死んだ花には、水よりいいもんがある。etc.

 そりゃもちろん、酒を呉れてやる方が確実にいい。真に生きている奴は、他に発散や癒しを与えてくれる存在があるはずだし、日常的に酒など必要としない。生命としての隘路に入り込まなかった生の土壌には養分が行き渡っているので、それが花なら太陽と水があれば十分と言い切ったっていいくらいだ。
 だからこそ、死んだ花(心)に特別に呉れてやる死に水として酒は生まれた。酩酊した脳にそう閃いて、久々に痙攣するような爆笑を引き起こした。別に無理に人間を花に例えずとも、元より人間は、心(あるいは魂)という弾丸を持って生まれた一丁の銃に過ぎない。弾丸は一発きり。その弾丸の使い方は覚悟を持って臨むべきであり、何発も撃てる奴は、赤心に見せかけたものを、さも弾丸かのように発射して、それだけ欺瞞に満ちた生を生きているということ。いつでも懸命な振りをして、本当の弾丸はここぞのときに温存しているわけだ。人生には紛れもなく絶対量があるのだから、それも致し方ないことではある。しかし、そうした奴らはそのために、“生の一回性”という奇跡を見出すこともできないし、知ることも信じることもできない。
 つまり、そいつらはまともに生きているつもりでも、生を大切にすることが出来てはいないわけで、それに気付くこともないだろう。そうして自分に嘘をつきながら、失敗を繰り返している振りをしながら生き、そして心の弱さから愛の美名にすがり、その結果の生殖で連鎖している生命なら、これほど忌まわしい鎖はない。むろん当然ながら、そのたった一発の弾丸を最適の場所や時間で使い切り、心が使われた結果のなせるがままに、一生をそこに使い切ることのできる幸福な生もある。ただそれは極めて稀であるし、事実そう見えるものの大半は、自分をそう思い込ませる錯覚の中に埋め込んで、その錯覚に目を向けぬよう、細心の注意を払って人生をゴールまで逃げ切るというパターンが多く、ある意味自分の生でさえもその産物である可能性がないとは言い切れない。
 今のところ、残念ながら弾丸も使い果たし、忌まわしい鎖に気づいたからこそ、俺個人としては続けない意味を見出したつもりでいる。誰にとっても人生という実験は一度きりなので、間違いであろうが、その信じるところに人生の時間を使い切るしかない。少なくとも俺は使い果たした(「もう弾丸は残っとらんがよ!」と錯覚している)。そういう実験を生を通して終えたのであって、結果の良し悪しはその問うところではない。ひとつの実験において、ひとつの答えを抽出したという点では満足さえすべきなのだろう。残りの時間はただ弔いに酒を注ぎ続ければいい。せいぜい出来ることと言えば、その薬効(毒素)で、残された肉体だけの存在が暴走を始めないよう、力を殺いでおくことだけさ。


 一観客として「母なる証明」へ。久々に手放しで褒めたい邦題として注目して欲しい。足りない息子の無実を晴らそうと母が奔走する物語だが、タイトルは「無実の証明」とは言ってない。その奔走は正義よりも、母性の本質に迫らざるを得ないとタイトルは暗示していることになる。その本質とは、一言で表現すればエゴイズムである。現代人は大抵、この言葉に眉をひそめるよう刷り込まれているが、究極的に我々は他人の子を見殺しにしても、自分の子を守る母性に大概は生かされてきたので、この非難は自己否定にも繋がる。しかし、本作を“母の賛歌”として臆面もなく感動できる足りない人間も、やはり愛の狂気の影響下にあるわけで、ポン・ジュノ作品らしい問題提起である。愛は強さと同時に、真実から目を逸らす狂気ももたらす。愛に身を投じることは同時に狂気にも踏み込んでいるという、当たり前だが誰もが見過ごす猛毒を、口当たり良さそうな外見の作品に圧縮した。そして、これが前作「グエムル〜」が家族の物語でも母不在だった答えになっている。要は既に母親が別の形で描かれていたからで、それは「ほえる犬は噛まない」での犬への思い入れや、「殺人の追憶」での容疑者の家族の心情にも共通して描かれてきた。つまりもっと言い切れば、無私の愛は怪物的な狂気をはらんで当然なのである。そのせいか今回ギャグは少なく、悲惨な事件を晒し者にする「親切なクムジャさん」的実況検分やら、「マルチュク青春通り」や「チェイサー」での路地の閉塞感、「友へ チング」的に注ぐ豪雨、果てはお約束の陰険な取り調べ場面など、韓国映画のパロディ的引用はギャグと機能しているとも言える。ただ、あくまで本題は、かつて母の肉体の一部であった息子が、母からの逆エディプス・コンプレックスの引力によって、再び一つになるための方法が模索・提示されており、観るほどに、愛で自分が狂うことが分かる俺は、ニュートラルな視点を持ち続けるには誰も愛さずに、因果も残すべきでないと感じたな。


 一観客として「REC/レック2」へ。前作についてはボロクソに貶したが、続編まで作るにはどう来たのか気になり、行くことに。まず、同じ場所を舞台に話も続きにすることで物語が深くなり、状況が良く掴めないままギャーギャーと騒ぎが拡大する前作に比べれば、その辛さを耐えただけの褒賞が今回は用意されている。従って、本作は必然的に“一見さんお断り”構造と化しており、SWATのヘルメットに装着されたカメラの(ゆえに手ブレが少ない)複数視点という新機軸は観客の酔いを軽減するが、合間に入り込む、忍び込んだ一般人のカメラ映像が作為的であるのに加え、手ブレで思考力を奪われる。前作のババアゾンビに対し、今回は少女ゾンビの大暴れという定番描写が見られるが、酔った頭には前作を引きずる重要人物の登場の方が覚醒させられる。しかし、お蔭でこれは「デモンズ」的なもので、ゾンビ映画ではないと判明するため、個人的には興醒めだ。それでも設定を小出しにすることで、POV映画が落とし込まざるを得ない結末を回避しているのも事実で、続編の可能性も見えるが、だったらあの“暗視カメラで違う世界が見える”という原理をロジカルに説明して欲しいもんだ。そこで見えるのは、「エイリアン4」の“ニューボーン”というか、マクファーレントイズ謹製“ブレア・ウィッチ”フィギュアに似ている気がするのは、POV映画の先達への敬意なのか。


 一観客として「ソウ6」へ。全九部作構想だというから、初期三部作(「ジグソウ〜アマンダ編」と勝手に命名)に続いた、中期三部作(「ストラム〜ホフマン編」と勝手に命名)の完結編。前作で思わせぶりに残された謎が今回比較的あっさり開示されてしまうので、本当に次へ続くなら、結構大胆な仕切り直しが起きるのか、その自信の表れでもあるんだろう。ただ作品としては、冒頭に総集編を別途上映しなければ、全貌が理解してもらえないほど錯綜した物語になっていることに加え、餌食になった人間に対する謎かけ(トラップ?)に込められた哲学が浅いというか(今回は「セブン」のパクリが入っている)、その分残酷描写も即物的で深みや創意工夫が感じられないのだ。これは観客が流血に慣れたからではなく、当初のように、被害に遭う人間が最後まで判然としないグレーゾーンに位置した人間で、囚われた複数人の諍いのうちにその人間性が暴き出されてくるのではなく、どいつもどちらかといえば悪人でしかなくなって来ているためである。まだ続くなら、後期三部作はジグソウの後継者としての自我に目覚めた二人が、その後釜をめぐって争う展開になるだろうが、いつの間にか「必殺!」系の“悪が悪を裁く”存在になってしまったジグソウを、サディスティックな分、囚われた人間にちゃんと生きるチャンスも与える存在に戻せるかが、成否の鍵を握るはずだ。HANA-BI [DVD]仁義なき戦い [DVD]グエムル-漢江の怪物-(スマイルBEST) [DVD]殺人の追憶 [DVD]ほえる犬は噛まない [DVD]親切なクムジャさん プレミアム・エディション [DVD]マルチュク青春通り デラックス・コレクターズ・エディション [DVD]チェイサー ディレクターズ・エディション【初回限定生産2枚組】 [DVD]友へ チング [DVD]REC/レック スペシャル・エディション [DVD]デモンズ [DVD]エイリアン4 (ベストヒット・セレクション) [DVD]ブレア・ウィッチ・プロジェクト デラックス版 [DVD]SAW ソウ DTSエディション [DVD]ソウ2 DTSエディション [DVD]ソウ3 DTSエディション [DVD]ソウ4 DTSエディション [DVD]ソウ5 DTS【アンレイテッド】エディション [DVD]セブン [DVD]必殺! THE HISSATSU [DVD]