拓海広志「信天翁ノート(2)」
これは僕が学生のとき(今から20年ほど前)に書いた未完の連作エッセイに、その後ジャカルタ在住中に少し加筆したものです。当時とは連作の順序を変えて紹介させていただこうと思います。内容的にはかなり未熟なものですが、もしよろしければお付き合いください。
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ディビット・ブリン氏のSF小説に『ガイア 母なる地球』という作品があるのだが、同氏はその著者あとがきにこう記している。
「部族生活を送る人々が−古代人であろうと現代の減少している多雨林で過ごす人々であるとを問わず−自然と調和して幸せな日々を送り、平等に暮らすと想像するのは、ロマンチックではある。しかし最新の研究によれば、むしろその反対であることが明らかとなりつつある。一般の幻想どおりであればどんなにいいことかとは思うが、様々な証拠が示しているように、ほぼ全ての『自然な』社会は、その環境や自分自身にとって害となる行為を行ってきた。その害が広範囲に及んでいないのは、技術が低く、人口がほどほどに保たれているからだ」。
ブリン氏のロマン主義的自然保護イデオロギーに対する批判には僕も共鳴できる部分があるのだが、ここで同氏が言わんとしているのは、もともと人間という生物は自然環境に対して何らかの影響を与えることを宿命づけられており、そのこと自体は古代から現代に至るまで何ら変わりはないということである。
すなわち、近代は圧倒的な技術の進歩と人口の増大によって自然に与える影響の度合いを大幅に増しているが、それは量的に量れることであり、近代において人間と自然の関係性が質的にそれほど大きく変化したわけではないというのがブリン氏の考えなのだ。僕はそれに対して全面的に賛同するわけではないのだが、そこからは牧歌的な近代批判を退け、人間と自然との関係性を巨視的に見通そうという強い意志を感じ取ることができる。
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ところで、人口の増加と技術の進歩は民族の移動や文明の盛衰とも深い関係を持つものだが、最近の研究では民族の移動や文明の盛衰も、太陽黒点の活動や地球上の気候変動などといった自然現象からも強い影響を受けてきたことが分かってきている。
すなわち、人間は自然に対して大きな影響を与える生物ではあるが、人間が生物である以上当然のことながら自然から影響を受けており、その影響は人間が作り上げる文明にも及んでいるのである。
そして、ある文明の中で技術が進歩を遂げると共に人口が増加し、人口の増大と気候の変動が民族の移動を促すことによって技術の伝播・拡散が引き起こされるのだとすれば、人間の社会と自然の間には非常に複雑で、深い関係があるとも言えそうだ。
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他方、品川嘉也氏は『意識と脳』という著書の中で、「生命の起源と人類文化の将来を考えるときに、太陽系の歴史が問題になる」と書いているが、人間界を含む自然界で起こる出来事の間には相互に何らかの<関係>がある筈で、その場合の自然界というのは少なくとも太陽系くらいまで拡張して考えるのが適切だというのが同氏の持論である。
品川氏は宇宙の膨張によって情報が生まれたとし、物質、生命、意識を全て情報構造と見なすことによって、それらを関係づけることができるとしているのだが、これは自然と人間の関係論としては最も巨視的な立場に立つ見方だと言えよう。
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ところで、僕たちは物事の<関係>に注目し、それを読み解きながら論ずることを「関係論」と称している。一方、立論上の便宜のために<関係>をとりあえず捨象しておき、そこをあたかも閉じた世界であるが如くに語ることを「個別論」と称している。そして、そうした<関係>の綾なす世界を完結した一つの全体世界として論じていくことを「全体論」と呼んでいるのだが、僕の考える<全体>とは<個>の単純総和なのではなく、<個>と<関係>の複合総和である。また、<個>とは<全体>にとっての部分であると同時に、<全体>を反映・内包もするし、<全体>はそのメタ・レベルにおいては一つの<個>ともなる。
こうした考え方は曼陀羅が示す宇宙観・生命観とも相通ずるものなのだが、「個別論」「関係論」「全体論」をうまく組み合わせることによって、僕たちは人間と自然をもっときちんと結びつけることが可能になるのではないだろうか。つまり、人間が自然を構成する部分である以上、人間の作り出す社会や文化を「個別論」として語る方法だけではなく、それらを自然全体の中に位置づけて「関係論」あるいは「全体論」として語る方法もあるわけで、それは恐らくエコロジーにとっても重要課題の一つなのだと思う。
密教における曼陀羅とは宇宙や生命の真理を凝集したイメージのことであり、それは本来的には人間社会のあり様を示すモデルではなかったかもしれない。しかし、人間の社会や組織を自然の営みの中でとらえた時に、それらはあたかも一つの生き物のように見えてくることがある。
そこで、人間の精神やその共同性として築き上げられた社会・文化の優れた達成を軽視するのではなく、そうした達成をもう少しメタレベルから見つめることは出来ないだろうか。「脳と精神の関係は構造と機能の関係である」と語ったのは養老孟司氏だが、脳が身体という自然の一部である以上、そこから生み出されてくる精神が自然から影響を受けていない筈はないのだから。
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こうしたことを考えながら、清水博氏が提唱したバイオホロニックスという考え方にふれてみると、そこから示唆されるものは非常に多い。
同氏は生物の世界においては、単独で活動するよりも、幾つかの異なるものが複合的なサイクルを作った方が、より高次な系へとお互いが組み込まれていくことによって、さらに安定した共存的システムへと進化していくと語っている。
そして、自然界においては<個>と<全体>は互いにループで結ばれた階層構造をなしており(ループの間を行き交うものは「情報」)、両者は構造的にも機能的にも分離することができないという考え方を土台にしながら、その階層構造の中に人間の社会や組織をも組み込んだ自然観を清水氏は提示しようとしているようだ。
バイオホロニックスは生物の世界において<個>と<全体>がどのように調和しているのかを説明するものだが、清水氏は要素還元論的な発想から<個>をとらえることはせず、「ホロン」という概念を使って「生きている自然のシステム」を解き明かそうとしている。
少しややこしいのだが、清水氏の使う「ホロン」という概念は、アーサー・ケストラー氏が『ホロン革命』などで提唱したものとはやや異なっており、それは「従属子」でもなければ、「独立子」でもなく、自由な<個>でありながら、その自由選択性ゆえにシステム全体における秩序形成に自主的に参画し、<全体>を形作るものとして説明される。
清水氏は「ホロン」が協調という戦略を選択するのは、自然界においては「裸の個」が生きていくことは不可能であり、それが結局は自己の生存のために最も適した戦略であるからだとするが、一方では「ホロン」は個性と自主的な選択性(=「ゆらぎ」)を持っているので、<全体>の秩序はそこから常に何らかの刺激を受けており、場合によっては旧秩序が崩壊させられ、新秩序が再構築されることもあると語っている。
また、バイオホロニックスの考え方では<個>と<全体>の間はループで結ばれているわけだから、それぞれの<個>の働きは形成された秩序を介して、再び<個>にフィードバックされることになり、そこでは単純明快な因果律や決定論は成立しえなくなるのである。
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このバイオホロニックスの考えを人間の社会や組織に当てはめて考えることは決して不可能ではないだろう。
例えば、P.F.ドラッカー氏が自らのマネージメント理論の中で「組織には多様性のための遊びの部分が必要だ」、「組織の全員が自分のやっていることを他人に理解させる責任を負っている」、「情報化組織では、そこに働く人間一人一人の自己規律が不可欠であり、互いの関係と意思の疎通に関して一人一人の責任の自覚が必要だ」、「今日必要とされているモデルは、経済を一つの生態系、環境、形態として捉えるものである」、「生態系は全体として見、理解せねばならない」等と語るのを聞くと、僕にはそこからバイオホロニックスまではそう遠くはないように思えるのである。
清水氏は「ホロン」としての<個>と<全体>の間で形成されるループが、他のループと複合することによって生まれるより高次なループのことをハイパー・ループと称している。
人間が作る組織や社会は他の組織や社会とループを複合させることによって、より高次なものとなっていくわけだが、それは他の生物たちのループと複合することによって、さらなるハイパー・ループを作り出す。こうして私たち人間の社会や組織は「原子−分子−高分子−細胞内小器官−細胞−組織−器官−器官系−個体−集団−社会−生態系−生きている地球」という階層構造、すなわち全体システムの中に位置づけられていくのである。
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どうやら、バイオホロニックスの考え方は人間社会を包含する形で生態系をとらえていく際に、多くのヒントを与えてくれそうだ。また、それは僕たちが企業やNGOであれ、地域の共同体であれ、緩やかなクラブのようなサークルであれ、何らかの組織を運営する際にも示唆を与えてくれる。
だが、残念ながらそれはブリン氏が表明した自然と人間の間にある「違和」の所在を明らかにしてはいない。また、僕が幼い頃に金縛りに遭いながら感じた、この世界(社会)や自己の身体に対する「違和」の由来も明らかにはしない。僕はバイオホロニックスの考え方に魅せられながらも、もう少しこの「違和」について考えてみたいのである。
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