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2018-08-28 日本人の集団的シンクロニシティ

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 「集団的シンクロニシティ」で論じたいのは、日本人のある特徴だ。仮に「集団的シンクロニシティ」と呼んでおこう。
 事例を示す。
 YouTube拡散している和太鼓の壮大な大人数によるプレイ動画がある。
下の(1)の「This is a Japanese drum line! 」がそれだ。
 和太鼓の恐るべき規模の集団的な同期行動だ。
 もう一つの事例は京都橘高校マーチングバンドの集合行動の動画だ。
下の(2)の「Kyoto Tachibana High School Green Band - 2018 Pasadena Bandfest」マーチングバンドというアメリカ由来のパフォーマンスを本歌取りして拡張している。
 両者のパフォーマンスは世界中の人々の高評価を勝ち得ているといっていいだろう。

 三番目はもっと当たり前の動画だ。(3)「School Lunch in Japan 」で、一小学校の給食シーンを紹介したものだ。2000万viewsなのだが、米国人たちのコメントが興味深い。

 その特徴を振り返っておこう。
 専門の奏者やプレイヤーではない若者たちがこの調和のとれた集団行動を演じている。大学生や高校生たちが、短期促成栽培というと表現が悪いが、そうした十代後半の若者たちが海の向こうの人々を驚かせている。「awesome!」とほとんど震撼させているいるのだ。

 まず、指揮者なしのマスプレイであることだ。どうやって協調的な演奏や動作ができるのであろう?
それを生み出す手段は練習また練習だけではないだろう。よほどのトレーニングのスキルと経験がなければ実現できないはずだ。
 それを知る人たちのコメントが動画にあふれている。
また、他の民族や国民でここまで統率のとれた素人の若者たちのパフォーマンスはないであろうということもうかがい知れる。ギネス記録好きの国民性というのも思い合わされる。

 それと片や「和太鼓」という伝統芸能文化であり、片やブラスバンド行進というアメリカ由来の文化であることだ。つまり、両方とも似て非なるオリジンなのに関わらず、若者たちにより維持されているということだ。これもある程度自律的に維持されているのだが、その社会メカニズムを暗示しているのが、(3)「School Lunch in Japan 」の学校給食の仕組みだ。
 子供たちは知らず知らずのうちに役割分担と協調作業を義務教育で仕込まれているように思える。

 さて、皮肉屋の視点から発言してみよう。分析の一助になるからだ。
皮肉屋はこうした集団的シンクロニシティ行動を「ロボット」のようだというだろう。あるいは太平洋戦争若者たちのkamikaze attackとの類似性を示唆するかもしれない。
 日本人は同質的であり、すぐさま行動と思考が同期同調して個性がないからこそ、こんなパフォーマンスを素人が生み出せるんだと揶揄するだろう。
 なにか異論があるだろうか?
 民度が高いとか他国から言われるその同じ性質がロボット的とか集団的狂気に落ち込むとか言われるのは心外だろうが、有効な反論はできるだろうか?

 何世紀もの閉じた地理的環境での文化的攪拌がこのような特徴を生み出したのかもしれないが、よくも悪しくもなり得る、不思議な民族性であるのは確からしい。



(1)This is a Japanese drum line!

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(2)Kyoto Tachibana High School Green Band - 2018 Pasadena Bandfest

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(3)School Lunch in Japan

 特色のあるコメントを引用しておこう。

Rest of the world should learn from Japan... How they are disciplined...


This video makes western schools and education system look like zoos



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2018-08-27 なぜ、神風特攻隊が起こりえたのか

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 YouTubeではWW2のドキュメンタリーが手軽に見れる。各国市民の反応も手に取るように読める。自分にとって関心があるのは太平洋戦争末期における戦闘機による決死の特攻攻撃だ。その善悪は兎も角、涙なくしては見れないものがある。
 ああ、それにしても神風特攻隊のような前近代的かつ反文明的な集団行動を日本人がとったのはなぜか?

 「撃ちてしやまん」「敷島大和魂」「散華」「武士道死ぬことと見つけたり」「死中に活を求める」など明治以前からの死生観を表す言説は無数にあったようだ。
 しかし、それは一部の武士階級、それも吉田松陰平田国学陽明学などに従う志士的な人々のマニフェストであったにとどまる。だいたい、切腹などの特殊行為は農民や町民には無関係であったし、ましてや欧化政策として封建主義を抜け出すための義務教育と近代的な徴兵制度あるいは国民皆兵主義のもとで、自死を強要するなどという制度は明治の元勲たちは思いもよらなかったのではないか?
 悪しき先例としては乃木将軍夫妻の殉死などがあるにせよ、それは失意の皇軍の将軍ならでは行為だろう。

 結果論として、神風特攻隊は世界的なkamikaze attackという悪名高い「攻撃イノベーション」を引き起した。
 絶望者たちの窮鼠猫を噛む行為としてkamikaze attackはいろいろなバリエーションを生み出したのだ。
 そのためのマニュアルとして「死後の救済」というイデオロギー的教育と自殺的な爆弾攻撃の組み合わせが定着したわけだ。
 おそらくは、良くも悪くも、これは日本発だろう。その前に、零戦という近代兵器を駆使して、反近代的な行為に及んだ、その訳を知りたいのだ。

 とにかく、文明開化以降の四民平等の近代国家では、生きて虜囚の辱めを受けず的な武士道精神は霧消したはずだった。
 そうは言っても、特攻攻撃によって死に殉じた学徒たちは英霊として祀られることを救いとしていたのであろうか?
『きけ、わだつみのこえ』などからすれば、高等教育を受けた若者はそれを信じきれないままであったような気がする。国家に殉じたというよりは、銃後の家族親族同朋のために覚悟を決めたのではないだろうか?
 
 太平洋戦争で学徒出陣以降、特攻攻撃がこうした自殺的冒険主義が起きるのはどうしてなのだろう?
大西瀧治郎特攻隊の創設者として有名だ。彼は『特攻は「統率の外道」』で『体当たり攻撃をして大きな効果、戦果を確信して死ぬことができる特攻は大愛、大慈悲である』と考えていたとされる。
大慈悲」の使い方は180度間違っているにせよ、ここに一抹の救済思想が流れているのは注目に値する。
 「桜花」に名を借りて、近代兵器を抱えて潔く散るなどという行為が、生み出されたのは、やはり、
尊王攘夷思想と草木悉皆成仏とを折衷した軍部の反理性的暴走によるものではなかったか。

 戦後の灰燼のなかで『堕落論』によって居直りを図った坂口安吾の言を『特攻隊に捧ぐ』に聞こう。

青年諸君よ、この戦争は馬鹿ばかげた茶番にすぎず、そして戦争は永遠に呪うべきものであるが、かつて諸氏の胸に宿った「愛国殉国の情熱」が決して間違ったものではないことに最大の自信を持って欲しい。


 大西瀧治郎の発言と同様に、坂口安吾の表明はこれでひたむきな感情の表現であっても、「特攻隊の精神」の源を語るものではない。

 神風特攻隊の発想と行為の源を分析しておかないと同じ悲劇を繰り返すことになるのではないか。



【参考映像】
 戦争中のUS NAVYのニュース動画への海外からのコメントは特攻隊側にも一定の理解を示している。

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2018-08-19 慰安婦像問題の社会心理

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 韓国慰安婦像の争点は突き詰めて言えば、第二次世界大戦における「大日本帝国女子挺身隊は強制的な慰安婦の制度」であり、「朝鮮人の少女たちがその犠牲者となった」ことが真か偽かということになる。
 この点に関しては、議論の余地はあまりなく、当時の大日本帝国の官憲が関与したそのような制度は存在しなかったことになる。帝国の官僚たちの残した管轄組織の文書には「公的慰安婦に関する指令も措置も情報もなにもないからだ。
 民間の業者に帝国陸海軍が支援をしたかもしれないが、そんな公的文書もないであろう。よしんばあっても「女子挺身隊」や公的権力による強制とは無関係となる。

 隣国では「偽史」意識が盛んで、過激ナショナリズム相互に影響しあっていることは、上記の争点への判断を著しく損ねているだろうが、とくに、日本との歴史的関係においては、情緒的な反応を切断することは困難である。

 例えばの話、秀吉の朝鮮征伐(何がの征伐なんだというのもあるが)の被害には悲惨な史的事実がある。
 耳塚・鼻塚などはその最たるものだろう。「拉致した非戦闘員のものもあるという」とウィキペディアにもある。
1919年三・一運動弾圧なども数えてもいいかもしれない。あるいは関東大震災朝鮮人虐殺もそう。
 プライドが高い民族を統御する政治的手腕など持ち合わせていなかった日本人の限界なのだろう。
そんな民族の対日感情の奥底には「怨恨」があるといっていい。
 そうした情緒は歴史的事実などよりも、歪曲されがちな「記憶と証言」を採用して、その情念を燃やし続けてゆくだろう。理性的な説明だけで、簡単に鎮静化できるものではない。



【参考文献】

 日本から見る限り、孤立無援の中での著者の啓発活動には敬服する。




 歴史は捏造される物語だ。「単一民族国家 日本」だってそうだった。
 




 自己正当化というバイアスもありそう。エリザベス・ロフタスも孤独な学者だったが主張を貫いた。

2018-08-11 21世紀のアニメと神社と神域

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 アニメの舞台に神社がそれとなく登場しだしたのはいつだろう?
昭和の御代には少なかったはずだ。手塚治虫石ノ森章太郎藤子不二雄ちばてつや横山光輝の時代には神社など片隅にも出てこなかったはずだ(少なくともテレビアニメ化されたものでは)
 楳図かずお水木しげるでも神社は舞台設定の一部にはなったかもしれないが、それほど深い関わりはないように思える。
 戦後間もない作家世代には実在の神社は意識されていなかったと主張しておこう。

 まず、神社が何気なく出てくるのは少女マンガ系ではなかったか。1990年台にそれがあからさまになってくる。
 『セーラームーン』ではセーラー戦士の一人は巫女火野レイが出てくる。『カードキャプターさくら』でも友枝神社が度々登場する。
 ゼロ年代の『らき☆すた』では神社が檜舞台となり、埼玉県鷲宮神社が大々的に「聖地化」する。
実在する神社がモデルになる。
 それより前、神社ではなく日本の神々が出てくるのが『もののけ姫』である。1997年だ。荒ぶる神であるタタリ神が、そして生と死を司る神、シシ神が華々しく、出現している。アニメ主題としての、神々の復権があったと言える。
 これにダメ押ししたのが、『千と千尋の神隠し』(2001)だ。神社はないが神界が出てくる。神々の集うサンクチュアリ風呂屋!)での少女の通過儀礼。小白主のような自然神が身近な存在となる。
 おそらく、これ以降、神社存在感を増す。
 Naverの「アニメに登場した実在する神社まとめ」などを見てもそう、21世紀は神々の湯治とともにやってきたのがわかる。
新海誠監督のヒット作では四谷の須賀神社を始めとする神道的モチーフが多用されていた。その一部である「水の女」は以前このブログでもとりあげた。

 その他にもアニメの舞台になりうる幾つかの理由が考えられる。

・教会や寺院のように宗派性がなく、お社と神域は誰にでも開かれている。子どもたちの遊び場であり、祭りの始まりの場であり、待ち合わせ場所でもある。
・超時代的である。つまり、江戸時代であっても現代とさほど変化がない場所である。仏教寺院がビルにあったりする時代だ。でも、未来にあっても神社は変わらないだろう。
・自然と地域に溶け込む、あるいはその土地を象徴する場所である。かなり多くの場合、鎮守の守として自然が保たれている。巨樹老木が大事にされている。山がまるごと神域だったりもする。それにひきかえ、仏教寺院では自然をそのままにすることが稀であろう。キリスト教教会、イスラム教や道教寺院でも自然は排除される。
・不思議の場所である。そんな土地柄が神社スポットなのだ。スピリチュアルスポットとしての御朱印集めなども相関関係があろう。

 神社やその神域はなにかがやって来る、何事かが始まる、現代アニメを通じてそういう劇的なトポスになったと思う。 こうした特徴は「能」に見られる。能は神社への奉納される舞が原型であったとされる。
 例えば、秩父神社がサラリと描かれる『あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。』での死者の到来を思い浮かべてもいいだろう。
 何かが異質なものが降りてくるのに神社ほどふさわしいところはあるまい。もともとは、その自然の共生物、神樹や磐くら、それに巫女は神の依代だったのだ。アニメのストーリーは現代の「神代がたり」だ。ありえないことが起き、普通の人が非凡な人に、日常が非日常に変成される物語だ。だとすれば、ゲニウス・ロキがアニメに憑依することが物語りの根底にあってもおかしくはないでしょうな。



【参考文献】

マンガ・アニメで人気の「聖地」をめぐる神社巡礼

マンガ・アニメで人気の「聖地」をめぐる神社巡礼



この本ではこんなに取り上げている。

鷲宮神社×らき☆すた
大洗磯前神社×ガールズ&パンツァー
氷室神社 × さんすくみ
氷川神社×美少女戦士セーラームーン
吉水神社×咲-Saki- 阿知賀編 episode of side-A
熊野本宮大社×BASARA
貴船神社×少年陰陽師
久富稲荷神社×ぎんぎつね
伏見稲荷大社×いなり、こんこん、恋いろは。
下石原八幡神社×ゲゲゲの鬼太郎
片瀬諏訪神社×ピンポン
天岩戸神社×ぼおるぺん古事記
高天彦神社×夢幻伝説タカマガハラ
太歳神社×朝霧の巫女
帯廣神社×銀の匙 Silver Spoon
北海道神宮・中の島神社 × 義男の空
代々木八幡宮×高天原に神留坐す
亀有香取神社×こちら葛飾区亀有公園前派出所
金勢神社×テルマエ・ロマエ
諏訪神社×聖☆おにいさん
神社・御袖天満宮×かみちゅ!
太老神社×天地無用!
懐古神社×あの夏で待ってる
磯宮八幡神社×たまゆら
近江神宮×ちはやふる
秩父神社×あの日見た花の名前を僕達はまだ知らない。
飛騨一宮水無神社×氷菓
湯涌稲荷神社×花咲くいろは


異界を旅する能 ワキという存在 (ちくま文庫)

異界を旅する能 ワキという存在 (ちくま文庫)

2018-08-05 阿波の狸合戦

阿波の狸合戦 阿波の狸合戦を含むブックマーク 阿波の狸合戦のブックマークコメント

 高畑勲の傑作『平成狸合戦ぽんぽこ』にインスパイアを与えた阿波の狸合戦という伝説がある。その現地である徳島県小松島市は駅前の巨大なたぬきオブジェを含め地元のアイデンティティとして狸を愛玩している。

 小松島の染物屋、大和屋茂右衛門の土蔵にできた狸穴。情け深い茂右衛門は穴を潰さず逆に養うように使用人に命じる。それを恩に着る金鳥は万吉という職人に取り憑いて、名の名乗り、供え物への礼をいう。
 おかげで大和屋は商売繁盛。近隣地域の評判となりとうとう屋敷内に金長大明神の祠を拵える。
 そんなある日、万吉に取り憑いた金長は「四国の狸の総大将である津田浦の六右衛門たぬきのもとで一年ほど修行したい」と主の茂右衛門に申し出る。聞けば、正一位の位を授かるためだという。何とも感心なことと主は許す。
 
 ところが話は急転直下する。ある日万吉に金長が慌ただしく取り憑いて告げるには、
「猜疑心の強い六右衛門だぬきは金長が自分の地位を狙っていると勘ぐり、ある時金長の宿所を急襲した。金長はかねて自分に心服する藤の木寺の鷹という狸と応戦し運良く切り抜けた。だが、藤の木寺の鷹は討ち死にした。自分は鷹のために敵を討ちたい。このたびは長の暇をいただきに参った」
 というわけで、金長は一族郎党を連れて、津田浦の六右衛門狸を討伐した。
その目撃者がいたわけではない。
 しかし、その日の暮れに鎮守の森で大勢の物音がするのを村人たちは聞き、翌朝になってみると無数の狸の足跡が津田浦への道筋についていたということだ。

 その勝敗に津田山での激戦の伝説が残る。激烈な合戦で数百の狸の軍勢が白刃戦を行い、金長と六右衛門狸の大将同士の果たし合いになったという。ついに、金長が六右衛門狸を噛み殺して勝敗がついたとされる。人の目撃者がいるわけではないのだが、そういう結末なのだ。

 一介の狸の仁義と義侠の話であるのだが、単なる伝説というわけではない。何しろ、大和屋の子孫は存続し、その子孫が語り継いでいる。時代も天保年間であることも分かり、しかも金長神社も実際にあるのだから。
 それにしても、天保年間というのがいい。東日本の「天保水滸伝」と同じ時代精神を感じるから。

 面白く感じるのは狸たちが人間と同じく忠義とか嫉妬とかの情念のもとに一族郎党による合戦という社会的行動を起こした、と信じる阿波の民衆たちがいたことだ。
 四国の人たちには狸たちが、とてもとても身近であった。狐憑きではなくて狸憑きになるくらいだ。商売繁盛の要因、それどころか守護神的なトーテムとなっていたことだ。これは四国のお遍路を残す精神的な伝統と無縁ではないのだろう。



 徳島県小松島には狸合戦のヒーローである金鳥たぬきを祀る金長神社がある。





【参考資料】

 笠井新也によれば大和屋の四代目の楠本賢孝のもとに当時の狸合戦の文書があったという。
動物たちとかくも隣り合って共生していたのだ。

阿波の狸の話 (中公文庫)

阿波の狸の話 (中公文庫)





平成狸合戦ぽんぽこ』にも金長は義理堅く加勢に多摩地方まで来ていたなあ。