境がズレていただけである。実際の環境と周りのニーズに合わせられる柔軟性も生きてく中では重要だと感じるが、それは必要最低限に行いたいというのが本音だ。


はてなユーザーのみコメントできます。はてなへログインもしくは新規登録をおこなってください。