2009-08-17 自らの作品を『ダークナイト』などと称する愚かな思い上がりについて
クリストファー・ノーラン監督作品『ダークナイト』は、徹底した愚作である。最初の劇場公開時から怒りをこらえきれなかったのだが、今回改めてDVDで見直してみて、その怒りは更に増幅した。本当にこれは許し難い。
もちろん、バットマンの映画化は事前にある程度の収益が見込まれるような大きな企画であるから、監督を引き受ければ大作を撮り上げることができるのだろう。そして、製作者の側の要求をある程度満たしつつ、「自分が本当にやりたいこと」もまぎれ込ませることもできるのだろう。
例えば、冒頭の銀行強盗の場面を見れば、そんなノーランの気分をうすうす察することができる。確かに、この場面は悪くない。(あの覆面は、キューブリックを意識しているつもりなのか?)だが、こんなことは犯罪映画でやればいいだけのことだ。その後のシーンとのつながりが薄くて浮いているし、ヒーローものの映画でやる意味が全く見あたらない。
もちろん、単にメジャー映画の大予算をノーランが好きに使うだけの企画であったならば、私も受け流し、すぐさま忘れ去っていただろう。だが、なぜノーランは自らの映画を「ダークナイト」などと称したのか。
「ダークナイト」というバットマンの異名は、アメリカン・コミックスのファンにとっては特別な意味を持つ。それは、80年代にフランク・ミラーによって特別な意味を込めて使われたものだからだ。そして、フランク・ミラーによるバットマン関連の仕事は(デアデヴィルの仕事などもあるが)、同時期のアラン・ムーアの仕事とともに、アメリカン・コミックスの世界全体を根底から変革した。
アメリカでのコミックスの地位は低い(とりわけ、ヒーローものについては)。それはインテリ層にとっては、馬鹿にし蔑む対象でしかない。確かに、スーパーマンやバットマンに代表されるようなヒーローもののコミックスは、幼稚でくだらないストーリーを数多く語ってきた。しかし、ミラーやムーアは、単にそれを軽蔑したのではなかった。どんなにくだらないものであろうと、それはアメリカ人が欲望したストーリーであることは否定できないからだ。なぜアメリカ人は、このようなストーリーが存在することを望んだのか。ミラーやムーアは、その問題を徹底して問い詰めた。その上で、よりリアルで現実に即したものとして、ヒーローたちのキャラクター造形を再構成したのである。
ミラーによるスーパーマンの解釈は、かなり手厳しい。彼は、共和党の正義を体現する存在にすぎない。明るいアメリカのイメージとして広められる、「アメリカン・ウェイ・オヴ・ライフ」を具現化した存在。
だが、バットマンは違う。そこには何か暗く陰鬱なものがある。蝙蝠を模した漆黒の衣装をまとい、闇夜に犯罪者を狩っていく男。このキャラクターを生み出したイメージの起源をたどったミラーがたどり着いたのは、エドガー・ポーによる「大鴉」であった。
大鴉に取り憑かれた男と同じく、バットマンをつき動かすのは暗い妄執であり、正義を執行する責任感ではない。そしてこの暗さは、アメリカ文化の一部に常に流れ続けてきた。ハメット。チャンドラー。スピレーン。トンプスン。そして、数多くのフィルム・ノワール。ペキンパー。シーゲル、とりわけ『ダーティ・ハリー』。これらの作品は、いつの時代でも、主流を占めるアメリカ文化と多かれ少なかれ対立せざるを得なかった。ミラーは、スーパーマンに対するバットマンをそのような存在としてとらえ直す。そして、バットマンというキャラクターの再解釈されたイメージをつかんだとき、ミラーは、その異名である「ダークナイト」をむしろ「バットマン」という名前よりも強調した。そしてこれ以降、「ダークナイト」という呼び名はミラー版バットマンのイメージと分かち難く結びつくこととなった。
実のところ、当時のミラーがバットマンにたずさわった仕事は2作しかない。まず『ダークナイト・リターンズ』でバットマンの最後の闘いを描き、翌年『イヤー・ワン』で「ブルース・ウェインがバットマンになるまで」をミラーなりのやり方で新たに描き直した。
この2作が、その後のバットマンのイメージを決定づけることになった。バットマンやスーパーマンの版権はDCコミックスが所有しているから、膨大な数のライターやアーティストがその後もバットマンのストーリーを描き続けている。しかし、ミラーによって造形されたイメージは決定的であり、いまだにこのイメージを完全に刷新する再解釈は現れていない。
ミラーによる「ダークナイト」の特徴は、大ざっぱにわけると以下の3つに整理される。
・バットマン自身こそ、もっとも巨大な狂気を抱えた存在である。:バットマンと対決するヴィランの多くは、ジョーカーやトゥーフェイスのような狂人である。しかし彼らの狂気は、バットマン自身の狂気を反映する、より矮小なものにすぎない。
・「バットマンの正体=ブルース・ウェイン」、という図式は成立しない。:むしろ、バットマンとはブルースが自身の本質を突き詰めた時に現れた存在なのであり、漆黒のコステュームをまとっているときこそ、ブルースの「正体」が現れていると言える。むしろ、日常生活を営む「大富豪ブルース・ウェイン」としての姿の方こそ、その真の本性を覆い隠す仮象にすぎない。
・バットマンは、「恐怖」を植え付ける。:残酷で容赦のない現代都市の犯罪者たちを打ち破り、彼らを制圧するには、彼らとの闘争の課程で恐怖を植え付け、脅えさせるしかない。漆黒の不気味なコステュームは、そのためにこそ選択されたものである。
これらの前提に基づいた上で、ミラーは、アクションの演出にも全力を注ぐ。あるヒーローがどのようなキャラクターであるのかは、「そのヒーローがどのように闘うのか」という部分で表現されなければならないからだ。
そして、このように比較してしまうと、クリストファー・ノーランの『ダークナイト』はあらゆる意味でぬるいのだ。バットマンとはどのようなヒーローなのかという解釈。なぜ闘うのかという動機付け。全てが中途半端だ。
しかし、映画として最も致命的なのは、アクションの演出だろう。例えば、ミラーは『ダークナイト・リターンズ』と『イヤー・ワン』の2作で、演出を完全に変えている。『ダークナイト・リターンズ』における年老いたバットマンは、体力が衰え、単純に弱い。しかし、犯罪者を効率的に狩っていく方法を熟知しているので、闇夜の死角に潜り込んで恐怖を産み出しうる存在として描かれている。一方、『イヤー・ワン』における若きバットマンは、そうではない。肉体的には全盛期であり力が溢れているものの、犯罪者の動きや行動パターンを知らないがゆえに、容易に失敗する。幼い犯罪者でさえ、背後からナイフで刺してきたら脅威の存在なのだ。ここでのバットマンは、犯罪者に立ち向かう方法を苦悩しながら徐々に模索していく。
これと比較すると、ノーランは全く何も考えていないことがわかる。『ダークナイト』の前作にあたる『バットマン・ビギンズ』の段階で、致命的におかしいのだ。そもそも『バットマン・ビギンズ』は、バットマンの誕生を描いた作品のはずである。しかし、ルーキー・イヤーであるはずのここでのバットマンはいきなり犯罪者の死角に潜り込み、効率的に犯罪者をしとめていく。
『ダークナイト』においても、脈絡のない演出は続く。すでに犯罪者を狩る方法を身につけているはずのバットマンは、なぜか今度は簡単に犯罪者にナメられるのだ。そして、ジョーカーの狂気をはらんだ悪意の発露に動揺までしてみせる(ミラー版バットマンであれば、むしろ自分がジョーカーを殺してしまわないか悩むところだろう。自分の内にある暴力性や狂気の方がジョーカーのそれより遙かに強いことを知っているのだから)。
ヒース・レジャーのジョーカーは極めて評判が高いようだ。しかしむしろ、単に他がふがいないだけなのではないだろうか。私には、この作品の中で、自分がやるべきことを考え抜いた上でプロフェッショナルとして仕事を貫徹しているのがヒース・レジャーしかいないように見える。そして、あの作品世界の中においてみると、このジョーカーがあんな腑抜けのバットマンを宿敵として評価するわけがないようにも思える。あのジョーカーなら、とっととバットマンをブチ殺して終わりだろう。
ノーランは、自分がどのようなものを描いているのか、自分でもよくわかっていない。まあ、このようなアクションの演出は、バットマンのコミックスを適当に流し読みして使えるところを持ってきてつぎはぎしただけのような気がする。「その演出がどんな文脈でなされているのか」まできちんと読み込む作業は明らかにしていない。
要するに、ノーランはコミックスに携わる人間をナメているのだ。私にとって、「ド新人であるにもかかわらず犯罪者を薙ぎ倒していくバットマン」という姿は、どうもノーランが無意識に持っているとおぼしきセルフ・イメージと重なるような気がするのだ。「ヒーローもののストーリーを作るのなんて初めてだけど、華麗に最高の作品を作り出すオレ」というわけだ。
当然、そんなことは全くない。現実には、ノーランの演出はミラーの演出の足元にも及ばないし、それどころか、アメリカ映画についてすら、ミラーの方がよく知っているだろう(何せミラーは、『ダーティ・ハリー5』を見るや「こんなのダーティ・ハリーじゃない」と激怒し、ハリー・キャラハンの最後の戦いを妄想した上で、勝手に『シン・シティ:ザット・イエロー・バスタード』として描き上げてしまったほどの男なのだ。ハーティガン(=ハリー)の額に十字形の傷跡が刻まれているなど、シーゲルによる第一作を実に熱心に見ていることがひしひしと伝わってくる)。
だいたい、「強大な力を手にした若者が華麗なヒーロー像を想像して意気揚々と活動を開始するものの、現実には力だけではうまくいかなくて四苦八苦する」という作劇方法は、すでに60年代にスタン・リーが「スパイダーマン」で確立したものだ。
もちろん、既存のストーリーの語り方を遵守する必要などない。しかし、既存のものをふまえてウェルメイドな作品を作るのであれ、逆に既存の文脈から外れた斬新な作品を作るのであれ、当然のことではあるが「既存のやり方」を熟知している必要がある。「既存のやり方」のことを何も知らないのに、なぜ「自分は全く新しく革新的なことができる」と思えるのか。この愚かな楽天性は何なのか(このように整理してみてふと気づいたのだが、私の『ダークナイト』に対する嫌悪感は、北野武の『座頭市』を見た時に感じた嫌悪感に非常に近い。時代劇のことなんかろくに知らんのに時代劇の革新なんかできるわけないだろと。黒澤をちょこっと見たくらいで時代劇を知った気になるなと。最低でも伊藤大輔やマキノ雅弘や内田叶夢や加藤泰や三隅研次くらいの時代劇は見ておくのが筋だろと)。
長々と、ノーランの演出がいかに駄目なのかについて書いてしまった。しかしそもそも、この作品が「ヒーローはどうあるべきか」ということについてあんな結末を語ってしまった時点で、これは単にしょうもないものだと判断しなければならないのではないか。「みんなが清廉潔白なヒーローだと思っていた人は本当は醜いダメ人間だったけど、でも美しいヒーロー像が壊されると一般大衆が絶望するので、ウソをつきとおしてヒーロー像を守ります」って、なんなんだそれは。つまりノーランが言いたいことは、「僕自身は醜い真実に直面しても大丈夫だけど、一般大衆には美しい幻想が必要なので、ちゃんと作ってあげないとダメなんだよ」ってことか。
こんなに人を馬鹿にした態度があるだろうか。いや、例えばジジェクあたりなら「この作品を一般大衆が広く見ることで、一般大衆のそれぞれが自分以外の一般大衆をメタ的に語る視点を獲得し、その視点そのものを共有することが可能になる」みたいな論陣をはることも考えられるが、そんな空虚なたわごとも全てひっくるめてうんざりする。
ノーランは、自分を他人より上の視点に位置づけている。しかしそこに自己に対する反省・検討はなく、完全に無根拠なものにすぎない。そして、「ダークナイト」という言葉は、ノーランがみくびっているような軽い言葉ではない。清廉潔白な理想のヒーローが「ホワイトナイト」で、その「ホワイトナイト」のイメージを守るために汚れ役を引き受けるのが「ダークナイト」って、そんな単純で幼稚な図式を描いておいて、何かうまいことを言ったつもりでいるのか?
だいたい、あの結末はストーリーを完結させることにすら失敗している。絶対に守らなければならないはずの秘密を、他ならぬジョーカーが知っているのだ。通常、「バットマン」の世界では「ジョーカーは狂人だという精神鑑定が下されるので、死刑にはできない」ということになっている。だから、ジョーカーが何らかの形で死ぬところまで描かなければ、当然の帰結として「アーカム送りになったジョーカーがあっさり脱走して全ての真相を即座に世間にばらす」ということになるはずなのだ(逆に、そこまで描ききったならば、アラン・ムーアの『ウォッチメン』とも比較できるのだが)。
それにしても、トゥーフェイスは作中で殺しちゃったし、さすがに今更ヒース・レジャー以外の人にキャストを変えてのジョーカーを出すこともできないだろう。私は、ここでのシリーズ終結を強く望む。いくらネタが切れたからといって、この期に及んでノーランが「ダークナイト・リターンズ」を僭称することだけは絶対にやめて欲しい。
余談になるが、「新潮」での蓮實重彦の連載エッセイを読んでいたら、『ダークナイト』を褒めていたので、かなりむかついた。小津が戦時中にも『市民ケーン』なんかをいち早く見てオースン・ウェルズの才能に気づいていたことを引き合いに出し、未知のなにものかに遭遇できるのか、そして遭遇できていないならばそれを自覚できているか、というようなことを論じている。それは別にいいのだが、そこで『ダークナイト』の名が挙がるのはおかしい。これは、遭遇することが事件になるような作品ではない。むしろ、蓮實自身の方がフランク・ミラーに遭遇していない事実に鈍感なだけだろう。
「作品が憎いあまりに、作品を褒めている人間も憎くなる」ってかなり末期じゃね?
ただ単に薄っぺらいつまらない映画だ、と思っていただけだったのですが、読んで五臓六腑に染み渡るように納得しました。
ここまで自分の思ってた違和感を代弁してくれたレビューは初めてで
スッキリしました!
僕もミラーファン、アメコミファンかつ映画ファンで
「ダークナイト」も、まあ基本的には面白い。ヒースジョーカーもカッコいい、というのは認めてるのですが、
バットマンがめちゃくちゃショボくてがっかりしました
そんで、大ヒット&高評価されたので
「今後これが世間のバットマン像になるのかー‥」とがっかりしました
そうですね〜。別に、なぜ『ダークナイト』が優れているのかをきちんと論理的に書いている評があったら説得されるのですが、とりあえず僕も読んだことはないですね。
ハリウッドの脚本の教科書を読んでいると、「主人公がリアクションばかりしている脚本はダメ。自分からアクションを起こさないと、そのキャラがどんな考えに基づいて行動しているのか分からない」というようなことが書いてありますが、『ダークナイト』でのバットマンは、まさにジョーカーに対してリアクションしかしていません。よく、「ヒース・レジャーのジョーカーが凄すぎてバットマンを喰った」というような評価を聞きますが、そうではなくて、脚本の段階ですでにバットマンのキャラクター造形がダメなんだと思います。ハリウッドの内部での「よく出来た映画の基準」すら、この映画は満たしていないという気がします。
僕自身は『ダークナイト』を、やや冗長で途中で眠くなったり、「なんかバットマンって、こんなに弱々しいのか…(笑)」と思ったりはしたのですが、その実、雰囲気とかはけっこう好きで、「スクリーンで観てよかった」と思ったりもした人間です。またアメコミそのものに対しては、「幼稚でくだらない」というイメージをなんとなく持っているままなのでほとんど手を出したことがなく、ためにアメコミの門外漢です。けれどこのエントリー、とてもおもしろかったし、興味深かったです!(新しい方のエントリーは助言に従い読んでいません。)
「単純で幼稚な図式を描いて」とHoward Hoaxさんも書かれていますが、ノーランの技法は基本的に「設定や構図はごく単純で、演出や構成の組み換えで複雑に展開させる」だと僕は思っていて、それが良い意味で働いたのが『メメント』や『インセプション』、逆に裏目に出た挙句、「華麗に最高の作品を作り出すオレ」とHoward Hoaxさんが述べられているような感じで「全編是ドヤ顔」になっているのが『プレステージ』、というふうに思えます。バットマンシリーズをまったく観たことがないのでその中でどうなのかは言えませんが、ノーランの作品に限ってみても、『ダークナイト』は実は言うほど優れた作品というわけではないのでは…という気がしなくもないです。
それはともかく、「ダークナイト」という異名にそんな背景や理由があったなんて…!上のコメント欄でDONNYさんという方が「“今後これが世間のバットマン像になるのかー‥”とがっかりしました」と書かれていますが、実際、このエントリーを読む前の僕のバットマン像はふつうにそんな感じだったので、目から鱗でしたし、バットマンというキャラに対する興味が俄然沸き起こりました。
個人的にノーランの映画には「スクリーンで観る愉しみ」はあると思っているので、バットマンか否かに関係なく次回作がたのしみなのですが…その前にここは、近いうちにミラー版バットマンを2作とも観てみます。
(長々としたコメントになってしまい、すみませんでした。)
どうも、初めまして。私自身、このブログではむちゃくちゃに長いエントリばかり書いているので、長いコメントも全く問題ありません。
それにしてもこのエントリ、結構からまれるんですよねえ。まあ、かなり悪しざまに批判しているんだからしょうがないんですが。しかし私、ジョーカーが出ている部分は割といい、と評価してるんですよね。主人公であるバットマンをもっときっちり掘り下げて撮れや、そうしないと映画としてバランス悪すぎ、と言ってるだけで。
しかし、アメコミファンという以前に、一映画ファンとして、「ノーランって過大評価だよなあ」という気持ちがぬぐえないんですよねえ。既に知れ渡っている有名キャラの別解釈の映画化という意味では、ガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』なんかの方があらゆる点で面白かったですし。
どうもノーランという人は、先行者に対する敬意を払うことが足りない気がします。と思っていた頃、『インセプション』の日本公開前後に『SFマガジン』に出たインタヴューを読んでいたら、「フィリップ・K・ディックの小説にテーマが似ていますが、参照したんですか?」と聞かれて、「それはよく聞かれるんだが、影響を受けすぎてしまうと独自性を発揮できなくなるので、ディックはほとんど読んでない」みたいなことを答えてました。ああやっぱりこういう人なのかと。類似した先行作は全部読み込んだ上で、自分がやるべきことをするのが筋だと思うんですが。
それでげんなりして『インセプション』はスルーしてしまったのですが、やっぱりアメリカ映画の現状を知るためには、見ておかないとダメですかねえ。でもやっぱり、地味で日が当たっていなくてもノーランよりいい仕事をしている人は結構ごろごろいるはずだよなあ。
漫画から劇画になったような感じ。
やっぱりジョーカーが、ピエロメイクの剥げかけた生身の異常者として立ち回るのが異様かつ痛快。
あの風貌で悪の哲学をぶつ姿は、マリリン・マンソンを彷彿、というか明らかに影響受けてるように見える。
バットマン自体に思い入れはないので、ジョーカー主演のスピンオフ作品だと思えばかなり面白い。
監督もそういう意識で作ったとしか思えない。
いっそタイトルも、『ジョーカー 混沌の使者』でも通ると思ったな。
>監督もそういう意識で作ったとしか思えない。
>いっそタイトルも、『ジョーカー 混沌の使者』でも通ると思ったな。
このエントリに絡んできた人への応答で既に書いたことなんですが、もし最初からジョーカー主演のスピンオフだったら私も特に不満はなかったんですよね。しかし、ジョーカーに焦点を当てるのであれば、あの脚本の構成はまずい、バットマンの出演時間を削るなりして構成を引き締めるやり方はいくらでもあるはず。
あくまでバットマン主演という構成を色々な事情で変えられないのであれば、主人公のキャラクターをもっと掘り下げて描かないと、映画として文句を言われてもしょうがないだろう、ということです。
ただ、ちょっとわかってないなぁとおもう部分もありました。
まず、最初に銀行強盗の件について触れてましたが、ジョーカー一味が「白昼に銀行強盗をする」という点に意味があるんです。
お気づきでしょうが、バットマンは昼間仕事をしている都合上、夜しか現れません。 正義感でゴッサムシティから悪を排除したいと思い立って”バットマン”というヒーローになったのにも関わらず、活動時間は夜だけ。
ゴッサムでなくても犯罪は昼間でも起きています。ジョーカーはバットマンのその”中途半端な正義”が滑稽に思え、そんな正義は正義ではないと証明するためにあえて白昼に銀行強盗をやったのです。
本物のヒーローならスーパーマンやスパイダーマンみたいに昼間でも駆けつけて欲しいものです。もし、バット(コウモリ)の夜行性に肖って夜にしかヒーロー活動できないのなら、コウモリをモチーフにする必要性はないですし、それ以前にヒーローになる意味もないです。
そういう意味合いがあるので、冒頭の銀行強盗はストーリーにまったく関係なくはないですよ。
また中盤の香港のシーンでもそれは同じです。 国外にまで飛んでいってラウを捕まえ「バットマンに管轄はない」ことを表現してるんですが、バットマンになって捕まえたのもやはり夜です。
つまりバットマンは昼間は管轄外なんですよね。どんな国に飛んでいって管轄がないことを示しても、夜にしか現れなければ、昼間の犯罪には目をつむってるってこと?って思いますよね。そんな矛盾してる正義が、ジョーカーには滑稽に思えるんです。
もう一つは、クリストファー・ノーラン監督が脚本も全て仕切ってるというふうな書き方をしていらっしゃってましたが、主な脚本を書いたのは監督の弟のジョナサン・ノーランです。
クリストファー監督はその脚本にしたがってシーンの構図を決めて撮影しただけです。
監督自信の演出は静と動のバランスが良く、ダイナミックです。 しかし、そんな演出力を持っていても脚本がトロければまったく活かされません。
絶賛されてる一方で、「ただ長い」と感じる観客がいるのもそのせいだと思ってます。
もう一つは、・バットマン自身こそ、もっとも巨大な狂気を抱えた存在である。という部分。
まず、ジョーカーは”矛盾”が嫌いなんですよ。 それは本編のどの部分でも表現されてます。
例えば中盤の夜のカーチェイスに入る前に消防車が燃やされてましたよね。 あれは「火を消す役目の消防車自身が火事になると、消防車自信で火を消せない」という矛盾を表しています。
つまりバットマンもジョーカーにとっては耐え切れない”矛盾”の対象なんです。
コインにも裏があれば当然表もあります。
バットマンは”闇の騎士”です。それに相反するものと言ったら”光の騎士”ですよね。 なのに、現れるのはジョーカーのような自分と同じ”闇”を持った怪人ばかり。しかも”光の騎士”と謳われているハービーも、意中のレイチェルを奪おうとしてて、ブルースにとっては光の騎士に思えない。
そんなハービーですら闇をまとった怪人になってしまいました。
ですから、バットマンの存在そのものが、裏だけで表が無いという矛盾が出てきてるんです。
なので、バットマンは狂人ではありません、ただの中途半端な正義感を持ったヒーローです。
ジョーカーが取り調べのとき、「オレは一歩先が見えている」と豪語してたのはその矛盾を確信していたからです。
失礼ですが、このコメントを読んで、あなたが私以上に「わかって」いたり、バットマンに関する知識があるとは思えないのですが。
>バットマンは昼間仕事をしている都合上、夜しか現れません。
いや、ふつうに昼間も活動してますよ。スパイダーマンみたいなガチで生活費に困っているヒーローとは違って、ブルースの地位ならアポとか普通に変えられますから。
ノーラン版の映画でもそれは描かれてます。「バットマン・ビギンズ」で元ネタ原作の一つ「イヤー・ワン」から引用されてるのが、コウモリを召喚する能力ですね。あれは要するに、昼間の日光の中だと闇に乗じて移動できないから、コウモリの群れに隠れて移動する事態を最初からバットマンが想定しているゆえに持っている能力です。
だから、白昼に銀行強盗することがバットマンへのジョーカーのあてつけというのは、単純に、あなたの誤読からくる思い込みです。
監督自身が脚本を書いていないことくらい百も承知ですが。映画の評価を論じる際、原則として監督が作品全体の責任を負うのは当たり前のことだと思います。それ以上に、この作品の場合は監督の身内が書いているんのだから、普通にハリウッド映画以上に、おかしい部分を変更して調整をかけることはたやすくできるはずでしょう。
バットマンは狂人云々の部分も完全にあなたの誤読です。私が書いたのは、「もともと原作では、なぜバットマンが狂った犯罪と戦い続けるのか、その解釈として、犯罪者以上に狂っている、と結論付けた」と言っているわけです。
「バットマンはどういうキャラか」という掘り下げがすでになされている例もあるのに比べて、『ダークナイト』のキャラクター解釈はぬるい、と言っているのですよ、最初から。
しかし、なにをどう言っても「映画版はあくまで映画版」です。 原作とかけ離れてるのがお気に召さないのであれば、原作だけを読んでればいいだけのこと。私の言ってることはあくまで映画版についてです。
映画版の評論をなさってるおつもりでしょうが、映画版がどれだけ原作に忠実に作ってるとしても、原作を引き合いにしてもまったく意味はないです。
バットマンも、バットマンビギンズからのリブート版は、バットマンは夜にしか現れてません(これもあくまで映画版のことのみを言ってます。 現在3作目が制作中ですが、完成してない以上ここでは3作目は関係ありません)。
昼間も現れてるというのは、ブルースが私服で事前に偵察してるシーンのことでしょうか?
バットマンはコスチュームを着ていなければ、”バットマン”ではありません。 例えば、ハルクも変身しなければハルクではないし、アイアンマンもパワードスーツを着なければアイアンマンではないです。
そう考えると、映画版のバットマンはやはり夜にしか現れてません。 バットマンを呼ぶときのサーチライトも、暗くなってからでないとライトの光がよく見えないから夜にしか現れないのではないかというジョークもあったくらいです。
映画版のジョーカーはバットマンは夜にしか現れないことを知っているために、白昼の銀行強盗をやったのです。 私の語釈ではありません。 だとしたら意味もないのにあれだけ大それたシーンを、しかもオープニングに挿入しないと思うんですよ。
ただあなたの理屈通り、原作のテイストを全て映画版に取り入れたとしたら、1、2作で合計約5時間で収まるでしょうか? おそらく収まらないと制作陣が判断したからあういう内容になったのだと思いますし、もし全て取り入れたら、詰め込みすぎの内容になるんではないかと思います。
詰め込みすぎると映画版として成り立ちません。
もう一つ、ノーラン兄弟は「ダークナイト・リターンズ」を僭称してるとおっしゃってましたが、僭称はしてないと思うんですよ。
あくまで、「ダークナイト・リターンズ」から映画用に原案を”継承”しただけのことで、「原作を超えた」とは言ってないと思いますし、そんな言い回ししてたという話も聞いたこと無いです。なので、ちょっと考えすぎかなと思いました。
映画版を観ていても、原作に敬意を払ってると感じました。 原作のテイストを全て取りれてるか否かは別にしてもです。
だから、あなたの言い分だと、「自分の気に入らない監督が、自分が気に入ってる原作以上に面白いものを作ってしまった」ということただ認めたくないだけなんじゃないかな、と思いました。 あまりにもムキになられていたので。
あなたの真相はそうでなくても、そう思われても仕方のないような書き方でした。 その言い方だと逆に「原作を超えた」と認めたことになってしまいます。
でも、おそらくは「原作のバットマンを汚された」と思い込んでるんだと思いますが、映画版を観ていても汚してると思えないですし、ほとんどの人が観ても「バットマンの映画」だと思います。
監督は作品全体の責任があるとおっしゃってますが、あくまで撮影現場の責任者と作品の著作権を持ってる、ってだけだと思うんですよ。
原作ファンを納得させるような、原作テイストをくまなく取り入れる責任がある、という言い方をなさってますが、そうではないと思います。
あと、誤解なさってるようですが、身内が脚本を書いてようがいまいが、その脚本を元に撮影のGOサインを出すのはプロデューサーや映画会社なんですよね。
基本的に監督ではありません。
漫画も小説も、おかしい表現があれば、出版社の編集部が容赦なくダメ出しをしますし、映画会社もそれは同じです。
ダークナイトも「この脚本でちゃんとした作品になってる」と判断したから、GOサインを出したんだと思います。
あなたの言うとおり映画会社やプロデューサーがOKを出した脚本を、勝手に変更したり意図的に脚本通りに撮らなかったらクビだと思うんですよ。 ヒットしたかどうかは別にしてもです。
ただ、どうしても間が悪くなるシーンを編集段階で削除するのは別です。 削除しただけで初めから撮ってないわけではないですので。
もう一つは、上から目線で言ってると言われたんですが、私はそんなつもりではありません。
では、あなたの反論してくる方は全て上から目線で言ってるとお感じになられるんでしょうか。
もともとあなたは評論してるおつもりなんでしょうが、だとすれば評論ということ自体を勘違いなさってるので書いたまでです。
評論はまず、良い点を述べ、次に不満点、または改善点を述べるものです。
あなたのおっしゃってることは不満のみです。それはただの「愚痴」であり、評論してるとは感じられませんでした。
よく見かけるのですが、例えば「タイタニック」や「ロード・オブ・ザ・リング」など、ヒットした作品を頭ごなしに批評して「自分の目は肥えていて、他の人とは違う」という態度を出す方がいるのですが、そう思ってても民衆は正直です。
なにをどう言っても、ヒットする映画、または指示される映画はそれなりの要因がありますし、怒りをあらわにして乱暴な言い回しで批評するのもどうかと思ったまでです。
まず大前提として、あなたはしばしば、根拠の無い思い込みに基づいてものを言っています。そして、その思い込みから外れている相手に対して「わかってない」だの「勘違い」だのと言っています。
考えの違う人間に対して、「意見の相違」とみなすのではなく、「わかっていない」や「勘違い」、つまり、相手が間違っていると決め付けているから、私は「上から目線」と言っているわけですよ。
例えば、以下のような文。
>評論はまず、良い点を述べ、次に不満点、または改善点を述べるものです。
>あなたのおっしゃってることは不満のみです。それはただの「愚痴」であり、評論してるとは感じられませんでした。
は? なぜ? なんでそんなことが言えるの?
正直、これには目が点になりました。例えば、ごく常識的な見解として、私の辞書には、評論とは「物事の価値・善悪・優劣などを批評し論ずること」と書かれています。「評論」の定義が「まず、良い点を述べ」ることであるなどということは、生まれて初めて聞きました。
さらに言うと、そもそもこのエントリでも、ほめるべき部分はほめることから入っているのですが、まあそのことはひとまず措きましょう。
そもそも、映画に関しても、きちんと既存の評論をある程度は読んだならば、あなたが書いているようなことはとても言えません。否定的な映画評論で有名なものといえば、批評家時代のフランソワ・トリュフォーや、ポーリン・ケイルなどのものが思い浮かびます。
あなたの言っていることに従えば、トリュフォーやケイルの評論は評論ではない、ということになってしまいます。それでいいんですね?
特にトリュフォーの場合、「こういう映画を撮っていてはダメだ」ということを厳しく批判したから、「ならばこういう映画を撮らなければならない」という当時のフランスの若手の台頭につながるという、非常にいい効果を発揮したわけです。
あるいは、映画以外にも広く評論全般ということで考えると、おそらく、現在世界で最も影響力があるのは、ニューヨーク・タイムズでのミチコ・カクタニの書評でしょう。しかし、あれも容赦ない否定的な論調で有名であり影響力も得たものなので、「評論ではない」ということなんですね。う〜ん、勉強になるなあ。
ぶっちゃけた話、あなたはこれらの評論を読んでいないでしょうし、それ以前に、そういう事情があることすら知らないですよね?
私は評論にまつわる歴史的事情をある程度知っているから、評論は肯定的なものも否定的なものもどちらもアリだと思っています。評論自体が優れているかどうかというのは、その内容が肯定的か否定的かというのとはまったく別の話。
あなたのいう、「評論はまず、良い点を述べ」るなどということには、何の根拠もありません。辞書に書かれていることとも違うので、一般の常識的見解ともずれます。つまり、あなたの脳内だけで通用している思い込みに過ぎないのですよ。
まず大前提として、「評論」とは、何らかの書物なり映画なりの作品を対象とした場合には、その対象の優劣を論じるものであって、その内容が肯定的であるか否定的であるのかなどということはその定義に関係ない。これは、歴史的に見てどのような評論が書かれてきたか、また「評論」という言葉が一般にどのような意味で使われているかを考えれば、純然たる事実です。
もちろん、評論は肯定的な内容を書くべきだ、とあなたが主観的な判断として考えるのならば、それは自由です。また、そのような主張をする際に論理的に適切な原因も同時に述べれば、その主張に説得力を持たせることすらできるかもしれません。
ところがあなたは、「評論はまず、良い点を述べ」るものだなどと断言している。ここにはいかなる根拠もありません。ただ、あなたの頭の中にある思い込みを、現実にそれが正しいのかどうかを検討することもなしに垂れ流しているだけです。そして、あなたの考えとは違う私の立場に対して、一方的に「評論ということ自体を勘違い」しているなどと一方的に決め付けている。こういう態度をさして、「上から目線」と言っているわけですよ。自分が完全に正しくて、相手が完全に間違っているという前提での物言いになっているわけですから。
しかし、以上のように検討して見ると、どう考えてもあなたには私以上に評論なり映画なりに関する知識があるとは思えません。つまり、例えば「評論」ということに関して、あなたの見解が私の見解とずれるのは、ただ単純に、あなたが「評論」というものをろくに知らないからなのです。ところが、「評論」などというものをろくに読んでもいないのに(そうですよね?)、一方的に相手が間違っているのだと決め付けてしまう。これは、もはや滑稽であるのを通り越して、はっきりいって痛い態度です。
あなたが言っていることは、どれもこれもこの調子です。例えば、以下のような文。
>監督は作品全体の責任があるとおっしゃってますが、あくまで撮影現場の責任者と作品の著作権を持ってる、ってだけだと思うんですよ
>あと、誤解なさってるようですが、身内が脚本を書いてようがいまいが、その脚本を元に撮影のGOサインを出すのはプロデューサーや映画会社なんですよね。
>基本的に監督ではありません。
クリストファー・ノーランはしばしば自分で脚本も書くし、自分の撮りたい脚本を使えるよう映画会社と交渉するタイプの監督ですよね。だから単なる雇われ監督だけに甘んじるのかと不審に思って、英語圏のサイトでいろいろ調べて見たんですが。
これは正直忘れてましたが、そもそも『ダークナイト』でも共同脚本としてクレジットされてますよね。さらに調べてみたら、どのシーンはどうするかということについて、やはり兄弟でいろいろアイディアを出し合いながらやっていたようですね。
こういう状況でも、監督に脚本の責任があると考えるのはダメですか。私の「誤解」ですか。……はあ。
あなたは根拠の無い断言を繰り返しますが、それはあなたの脳内の思い込みであって、根拠がありません。さらに言うと、論理的に正しい推論をたどることが出来ていません。だから、あなたが述べる原因・結果の流れはデタラメなのですよ。
例えば、こんな部分。
>もう一つは、上から目線で言ってると言われたんですが、私はそんなつもりではありません。
>では、あなたの反論してくる方は全て上から目線で言ってるとお感じになられるんでしょうか。
私はこのエントリに反論してくる人と何回かやり取りをしましたが、「上から目線」と言ったのはあなたに対してだけです。その理由は、意見が違うことについて、私が「わかってない」と決め付けてしまう態度です。この考えは、あなたがさらに「勘違い」だの「誤解」だのという言葉を使うことによって補強されました。
それが大前提として、ここで注目したいのは、あなたの議論の流れです。上に引用した、あなた自身の文の因果関係をよく読んでください。「では、」という言葉の使い方がデタラメですね? 「では、」の前の文が、あとの文の原因になっていませんね?
どこをどう考えたら、私が、反論してくる人は全て上から目線であると感じている、などということがでてくるのでしょうか。私の書いたことのどこに、あるいは私の振る舞いのどこに、そう断定できるような部分があるのでしょうか。私は最初から、あなた個人が上から目線であるということしか言っていません。
これまた、あなたの脳内だけでの思い込みなのです。違うというなら、私が反論する人「全て」に対して上から目線であるとみなしている、明確な根拠なり証拠なりを、私が書いたことの中から示してください。
あなたが上から目線であるという更なる理由を示しましょう。それは、相手の書いているものをきちんと読まず、この程度のことを言っているんだろう、と決め付ける態度です。
例えば、以下のような文。
>もう一つ、ノーラン兄弟は「ダークナイト・リターンズ」を僭称してるとおっしゃってましたが、僭称はしてないと思うんですよ。
そんなことは言ってません。批判するならちゃんと読んでから言ってください。私は、今後のこととして、僭称するのはやめてくれ、と言っただけです。
>監督は作品全体の責任があるとおっしゃってますが、あくまで撮影現場の責任者と作品の著作権を持ってる、ってだけだと思うんですよ。
>原作ファンを納得させるような、原作テイストをくまなく取り入れる責任がある、という言い方をなさってますが、そうではないと思います。
は? 私は、「原作テイストをくまなく取り入れる責任がある」なんてことをどこに書きました? どこに? 「という言い方をなさっていた」とまで書かれているわけですから、私がそう言っている明確な該当部分を指定できますよね?
私は最初から、「原作ではここまでキャラクター解釈を掘り下げたものがある。別にその解釈と同じである必要はないし、全く新しい解釈でもいいが、きちんと掘り下げたものをやってくれ」というようなことを書いています。
私が言っていないことを、言ったことにするのはやめてください。さすがにこれは、責任を追及されてもしょうがないでしょう。私がそういう「言い方」をしたのがどこであるのかを明確に示す、あるいは、この言葉を撤回する、そのどちらかを要求します。
>だから、あなたの言い分だと、「自分の気に入らない監督が、自分が気に入ってる原作以上に面白いものを作ってしまった」ということただ認めたくないだけなんじゃないかな、と思いました。 あまりにもムキになられていたので。
>あなたの真相はそうでなくても、そう思われても仕方のないような書き方でした。 その言い方だと逆に「原作を超えた」と認めたことになってしまいます。
まず大前提として、私はバットマンもスパイダーマンも大好きなキャラクターです。それを映画化するときは、ただ単純に優れた映画にして欲しいとしか思っていません。
そして、スパイダーマンが映画化されたときは、非常に優れていたので、サム・ライミ凄いなと思いました。私はスプラッタが好きではないので、ライミの映画はろくに見ていませんでしたが(『ダークマン』なんかは面白いと思っていましたが)。
だから、サム・ライミに比べたらクリストファー・ノーランだめじゃんというだけのことなんですがね。まあ、私が「ただ認めたくないだけ」だとあなたが「思う」こと自体はあなたの勝手なのですが。問題は、その次の文。
「そう思われても仕方のないような書き方」って、具体的にどこですか。またもや根拠ナシですか。
さらに、またもや原因・結果のエラー。私がムキになって作品を映画を批判すると、なぜ、「「原作を超えた」と認めたこと」になるんですかね。そう断定できる理由が全く分かりません。そこまで断言するなら、論理的に適切な原因を示しなさい。
内容についてのことも書きます。そもそも私は、『バットマン・ビギンズ』で無数のコウモリを召喚する能力を持っていることから、映画版でのバットマンもやはり、昼間に活動していることを前提しているのでは、と書いています。私が言っていることがおかしいと思うのであれば、この論点のおかしい部分をきちんと挙げるべきでしょう。その結果、私がおかしいことが納得できたら、私が間違っていることは認めます。
ところが、あなたはこんなことを書いている。
>昼間も現れてるというのは、ブルースが私服で事前に偵察してるシーンのことでしょうか?
>バットマンはコスチュームを着ていなければ、”バットマン”ではありません。 例えば、ハルクも変身しなければハルクではないし、アイアンマンもパワードスーツを着なければアイアンマンではないです。
>そう考えると、映画版のバットマンはやはり夜にしか現れてません。 バットマンを呼ぶときのサーチライトも、暗くなってからでないとライトの光がよく見えないから夜にしか現れないのではないかというジョークもあったくらいです。
私の言うことは完全にスルーですか。そもそも、私のコメントの中で、映画版で「昼間も現れてる」などと書いていましたか。
そもそも、私は『ダークナイト』は合計3回見ましたが、最初の銀行襲撃シーンでジョーカーが白昼に犯行すること自体がバットマンへのあてつけだなどと思ったことはありませんし、それを明らかに示唆するようなシーンも記憶にありません。むしろ、ジョーカーがバットマンを宿敵として意識し始めるのが、あるていどストーリーが進行してから以降である、という印象しかありません。
あなたの言っている解釈は、ふつうに映画を見ていたら一般的に出てくる解釈であるとはとても思えません。そういう解釈をする際には、映画の中から、「こういうシーンがあるゆえに、こういう解釈が成立する」と明確に証拠を示さなければ、ただ個人の主観を垂れ流していることにしかなりません。「だってジョーカーはこういうキャラなんだから」というのは、ただ個人の主観に過ぎないですからねえ。
いい加減にうんざりしてきたのですが、あなたは相手の言うことをきちんと検討していません。
あなたは、相手が言っているのはこういうことだろう、という極めて大雑把な推測をして、その偏見に基づいて批判しているだけです。
あなたが相手をしているのは、あなたの脳内にある私の虚像、イメージに過ぎないのであって、私自身ではありません。
あなたはまったく自覚できていませんが、自分と考えの違う人の、自分とは違う考え方を飲み込んで吟味し、肯定したり否定したりする作業が出来ていません。
私が言っていないことを言ったことにされて、なおかつ、言っていないことに基づいて「わかってない」だの「勘違い」だの「誤解」だのと断罪される側のストレスにもう少し自覚的であって欲しいと思います。
私の個人的な見解としては、あなたは他人のブログのコメント欄で他人にご自分の思い込みを投げつけるのではなく、ご自分のブログなりtwitterなりで書かれることをおすすめします。他人のブログで、完全に主観的な個人の思い込みに基づいて、一方的に「わかってない」だの「勘違い」だの、決め付けらてもねえ……。
評論のことについて、言葉が足りなかったようです。
また言い方を間違えてしまったようです。 評論の意味の「物事の価値・善悪・優劣などを批評し論ずること」は存じています。
その中の「善悪・優劣」の部分ですが、善・優か悪・劣、どちらか片方だけを取って批評してもいいと解釈なさってるみたいですが、私が申し上げてるのは「善悪・優劣などを批評し論ずること」と書かれてる以上、どちらも述べたほうがいいのでは、ということを申し上げたかったんです。
あなたの評論は、悪・劣部分のみが強調されすぎているため、評論と言うよりは、愚痴に近いと感じたのが正直な感想だったということでした。
また、私の言うことに根拠が無いと指摘されていましたが、
>アメリカでのコミックスの地位は低い(とりわけ、ヒーローものについては)。それはインテリ層にとっては、馬鹿にし蔑む対象でしかない。
という部分。 コミックスの地位は低いかどうかわかりませんが、馬鹿にし蔑む対象でしかない。というのはどのような根拠があるんでしょうか?
そんなことないと思うんですよ。 インテリでもヒーロー物が好きな人もいますし、インテリ層でなくても、ヒーロー物は好みではないと思う人もいると思うんです。
なのに断言してしまってるので、なにを根拠にしているのか理解できませんでした。
もう一つは、
>映画として最も致命的なのは、アクションの演出だろう。例えば、ミラーは『ダークナイト・リターンズ』と『イヤー・ワン』の2作で、演出を完全に変えている。『ダークナイト・リターンズ』における年老いたバットマンは、体力が衰え、単純に弱い。しかし、犯罪者を効率的に狩っていく方法を熟知しているので、闇夜の死角に潜り込んで恐怖を産み出しうる存在として描かれている。一方、『イヤー・ワン』における若きバットマンは、そうではない。肉体的には全盛期であり力が溢れているものの、犯罪者の動きや行動パターンを知らないがゆえに、容易に失敗する。幼い犯罪者でさえ、背後からナイフで刺してきたら脅威の存在なのだ。ここでのバットマンは、犯罪者に立ち向かう方法を苦悩しながら徐々に模索していく。
これと比較すると、ノーランは全く何も考えていないことがわかる。『ダークナイト』の前作にあたる『バットマン・ビギンズ』の段階で、致命的におかしいのだ。そもそも『バットマン・ビギンズ』は、バットマンの誕生を描いた作品のはずである。しかし、ルーキー・イヤーであるはずのここでのバットマンはいきなり犯罪者の死角に潜り込み、効率的に犯罪者をしとめていく。
という部分。
先日も述べましたが、原作は原作で映画は映画なんです。 比べてもしょうがないんです。
その中の、>そもそも『バットマン・ビギンズ』は、バットマンの誕生を描いた作品のはずである。しかし、ルーキー・イヤーであるはずのここでのバットマンはいきなり犯罪者の死角に潜り込み、効率的に犯罪者をしとめていく。
「バットマンビギンズ」では、ブルースが戦闘訓練するくだりや犯罪者の心理を学ぶため、実際に犯罪者となって逮捕されるくだりがあったんですが、それでその問題はクリアしてます。
このくだりを読んだとき、「この方は映画版をちゃんと観たんだろうか?」と疑問に思いました。
>『ダークナイト』においても、脈絡のない演出は続く。すでに犯罪者を狩る方法を身につけているはずのバットマンは、なぜか今度は簡単に犯罪者にナメられるのだ。そして、ジョーカーの狂気をはらんだ悪意の発露に動揺までしてみせる
という部分でも、別にナメられてるというわけではないと思うんですよ。
バットマンに対して挑戦してはいましたけど。
>ノーランは、自分がどのようなものを描いているのか、自分でもよくわかっていない。まあ、このようなアクションの演出は、バットマンのコミックスを適当に流し読みして使えるところを持ってきてつぎはぎしただけのような気がする。「その演出がどんな文脈でなされているのか」まできちんと読み込む作業は明らかにしていない。
という部分も、?と感じたのが正直な意見です。
ノーランは、自分がどのようなものを描いているのか、自分でもよくわかっていない。って、これもそんなことないと思うんですよ。
アクションシーンの流れも、ストーリーに沿ってましたし、「一体どこを観ていたの?」と疑問に思いました。
>要するに、ノーランはコミックスに携わる人間をナメているのだ。
の部分も、そんなことありません。 もし完全にナメ切っているとしたら、あそこまでの作品にしないと思うんですよ。
>私にとって、「ド新人であるにもかかわらず犯罪者を薙ぎ倒していくバットマン」という姿は、どうもノーランが無意識に持っているとおぼしきセルフ・イメージと重なるような気がするのだ。「ヒーローもののストーリーを作るのなんて初めてだけど、華麗に最高の作品を作り出すオレ」というわけだ。
の部分も、?と思いました。
どんな監督が、まぁヒーロー物でなくても、作品を作るときは常にベストを尽くすと思うんですよね。
初めてだろうが、慣れていようが、同じだと思うんです。
> まず大前提として、私はバットマンもスパイダーマンも大好きなキャラクターです。それを映画化するときは、ただ単純に優れた映画にして欲しいとしか思っていません。
そして、スパイダーマンが映画化されたときは、非常に優れていたので、サム・ライミ凄いなと思いました。私はスプラッタが好きではないので、ライミの映画はろくに見ていませんでしたが(『ダークマン』なんかは面白いと思っていましたが)。
だから、サム・ライミに比べたらクリストファー・ノーランだめじゃんというだけのことなんですがね。まあ、私が「ただ認めたくないだけ」だとあなたが「思う」こと自体はあなたの勝手なのですが。問題は、その次の文。
「そう思われても仕方のないような書き方」って、具体的にどこですか。またもや根拠ナシですか。
とおっしゃっていましたが、根拠は >私にとって、「ド新人であるにもかかわらず犯罪者を薙ぎ倒していくバットマン」という姿は、どうもノーランが無意識に持っているとおぼしきセルフ・イメージと重なるような気がするのだ。「ヒーローもののストーリーを作るのなんて初めてだけど、華麗に最高の作品を作り出すオレ」というわけだ。
という部分です。
この文章の部分には「自分は目が肥えていて、他の人間とは違う」というような感じの裏返しの意味も感じ取れました。
書き方があまりにも嫌味たらしかったので。
嫌味たらしい表現はここだけではなく、
>つまりノーランが言いたいことは、「僕自身は醜い真実に直面しても大丈夫だけど、一般大衆には美しい幻想が必要なので、ちゃんと作ってあげないとダメなんだよ」ってことか。
評論するにしても、これはさすがにどうかなと思うんですよ。 私に「勘違いしてる」と思われても仕方のない書き方ですよね。
ノーラン監督は、私自身もそんなに大好きっていう監督ではないですが、そんなふうには思ってないと思います。
>こんなに人を馬鹿にした態度があるだろうか。
という部分も、別に馬鹿にしてないと思うんですよね。
それはあなたが原作を引き合いにしてるが、原作のテイストと違ってて、憤りを感じてるという、ただの被害妄想であり、あなたの評論は評論ではなく、一方的な被害妄想からくる愚痴でしかありません。
何度も言いますが、原作は原作で映画は映画です。私が言いたいのはそこなんですよ。
原作と映画版が違うのはよくあります。 しかし、そんなことは映画好きなら分かりきってることですし、引き合いにして被害妄想で評論するのは評論ではない、と言ってるのです。
例えばの話ですが、ドラゴンボールも原作と違ってる部分はありますよね。
例えば悟空の髪型を実写でやったら、はっきり言ってちょっとキツいものがあります。 違和感と言っていいでしょう。
ドラゴンボール実写版もいろんな面で原作と違うなどと的外れな評価を受けてますが、では完全になにもかも原作を実写で再現したら、それはそれでまた違う批判が出てくると思うんです。
トランスフォーマーも、ロボットのデザインがゴチャゴチャしている、と批判もありましたが、では原作そのままで出したら、原作とまったく同じで目新しさがない、と批判が出ると思います。
この例えは見た目だけのことについてですが、でも、内容面でも同じだと思います。
先日も書きましたが、ミラーのダークナイトを支持なさってるようですが、でしたらミラー版だけを鑑賞すればいいのだし、ノーラン版は二度と観なければいいだけのことです。
私も嫌いな映画がありますが、その嫌ってる映画を支持している人を馬鹿にしようとか、そんなふうには思いません。
ノーラン監督版のダークナイトのファンもいますが、明らかに「バットマンのことをなにもわかってないノーラン版ダークナイトを絶賛してる人なんて、ノーランと同じで馬鹿だ」みたいな書き方をしていますが、なにを支持するかなんて人の自由です。
監督を含め、その人たちを馬鹿にするような言い回しをするのはなぜですか?
私が言いたいのは、あなたは最初は本当にバットマンを愛してると思ってたんですが、あなたの文章を読んでいると、もはや自己顕示欲を満たすためだけの道具程度にしか思ってないんじゃないかと思い、「わかってない」や「勘違い」という言葉を使ったのです。
最後に
>私の個人的な見解としては、あなたは他人のブログのコメント欄で他人にご自分の思い込みを投げつけるのではなく、ご自分のブログなりtwitterなりで書かれることをおすすめします。
と書かれていますが、批判的なものを書く以上、反論されることも想定してください。
反論されたくないのであれば、なぜコメント欄を設けてるのですか?
「映画人を批判するのはオレの自由、でもオレの評論を批判するのは許せない」という考え方は、自己中心的過ぎてどうかと思いました。
そういう意味合いも含めて、「わかってない」と申し上げたまでです。
バットマンが夜にしか現れてない全てのシーンが示唆では? と思いました。
ジョーカーだってやってることはとんでもないヤツですが、切れ者です。 相手の盲点を突くなんて容易いと思うんですよ。
例えばジョーカーが、ただ単にバットマンを倒したいだけなら、夜に銀行を襲うと思うんですよ。 そうすれば必ずバットマンがやってきますし。
にも関わらず、強盗を昼間にやったということになんらかの意味が出てくると思うんです。
ジョーカーは金を奪うことが目的ではなく、バットマンに対して「ゴッサムを守りたくて自警団として立ち上がったのに、昼間の犯罪はスルーか?」ということを、銀行強盗を通して言いたいだけだ、という
そういう解釈もあのシーンにはあるんだと申し上げたんですが、なぜか理解していただけなかったようです。
それにジョーカーがバットマンを的にかけたのは、ストーリーの中盤からだとおっしゃてましたが、最初から的にかけてると思うんですよ。
前作でバットマンの存在が知れ渡ってましたし、ダークナイトの冒頭でも麻薬の売人がバットマンを呼ぶサーチライトを見て取引をやめてましたよね。
警察がサーチライトまで用意した時点で、いくらジョーカーでもその時点でバットマンを的にかけると思うんですよ。
あなたの”評論”や、反論を読んでいてまたまた気になったのですが、
>あなたは、相手が言っているのはこういうことだろう、という極めて大雑把な推測をして、その偏見に基づいて批判しているだけです。
っておっしゃいましたよね。
>要するに、ノーランはコミックスに携わる人間をナメているのだ。私にとって、「ド新人であるにもかかわらず犯罪者を薙ぎ倒していくバットマン」という姿は、どうもノーランが無意識に持っているとおぼしきセルフ・イメージと重なるような気がするのだ。「ヒーローもののストーリーを作るのなんて初めてだけど、華麗に最高の作品を作り出すオレ」というわけだ。
と書いてあった部分の最後の部分、
>。「ヒーローもののストーリーを作るのなんて初めてだけど、華麗に最高の作品を作り出すオレ」というわけだ。
これはまさしく相手が言っているのはこういうこと、大雑把な推測をしてその偏見に基づいて批判してるのでは? どう見てもそういう風にしか思えないです。
>あなたが相手をしているのは、あなたの脳内にある私の虚像、イメージに過ぎないのであって、私自身ではありません。
ともおっしゃっていましたが、そんなつもりはないですし、あなたの評論を読んだ上でのあなたに対する的外れな評論の意見を言っています。
ノーラン監督は、わかってないだの、人を馬鹿にしてるだの、自分の視線を他人よりも上の位置にしているだの、あなたのほうがよっぽど、あなたの脳内にあるノーラン監督の勝手なイメージを相手にしてるのでは? と思いました。
>「わかってない」だの「勘違い」だの「誤解」だのと断罪される側のストレスにもう少し自覚的であって欲しいと思います。
ともおっしゃってましたが、被害妄想もいい加減されてはいかがでしょうか? 「断罪」などではありません。 単なる「指摘」と「補足」です。 それを針小棒大のように飛躍させるようなことおっしゃるのは、被害妄想の典型的な例です。
>あなたの言っている解釈は、ふつうに映画を見ていたら一般的に出てくる解釈であるとはとても思えません。そういう解釈をする際には、映画の中から、「こういうシーンがあるゆえに、こういう解釈が成立する」と明確に証拠を示さなければ、ただ個人の主観を垂れ流していることにしかなりません。「だってジョーカーはこういうキャラなんだから」というのは、ただ個人の主観に過ぎないですからねえ。
ともおっしゃってましたが、
あなたの解釈も、普通に映画を見ていて出てくるような解釈ではないと思います。 なぜなら、原作と比較するという意味のない評論をなさっていたので。
もっと分かりやすくあなたの評論の何が的外れなのか、述べます。
例の話を使って説明します。
例えば、ラーメンファンがA店のラーメンが大好物で、評論も書いてるとしましょう。
その人に、A店と系列でもなんでもないB店の評論を依頼されたとします。
ここでのA店とB店の味のレベルは著しく低くはないとします。ここでA店はコッテリ系のラーメンをウリにし、B店はあっさり系のラーメンをウリにしているとします。
その人はB店のラーメンを評論する上で、「A店と味が違う、こんなのラーメンじゃない。これを作った人はラーメンなんか何も分かってない。A店のラーメンはこうだった。」と評論したとしましょう。
あなたはこんな感じの評論を読んだら少しおかしいと思いませんか?
ラーメンというカテゴリは同じですが、系列店でもないし作った人も違うのなら、A店と味が違うのは当たり前。
あくまでB店のラーメンを評論しなければならないのに、関係のないA店を引き合いにしてます。
ここでいうA店は、あなたの支持する原作であり、B店は映画版です。
バットマンというカテゴリは同じですが、作った人が違います。 当然内容面で原作との違いは出てくるでしょう。
>ノーランは、自分を他人より上の視点に位置づけている。しかしそこに自己に対する反省・検討はなく、完全に無根拠なものにすぎない。そして、「ダークナイト」という言葉は、ノーランがみくびっているような軽い言葉ではない。清廉潔白な理想のヒーローが「ホワイトナイト」で、その「ホワイトナイト」のイメージを守るために汚れ役を引き受けるのが「ダークナイト」って、そんな単純で幼稚な図式を描いておいて、何かうまいことを言ったつもりでいるのか?
とおっしゃっていましたが、原作を引き合いにするという意味のない評論をして、なにか上手いことを言ったつもりでいるんでしょうか?
あなたの評論のタイトルにもある通り、あなたのこの評論自体、愚かな思い上がりに他ならないと思います。
まず大前提として、このコメント欄の他の人との私のやり取りを読んでいますか? 一方的に罵詈雑言を投げつけるだけのコメントはスルーした上で、意見が違う人とは普通にやり取りしています。
本当はあなたもスルーすればよかったんですが、一方的に「わかってない」などと決め付けられているので反論したまでです。
あなたとは、意見のやり取りが成立しません。なぜなら、あなたは自分と立場の違う人の言っていることに対して聞く耳を持たないからです。自分の思い込みに基づいて一方的に決め付けるだけで、相手の反論はほとんど受け流すだけで、誰も聞きたくもない個人的な思い込みを垂れ流しているから、「だったら、自分のブログでやれば?」と思うわけです。
別に私が反論しても、あなたはそれに答えないでしょ。自分にとって痛い部分には目を瞑るだけでしょ。それで一方的に自分の言いたいことだけを喚き散らすんだから、こちらが訂正を求めた部分に答えてもらったら、もうやめてもらいたいんですよ。世間一般の基準でいったら、あなたはいわゆる「荒らし」ですよ。
「評論」のことについて。後づけで変えてますよね? 最初、評論とはこういうものである、と断言しておいて、それとは異なる私の立場が「勘違い」であるとまで断定していたわけですから。
評論とはこういうものである、という最初の断定が「言い方を間違えていた」と認めるのであれば、最初の言い方に基づいた「勘違い」という決め付けも間違っていたことになりますよね? それは認めるんですか? 「勘違い」という私への決め付けは撤回するんですか?(答えて欲しいポイントその1)
私が答えて欲しかったのに、完全に無視された部分を列挙しましょう。
・私が、反論してくる人「全て」を「上から目線」であるとみなしているなどというが、その根拠はあるのか。ないのであれば、その発言は間違いとして撤回するのか(その2)
・私は、「ノーラン兄弟は「ダークナイト・リターンズ」を僭称してるとおっしゃって」などいない、そのことを認めるのか。一方的に誤読した上で、私は自分が言ってもいないことについて批判された、そのことを認めるのか(その3)
・私は、「原作テイストをくまなく取り入れる責任がある」などということは言っていない、そのことを認めるのか。これまた、一方的に間違えた要約をした上で、その要約に基づいて人を一方的に批判している、そのことを認めるのか(その4)
・監督・兼・共同脚本として『ダークナイト』にクレジットされており、また実際に脚本のネタ出しをしているクリストファー・ノーランに、脚本面での責任を問うことはできない、というのは本当に正しいのか(その5)
以上5つの点については、あなたが一方的に私を決め付けておきながら、私に反論されても無視しているポイントです。人に対しては、「批判的なものを書く以上、反論されることも想定してください」などと書く人物が、全く同時に、自分への反論はスルーしていることは腑に落ちません。私はこうしてきちんと反論に答えていますが、反論を無視しているのはご自分の方ではないのですか。
その他の点について。
>コミックスの地位は低いかどうかわかりませんが、馬鹿にし蔑む対象でしかない。というのはどのような根拠があるんでしょうか?
>そんなことないと思うんですよ。 インテリでもヒーロー物が好きな人もいますし、インテリ層でなくても、ヒーロー物は好みではないと思う人もいると思うんです。
>なのに断言してしまってるので、なにを根拠にしているのか理解できませんでした。
ご自分がよく知らない対象がある、そしてその無知ゆえに誤解していることがあるかもしれない、という可能性を想定した方がいいでしょうね。
あなたの言っていることは、アメコミファンからしてみたら、「なんで地球は丸いなんて言えるの? どのような根拠があるの? なにを根拠にしているのか理解できない」といっている人と、ほとんど同じように見えてしまいます。
低いかどうかわからないんじゃなくて、低いんだからしょうがない。インテリ層にも好きな人はいるでしょうが、アメリカがそれをおおっぴらにできないような文化的環境なんだからしょうがない。
1930年代にアメリカでコミック・ブックが成立して以来、文化的に高級なものとみなされた新聞連載マンガ(コミック・ストリップ)と違って、コミック・ブックは低俗なものとみなされる時期が長く続いた、というのが歴史的事実なんだからしょうがない。「理解でき」ないのは、単にあなたがその事実を知らなかっただけです。こういうことは、あるていど以上にアメコミを読んでいる人なら、みんな知っていることなんですがね。
このあたりの事情を扱う文献はほとんど日本語に翻訳されていないので、原書で読むなり英語圏のサイトをチェックするしかないでしょうね。一つ挙げろと言われたら、アメコミを取り巻く文化環境の歴史書として、「Comic Book Nation」を挙げます。日本語でこういう事情が書かれているのは、小田切博氏の「戦争はいかに「マンガ」を変えるか」ですかね。今新刊で手に入るかは知りませんが。
ところで、上に引用したあなたの発言に、あなたの基本的な姿勢が典型的に現れているように思えます。まずあなたは、理解できない、根拠がないと疑問を投げかける。そして、私の見解が間違えたものであると決め付けた上で、自説を展開する。ところが、その基盤となる前提自体が、単純に自分の無知が原因の思い込みになってしまっているので、その基盤の上に積み上げられる自説がデタラメなものになってしまっている。
自分がよく知らない対象があるのはしょうがないけれども、無知を自覚せずに、無知に基づく自説を声高に叫んで押し付けるのはやめてもらいたい、ということです。こちらとしては、学べることが何一つありませんから。
今回は、あなたの言っていることにいちいちていねいに答えることはしません。あなたが私の言っていることをいくつも無視して話を進めているのに、こちらがていねいにあなたにあわせるのはいくらなんでも馬鹿馬鹿しいですから。
しかし、気になったのは、例えば以下のような部分。
>>つまりノーランが言いたいことは、「僕自身は醜い真実に直面しても大丈夫だけど、一般大衆には美しい幻想が必要なので、ちゃんと作ってあげないとダメなんだよ」ってことか。
>評論するにしても、これはさすがにどうかなと思うんですよ。 私に「勘違いしてる」と思われても仕方のない書き方ですよね。
>ノーラン監督は、私自身もそんなに大好きっていう監督ではないですが、そんなふうには思ってないと思います。
まず前提として、「勘違い」という言葉を後づけで変えていることに呆れ返りました。あなたはもともと、私が「評論」というものがどんなものであるかを「勘違い」していると書いていたのに、そのおかしさを指摘された後で、自分が「勘違い」という言葉をどこで使ったかを変えてしまっている。私が「勘違い」しているのは、私の、評論とは何か、とう定義のことであって、評論に書かれている内容面のことではなかったはずです。そもそも、内容に関する「書き方」は、私が「勘違い」しているかどうかの判断には何の関係もないはずなのです。あなたは、後づけで、自分の使った「勘違い」という言葉の意味をすり替えている。こんなフェアではないことをして、自分が恥ずかしくないんですか。
内容がいいか悪いかということは、それを書いている人が評論の定義を「勘違い」しているかどうかには関係ありません。「「勘違いしてる」と思われても仕方がない」などというのは、ごまかしに過ぎません。
むしろ、「言い方を間違えた」と自分で認めている以上、評論の定義について「勘違い」していたのは、あなたの方なのでは? 間違えていたのがあなたの方であることはもう明らかなのに、自分の「勘違い」が「仕方のな」かったものだと思わせるような言い方は、繰り返しますが、ごまかしにすぎません。
繰り返しますが、私が評論の定義を「勘違い」していたということは、撤回しますか?
さらに補足すると、私がここで書いたのは、『ダークナイト』終盤のヒーロー論らしきものに対する主観的な感想ですね。それに対してあなたは「と思います」と、これまた主観で応じている。
つまり、ここにあるのは、異なる二つの単なる主観的な感想なのであり、ここに客観的な基準はありません。そういう場所で、あなたは一方的に「勘違い」だなどと、異なる立場を断定している。こういう態度をして、私は最初から「上から目線」だと言っているんですよ。
客観的な基準があるのに、おかしい部分について。
私は最初から、ノーラン版バットマンは昼間も活動していることを想定しているのでは、と映画版を根拠にして述べていますが、あなたは一貫してそれをスルーしています。
もううんざりしました。なので、ノーラン版バットマンは夜しか活動していないと仮に認めてみた上で、それでもあなたの推論が間違っていることを以下に示しましょう。
以下に、図式的にあなたの考えをまとめてみます。
バットマンは夜にしか現れない
→ ジョーカーは白昼に銀行強盗をした
→ ジョーカーの犯行は夜にしか活動しないバットマンへのあてつけだ
あなたの推論は、以上のようなものになっています。これは、三段論法といって、間違った推論の典型的なパターンのひとつとされています。
バットマンは夜にしか現れない。ジョーカーは白昼に銀行強盗をする。しかし、ジョーカーが白昼に銀行強盗をした理由として想定できる原因は、いろいろある(単にその時間帯が犯行上都合が良かった、ということも含めて)。
ジョーカーが銀行強盗をしたのがバットマンへ向けられたものを示す証拠がなければ、「ジョーカーによるバットマンへのあてつけだ」という結論は導き出されない。
以下が、論理的に正しい図式です。
バットマンは夜にしか現れない
→ ジョーカーは白昼に銀行強盗をした
→ ジョーカーがバットマンに向けたメッセージとして犯行をしたという、具体的な証拠として、かくかくしかじかのものがある
→ ジョーカーの犯行は夜にしか活動しないバットマンへのあてつけだ
私があなたに求めているのは、最初から、上の図式の三番目の部分を示すことです。
ついでに、映画での銀行強盗に関して、私の考えを補足します。
・そもそも、映画での銀行強盗って、白昼での犯行が圧倒的多数である
夜にこっそり盗むのが技術的に難しいのか、それともただ単に映画として見栄えがするからなのかは私にはわかりませんが。たくさん映画を見ている人からすれば、白昼の銀行強盗は、むしろ普通のことのはず。したがって、白昼に銀行強盗がなされていること自体だけでは、別に特別なことでもなんでもないのです。どうも、このエントリに絡んでくる人は、「映画を知らないアメコミマニアが映画を批判している」と誤解している人が多いようなんですが、そんなことはないんですけどねえ。大ざっぱに概算してみましたが、私、2000本以上は裕に見てますね。よっぽど気合の入ったシネフィルでない限り、私より映画を見ている人はあまりいないでしょう。その上で、映画内での白昼の銀行強盗は普通のことだと思っているんですが。
・ジョーカーの犯行が誰かへのあてつけだとすれば、それはむしろマフィアに向けたものでは?
銀行強盗の場面では、あの銀行がマフィアの息がかかったものであることは明確に描かれています。だから、わざわざマフィアの用心棒が登場するわけですね。
私としては、まずジョーカーのメッセージとして、「マフィアの銀行だとわかっているけど襲撃しちゃうぜ」というものだと受け取りました。そしてそれが、ストーリー展開としては、のちのジョーカーとマフィアの抗争の伏線だと解釈しました。そして、そう考えたからこそ、話の本筋であるはずのバットマン関連のことからすると浮いている、と感じられたわけです。
もちろん、これは私の主観的解釈ですから、違う解釈の人に対して「わかってない」などと言う気はありません。しかし、実際に映画に描かれていることから導き出した解釈であることは事実。ジョーカーの犯行がバットマンへのあてつけだというのは、具体的に映画内に裏づけがあるんですかねえ?
ジョーカーの犯行がバットマンへ向けられたメッセージとしての意味を含んでいたと、個人的に解釈すること自体は完全に自由です。しかし、作中からそれを示す明確な証拠が示されない限り、その解釈の正しさを保障するものはどこにもありません。つまり、ある特定個人の主観的な思い込み、もっと言ってしまえば妄想に過ぎないのですよ。
あなたは自分個人の妄想に基づいた解釈を他人に押し付け、それとは異なる立場の人を「わかっていない」などと決め付けている。これは、いくらなんでも幼稚に過ぎます。違うというのであれば、映画内から、明確な証拠を指し示していただきたい。
最後に、あなたの私に対する考え方について。
>ノーラン監督版のダークナイトのファンもいますが、明らかに「バットマンのことをなにもわかってないノーラン版ダークナイトを絶賛してる人なんて、ノーランと同じで馬鹿だ」みたいな書き方をしていますが、なにを支持するかなんて人の自由です。
>監督を含め、その人たちを馬鹿にするような言い回しをするのはなぜですか?
またもや、私が言っていないことを言ったことにしていますね。私が、ノーラン版バットマンを支持している人を馬鹿にする発言なんて、このエントリのどこに書きましたか。私は、作品は商品として流通しているのだから批判・検討されて当然されるのは当たり前だと考えていますが、人格批判はそれとは別のことだと考えているので、意識的に、そういうことは書かないようにしていたのです。
ところがあなたは、私が「ノーランと同じで馬鹿だ」「みたいな書き方をして」などと断言している。
私がそんなことを、いったいどこで言ったというんですか。いい加減、嘘を書くのはやめてください。嘘でないのならば、具体的な証拠を示しなさい。
あなたは、私が言ってもいないことを言ったことにして、その上で私を非難した。そして、それに反論されても、完全にスルーした。その上で、またもや同じようなことを繰り返している。
いい加減にしなさい。自分がどれほどみっともないことをしているのか、その自覚はないのですか。
私は、『ダークナイト』を肯定する人が「ノーランと同じで馬鹿だ」「みたいな書き方をし」たことなど一度もない。そしてあなたは、私が言ってもいないことに基づいて、私を非難している。冷静に、自分の胸に手を当ててよく考えてみなさい。「被害妄想」という言葉が適切に当てはまるのは、私とあなたのどちらの方ですか?
>反論されたくないのであれば、なぜコメント欄を設けてるのですか?
>「映画人を批判するのはオレの自由、でもオレの評論を批判するのは許せない」という考え方は、自己中心的過ぎてどうかと思いました。
なぜコメント欄をもうけているのかと言えば、あなたのような人でなければ、意見の違う人とであっても、普通にやり取りが出来るからです。
例えば、あなたの直前のコメントを書いた名無しの方とは、意見は違いますが、ごく普通にやり取りが出来ています。自分とは立場の違う人間を一方的に断罪する、あなたのような人に来られても迷惑なんですよ。
現実問題として、私は自分への反論に耳を傾けていますので、「オレの評論を批判するのは許せない」などと私のことを一方的に決め付けるあなたの発言は、端的に言って、嘘なのです。
あなたのものの考え方は、筋道が立たず、極めて混乱しています。
まずあなたは、私が反論を許さないのだと、一方的に決め付けている。そして、そこから逆算して、私がなぜコメント欄をもうけているのか、疑問に思っている。
あなたは、原因と結果の関係を完全に取り違えている。まず大前提として、私は自分に対する反論を受け入れている。そのことは、このブログの各エントリのコメント欄を見ればわかることです。だから、私がコメント欄を設けていること自体が、私が反論を受け入れていることを示す証拠の内の一つであるのです。
繰り返しますが、反論してくる人がいやなのではなくて、あなたという特定個人がいやなのです。自分の非難に対する反論にはいっさい耳を傾けずに無視し、一方的に自分の考えを垂れ流し続けるような人とは、やり取りが成立しません。
そして、コメントを書いていただける人の中には、私にとって有益なことを書いていただける人も大勢いらっしゃるのです。だから、あなたのような人物のためにコメント欄を閉鎖するようなことはしたくないのです。その結果として、どうかお引き取りください、自分のブログでやってください、とお願いしているわけです。
ここで、このエントリのコメント欄で、肯定的なものを引用してみます。
まず、DONNYさんのコメント。
>僕もミラーファン、アメコミファンかつ映画ファンで
>「ダークナイト」も、まあ基本的には面白い。ヒースジョーカーもカッコいい、というのは認めてるのですが、
>バットマンがめちゃくちゃショボくてがっかりしました
>そんで、大ヒット&高評価されたので
>「今後これが世間のバットマン像になるのかー‥」とがっかりしました
私もまったく同じ考えです。最初から書いてますが、ジョーカーはいいけどバットマンがしょぼい。そして、原作よりも映画のほうが世間一般への影響力があるに決まっているので、『ダークナイト』で提示されたバットマン像が広まるのに怒りを感じているわけです。
嫌なら見るな、というのは、社会的な影響関係を無視したものの見方に過ぎません。
あるいは、アメコミファンではないchiquiさんのコメント。
>はじめまして。赤亀と申します。
>僕自身は『ダークナイト』を、やや冗長で途中で眠くなったり、「なんかバットマンって、こんなに弱々しいのか…(笑)」と思ったりはしたのですが、その実、雰囲気とかはけっこう好きで、「スクリーンで観てよかった」と思ったりもした人間です。またアメコミそのものに対しては、「幼稚でくだらない」というイメージをなんとなく持っているままなのでほとんど手を出したことがなく、ためにアメコミの門外漢です。けれどこのエントリー、とてもおもしろかったし、興味深かったです!(新しい方のエントリーは助言に従い読んでいません。)
>「単純で幼稚な図式を描いて」とHoward Hoaxさんも書かれていますが、ノーランの技法は基本的に「設定や構図はごく単純で、演出や構成の組み換えで複雑に展開させる」だと僕は思っていて、それが良い意味で働いたのが『メメント』や『インセプション』、逆に裏目に出た挙句、「華麗に最高の作品を作り出すオレ」とHoward Hoaxさんが述べられているような感じで「全編是ドヤ顔」になっているのが『プレステージ』、というふうに思えます。バットマンシリーズをまったく観たことがないのでその中でどうなのかは言えませんが、ノーランの作品に限ってみても、『ダークナイト』は実は言うほど優れた作品というわけではないのでは…という気がしなくもないです。
>それはともかく、「ダークナイト」という異名にそんな背景や理由があったなんて…!上のコメント欄でDONNYさんという方が「“今後これが世間のバットマン像になるのかー‥”とがっかりしました」と書かれていますが、実際、このエントリーを読む前の僕のバットマン像はふつうにそんな感じだったので、目から鱗でしたし、バットマンというキャラに対する興味が俄然沸き起こりました。
>個人的にノーランの映画には「スクリーンで観る愉しみ」はあると思っているので、バットマンか否かに関係なく次回作がたのしみなのですが…その前にここは、近いうちにミラー版バットマンを2作とも観てみます。
>(長々としたコメントになってしまい、すみませんでした。)
もともとアメコミファンではない人が、やはり、『ダークナイト』を見て「バットマンはダメなキャラ」という印象を持ってしまうという例が、実際にあった。そして、私の書いたエントリでその印象が覆るということもあったのだから、やはり書いておいてよかったな、と考えています。
何が言いたいのかと言うと、要するにこのエントリは、賛否両論だということです。アメコミに詳しい人であってもそうでない人であっても、このエントリに賛成の人もいれば反対の人もいる。このエントリへのコメント欄を見ている限り、またそれ以外の場所でも、『ダークナイト』に否定的な人も結構いる。ヒットしているから民衆は支持している、というのも、これまた短絡的な考え方です。ヒットしたということは、多くの人が見たというだけのことに過ぎません。ヒットした結果、見た人のほとんどが支持しているのならば、民衆が支持している、と言うこともできるでしょう。しかし『ダークナイト』の場合、ヒットした結果、否定的な人もかなりいるわけです。そういう人の中で、このエントリに賛同してくれる人もいるわけですから、ここにあるのは、私個人の一方的な「被害妄想」などではない、ということです。
それとも、あれですか。「民衆は正直」とか書いておいて、『ダークナイト』に対して肯定的でない人は、「民衆」ではないことにするつもりなんですかね。
単純に、「意見が違うよ」という人とは、意見の交換が出来ます。しかしあなたは、立場の違う人間を一方的に「評論ではない」「被害妄想」「わかってない」「誤解」「勘違い」だなどと断言している。そして、相手の言うことには全く耳を貸さず、根拠のない個人的な思い込みを垂れ流している。だから、繰り返しますが、そんなことは個人のブログでやってくれ、ということなんですよ。
私は、自分に対する批判や反論に耳を傾けている。反論から目をそむけているのはあなたです。私は、『ダークナイト』を肯定している人を馬鹿にしてなどいない。ただ、あなた個人を馬鹿にしているというか、人として軽蔑しているだけです。
長々としたコメントになってしまったので、最後に確認しておきます。私があなたに求めているのは、あなたが無視した私の反論に答えることです。
あなたは、私に対して、「批判的なものを書く以上、反論されることも想定してください」などと言っている。しかし、あなた自身は自分への反論を無視している。ここまで言う以上、あなたには、反論に答える責任がある、と私は考えます。
私の反論を無視して、一方的に自分の言いたいことだけを垂れ流すことはやめてください。それは、あなたの救いようのない無知に基づいているので、誰の得にもならず、ただ害悪を撒き散らしているだけです。
まず、自分自身の「批判的な」発言への、「反論」にきちんと答えてください。コメント前半の、5つのポイントです。……それとも、また、ごまかすんですか?
正直なところ、あなたの相手をするのは私にとってはうんざりするだけなので、逃げるんなら逃げるのでも別にいいですよ。ただし、またもや私の説明を求めるポイントを無視して、自分の個人的な思い込みを垂れ流すのだけはやめてください。
「評論」のことについて。後づけで変えてますよね? 最初、評論とはこういうものである、と断言しておいて、それとは異なる私の立場が「勘違い」であるとまで断定していたわけですから。
評論とはこういうものである、という最初の断定が「言い方を間違えていた」と認めるのであれば、最初の言い方に基づいた「勘違い」という決め付けも間違っていたことになりますよね? それは認めるんですか? 「勘違い」という私への決め付けは撤回するんですか?(答えて欲しいポイントその1)
A.言葉が足りてなかったと書きました。あなたの評論自体、勘違いなさってるし、明らかに映画版をよく観てないで書いてる、と思ったのは私の正直な感想ですので、撤回はしません。そう感じたまでです。
・私が、反論してくる人「全て」を「上から目線」であるとみなしているなどというが、その根拠はあるのか。ないのであれば、その発言は間違いとして撤回するのか(その2)
A.「私のように」と書いたのを誤解なさったようです。「全く同じでなくても、私のような価値観の人が反論してきたら全てを上から目線で言ってると解釈なさるのか?」という意味です。文の内容は別にしても。
・私は、「ノーラン兄弟は「ダークナイト・リターンズ」を僭称してるとおっしゃって」などいない、そのことを認めるのか。一方的に誤読した上で、私は自分が言ってもいないことについて批判された、そのことを認めるのか(その3)
A.「ダークナイト・リターンズ」を僭称することだけは辞めて欲しい、と書かれましたよね。 ですから、監督は映画をちゃんと原作に敬意を払って作ってますし(あなたはそうは思わないかもしれませんが)、考えすぎだ、という意味で申し上げたんです。しかも、この期に及んで、書いてたので、まるで僭称してしまうぞ、みたいな書き方だったので。ノーラン監督は思い上がってるとは思えません。これもあなたの考えすぎです。
・私は、「原作テイストをくまなく取り入れる責任がある」などということは言っていない、そのことを認めるのか。これまた、一方的に間違えた要約をした上で、その要約に基づいて人を一方的に批判している、そのことを認めるのか(その4)
A.あなたの評論に対する私の指摘と、それに対する反論文の文章のやりとりで、「この方の言う”監督の責任”というのは、原作のテイストを汲まなく取り入れることなのだな」と感じたまでです。あなたはそんな感じ以外の不満を述べてないでしょう。
そこに、”監督の責任”という言葉が出てきたので、そう解釈したんです。あまりにも原作テイストと違うことに憤りを感じてなさってたので。
・監督・兼・共同脚本として『ダークナイト』にクレジットされており、また実際に脚本のネタ出しをしているクリストファー・ノーランに、脚本面での責任を問うことはできない、というのは本当に正しいのか(その5)
A.あなたの肩書きは評論家か批評家か、またはアマチュア評論家か知りませんが、クレジットの問題についても、どちらにせよ根本的な問題として、一観客が制作陣に対して責任を説く必要性などありません。
仮に映画がヒットせず、その要因を会社側が監督や脚本家に責任を問うならば筋が通ってますが。
あなたは制作会社の人間ではありません。なので、責任を問わなくていいというのは正解です。
ですから、あなたの言う責任とはどのようなものか、と考えたとき、やはり不満を露にしてた通り、原作テイストを盛り込んでない=盛り込むべき、だということですよね? と申し上げたんです。
あのようなエンタテイメントを作る制作側は、あなたの考えるような哲学を盛り込むことはおそらく考えないです。いかに利益を作れるか、に尽きると思うんです。
しかし、原作がある以上、それに一定の敬意を払うのは制作陣の責任だと思いますよ。実際映画版は敬意を払ってると感じました。まぁ、あなたはそうは思ってないでしょうが。
ミラー版はこうでこうだから、というのは、結局は「あなたのあなたによるあなたのためのバットマン哲学」であるのです。
平たく言えばですね、「ジョーカーにスポットが当たりすぎだ」だの、「ダークナイトを軽々しく考えてる」だの、
あなたは”わずかな違いを嘆いてる”んでしかないんですよ。
バットマンだってバットマンの格好してたでしょう。ジョーカーもちゃんとピエロみたいなメイクしてたでしょう。
かっこいいバットマンの道具や乗り物も登場したでしょう。
ジョーカーにスポットが当たりすぎてても、迫力満点のバットマンのアクションシーンも盛りだくさんだったでしょう。
あなたは私よりも考えすぎてて求めすぎです。 求めすぎるから失望と怒りも大きいんだと思います。
ちなみに、私の言った「わかってない」や「勘違い」は、侮辱するような言葉ではありません。何度も言うようにあなたの被害妄想ですよ。
私は答えました。
あと、こういう言葉があるのですが、知っておいて損はないと思います。
■・批評家、それは理解できないことをののしる者。 byクウィンティリアヌス
■・批評家を喜ばせる必要はない。一般大衆が相手である。 byディズニー
とおっしゃっていましたが、
理解できない、根拠がなければ疑問を投げかける・・・・。これ、、、当たり前だと思うんですが。
何かを学ぶときも理解するまで疑問を持って人に聞くなり自分で調べますし、人が根拠がないことを言ってるなぁと思ったら、なぜそう思うのかを聞くと思うんですよ。
ですから、、、あなたは、、「映画人を批判するのは自分の勝手だけど、自分の批評を批判されることは許さない」ってことなんですね。
つまり、反論するな、自分が正しい、ってことなんですね?
銀行強盗のシーンの件について、決着がつかないみたいなので、もう一つ。
マフィアの銀行を襲ったから、後のマフィアとの抗争に繋がってるって、おっしゃってましたが
マフィアの銀行を襲わなくても、マフィアの縄張で殺人やなにやらで暴れまわってたら、イヤでもマフィアに目を付けられると思うんですよ。
ジョーカーにとってマフィアなど眼中になく、あくまでバットマンを的にかけてましたよね。
そのことから察すれば、やはりバットマンへの当て付けという解釈が正解だろう、と申し上げたのです。
あの映画は、ジョーカーとバットマンの対決を軸にしてるんですから。
さらには、市長を狙ったときや、病院爆破も昼間でしたよね? そのときブルースはなにをしてました?
バットマンでいましたか? いいえ、ただの一般人になってました。
また病院爆破にも、バットマンに対する当てつけがあります。
あの病院を爆破してしまえば、いや、仮に爆破はしなくても「どこかの病院を爆破する」と爆破予告をするだけで、最寄の病院を必要とする急患の患者が何人も助からない可能性が出てきますよね?
それなのに、ブルースときたら、なんのプライドなのかバットマンにならず、しかもリース一人の命を救うことを優先しています。
つまり、そこでジョーカーが言いたいのは、「本当に今病院が必要な多数よりも、自分(バットマン)の正体を暴こうとしてる一人のクズの命、どちらを取る?」という趣旨を伝えるメッセージなんですよ。
結局、リース殺害を阻止することを選んでましたがね。
それについて反論を
>夜にこっそり盗むのが技術的に難しいのか、それともただ単に映画として見栄えがするからなのかは私にはわかりませんが。たくさん映画を見ている人からすれば、白昼の銀行強盗は、むしろ普通のことのはず。したがって、白昼に銀行強盗がなされていること自体だけでは、別に特別なことでもなんでもないのです。どうも、このエントリに絡んでくる人は、「映画を知らないアメコミマニアが映画を批判している」と誤解している人が多いようなんですが、そんなことはないんですけどねえ。大ざっぱに概算してみましたが、私、2000本以上は裕に見てますね。よっぽど気合の入ったシネフィルでない限り、私より映画を見ている人はあまりいないでしょう。その上で、映画内での白昼の銀行強盗は普通のことだと思っているんですが。
の最後の部分の >私、2000本以上は裕に見てますね。よっぽど気合の入ったシネフィルでない限り、私より映画を見ている人はあまりいないでしょう。その上で、映画内での白昼の銀行強盗は普通のことだと思っているんですが。
どれだけ映画を観てようが関係ないですね。 私の言いたいことは、あくまであなたのあの評論は的外れだということを申し上げてるんですよ。
逆に言えばですね、2000本以上観ていると豪語してましたが、それだけ観ててもあんな的外れなものに仕上げたのかと、驚きました。
所詮は広く浅い、ということなんでしょうか。本当に2000以上観たのか少し怪しいものです。
明らかに、自分の知識は幅広い=考慮も深い、という図式にしてますが、それを思い上がりというんですよ。
他の方のコメントを引き合いにしてますが、
なんども
言うように
あなたは
映画版をよく観もしないで評論なさってるから、指摘したまでです、よいうことを
申し上げてるんです。
人に思い上がりだなんだの言ってますが、あなたの反論文を読んでると、ほとんどあなたの欠点では? と思いました。
あなたの知識は幅広いことは認めますよ。 ただ、考えも深いかは、どうかなと思うました。
しかし、いろんなものを引き出しても、頭の回転が速すぎれば遠心力が強くかかりすぎてほとんど飛んでしまいます。
それでは初めから引き出してないのと同じです。
あなたの評論に「ノーラン監督の演出がいかにダメか書いてしまった」とありますが、
書いてあるのはあなたの「バットマン哲学」であり、しかも映画版をよく観ていません。
例えば、「映像と音楽の組み合わせにセンスが感じられない」とか、「シーンの組み立てにメリハリがないとか」、演出を批判することなんて書いてないですよね?
つまりあなたは映画版を利用して、あなたの「バットマン哲学」を展開してドヤ顔しているに過ぎないんですよ。
結局、形の上は返答しているように見えても、返答していないですね。
>あなたの評論に対する私の指摘と、それに対する反論文の文章のやりとりで、「この方の言う”監督の責任”というのは、原作のテイストを汲まなく取り入れることなのだな」と感じたまでです。
結局、根拠は、相手はこう言っている、と「感じた」だけなのね。
>あなたの肩書きは評論家か批評家か、またはアマチュア評論家か知りませんが、クレジットの問題についても、どちらにせよ根本的な問題として、一観客が制作陣に対して責任を説く必要性などありません。
クリストファー・ノーランは与えられた脚本を撮っただけ、という立場に基づいて私を批判していたはずなのに、やはりその点はスルーですか。「どちらにせよ」って……
もういいです。やはり、あなたとはまともなやりとりはできません。私が言ってもいないことを言ったことにしておいて、撤回する気もないようですから。
しかし、さんざん人に対しては、嫌なものがあるのなら見なければいい、不満など言わなければいい、と言っているのに、なんで自分ではそうしないのか不思議ですね。商業的に公開されている作品に対しては評価も批判も両方集まるのは普通のことなんだから。批判を見るのがいやなら、自分の言う原則に従って、このブログを見なければいいだけのように思えるんですがね。
自分が金を払って見た映画の不満点を述べたら、「大衆」ではないんですかね。「批評家」なんだ。わけがわからないな。
>理解できない、根拠がなければ疑問を投げかける・・・・。これ、、、当たり前だと思うんですが。
>何かを学ぶときも理解するまで疑問を持って人に聞くなり自分で調べますし、人が根拠がないことを言ってるなぁと思ったら、なぜそう思うのかを聞くと思うんですよ。
いやあ、よくもまあこんなことが言えますねえ。もともと言っていたのはこういうこと。
>コミックスの地位は低いかどうかわかりませんが、馬鹿にし蔑む対象でしかない。というのはどのような根拠があるんでしょうか?
>そんなことないと思うんですよ。 インテリでもヒーロー物が好きな人もいますし、インテリ層でなくても、ヒーロー物は好みではないと思う人もいると思うんです。
>なのに断言してしまってるので、なにを根拠にしているのか理解できませんでした。
ただ単に自分が知らなかっただけなのに、「インテリでもヒーロー物が好きな人もいますし」と、私が一方的に間違ってる前提で話を進めていましたよね。
ごく普通に、「そういうことは聞いたことがなかったんですが、そこに根拠はあるんですか?」と聞くだけなら、別におかしくなかったんですけどね。
相手が間違っていると一方的に決め付けているから、おかしなことになっているんですけどね。
そもそも、人にはそれぞれ生活のリズムというものがあるので、あれだけ長いコメントを投稿されても、すぐに応答できるとは限りません。にもかかわらず、相手の応答を待たずに何度も連続して投稿するあなたの姿勢に、最初から、相手がどう応答しているのかを意に介さない態度がよく表れています。
これだけ馬鹿ていねいに応答しているのに、いまだに、私は相手に「反論するな」という態度を取っていることになっているんだ。なんなんだろう。
もうあなたの相手をするつもりはないので、最後に、まとめとしての応答をします。
評論とは何か、という物凄く広いテーマに関してあれだけ断定していたあなたが、なぜか例として持ち出したのがラーメン評論だったことには、物悲しさを覚えたのですが。ラーメン評論というものに、評論の典型例のようなものが幅広く蓄積されているとはどうしても思えないですから。要するに、それがあなたの限界ということなのだと思いますので、可哀相だからあなたの水準にあわせることにします。
私がこのエントリで言っていることは、ラーメン評論に例えて要約すると、以下のようなものになります。
B店の新作ラーメン、「Aラーメン」を食べてみた。色々と疑問点が浮かんだので、もう一度食べてみた。ここで、その疑問がより強まり、さらに、怒りを覚えるまでになった。
たしかに、B店の「Aラーメン」のチャーシューは非常によく出来ており、これには満足した。しかし、チャーシューの味ばかりが際立って、他の具がむしろ見劣りがするので、トータルとしてはバランスが悪い。
しかし、このラーメンには、単にバランスが悪いという以上の問題がある。
もともと「Aラーメン」という名称とその材料の選択は、A店のものなのである。今回、A店よりもはるかに規模の大きいB店がA店と提携し、同じ名称で同じ材料を使った「Aラーメン」を発売することになったわけだ。
A店は規模は大きくないものの、既に数十年も営業を続けており、熱心な固定ファンもついている。「Aラーメン」というメニューも、創業以来の人気メニューである。
しかし、「Aラーメン」についてもマンネリ化が続いてはいた。そして、数年前のことである。いまや伝説的なラーメン食品がA店に現れ、大幅な改革をして見せた。それまでと全く同じ材料を使っているにもかかわらず、一気に味に深みが加わったのである。ここで、一部のマニアの間で人気が爆発した。これ以降、「Aラーメン」の名称は、この味とともに覚えられることとなったのである。
規模の大きなB店がA店と提携し、「Aラーメン」という名称で新作を売り出すことは、大きな注目が集まった。
私自身、その動向に注目していた。しかし、いざ実食してみると、失望するものでしかなかった。大型規模の店舗としては普通の完成度なのかもしれないが、この程度の味であれば、「Aラーメン」という名称は使って欲しくなかった。
もちろん、B店がA店のAラーメンを完全に再現する必要などない。既にA店でも、伝説的な職人が同じ材料を使いつつ、大胆に味わいを変えてみせたことがあるのだから。B店が「Aラーメン」という名称とその材料を使いつつ、新たな斬新な味覚を生み出してくれるのなら、それはそれでよかった。
しかし、これは、チャーシューの味わいは目立ちながらも、全体としては単に中途半端な完成度、そこそこの味のラーメンになってしまっている。
このラーメンなら、「Aラーメン」という名称は使って欲しくなかった。B店の方がA店よりもはるかに規模が大きいので、今後、B店の方の味が「Aラーメン」のイメージとして定着してしまうと残念だし、怒りを感じる。こういう状況を生み出してしまうB店の店主には、思い上がりを感じる。
私の言っていることは、これ以上でもこれ以下でもありません。私は、B店のラーメンがA店のラーメンとは味が違うと言って怒っている人ではありません。また、B店のラーメンで初めて「Aラーメン」というものを知って支持した人を馬鹿にするような発言も、どこにもありません。
そもそも私は原作と映画を混同して批判するようなことは、どこでもしていません。例えば、これはchiquiさんのコメントへの返答で書いたことですが、私はガイ・リッチーの『シャーロック・ホームズ』を評価しています。あれは、シャーロック・ホームズという有名なキャラクターを素材にして、原作とは全く異なるキャラクター像を提示してみせた上で、映画として「あれはあれでいい」というものだったと思っているからです。もちろん、原作のシャーロック・ホームズ全集を読破した上で言っています。
私の言っていないことを言ったことにしたうえで批判されてもねえ。
私はこうしてていねいに反論に応じているのに、いまだに反論を受け入れてすらいないことにされている。本当に馬鹿馬鹿しいので、もうあなたに何らかのレスポンスを返すことはありません。あなたのコメントを読んでいる限り、相手の反論によっては自分の言うことを検討・反省するような姿勢がありませんから。私が何を言っても、言わなくても同じことになるとしか思えないからです。だったら、あなたにつきあう労力を消費させられるのは100%ムダですから。
このコメント欄を閉鎖することも検討していますが、どっちにしても、今後、あなたのコメントは読まずに削除します。
ただでさえあれだけ長い分量のコメントを、相手の応答を待つことすらせずに他人のブログに連続投稿し続ける行為は、ネット上での常識的な許容の限界を超えていると私は考えます。繰り返しますが、自分のブログなりなんなりを確保した上でやってください。仮にそうしたとして、トラックバックなどは送らないことを希望します。まあ、送られてきたとしても、レスポンスもしなければ読みもしませんが。
フリーメールのアドレスも公開していますが、あなたからのメールがきたと判断した時点で削除します。
また、他のハンドルネームを使って他人を装っていると判断した場合にも、同じ処置を取ります。
逆にあんたが作った映画が見てみたいもんだ。どれだけのもんが作れるか楽しみだ。ま、どうせ大した出来にはならないと思うけど。
金払ってラーメン食った人間が「まずい! なんだこれ」って言ったらいかんのかね。
「お前はこのラーメンのこういううまさがわかってない」という反論ならわかるけど。
「ラーメン作ってる人に文句言うな」「だったらお前がもっとうまいラーメン作ってみろ」って、なんだそりゃ。
「批判するより優れたものを作れない者には、批判する資格はない」というようなことを言う日本人は多いけど、論理的な根拠が全くないなあ。しかも、何も根拠がないのに、自分がいっぱしのことを言ったようなつもりになってるから余計タチが悪いな。
こういう連中って、他人には「文句を言うな」「不満を言うな」という態度を取るくせに、自分にもそれを適用して黙ることはしないのね。矛盾を感じないのかねえ。
マズイとかここがダメだ、の一言で済ませれば一般客の感想だけどあんたが書いたような文ではもはや「あんた、偉そうなこと言うとるけど、そんなにわかてるならそれ以上のもん作れるんですよね?」ってレベルや
ブツクサ批評を長々と書いとるけどあんたの批評は論理性がまったく感じられなかった。所詮趣味レベルの人間が無理に能書き並べてる批評だなって思っただけ。
ちなみにダークナイトはそんなに酷い映画じゃなかったよ。椅子から思わず立ち上がるくらい面白いとまではいかないけど。
あんた他の返事にも根拠根拠って馬鹿の一つ覚えのように追求してるけど、あんた根拠がないとやっていけないわけ?
まともな反論て、あんたの批評そのものがまともじゃないのに、まともな反論しろて矛盾を感じないのかねぇ?
聞くけどあんたが映画作るならどういう手順で作るの? 是非聞いてみたいわ
それこそ矛盾やないかい。あんた、自分自身の言論の自由の権利は主張して他人の言論の自由はスルーかい。ほんま笑えるのあんた。 あんた他の人も言うとったけどほんま独善的なんや。 文章にもそれがにじみ出とるで。
何かに文句付けるならまた違う輩に文句付けられることも理解しいや。あんた自分の価値観が正しいて思い込みすぎなんや
別にバットマンのファンてわけやないけどあんたの批評は偉そうで読んでて腹立つんやわ。 それで文句付けたんや。根拠もクソもない、それだけや。
>あんた他の返事にも根拠根拠って馬鹿の一つ覚えのように追求してるけど、あんた根拠がないとやっていけないわけ?
根拠があれば、主観ではなくてきちんとした客観になる可能性がある。根拠なしに主観のみを垂れ流してもしょうがない。なおかつ、他人の個人ブログでそんなことやる人間は相手にされずに冷たい扱いを受けてもしょうがないと思うけどね。
むろん、「あんた、偉そうなこと言うとるけど、そんなにわかてるならそれ以上のもん作れるんですよね?」などと思うのは個人の勝手。しかし、その主観(=妄想)に従うよう相手に要求できると思うのはおかしい。
自分が主観的に「そう思った」というだけで、他人が自分の考えに従った行動を取るべきだと思えちゃうのはヤバイ。ここは匿名掲示板でもなければ、君の家族が運営している場でもない。君の主観に合わせて他人が行動してくれるわけがない。甘ったれるな。
>それこそ矛盾やないかい。あんた、自分自身の言論の自由の権利は主張して他人の言論の自由はスルーかい。ほんま笑えるのあんた。
意味が分からん。こちらは最初から、作品への不満があれば、どしどし述べてよいと思っている。「不満を口にするな」と言ってくる人が過去にいたから、「じゃあ、何でそういう人は、自分の不満は堂々と述べるんだろう」と思っただけ。
何も矛盾してない。何も矛盾していないのに、矛盾を見つけ出した上で、「笑える」のか。凄いな。きっと愉快な人生を送っているのだろうな。
私は君のママじゃないし、いちいち君の主観に合わせてあげることはしないから。なのでもうこれ以上は反応しないから。
それやのにあんたはなんや? 売り言葉に買い言葉やないかい。そこが所詮アマチュアレベルの思い上がり批評家やちゅーことや。
「馬鹿の真似する賢者。賢者の真似する馬鹿者」って言葉があるんやけど、後者はあんたがまさにそうや。賢者気取てるけど矛盾もわからへんやん。
あとなんべん言わすつもらやわからんけど、あんたが作品に文句つける自由はあってあんたに文句つける自由はあらへんのかいな? 独善やのうて偽善や、あんた。なにが矛盾があらへんの? 矛盾だらけやないか。酔っ払いに限って酔ってへんて言いはるのと同じ理屈や。ほんま笑えるのぉ。
くだらんことばかり考えとらんともうちょい大事なこと考えてみいや。
あんたが言いたいことは、作品への不満やあらへん。自分が一番思てる通り越して人を見下しとんねん。それだけの目的やろ? それが自己顕示欲言うねん。
そのまま逃げたら自分のいたらん所を認めたことになるで?
提案しとるだけや、誰が服従しろ言うとんねん。あんたは悟るっちゅう能力が極端に低いねん。
あれだけの偉そうな批評書いたらそれ以上のもん作ってあんたの考えが正しいか"証明"してみいて提案しとるんや。
行動力ないヤツに限って文章タラッタラ長いねん。行動力の無さを長文で補おうとしてるようにしか見えへん。どや?図星やろ?
そうやない言うなら証明してみいってことや。くだらん長文書いても意味ないで。第一あんたの文は面白ないんや。それだけや。
そんだけ達観してるゆう態度取るなら出来るやろ?
>こういう連中って、他人には「文句を言うな」「不満を言うな」という態度を取るくせに、自分にもそれを適用して黙ることはしないのね。矛盾を感じないのかねえ。
私がこう書いたのは、「連中」という言葉からもわかるように、一般論を述べたのであって、君に対する応答として書いたのではない。
私は、君個人に対して、「私に対する不満を書くな」などと述べたことは一度もない。
というか、現にこうして赤の他人の個人ブログで批判を述べる自由を与えられているのに、なんで私が他人の自由を剥奪していると思い込めるのかね。
前に対応した頭のおかしい人も「あなたは他人からの批判を認めないのか」などとえんえん言ってきたけど、この点では私は何も矛盾していない。
しかしまあ、「根拠」などいらんと言って「論理」を軽視する人が、よくもまあ「証明してみい」とか言えるよなあ。
私は、君の「提案」などの類には一切乗らないから。
>批評家でもクリエイターでも、まともな人間は自分へのどんな乱暴な批評に対しても真摯に丁寧に答えるもんや。
これもまた、何の根拠もないね。「まあ、根拠がなくていいって言ってるんだから一貫してるわけだけど。根拠がなくても、せめて実例ぐらい示してくれるとこっちも納得するんだけど。
まあ、ちょっとコメント欄をいじるので、もう「自由」は与えませんが。