カタルトシメス

 文章について、現時点でのおれの考えをここに纏めておきたい。Twitterの方にも文学とか文章関連の話題を思いついてはちょくちょく投稿しているが、Twitterはシステム自体が「垂れ流す」事を前提としているからか、思考を組み立ててその変化具合に応じて文章をこねくり回すタイプには余り向かず、文章に趣向を凝らそうとこだわればこだわるほど、140文字内に収まりきらないし連投してしまいがちとなるので、それぐらいならブログでやれと言われるのがオチである。

 だから、おれははてなダイアリーに久々にログインし、わざわざこの文章を書き始めておるのだ。まるで就業時間中に職場のPCから自分の彼女に「今日の晩御飯何にしようか?」などという内容のメールを『緊急連絡事項』とタイトルを付け加えた上で送信する彼氏並みの細心ぶりで、いつかは現実でも披露してみたいのだが、あいにくと今のおれは無職でありおれの帰りを待ち焦がれてくれる彼女もいないという前門の虎後門の狼。きみならどちらから打破する?



 話がまったく逸れてしまったが、これも主題の許容内であり、つまり何故人は文章を書くのかという疑問に繋がるからだ。そもそもどれだけの人々に読んでもらえるか分からぬ文章のセンテンスやウィットの端々にこだわり、それらを敷居の低い場ではインターネットのTwittermixi、ブログなどで公開し、より高次の舞台では商業誌に掲載するという形を、何故、人は望み、そのようにするのだろうかという疑問に。



 これには様々な説があって、一つは、人間はそれぞれの人生がひとつの小宇宙になっており「私」を取り巻く世界の環境、つまり「私」に付随する人間関係や身の回りの環境などを、「私」の視線からカタルトシメス欲求が、濃いゾーンでは小説や映画、詩文、音楽などの表現行為として昇華され、薄いゾーンでは「ワロスwwwwwww」など一行だけで反応を表すものになるという、『小宇宙公開説』。

 他にも自意識の拗れから産まれてくる「承認欲求」、他の誰でもない私の認めるあなたに、そう、あなただけに見てもらいたい、褒めてもらいたい、抱いてよしよしされたい、あわよくばセックスしてもらいたいとまで拡がるこのコミュニケーション手法をなんと文章に代替行為として持ち込み、自分自身の作り出す世界を承認されんとする、『承認欲求説』もある。

 この他、そもそも人類はありとあらゆるコミュニュケーション形態を欲する生物なのだという『そもそも人類説』。もしもおれ(あたし)の書いた文章が商業誌や出版本などに掲載され、そして上手く事が運べば名声とお金を同時に獲得できるのだうはwwそれなんて天国wwwなどと、甘い夢に群がるワナビーたちが自らの修練、アピールの為に同人誌、インターネットで互いに文章をUPし幅を利かす『ワナビー願望説』などもあり、混沌の様相を示すが如きである。



 しかしながら、どの説も言われてみればそうかもしれんなあと頷けるものばかりで、これぞと言い切れるものがないのは人間が矛盾を包括する生物だからで、おれが思うに、芸術に対するアプローチにしろ匿名掲示板への落書きにしろ何かしらの文章を自分で作成し公開する行為は、意識的或いは無意識的に上記に挙げられた心理を交錯的に踏んだ上で為されているのだろう。



 予想外に長くなってしまった。今回はここまでにし、次回はどのように致せば文章は刺激的になるかについて書いてみよう。最後に、売れている作家は己の文章を作品に仕上げることに熱中しているから、こういうワナビー的な文章論などは書かないだろうなあ(仕事の依頼として頼まれれば別だろうが)というワナビー的自虐をつぶやきながら、ここに筆を置く。

表現のあな、恐ろしや

ここ最近、高校野球シミュレーション4なるフリーゲームにどっぷり嵌まっていて、これはプレイヤーが高校野球監督になり、思春期真っ只中の高校球児どもをレギュラークラスと補欠クラスに振り分け、補欠連中には365日休日返上で校庭をひたすらランニングさせた挙句三年間一度も試合に出させてやらないという、強豪校と讃えられている高校ならばどこにでもある現実を、最高権力者たる指導者の立場から追体験できるのである。しかも、ゲーム中のシナリオが進めばフリーの監督にならないかと学長から打診され、それに応と請け負うと他校に転校でき、以後一年間の戦績次第で収入が変動されることになる。選手は収入増の為の単なる駒に過ぎない。三年もすれば古いニキビ面が去り一年経てば新しいニキビ面が来る。ただ、それだけの存在なのだ。その割り切り方が、なお清々しく、こうして嵌まってしまったわけである。http://www.vector.co.jp/soft/winnt/game/se479812.html


何? なぜ、そのゲームについて喋るか、だと。自分が楽しいと思ってやっている事を喋る時ほど、おれにとってこの上楽しいことはないのだ。おそらく、君たちもそうであろう。なんだって? 自分はオタクじゃないのだから一緒にしないでくれ、だって? だったら、もうよろしい、君とは話はしない。
物事がありとあらゆるジャンルに細分化された今、何らかのオタクではないという事は何も知らない事に等しいのだ。血液型の特徴だとかスポーツニュースだとかそういう誰でも知っている事をさも嬉しそうに語るのはやめてくれ、ぼくたちフツウだねということを確認し合って何がしたいのだ、馬鹿か。おれが聞きたいのは、おれの知らない事や、おれが面白いと感じる事柄で、世間や世間体の一切などどうでもよろしい。
このおれの言葉は正しくないかもしれないが、法律で定められたルール以外に、正しいとされる概念など何もないし、全ては無数の視点による無数の言葉によって世界はいかようにも変化しうる。それ故に、この世界がおれにとって好ましい具合に逸脱してくれることを欲する、その為だけにおれは文を書くのだし、あなたもそうあればいいではないか。多少ひねくれてもいびつでもいい。先人たちから受けた影響を内面的に継承し、見蕩れる行動または読ませる文によって外面的に表現する。世界的ベストセラー本の聖書も、キリストを題材に虚構で塗り固めたでっち上げの世界、力学法則に矛盾する出来事がばんばんと出てくるが、それらは美文によって濾過され、結果、世界に類を見ない程の支持を得る事になった。美文に人は屈するのだ。

言ってはいけない一言

「ある共同体で共有される認識は、その共同体を維持する為に作り上げられた仮説であって、その認識が真か偽かはまったくの別問題だ。大多数の人が真と捉えている事柄も、ある少数の立場から見れば、まったく馬鹿げたたわ言にしか聴こえぬだろうし、その逆も然りだ。しかし、多くの場合、大多数の立場にいる者の殆どはその人数の多さを誇るだけで、演繹思考も帰納思考もなく、人数の多さに由来する常識という鎖に縛られて満足してしまう。しかも、誰が一番たくさん鎖を身に付けているかを競い合って。それでいいのだろうか? 
―――それでよいのだよ。奴隷がいないと不便だからね」


さる雑誌のインタビュー記事で上記の発言をした諷刺作家の松崎しげルンバは、雑誌発売二日後、OX労働組合員四名から連行拉致され浅間山にて十二時間に及ぶ集団暴行を受け、全身打撲で死亡した。
世の中には言ってはいけない一言もあるものである。

筒井康隆

全力で嘘に嘘を重ね文に文を連ね読者をずんばらりんと斬って捨てるのが虚構の使い手であって、訓練された読者ならば「こういうこともあっていいノダ」「荒唐無稽であればあるほど嬉しいノダ」「文章が美しければいいノダ」とむしろ斬り捨てられる快感を悦ぶのであるが、日本では『以心伝心』なる言葉に象徴されるように、わたしが相手にやさしくしてやったから相手もわたしにやさしくしてしかるべきだという大前提でこの世界が出来ていると思い込んでいる人が多く、そういった馬鹿が不意に斬り付けられた反動から感情論を振りかざして「やりすぎだ」「不愉快だ」「傷付く人がいるからヤメロ」などとのたまい、己の創作を貫こうとする優れた虚構の使い手すなわち狂人(念の為に言うが褒め言葉)にストップを掛けてしまう。


団体からの圧力、会社からの圧力、作家からの圧力、家庭からの圧力、自己規制そういった暴力的精神的圧迫に負けずそれを反作用に換えて革新的な作品を発表し続けた稀有なファイターが幸運にも日本には存在し、その名は秘匿するが筒井康隆であって、筒井康隆の存在に励まされ自殺を思いとどめた人は万を越える筈である。


(以下延々と筒井賛美の文が連ねられるが過去多くの人が書いた文以上に目新しい要素は特にないので数十行ばっさりと割愛する)


今回、書きたいことはあくまでも虚構への愛に関する事柄なのだが、日本には筒井康隆星新一がいる以上どうしてもどちらかは避けては通れぬ話題なので、続けて筒井康隆に関して書いていく事にする。ぼくが思うにこの二人は読者たちを大いに楽しませた反面、創作者たちを酷く苦しめさせたのではなかろうか。虚構に関する面白そうandヤバそうなネタはこの二人の手によって悉く乱獲され、しかも、それらが僅か数十ページ以下の短編小説となって発表されてきたからだ。

ZAKZAKのインタビューで71歳になった筒井康隆が語るに


創作意欲がなくなったってわけじゃないけど、ちょっぴり書けなくなってきた。アイデアは出るんですよ。それで、「あ、コレ、面白そうだ」と思って書き始めてみると、「あれれ」と思い当たって、調べてみると昔書いてる。忘れてるんですわ(笑)。

                      http://www.zakzak.co.jp/hitorigoto/20060922.html 筒井康隆

なんということだ。虚構のネタを探求し乱獲し続けてきた筒井康隆がもう目新しいネタがないと言語化することによって、虚構のネタは尽きたと宣言されたに等しく、この状況に(笑)と言っていられるのは虚構にさらなる虚構を積み重ねてきた筒井康隆本人だけである。これによって後進者たらんとする者は、筒井康隆たちのネタを使い回して発表するしかない先人を更新してこそ本当の後進者(笑)というジョークを自虐気味に放ちながら、先人たち或いは同業者のネタを使い回してあっコノヤロウ著作権違反だ手前ェパクリやがったな何言ってやがるわしは知らんがなぼくの場合はリスペクトだおれはオマージュというギスギスした未来絵図が予測できてしまう。


しかし、それでもいいじゃあありませんか。集合的意識やシンクロニシティという便利な言葉がある今、そのネタを考えたのが果たして個人限定の財産かどうかも疑わしくなってきた今、北海道から沖縄までネットサーバーの設備が行き届きブログ人口が1600万人を突破した今、もはやオリジナルのうんぬんを論ずるのは馬鹿らしくパロディでもオマージュでもなんでもよいからあるネタを美しい文によって言語化出来ればよいのです。それすなわちニーチェ曰くの強度。


たとえば、ほら、このような秀逸なパロディには素直に脱帽すればよいのです。

世論への反逆


 輿論(世論)の存在に価する理由は唯輿論を蹂躙する興味を与えることばかりである。


                                      芥川龍之介


芥川龍之介の本懐は漢語の入り交じった美しい文体にあって天才の手腕が十二分に発揮された散文形式の『芥川龍之介 侏儒の言葉』に冒頭に挙げた一文がある。それを読んだ時芥川龍之介及び文筆家たるもの凡てが世論を蹂躙したがるキチガイ(褒め言葉)の性質を大小の差はあれど内包しているものだと知でなく魂で理解したものだ。
筒井康隆や『ガリバー旅行記』よりも異常な『アイルランドにおける貧民の子女が、その両親ならびに国家にとっての重荷となることを防止し、かつ社会に対して有用ならしめんとする方法についての私案 | SOGO_etext_library』を書いたスウィフト、当代影響力NO.1のキリスト教に反逆したニーチェなどは常識・世論・社会通念の悉くを蹂躪し尽くした稀有な例だろう。

文筆家たらんと志すならば世論は徹底的に蹂躪すべきであり、場合によっては世論以外の凡てに対しても蹂躪してもよく、芥川龍之介は「今生きている人に対して蹂躪すると問題になるけど故人は蹂躪しても文句を言わないから便利だよね(意訳)」と文芸誌に一文を載せて後進者に大きなヒントを示してくれた偉大な先駆者だった。

つまりはこういうことなのだ。


芥川龍之介
「若者よ! おまえが創作の世界の壮大さを 想像できる者ならば
文にオリジナルとパロディという境もなければ
人に絶対侵すべからずという聖域もない!
著作権という枠さえないぞ!」

ゴールデンバット

ニルヴァーナに到達した一人の男がある湖の畔で茫洋としてどこか所在なさげだった。朝が来て昼が来て夜が来ない。段段と焦れついて彼は自分の頭に乗っていたお釜帽子を湖の水面の上に軽く投げ捨ててポケットからバットの箱を取り出した。その中から一本のバットを取り出し口に銜え手はポケットをまさぐりマッチ箱を探すが一向に見つからない。「ちくしょうめ」彼がアキラメと共に銜えていたバットを戻そうと手に持った時水面の中からごぼごぼと音がするや否やざぱんぴしゃと水飛沫を上げながらシニカルな笑いを顔に貼り付けた男が湖から現れた。太宰であった。
「いよゥ、中也。僕が女の家で自殺志願者の集まる掲示板での彼らの辛苦を吐露した書き込みを多大な共感を以って読んでいる時に何事だね。天井に君の帽子が見えたもんだからすぐさまトイレに駆け込んで便所の中から此処と繋がる僕の尿と女の尿が混じった水面から君の帽子を取り出してやった」
太宰はそう言って水面上を歩いて湖の畔にいる中也の傍にやって来た。太宰の姿は濡れておらず中也の手に渡されたトレードマークのお釜帽子は所々に黄味を帯び始めていた。太宰はにやにや笑っていた。
「アッ、ち、ちくしょう。太宰ッ。この上によくも小便をぶっ掛けやがったなッ」
中也が激怒した。中也は太宰をぶん殴ろうと決意した。中也には太宰の文学が分からぬ。中也は、詩人である。現世ではバットを吸い、小林秀雄と女を取り合って来た。けれども帽子に直接尿を掛けたか或いは徐々に染み付いただけかの違いには人一倍敏感であった。中也は帽子を太宰に投げつけると同時に太宰に飛び掛った。
「この精神薄弱野郎め」「いてて、なんだと、このナメクジ野郎」「あ、いたたた。自殺狂め。また死んでみやがれ。こ、今度はおれの拳で死ね」「いたいいたい痛あい」「こらこらやめんか。太宰君。中原君。やめなさい」
取っ組み合う二人の上に制止の声が割って入ってきた。二人が湖の方を振り返ると水面の上に芥川が立ってバットを燻らせていた。その眼はかつて現世で豪傑谷崎潤一郎を相手に一歩も引かず苛烈な文壇論争を繰り広げた当時の芥川がそのまま蘇ったかのようにギラついていた。二人はたちまちに沈黙した。特に芥川をいたく敬愛する太宰の落ち込みようは酷く、芥川が湖の上から二人の傍まで移動するまでに十回以上「カルモチンを用意しなければならぬ」とブツブツ呟いていた。
「やれやれ、君らの所為で僕がブログに書いていた『剽窃は可か否か』の記事も台無しだ。時代は僕らが生きていた時よりも遥かに進んでいて今では書くべき目新しいテーマなど何もないんだ。当時、支那よりあらゆる漢語を取り入れて文章に組み込み、古今東西の歴史上の人物に小説上で様々な役割を演じさせた僕からすれば創作はもっと自由に向き合うべきなのだ」
二人にそう言って芥川はバットの煙を壮大に吐き出した。相も変わらず芥川は現代でも持ち前の戦闘性を発揮してインターネット上で論争を繰り広げているらしかった。
芥川が吐き捨てるように言った。
「自殺する勇気もない奴らが創作などするんじゃない」
「そうです。その通りです」
太宰が我が意得たりとばかりに頷き中也を見た。三人の中では彼だけが病死であった。ところが中也はそれを恥じる様子もなく三人の中で一番の若死にであったしその死の早さから悲劇の詩人とも悼まれていた事に誇りを持っていたから彼は太宰を睨み返し芥川に言った。
「自殺を自分で選択してきれいさっぱり死ぬならば良いでしょうね。すごく勇気があると僕もそう思います。しかし酒に酔った挙句鬱気味の女にそそのかれてあっさりと死んじまうような人はどうでしょうね」
「な、なんだと。き、きき貴様。おおれの事を言っているのか」
「さあ、どうでしょう」
「お、おれの事を言ったんだな」
太宰が全身をワナワナと震わせぽろぽろと涙をこぼし始めた。太宰の両目から止め処なく涙が溢れてくる。終いに彼は湖の水面をウスボンヤリと見つめながら次の自殺の算段を考え始めた。もっとも今となっては再び死ぬ事は出来ないのだが。
困りきった芥川が手持ちのバットをもう一本取り出し太宰に向かって言った。
「おい、太宰君。もう過ぎたことはいいじゃないか。気を取り直してバットを呑もうじゃないか。今の時代でも我らが誇るバットはあるんだぜ」
太宰が振り返って笑顔になった。
「いいですね。バットを一本頂戴いたします」
「あっ、芥川さん。僕にも火を貸してください」
そして一同盛大にバットの紫煙を立ち上げながら、先程までの騒ぎはどこ吹く風か他愛もない話を喋り始めた。
「僕は両切りを吸わない人が嫌いだ。両切りを吸えない人は煙草を吸ってるとは言わない」
「太宰に同感だなあ。両切りの中でも特にバットが素晴らしい事を皆はあまり知らないのは人生の大損害だね。僕の詩集でも読めばたちまちにバットの虜になるだろうにさ」
「太宰君。中原君。そして僕。僕ら三人がバット愛好家だということはちょっとした文学オタク、煙草マニアなら誰でも知っている事だ。こうして三人が揃ってバットを吸うなんて彼らにとって最高のシチェーションだろうね」
「その通りです。芥川さん。今日もバットが実にうまい」
「すこぶるうまいねえ」
「うまいですねえ」
「ワハハハハ」
「ワハハハ」
「ワハハ」

「しかし、何だか変だな。芥川さん。僕らが三人がここに集ってバットを喫煙する。そのアイデアは確かにスリリングでワクワクして詩的なものだ。しかし、僕の詩人リアリズムから察するに先程の太宰君の行動は不自然ではないですか。まるでリアリティがない。僕が、ええと、彼の死を侮辱するという決定的な一言を放ったにも関わらず太宰君はたった十行程度で立ち直っています。本来ならば、かっとなって殴り合い、どちらかが謝り出すか、口もきけないほどにぼろぼろに打ちのめされていないとおかしいんじゃないですか」
「んむ。ううむ。確かに、そう言えばそうだ。中也ッ。貴様ッ。よよくも僕を侮辱してくれたな」
「太宰君。落ち着きたまえ。しかし、中原君。こうも考えられないかね。僕たちは一度死んだ人間だよ。死んだのだから血肉を伴わない人間のはずだ。君の言うリアリズムを以って僕たちの行動をそう易々と判断する事は出来ないんじゃないかね。なにせ一度は死んだ僕たちだ。一般の感情を持っているとは考えられない」
「そうだぞ。中也。とにかくバットを吸えよ。けけけ」
「あっ見て下さい。芥川さん。太宰君がおかしくなっている。いやもともと太宰君は感情の起伏が激しい性質だから始めからおかしいのかもしれないですけど、それ以上におかしい。この世界は一体どうなっているんですか」
「あっあっ、見たまえ。中原君。太宰君。あそこに見えるのは」
「あっ、あれはF」
「あっ、そうか分かったぞこの世界はI」
「あっ、元々虚構の中のN」