女性のネイルと鼻のお手入れ

 おしゃれな女性のアイテムの一つ、アートフルなロングネイルで気になってしょうがない問題がある。

 お鼻の穴のお手入れである。自分のような無神経なものは、直接的に鼻の穴をかっぽじる。「不適切にもほどがある」なのである。

そして、女性の顰蹙をかうのはわかる。

どうしているのか?

 Yahoo 知恵袋はこう回答している。

detail.chiebukuro.yahoo.co.jp

 ではあるのだけれど、昭和の中ごろはどうであったのだろうか?

お鼻の穴のお手入れのティッシュなどはありはしなかった。

きっと、お上品な女性はチリ紙をよじって鼻の穴を掃除されておられたのだろう。

では、さらに、チリ紙などがなかった明治の御代はどうであったのであろうか?

おそらく無駄紙を紙縒りして、お掃除されていたのではなかろうか?

 だが、紙がぜいたく品であった時代がある。江戸時代の女性はやはり、我らデリカシーのない種族と似たような鼻くそ処理をしていたのではないだろうか?

 

 そういえば、ピンカーの「暴力の人類史」で、関係の深い逸話が記載されていた。中世のヨーロッパの家庭のマナーがどれほど、現代の普通の家庭の作法と異なっていたかをしめしている。

 同書から引用しておく。

1530年に人文主義エラスムスが出した『少年の礼儀作法について』では
「テーブルクロスや手の指、服の袖、帽子などで鼻をかまないこと」
とあるそうだ。本が読めるほどの人びとへの普通の教本がこのレベルだったわけ。

 

 何が言いたいかというと、マナーなんて今の世の中での一過的な規則でしかなく、過去を見れば、どれほど異なるかだろう。

 ということは、つまり、未来もまったく予想がつかない作法に変容するだろうという諦念をもつのが、ビジョンをもった大人なのはないか。

 

 

 

事象の地平の拡大へ

 イベントホライズンという相対性理論の用語を換骨奪胎するならば、近代的自我の呪縛を超えんがために、近代的な知の集積を活用して、生の在り方を博捜してきた。

インディーズ系の古書店をめぐる本の紙魚的活動もその一環だ。自嘲気味にいえば、絶目危惧種のインディーズ古本屋に寄生する、もっと絶滅危惧種な趣味人なのだろう。

 真面目は新機軸の知の宝庫をあさること。それは文系であろうが技術系であろうが、サブカルチャーであろうが、ジャンルを問わない。

 煩瑣なスコラ哲学であろうが、化粧のノウハウであろうが、アフリカの神話であろうが、競馬馬の系統であろうが、啓示と驚きと新規性と珍奇性を帯びていれば、新旧を厭わず我が蔵書にする。そのためには千里の道も遠くはなく、東奔西走する暇を惜しまないのある。

 意識の地平の拡大に何を期待しているだろうか?

日本を含む先進国の常識人やその日常意識の制約を再認識することだろうなあ。

その意識されざる狭さが閉塞感や不毛な感性を招いていることをあからさまにしたいのだなあ。

家族を描く長寿番組の日米対比からの社会変遷の差

 『パパは何でも知っている』『ルーシーショー』『底抜け億万長者』『名犬ラッシー』『大草原の小さな家』など昭和の日本のお茶の間を釘付けにしたアメリカのTV番組は当時の家族像、つまりは日本の民衆の憧れのアメリカンライフをまざまざと植えつけた。ルーシーショーは寡婦とその子供たち、大草原の小さな家は開拓時代の家族の話であるにしても、いずれも親子を基軸にしていることは付記しておく。

 それにしても、だ。

 この手の家庭を描いたアメリカのテレビシリーズはほぼ存在していないのに。お気づきであろうか?

 ティーンズ学園ものや子育て夫婦、若者だけのルームメートといった設定はシリーズあるかもしてないが、複数世代をまたがる多人数家庭を舞台とするシリーズはアメリカにおいては、昔を今に寄すしもがななのであろう。

 それに対して、この島国では『サザエさん』がある。描かれている磯野一族の構成は、おそらくは地方において細々と存続している形態だろう。

 祖父母にあたる磯野波平(54)とフネ(50)の長女はサザエさん(24)とその夫マス夫(28),その子供タラオ(3)である。サザエさんの兄弟のカツオ(11)とワカメ(9)からなる7人家族だ。

 この番組はなぜ続いているのだろうか?

ひと世代前のモデルファミリーなのだ。このアーキタイプを夢見て、人々はライフプランを描く、あるいは描いた思い出があるのだろう。

 そして、『ちびまる子ちゃん』はややスモールな構成になってはいるが、これも昭和の後半の家族モデルだろう。

クレヨンしんちゃん』ともなれば。平成時代の家族像にグッと近づく。核家族だ。

それでも野原家には子供が二人いるし、ダブルインカムではない。

 今や、子供がいない家庭のほうが多数になろうとしている。上野千鶴子先生ご推奨のおひとり様の時代の到来である。これは、同時代のアメリカンライフとはやや異なるが、個と弧の時代精神は共通のものとなっている。

 アメリカは、共通の家族像を持てなくなっている。だから、クレヨンしんちゃんではなくて、スポンジボブになってしまうのだ。人ではなく海洋生態系でしか、ライフを語れないのだ。

 

 

老人として成長する 老成とアニソン

 「アニソン」は自分が老人として成長するのに預かって力があったのである。

生成系AIの妄想(Hallucination)は、やはり川井憲次パトレイバーの音楽なしには、学習できないものである...なんていう主張は誰も認めてくれはしないだろう。けれども、記憶するなんてそんなものだ。

 


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