The Red Diptych

2010-03-14 東浩紀『クォンタム・ファミリーズ』は「よくできた宿題」か?

 東浩紀の小説『クォンタム・ファミリーズ』を読んだ。正直なところ、私自身は、たぶん東浩紀という人が最も嫌うタイプの読者だ。東が主に『批評空間』の界隈で活動していた頃、そのデリダ論を読んで興味を持ち、最初の三冊くらいの著作は面白く読んでいたのだが、『動物化するポストモダン』あたりから、この人の論じることに興味を失っていった。

 例えば、『動物化するポストモダン』で論じられている議論は、あまりにも単純なように思えた。「データベース」とか言われてもねえ、そんなの文学の領域では、それこそセルバンテスの『ドン・キホーテ』の頃からあるんじゃないの、としか思えなかった。

 そんなわけで、時折東の著作やら書評やらにぱらぱらと目を通すことはあっても、おおむね無関心に過ごしてきた。そんな私だが、たまたまこの『クォンタム・ファミリーズ』が様々なメディアで紹介されているのに興味を持ち、ふとした気持ちで読んでみた。

 この小説をある程度の分量読み進めて、まずはその完成度の高さに驚いた。これは決して、理屈先行の批評家が頭でっかちに書き上げた小説ではない。プロの小説家が商品として完成させたと言えるだけの、確かな完成度を備えている。

 しかし、断っておかなければならないが、私はこの小説を褒めているわけではない。むしろ逆である。かつて『存在論的、郵便的』という著作を書き上げた人物が、このような小説を書いてしまうということに潜む問題を、このエントリでは少し細かく書いてみたい。


 もしも『クォンタム・ファミリーズ』という小説が、新人SF小説家がデビュー作として書き上げたものであったならば、それほど言うべきことはない。これは確かに、そこそこよくできたSF小説だ。しかし、それ以上のものではない。作中では近未来のネット世界について細かく設定が構築されてはいるものの、それこそイーガンあたりの小説で見たことのあるような設定ばかりだ。また、SFのストーリーを語りながら、実は作者の極めて個人的な事情が語られているというのは、まさにディックがやったことだろう。並行世界に迷い込んでしまう話なら、『流れよ我が涙、と警官は言った』が思い出されるが、あそこにあった切迫感は、この『クォンタム・ファミリーズ』にはない。しかしもちろん、ディックやらイーガンやらに匹敵する才能がぼこぼこ現れるわけがないのだから、「きちんと商品として成立している、そこそこよくできた佳作」の出現は喜ばしいことだろう。以上。

 しかし、著者が東浩紀である以上、私としてはこれで終わりにすることはできない。東自身の著者インタヴューなどを読んでいると、『クォンタム・ファミリーズ』は『存在論的、郵便的』と密接に関わった著作であるのだという。もちろんそれはわかる。しかし一方で、『存在論的、郵便的』で否定された方法論に、東自身が『クォンタム・ファミリーズ』においてはまりこんでいるように、私には思えたのだ。

 この小説を読んでいたとき、私はふと思い出したことがある。それは、批評家時代のジャン=リュック・ゴダールスタンリー・キューブリックの初期作品『現金に体を張れ』を評して述べた言葉、「これはよくできた宿題に過ぎない」、というものだ。要するに、既存の価値判断の文脈からしてそこそこ評価されるだろうことがわかりきっている題材を、こじんまりと完成度だけは高く仕上げたことに対して、ゴダールは嫌みの一つも言いたかったのだろう。

 私はこの「よくできた宿題」という評価は非常に腑に落ちた。ここからは私の考えなのだが、『現金に体を張れ』という作品の持っている完成度の高さには、かなり問題がある。と言うのも、そこでは、「語られる内容」と「語る側の態度」があまりにもかけ離れてしまっているからだ。

 『現金に体を張れ』では、競馬場からの現金強奪をねらう犯罪グループの計画の一部始終が、非常に丹念に描かれている。このグループは、極めて入念な強奪計画を細部の動きに至るまで事前に練り上げ、計画通りに犯行を遂行する。しかし、些細な偶然の介入から計画は破綻していき、遂には完全な崩壊に至る。

 つまり、語られる物語の内容として、事前の段階で現実とは無縁に練られた計画は、どれほど完璧に見えても、現実においては完璧なままで実現することなどできないことが語られているわけだ。

 しかし、ならば、なぜキューブリックはそのようなストーリーを「完璧なストーリーテリング」で語ることができるのだろうか。この映画では、ストーリー全体を統御する語りは全てを俯瞰する神の視点に立ち、複雑に入り組んだ時間関係を自由自在に往復し、それら全てを縫合し、完璧に一部始終を語ってみせる。

 この映画では、現実とは無縁の「完璧な計画」が、現実に実施する際には、崩壊せざるをえないことが語られている。しかし、そのような一部始終を語る側の語りの構造が、まさに事前の計画通りに整然と構築されてしまっている。そして、語りの構造が「計画の崩壊」という危険とは無縁の安全地帯にいるからこそ、それなりに完成度の高い作品として全体を仕上げることが可能となっている。

 そして、東浩紀の『クォンタム・ファミリーズ』もまた、『現金に体を張れ』がはまりこんだのとほぼ同質の罠にはまっているように思えるのだ。


 私にとって、東浩紀という人物がそれなりに完成度の高い小説を書いたことが意外であるのには、一つの理由がある。それは、執筆活動を始めて比較的初期の東が、以下のような文章を書いていたことを覚えているからだ。


 実は僕は中学二年生ぐらいのころ、一度SFを書こうと思っているんです。ところが面白いことに、そのころのノートを見ると僕は物語に興味がない。では何に興味があるかと言うと、組織の名前だとか、個人の名前だとか、惑星の名前だとか、彼らの喋っている言語、あと地図とか、そういう断片的設定ばかりなの。そしてその設定を充実させていくために、外国語の文法を勉強するとか、ニュースを見て外国人の名前が出て来るとメモしたりとかね、地味な努力をしてたんです。あと二種類くらい文字を作ったり。つまりもともと僕には、読めないもの、意味が分からないものに対する、視覚的なフェティシズムがある。 (「オタクから遠く離れて」、『郵便的不安たち』所収)


 東自身の「視覚的なフェティシズム」という説明は、すでに『クォンタム・ファミリーズ』を読み終えている私にとっては、あまり説得力のあるものではない。

 むしろ、上に引用したような東自身の兆候こそ、『クォンタム・ファミリーズ』において「検索性同一性障害」と呼ばれた架空の病の起源ではないのか。そしてこの小説自体が、まさに東自身が「検索性同一性障害」を治癒するためにこそ書かれているのではないか。

 「検索性同一性障害」という病は、作中では以下のように説明されている。


 単語や記憶を脳内で検索すると、脳がその単語や記憶から導出可能なすべての命題空間をひとしく探索してしまうようになる。つまりは、自分がかつて行ったこと、いま行っていることと、かつて自分が決して行わなかったが、しかし行う《かもしれなかった》ことの区別がつかなくなる。そして自我が壊れる。


 このような病は、いかにして治癒することが可能なのか。さし当たってどのように解決したらよいのかについては、例えば風子も次のように語っている。


 ひとはときに物語を書くことで癒されると言います。


 そう、物語を語ることは、検索性同一性障害を癒すのだ。なぜなら、単一の完成された物語は、様々な《かもしれなかった》可能性、幽霊を排除するからだ。単一の物語は、必然の因果関係の連鎖から成る。だからこそ、ここにおいて村上春樹の小説が召還され、主人公である葦船往人を癒すことになる。あるいは、単一の物語を語る「児童文学作家」は、後には新興宗教の指導者となり、検索性同一性障害を癒しうる存在になり、次のように語ることになるわけだ。


 ひとは可能性に囚われてはならない、可能性について思い悩んではならない。ひとは環境が許すままにただ一回の運命を辿りそして死ぬ、それが彼女の教えだった。


 ここにおいて、『クォンタム・ファミリーズ』において東が賭けている課題は、確かに『存在論的、郵便的』と同じものであることが確認される。東が『存在論的、郵便的』の第一章でまず問題としていたのは、フッサールによって自明視された「超越論的歴史の単一性」であったからだ。

 『存在論的、郵便的』では、「《そうであったかもしれない》可能性」が排除される、「超越論的歴史」の記述からいかに逃れうるのかが執拗に検討されている。その検討の際、むしろもっとも問題となるのは、「超越論的歴史」からの脱出法として陥りがちな「否定神学システム」への批判であった。「超越論的歴史」は、無矛盾な完全な体系を志向する。ゆえに、記述不可能な対象の存在自体が否定されるわけだが、このような体系の完全性は、「記述不可能な対象」をただひとつ指し示すだけで崩壊する。

 しかし、ただ一つ指し示された「記述不可能な対象」が、「語りえないもの」として逆説的に特権化される場合がある。そのような場合、「唯一の、記述不可能な対象」を空虚な中心として特権化することで、逆説的ながら、「超越論的歴史」を批判する言説もまた安定したシステムを持つことが可能になる。東はこれを「否定神学システム」と呼び、その名の下に、ハイデガー、前期ウィトゲンシュタインラカンなどを一様に批判したのだった。

 そして、そのような「否定神学システム」から逃れる可能性があるとされるデリダについて、東は以下のように書いていたのだった。


 ラカンにとって「不可能なもの」は単数、ひとつである。だからこそ、フロイトもポーも自分も同じ「不可能なもの」に直面することができる。(中略)他方デリダにとって「不可能なもの」とは複数であり、決してひとつではない。


 このように整理してきた『存在論的、郵便的』の課題は、確かに、『クォンタム・ファミリーズ』で再検討されている。もはやここではデリダの読解を通してではなく、東自身が投影されているとおぼしき葦船行人の実存を通して問われている。

 だからこそ、葦船往人は様々な並行世界を行き来し、自分自身と自分の家族の、様々な「ありえたかもしれない」可能性に直面することになるわけだ。

 彼自身が検索性同一性障害を患っていることが示唆されている葦船往人は、同時に、単一の物語を語ることのできない存在としてある。例えば、ある並行世界の内の一つでは、葦船往人が娘である風子に残した、書きかけの物語が示される。その物語は途中で打ち切られ、結末については「複数のプロット、準備稿」が残されているとされる(それにしても、ここでいう「プロット」とは何のことだろう。それを言うなら「シノプシス」のことではないだろうか。「プロット」というのは抽象的な筋そのもののことを言うのであって、「プロットを書く」などということはできない。日本では(特に映画業界なんかには顕著だ)、このようなナラトロジーに関わる用語への雑で無頓着な使用が多く見られ、非常に残念だ)。

 葦船往人は単一の物語を語ることができず、複数の可能性を同時に並列させてしまう。だからこそ、その児童向けの小説は成功しなかったのだし、妻でありベストセラーを連発する児童文学作家の大島友梨花に、様々な並行世界で、様々な局面で敗北し続けることにもなる。

 だから、問題は、葦船往人の決断にこそある。検索性同一性障害(もしくは、その兆候)から逃れるために、単一の物語に癒しを求めた葦船往人は、それをも拒絶する。その両者に引き裂かれながら、いずれにも陥らないオルタナティヴを見いだせるのかどうか、それこそが最大の焦点となる。

 ここで、作品の構成を改めて確認してみよう。この作品は、「物語外1」、「第1部」、「第2部」、「物語外2」という順で配列されている。そして、最後まで読むと、「物語内」であるととりあえずは言える「第1部」と「第2部」が、作中の時系列で最も未来にある汐子によって統御された物語であるらしいことがわかる(一つの作品の中で「物語内」と「物語外」を作者が恣意的に分割できるという思い込みが、東のナラトロジーへの無知を改めて露呈しているのだが、そのことについては後で述べる)。

 「汐子の一貫した意図で設計されている」物語世界の内部で、葦船往人は最終的にどのような決断をするのか。


 往人がなにを質問したとしても、この世界ではそれらしい解答が用意されているだろう。あらゆる伏線は回収されて、物語はそれらしい結末を迎えるだろう。いかに現実が突拍子もないものに見えたとしても、そのすべてはどこかの水準で必ず解かれ線形化されるだろう。


 そしてこれら全てにうんざりした葦船往人は、汐子による「因果の円環が閉じ」るのを拒絶する。そして、汐子の物語が終わるのとまさに同じ時点で、葦船往人は死亡する。

 汐子の物語に対して、葦船往人は、その物語によっては語られえないものを示した。それは、葦船往人自身の実存である。そして、より具体的には、その実存自体の「死」である。その物語の一人称の語り手=葦船往人自身の「死」は、物語の作者=汐子にとっても表象しえないことは明らかだ。

 だが、果たしてこれが、単一の物語という、「超越論的歴史」と同質の記述方法を持つシステムに対する批判でありうるのか。葦船往人のやったことは、まさに「単数の、不可能なもの」を指し示したことに他ならないのではないか。

 東はかつて、ハイデガーを「否定神学システム」の名の下に批判した。しかし、『クォンタム・ファミリーズ』においては、批判すべき物語そのものの持つリミットが、その終わりと重なる表象不可能な「死」によって示されているのである。これは、現存在の特徴であり限界でもあるものを、それ自身のエンドとしての「死」を先取って自覚していることに見い出した、ハイデガーの現存在分析といったい何が違うというのか。

 『クォンタム・ファミリーズ』の持つ語りの構造は、明確に否定神学システムにのっとっている。確かに、この作品の語る物語内容のレヴェルにおいては、多くの登場人物たちが多くの可能性に引き裂かれ、「郵便的不安」に苛まれている。しかし、そのような複雑な内容を持つにも関わらず、ウェルメイドな小説としての一定の完成度の高さを保ててしまうのは、この語りの構造によっているのだ。そもそも、かつて東自身が、次のように語っていたのではなかったか。


 一方で「論理的脱構築デリダ的な脱構築とは区別される、否定神学的な脱構築のことーー引用者注)」とは、まず(1)所与のシステム(あるいはテクスト)を形式化し、つぎに(2)そこに自己言及的な決定不可能性を見出し、最後に(3)そのポイント(あるいは穴)を超越論化することでシステム全体の構造を逆説的に説明する思考です。逆説的にというのはそこでは、問題のシステムはつねに、安定性を欠きつつも、まさにその不安定性によって安定しているものだとして説明されるからです。  (「デリダの可能性の中心を読むために」、『批評空間』第2期18号所収)


 『クォンタム・ファミリーズ』という作品が、高度に思弁的な内容を含みながらも小説としての安定性を獲得していることは、決して誇れることではないのだ。

 そして、この作品が否定神学システムを採用してしまっていることは、おそらくは東の「語られる内容」以前の「語りの構造」への配慮のなさが原因となっているように私には思える。例えば、先ほども書いたことだが、東は安易に「物語内」と「物語外」を区分してしまっている。しかし、ある作品の内部で語られる「物語」とは、その作品内の全ての時間・空間を内包するものであり、そこに恣意的な分割をはさむ余地はない。そして、その物語の全てを統御する者が話者なのであり、「単なる事実」が列挙されているだけであっても、話者の管轄外となることはない。

 そして、このような語りの構造、記述する側の方法論の欠如が、『存在論的、郵便的』の時点からあったように思えるのだ。上に引用した文は、『批評空間』での東のデリダ論をめぐる共同討議の際に東自身が書いた基調報告なのだが、この共同討議の際、東は浅田彰から再三に渡って同じ質問を投げかけられている。


 第二期のデリダはなぜこういう奇妙なテクストを書いたのかという問いから出発して、さまざまな角度から議論が展開され、いろいろと解答らしきものが与えられる。しかし、じゃあ、その奇妙なテクストはほんとうにうまく機能したのか、また第三期になってなぜデリダはそういう奇妙なテクストをあまり書かなくなってしまったのか、そもそも東さん自身がなぜそういう奇妙なテクストを書かずに、できるかぎり明快に書こうとしているのかというもっとも重要な問題群への答えが、最後までよくわからないわけですよ。


 あなたが第二期のデリダをおもしろいと思っているのに、なぜ第二期のデリダのようなテクスト的パフォーマンスではなくて、非常にきっちりした書き方をするのかーーつまりデリダがパフォーマティヴに示すにとどめたことをコンスタティヴに記述するのかという問題が、必然的に問われるんじゃないの。


 正直なところ、私は浅田彰という人のことは大嫌いなのだが、これについては、全く浅田の言う通りだと思う。そして結局、東はこの問いに正面から答えることを回避したのだと思う。

 デリダが直面した困難な問いは、デリダ自身に対して、極めて複雑な記述方法を強いた。そして、『存在論的、郵便的』における東は、それら全てを明快に記述することを試みながら、その記述の不可能性にぶちあたり、最終的に記述を放棄した。なぜ自分が明快に記述しようとするのか、そもそも明快に記述することが可能なのかどうかを問うていなかったのだから、それは半ば必然的なことですらあるだろう。しかし、少なくとも、デリダが直面した困難さを、東自身もまたくぐり抜けていたのだとは言える。

 そのように考えれば、『クォンタム・ファミリーズ』は、明らかに『存在論的、郵便的』の地点から後退している。確かに作中人物は「郵便的不安」に取り組んでいるものの、作者の審級にいる東自身はその困難さを共有せず、安定したシステムの中で安住しているだけである。

 なぜ、『クォンタム・ファミリーズ』は小説の形式で書かれなければならなかったのか? そのように問われたとき、東は正面からその問いに答えられるのだろうか。

 私としては、正直なところ、この作品は、まず先にウェルメイドな小説のフォーマットを形作り、その内部でいろいろなテーマを展開させたようにしか思えないのだ。

 そして、これははっきりと断言できる。最初の小説としてこのような作品を書いてしまう小説家は、うまくすればキューブリックくらいにはなれるかもしれないが、ゴダールになることは絶対にないであろう、と。


 最後に補足。『クォンタム・ファミリーズ』を最後まで読んで思ったのだが、この作品での村上春樹の扱いは非常に問題があるように思えた。

 例えば、以下のような記述。


 そしてぼくは村上春樹の小説を読むようになった。春樹は好きな作家ではなかった。ぼくの世代の「批判的」な小説家は、たいていは春樹を軽蔑するように訓練されており、ぼくもまた例外ではなかった。けれども、深夜の研究室で、ぼくはいつしか春樹の作品を読みふけるようになっていた。


 これは東がほのめかしているコンテクストを知らないと非常にわかりづらい表現だが、要するに、ここでいう「訓練」とは、柄谷・蓮實による抑圧のことだ。この二人が文芸業界のヘゲモニーを取っていた頃は、村上春樹の作品には批評的な価値は全くない、という点については二人の意見がぴたりと一致して、抑圧しまくっていたわけだ。

 つまり、ここで東がほのめかしているのは、自分も柄谷・蓮實の影響を受けていた頃には馬鹿にしていたけど、村上春樹の価値を再発見したよ! ということだ。

 しかし、『クォンタム・ファミリーズ』の全体の構成を見る限り、村上春樹はむしろ「唯一の物語」を語る、否定的で乗り越えられるべきものとしてしか扱われていない。そして、「唯一の物語」を語るものであれば、それこそ別に誰でもよかったのではないかとも思える。それならばむしろ、柄谷・蓮實の方が、理論的に筋の通った村上春樹批判をしていたぶんだけマシだったのではないか(あと、こちらは固有名は出されないのだが、何カ所かで大江健三郎がほのめかされているのも気になった。これは肯定的に参照されているようなのだが、どうも私の推測では、かつての『批評空間』周辺で、大江健三郎中上健次の下におく人が多かったことへの反発のみで書かれているような気がする。これは全くの憶測だが……)。

 そもそも、村上春樹の『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』を可能世界関連のSFに持ち出すことは、適切なようでいて適切ではない。あの作品は、二つのストーリーと二つの世界を交互に語りながら、結局最後には一つのストーリーに統合されただけだ。

 もともと、「二つの一見無関係なストーリーを交互に語る」という技法は、ウィリアム・フォークナーが『野生の棕櫚』で編み出した技法だ。そして、たぶん村上春樹はここからパクったのだろうが、技法の表層をなぞるだけで、なぜそんな技法をフォークナーが必要としたのかは全くわかっていない(もっとも、村上春樹はいつもそんな感じなのだが。例えばヴォネガットをまねるにしても、本当に形をなぞるだけで、ヴォネガットの本質にあるユーモアが完全に消滅していることには愕然とする。自分が格好をつけるために、本当に上っ面をなぞっているだけなのだ)。

 フォークナーの『野生の棕櫚』では、二つの、一見すると様々な共通点が思い浮かぶが、本質的には何の関係もない二つのストーリーが、交互に語られる。そして、この二つのストーリーは、最後まで全く交わらない。しかし、だからこそ、片方のストーリーを読み進めながら、もう片方のストーリーのイメージを重ね合わさざるを得ない。

 つまり、ストーリーを読み進める読者自身の位相において、「幽霊」の持つ「複数の不可能性」が実現されているのではないか。そして、これに比べると、『世界の終りとハードボイルド・ワンダーランド』は、二つのパラレルな物語が単純に一つの物語に統合されることによって、様々なありえたかもしれない可能性は、端的に圧殺されている。

 真に偉大な小説家は、自分が語るべき内容に対しての語り自体の構造を、様々な困難をくぐり抜けて磨き上げる。……いや、そんなことは当たり前のことではあるのだが。それにしても、私としては、フォークナーの新しい読解の可能性に気づけたという意味では有益な読書だった。

Howard HoaxHoward Hoax 2010/03/15 15:16  誤字があったのでちょこっとだけ訂正します。
「デヴュー」と表記していたところがあったけど、「debut」だから「デビュー」ですね。
 これは恥ずかしい……

Howard HoaxHoward Hoax 2010/03/19 23:50  このエントリを改めて読み直してみたら、まだまだかなりの誤字・脱字があったので、訂正しました。ただ、「あしふねゆきと」を「葦船行人」と変換してしまった部分は、一度直そうとはしたんですが、そのままにしておくことにしました。
 これぞ「郵便的誤配」なのではないか、と思ったからです。最初に漱石論で群像新人賞を受賞したときの柄谷行人は、「からたにゆきと」とふりがなをふっていたわけですからね……

なっちゃんなっちゃん 2010/05/28 17:51 この記事に関して(と思える)東さん自身の感想がちょっと前にツイートされてましたね。
読まれましたか?

Howard HoaxHoward Hoax 2010/05/30 17:03 >なっちゃんさん

 はい。結構長い間更新もせずにほっておいたのにやけにアクセス数が増えたので、どうしたことかと思ったのですが、東浩紀自身がコメントしているのをちらっと見ました。
 いや〜、まさかこのエントリが「小説として読んでいない」と言われるとは思っていませんでした。まあ、あまりにも適当なコメントだったので、もしかすると本当は読んでいないのかもしれませんが。取り巻きに「こんな内容のブログがある」とか話だけ聞いて、推測で書いてるだけ、とか。
 このブログのエントリ名から判断すると『クォンタム・ファミリーズ』は趣味に合わないに決まっている、とか言われていましたよねえ。いや、私はそんなに趣味は狭くないですから。確かに、このブログで肯定的に取り上げられているのは、フォークナーやらギャディスやら大江やら、ゴリゴリの主流文学の作家です。しかし、私は『クォンタム・ファミリーズ』を読んで、完全にジャンル小説としてのSFだと思ったので、ディックやイーガンと比べたわけです。そして、「SFとして中の上」だと判断したわけです。これは、適正な評価だと思います。
 ネットでこの小説の評価を色々見てみましたが、大森望が「早くも今年のベスト候補」とか言っていたらしいですが、私の言っている評価もそれとほぼ同じです。たぶん、年度末のSFランキングとかにもランクインはするでしょう。でも、本当にディックやイーガンより凄いのだったら、大森望は「オールタイムベスト候補」と言っていたでしょうね。
 もしも私が「大江や中上や古井に比べたら全然ダメ」とか言っているのであれば、東浩紀が怒るのは当然でしょう。しかし、私はそんなことは言っていません。あくまでもSFという枠組みの中で、「中の上」だと言っているのです。
 これはむしろ可哀想だから書かなかったのですが、そもそもディックやイーガンと比べるまでもなく、国内だけでみても、ごくごく普通に伊藤計劃や円城塔に負けています。東浩紀は国内のSF関連の業界人に知り合いが多いみたいですから、誰もこんなことは正面きって言ってくれないでしょう。しかし、ある程度以上SFを読んでいる人であれば、私の言っていることが適正な評価であるとうなずいてくれると思います。
 『存在論的、郵便的』は、『構造と力』よりも凄い。一方、『クォンタム・ファミリーズ』は、SF小説の国内トップクラスにも歯が立たない、二線級の小説でしかない。私は、そのような価値判断を下しただけです。これが「自分の趣味に合わないものをこき下ろしている」というのは、どういうことなのでしょうか? 東浩紀の自己評価は、「自分の小説はディックやイーガンより凄い」ということでしょうか。……ああ、凄いですねえ。