『今昔物語集』の一挿話の語りかけるもの

「西方遠くに阿弥陀仏がいらっしゃる。どんなに悪業の者でも念仏を唱えると、必ず迎え入れてくれ、仏となることができる」
 阿弥陀仏のありがたさを説く僧に出会った讃岐の大悪党源太夫は一大改心をする。それを一途に信じこむ。

 我ハ此ヨリ西ニ向ヒテ阿弥陀仏ヲ呼パヒ奉リテ金ヲ叩キテ、答へ給ハム所マデ行カムトス。答へ給ハザラム限リハ、野山ニマレ海河ニマレ、サラニ返ルマジ。タダ向ヒタラム方ニ行クベキナリ。

阿弥陀仏ヨヤ、オイオイ」と鐘を叩きつつ、阿弥陀如来の来迎を求めて、西にひた走る。七日七夜走る。
 行きついた西の海を望む山瀬の木の二俣に座して、源太夫は息絶えていた。口からは一輪の花、蓮の花が咲き出ていたという。

 生と死は現代ほど隔離されておらず、人はあっけないほどアッケラカンと死ぬ世界で、中世人の一念とは、かくまで凄まじいものがあった。
 だが、科学技術と医療福祉とマーヤーのヴェイル=メディアで満ち満ちている現代社会でも中世人の直面した状況は本質的には変化していない。
 であるからこそ、芥川龍之介は『往生絵巻』という一戯曲に仕立てたのだろう。


 中西進の『狂の精神史』はこうした物狂いの深い精神が連綿と語られている。
さてもさても中世とは特異な時代であり、それは現代に響くものが多いかな。

狂の精神史 (講談社文庫)

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