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サイエンスとサピエンス このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2018-05-24 SETIとドレイク方程式と異星文明間の壁 このエントリーを含むブックマーク

 「フェルミパラドックス」はブログで何度か話題にした。フェルミが天を指して「どうして彼らは姿を見せないのか」とした例の異星人問題だ。地球の文明が特別でないならば、宇宙のどこかで異星の技術文明の存在が観測されてもおかしくないはずだ。だが事実としてはその痕跡がない。

 あるいはその問いが早すぎたのかもしれない。

 宇宙に向けて可視波長域外での観測はようやく始まってから80年くらいだ。1940年に電波望遠鏡が生まれた。それに無線放送も20世紀の初頭1920年に最初の商用放送であるラジオ放送局KDKAが開局したのだ。

 つまり、100年も経っていない。微弱な信号をできるようになったのはSETIの仕組みからだ。アレシボ天文台のオズマ計画だ。1960年に天文学者フランク・ドレイクがアレシボ天文台を活用して開始からなので、これも70年くらい。

 そのSETIで一回限り、「 Wow! シグナル」なるものを検出した。何しろ一回限りなのである。異星文明存在の結論が出ようはずもない。

 そのSETIプロジェクトも責任者ドレイの老いとともに終末を迎える気配だ。資金提供者がいなくなっているからだ。

今の流行りは太陽系外惑星ハンティングだ。続々と太陽系以外の惑星、地球型も含めて、存在が観測されている。

 もちろん生命の存在はありえるのだろう。かと言って、地球外文明が見つかるわけでもないだろうし、その星に行けるわけでもないので生命の有無も可能性だけの議論だ。ハビタブル・ゾーンにあっても可能性が高まるだけのこと。

 というわけで、ドレイク方程式に立ち戻る。

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 このLがフェルミパラドックスでの鍵になるとされる。「知的生命体による技術文明が通信をする状態にある期間(技術文明の存続期間)」の意味だ。他のパラメータよりクリティカルな変数がLということになりつつある。

 例えば手元の『人類の住む宇宙』などによるとL=10000年とすると技術文明間の平均距離が3000光年だという。N=1000個になる。

 であるなら地球文明の観測の窓は100年しか開いていないので、フェルミパラドックスはまだ、パラドックスではないのかもしれない。

 また、最近の悲観的予測では地球文明ではL=200年とする意見もある。例のシンギュラリティや温暖化の行末からの見解で、文明などつかの間存在という議論だ。となるとご近所の文明は平均10000光年の距離。お便りが届く前に消滅というわけで、フェルミパラドックス以前の状態ということにもなりかねない。

 これを我らの文明に当てはめると、あと100年ほどの技術文明維持しか期待できないことになる。

 仮に異星文明との通信が開いても、信じる人はほとんどいないだろう。

 それは予想できる。偽物説、陰謀説、ノイズ説、なりすましメール説など諸説紛々で有耶無耶になるのは確かだ。再現可能な通信だとしてもそうなるだろう。なぜなら、通信内容の「意味」が理解できないだろうから。

 もし、異性文明間でワイヤレス・インターネットみたいな仕組みがすでにあり、たまたま、人類がそこに接触するかもしれない。その時何が起きるか?「マルウェア感染」が最初に起きるんではないだろうか?

 2進数が普遍的であるわけではないので地球のインターネットは守られているだけなのかもしれない。

 冗談はさておき、やはり、地球に公式に訪問してもらわないと「ファーストコンタクト」かつ公的認定はされないのだろうと思う。でもそれは限りなく難しい。

 そこに平均距離1万光年がたちはだかるのだ。


【参考文献】

 系外惑星観測が開始された頃のSETIの有り様などがわかる。アメリカがかつてはこういう先駆的なことのパイオニアだったのだが。

五〇億年の孤独:宇宙に生命を探す天文学者たち

五〇億年の孤独:宇宙に生命を探す天文学者たち

 専門家集団のまっとうな見解はこの本で。

 フェルミパラドックスについても諸説紛々。50通りもある。

 ファーストコンタクトの認定は映画のような状況でないとなされない。でも、この映画でしめされたように相互理解は困難を究めるだろうね。このテッド・チャン原作の映画は「ET」のようなファンタジー映画ではない。言語や意識について深く考えさせてくれる。

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2018-05-21 確率の哲学的な解釈について このエントリーを含むブックマーク

 確率の意味は現代の専門家らは二面性が合意済みとされている。

1) 認識論的確率 信念の度合いや論理説を含む主観的確率。

2) 客観的確率  自然科学で起きるようなランダム事象に当てはまる確率。偶然的(stochastic)確率ともいう。

 有名なイアン・ハッキングの発言だ。

「確率はヤヌスの顔をしている。一方で統計的であり、偶然のプロセスに関わる。他方で知識に関わり、命題に対する信念の度合いを理にかなった仕方で評価するためにある」

 このように二分化されているが、もともとは20世紀はじめに幾つもの学説を生み出した。

この方面の権威であるドナルド・ギリースから引用をする(人名は主要な提唱者である)

(1)論理説 ケインズ

 確率とは合理的な信念の度合いである。仮説に対して、また予測において、

同じ確証をもつすべての合理的な人間は同じ度合いでそれを信じることを前提とする

(2)主観説 デ・フィネッティ

 確率とはある特定の個人がもつ信念の度合いである。ここでは同じ確証をもつすべての

人間が同じ度合いで信念をもつとは前提されない。考え方の違いが許容される。

(3)頻度説 ミーゼス

 同じ事柄の長い系列において、それが起こる一定の有限な頻度を確率とする。

(4)傾向説 カール・ポパー

 確率とは繰り返される一連の条件に内在する傾向である。例えば、ある結果の生じる確率がpであるとは、ある条件が何度も繰り返される場合にその結果の生じる頻度がpに近づくという性質を、その条件自体がもつと考える。

 上記のケインズはあの経済学者だ。処女作が『確率論』という一種哲学的考察だったのだ。夭折の天才のラムジーがここでも鋭い批判をものしている。いずれにせよ、20世紀初頭のケインズの論理説とともに確率の哲学的探求がスタートしたのは示唆的だ。

 二番目の主観説はベイジアン統計に影響しているので、無視するわけにもいかない。デ・フィネッティは確率論やリスク理論に必ず登場するベイズ主義の巨頭だ。その主張は過激で「すべての確率は主観的個人的なもの」とする。

 このような解釈学とは別に、確率の数学的体系についてはコルモゴロフが確立している。

公理論的な確率理論だ。しかし、それは理論の構成の仕方だ。大元締めのコルゴロモフも晩年に確率の解釈を試みたが断念したと仄聞する。

 では、そもそも何が問題なのであろう。高等学校で倣ったようなラプラス流では何がいけないのか?

 古典的な立場 義務教育で教えられるLaplaceの「同等な確からしさ」「同等に可能な事象」は「偏ったサイコロの問題を扱うことができるのか」というフォン・ミーゼスのようなありふれた状況で、たちまち行き詰ってしまう。

 完全に対称的な物体でない以上、サイコロは歪みや重心のズレがある。工業製品として十分であってもそれが「同等な確からしさ」を保証していない。つまり、確率計算の前提が成り立っていないわけだ。

 同様な事情が古典期ローマにあったという。不定形ないびつなサイコロがローマ時代には使われていたのだ。アストラガスという名の家畜の小骨をそのままのダイスだ。

イアン・ハッキングは確率論が古代に生まれなかった理由の一つにしている。

【参考文献】

 一癖ある科学哲学者ハッキングの古典的力作

 トドハンターの分厚い歴史もいいが、こちらのほうがコンパクトでよくできている。

 復刊が待たれる専門書

 ラプラスの名著。「ラプラスの魔物」の創案者が確率の権威でもあったというのは面白い。

確率の哲学的試論 (岩波文庫)

確率の哲学的試論 (岩波文庫)

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2018-05-19 組織事故モデルからの読解き STAP細胞/旧石器捏造 このエントリーを含むブックマーク

 日本考古学会の屋台骨を揺るがせた「旧石器捏造事件」とそれこそ世界の耳目を集めた「STAP細胞捏造事件」。この両者を対比させながら、組織観点でそのRoot Cause(根底原因)を探ってみた。

 組織事故に関するモデル、ここでは組織が扱う人工物、プラントや飛行機などでの事故を扱うモデルを参照モデルとして援用してみる。

 学問における「捏造」も個人だけの問題ではなく、研究組織の問題になっているからだ。

 10年以上前の「旧石器捏造事件」は単純化して言えば、日本の先史考古学の閉鎖性と未熟さを露呈した事件だったと総括できる。ほぼ発掘担当者の単独不正であったことは確実なのだが、独立した専門家にチェックもなかれば、客観的指標をもとに堅実に組み立てる研究体制も日本の専門家集団には欠如していたことが判明している。

 何しろ70万年前の石器が東日本でゴロゴロと「出土」しても、ろくに吟味せずに「一流の」研究者たちがそれを認定していたわけだから、お隣の国から笑われても仕方ない。

 戦後四半世紀の旧石器時代に関する研究成果は大きなダメージを受けたと言われる。

 他方、最先端の細胞生物学で起きた「STAP細胞捏造事件」は、短期間で専門家たちの自己修正機能が作動した。なので、世論沸騰して称賛と誹謗が交互に増幅したのは同じだが、学問的な被害はそれほどでもなかったと言える。

 2つの事件の顛末を対比テーブルにまとめると下表となろう。

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 ここで、感想めいたコメント。

 STAP細胞では「真理の追求」は専門家コミュニティにより正常に機能した。1年で結論が出たというのが短いか長いかは議論があろうが、新聞のスクープなどという不名誉は免れたのだ。他方、日本の考古学学界は未熟さを露呈したというべきだろう。


 こうした「組織事故」はどのような構図で起きるかを図示したのがヒューマンエラーの大家であるJ.リーズンのモデルだ(下図)

 「事故」を引き起こすのは「人」だ。だが、一人だけの作為で「事故」が起きるわけではない。研究はチームでなされるのが先端科学分野の常だ。相互チェックは間断なくなされるべきであり、成果を開示する際にはそれがレビューされてからの幾重ものレビュー後なのだ。

 すなわち、このモデルの言わんとしていることは、外部から成果の信頼性の疑義を指摘されるのは、組織の機能不全ということだ。

 研究不正を醸成するのは研究組織に原因がある。不正の作為は研究者にある。だが、研究者は組織の末端でしかないともいえる。研究チームが機能しなければならないはずが、それが検閲機能を果たせなかった。また、上位の研究組織が審査せねばならず、それを外部研究者に委ねた。「権限委譲」といえば聞こえはいいがこの場合、責任の丸投げといっていいだろう。

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 このモデルから言えることは、やはり組織としての専門家集団の問題だ。日本考古学会の未熟さは所詮、一国閉鎖性と学閥(TH大)のサイロ効果であったのだろう。

 STAP細胞は、もっと根深い問題が、闇がある。メディアの制裁があった。

 一群の熟練した優秀な共同論文執筆者たちが実験の検証をできていなかったのだ。それも細胞生物学という先端科学分野で起きたのだ。先史考古学のような職人芸が残存していないプロの実験家と精密な実験方法論と高度な実験機材の「科学帝国」での出来事なのだ。

 両ケースとも。研究チームが功を焦りすぎたのは同じだ。その結果、見えないモノを見てしまった。当事者以外の研究メンバーは「惑星バルカン」やローウェルの「火星の運河」のように観測装置の向こうに見たいものを投影したのだろう。ちなみに無いはずの運河を観測したローウェルはいまだに尊敬される天文学者でいるのは不思議だが、ある意味当然かもしれない。後進のトンボーに道を開いた「偉大なる誤り」だった。

 リーズンのモデルでは研究組織が不正の露呈を防護しなかったことも示している。つまりは、20年前の日本考古学会も現在の理研も同じ不正防護能力しかないことを暗に示しているわけだ。

 副作用の悲惨さは両方に共通であろう。なくもがなの自死事件だ。STAP細胞では当事者の巻添えであり、旧石器捏造では無関係な研究者の巻添え死だ。

 不正や捏造そのものは作為者だけでなく、メディア喚起による世間のクレームが大きな影響を関連した専門家たちに及ぼす。それが必要以上に増幅されて暴力に変換されると不必要な死が引き起こされるのだ。

 STAP細胞捏造では専門家たちの自浄作用が機能しているのだから、それ以上の罵詈讒謗はちと酷であろう。

 当事者研究者たちは不正の露呈だけで萎縮していよう、そんなメンタル間際な人びとへ「正義の制裁=取材だ、受けなければ不正の上塗りだ」、みたいなのは言論の権力乱用だろう。

 挙句の果てに「捏造」記事も派生することになる。ミイラ取りがミイラになるわけだ。

学問の世界もジャーナリズムの世界もその競争の先端は悪霊の跋扈する場所なのだ。

 どちらにも無縁な一般市民はその苛烈さを憐れみをもって眺めるしかないのだ。

【参考文献】

 騙された側の論理というものが綴られる。それはそれで貴重なのだが。

旧石器遺跡捏造事件

旧石器遺跡捏造事件

 メディアの論客の迫真の記録。「社会の木鐸」というより、正義の制裁の代行者の目線であるのが示唆的。これらすべての総和が笹井氏にとって鉄拳制裁になったわけだ。

捏造の科学者 STAP細胞事件

捏造の科学者 STAP細胞事件

 石器の捏造がなぜ起きたかの社会的な深掘りをしている。学問的な功名主義の世界が浮き彫りになる。読ませる良書だ。

 事実を並べただけのこの書籍のような報告書は今日となっては不要だ。ダメおし本なのであろう。事件後の雨後の竹の子のような本の一例。

旧石器遺跡捏造 (文春新書)

旧石器遺跡捏造 (文春新書)

 O氏の手記は貴重。作為者側の認識は重要なのだ。F氏のように指切り自傷をしていないのには、それなりの信念があるからだろう。

あの日

あの日


 組織観点が含まれないような「捏造事件」原因追求は時間の無駄だ。なぜなら、再発防止にならないからだ。なにより、一般市民は、より理知的で了解可能な「事故究明」を求めている。単なる悪者探しは大衆向け娯楽でしかない。

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2018-05-05 バイオテクノロジーでの日本の貢献度合い このエントリーを含むブックマーク

 手頃な教科書として定評があるラインハート・レンネバーグ『EURO版バイオテクノロジーの教科書』をもとに日本の研究の貢献度合いを顧みておこう。

 この本の著者はドイツ人であるが日本でも研究していた経歴がある。

 高峰譲吉の「微生物による酵素生産の特許」が最初に出てくる。微生物工業の創始者の一人なのだそうだ。カビ(アスペルギルス・オリゼ)を栄養分を染み込まさせたワラで繁殖させて、タカジアスターゼを生産したのだ。1894年つまりは、明治27年のことだ。

 池田菊苗帝国大学教授の業績も引用される。グルタミン酸ナトリウム(MSG)の発明者。鈴木三郎助は工業生産の道を切り開いた。小麦グルテンをもとにMSGの大量生産を実現した。味の素の始まりだ。理研の定礎を行ったのも池田菊苗だった。

 味の素とともに協和発酵の創業者である加藤辯三郎博士も称賛されている。発酵技術によるタンパク質製造で飢えた日本国民を救うというのが目標だったという。

 清涼飲料水での甘味料の重要な化学物質はフルクトースシロップだ。デンプンから生産されるのでサトウキビの価格変動には左右されない。その工業生産に先鞭をつけたのも日本の研究者である高崎良幸らだった。糖尿病にはショ糖やデンプンよりもフルクトースのほうが血糖値コントロールには相応しいとされている。

 チーズ生成に重要な凝乳酵素の開発には東大教授の有馬啓教授らが発見したケカビの酵素が使われている。

 「京大プロセス」という環境調和型の物質生産プロセスが山田秀明教授の包括的生産工学手法として一部の重要な有機物の工業生産に貢献している。

 北里柴三郎の先駆的研究、秦左三郎や最近ノーベル賞を受賞した大村智らの業績も記載されている。

 利根川進博士の免疫グロブリン研究、遠藤章博士の「スタチン」と山中伸弥教授の「iPS細胞」の扱いは特筆ものになっているのは異論がないところだろう。

 以上のように、これまでの日本人研究者のバイオテクノロジーへの貢献は欧米圏のそれに勝るとまでいかずとも、見劣りはしないレベルのものであるのがわかった。

 先人たちの業績を継承しつつ、今後、日本でのバイオテクノロジー研究の推進力は維持されるのであろうか? 

 漏れ聞こえる国内の研究環境からすると、なかなかに難しいところなのではないだろうか。

【参考文献】

 コンパクトサイズながらバランスのとれた良い教科書だ。

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2018-04-27 去ってしまった「科学的未来」の預言者たち このエントリーを含むブックマーク

 戦後から20世紀末までの日本の技術立国とともに歩んだ預言者たち、というのは第一世代のSF作家や漫画家、編集者や翻訳者たちのことをここでは指す。

 高度成長期までは華麗なる未来のビジョンを描いた人びと、すなわち星新一、福島正実、大伴昌司、半村良、小松左京、今日泊亜蘭、手塚治、栗本薫、黒丸尚、柴野拓美、野田昌宏、石ノ森章太郎、浅倉久志、山野浩一、石原藤夫、藤子不二雄(片方)、平井和正、河野典生(早々と亡くなった広瀬正、団地住まいのソ連SF翻訳家の深見弾、生活に破綻し自殺した鈴木いずみ、がんで若くして逝った伊藤計劃なども含めていいだろう)などの草創期の世代は、2018年の今、存命ではない。

 彼らがクールジャパンのコアであるソフトパワーの発展に多大なる貢献したのは間違いない。ロボットや宇宙戦艦、変身超能力少女、異世界の戦士ものなど日本の文化装置になっていないものがない。

 初期の子供向けの変身ものロボットものアニメは彼らが脚本を書いていた。ガンダムや宇宙戦艦ヤマト、あるいはエヴァなどのコンテンツ、それに無数のファンタジー系のRPGゲームはその後継コンテンツだろう。

 こうした一群の「科学の預言者」が初期の頃のイノベーティブな発想が枯れて大衆向け娯楽作家となり、あるいはSFの出版がゲームカルチャーに塗り替わる様を目の当たりにし、遂には病気になり老衰して、この世を平々凡々と去ってゆくのを見るのは、なんとなく切ないものがある。

 一方で、次第に息苦しくなる地表から、早めに離脱してゆくのは羨ましくなくもないのだ。

 戦後知識人の大御所であった加藤周一は科学小説を低レベルな科学理解をもとにした娯楽的小説であるとニベもない評価を残していった。それも『現代の社会と人間の問題』での「余談」だった。

余談ながら科学小説の科学は通俗科学であり、小説は通俗小説であるから、科学小説とは通俗性の二乗の上に成りたつ道楽である

 俗っぽさの二乗の道楽とは論ずる価値もないということだろう。

 それは一面では当たってはいるが、伸びゆく科学技術の行き着く先の夢を、ほんの一時ではあるが人びとに垣間見えるしてくれたのは、これらの「科学の預言者」たちだったと思うのだ。

 太陽系を超えて人類文明が拡がる未来がある、時間旅行がツーリストから販売される、銀河系をまたにかけた冒険ができる、異星の文明社会とファーストコンタクトする、...といったことを信じる単純さは誰にも、大衆にも残されてはいない。

 いや、現実味が残された分野が一つだけあった。

 AIの文明ハックや温暖化などによる人類の終末だ。

 ブラックジョークはさておき、希望が失望に置き換わってきたのは事実だろう。これも世界大戦後の歴史プロセスというやつの必然なのであろうか。「預言者たち」が去ってから、科学技術とその未来に対する沸騰するような情熱は、もはや、二度とやってこないだろう。

 忌々しいことに、現在の「SF」は、加藤周一が表現した「娯楽の二乗」に接近してきている。

あのころの未来―星新一の預言 (新潮文庫)

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星新一 一〇〇一話をつくった人

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奇っ怪紳士録 (平凡社ライブラリー)

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