自分の嗜好って意外と分からなくね?

 自分の趣味を理解して自分に合ったものを探して楽しもう。と言うのは簡単だし、理屈としてはまったくその通りなのだけど、じゃあそれを誰しもちゃんと実行できるかって言うと、難しいと思うんだよね。つい一昨日、自分で偉そうに言っておいてあれだけど。

リスクを犯さないと成功率は高められない

 一つ目の問題は、これはもう単純に、探すこと・見分けることの難しさ。
 自分に何があってるかを知るには、実際に自分でそのものを試して見ないことには分からない。『ファイナルファンタジー』が自分に合っているかどうか知りたければ『ファイナルファンタジー』をやってみろ、『グランドセフトオート』が自分にあっているかどうか知りたければ『グランドセフトオート』をやってみろ、ということだ。が、現実にはそんな何でもかんでも片っ端から試せるわけではないので、今までの経験から「これと似たような作品が合わなかったから、これもダメだろうな」と思うしかない。でもその推測が果たして正しいのかどうか、という問題がある。『ファイナルファンタジー12』をやって自分に合わなかったとして、では同じ名前を関する『ファイナルファンタジー』シリーズ全て自分に合わないと判断してしまっていいのか。同じジャンルであるRPG全般を「合わない」と思ってしまっていいものか。


 以前プレイステーション2で『グランドセフトオート3』をやったとき、これは俺に合ってないなと思った。ちょうど海外のゲームへの興味が湧き出した頃だったので日本版発売はとても嬉しかったのだけど、やっていてもあまりピンと来るものがない。海外であれだけ多くの人に楽しまれているソフトなら俺にとっても楽しいだろうと思ったのだけど、残念ながら、俺にはそんなに楽しくなかった。ソフトは中古で売ってしまった。
 で、そうなると、いわゆる「自由度」の高さを謳うソフトは俺に合わないんだなと思うようになるわけよ。だからずっとそう言うソフトは買わなかったのだけど、Xbox360で『ライオットアクト』ってソフトが出てね。『グランドセフトオート』の開発にかかわっていた人が独立して作ったスタジオによるタイトルで、「広いフィールドで好き勝手暴れちゃおう」というコンセプトだから、やっぱり印象としては「『グランドセフトオート』と同じだな」て感じで、最初は「マイクロソフトGTAは果たしてどれくらい売れるのかな?」程度にしか興味は示さなかった。体験版をやってみても、あまり面白いとは思わなかった。のだけど、発売日になって何故か急に「やりたい」と思ったのだよな。体験版をやって、面白いと思わなかったのに。「遊びたい」と唐突に思った。で、そう言う迷ったときは基本的に買ってみることにしてるので、ちょうど持ち合わせはあったから買ってみた。そしたらスゲー面白いでやんのな。
 それがきっかけで、俺の中の「自由度の高いゲームは合わない」って認識は「そうと決まったわけでもない」に変わった。もしあの日、「『ライオットアクト』遊びたい」と思わなかったら、その急な思いつきに「よしじゃあ買うか」と決断できなければ、認識が変わることはなかった。トレーラーを見ても、体験版をやってもダメだったのに、最後の最後まで行ってようやくだ。


 俺が鈍いだけだと言ってしまえばそうなんだけども、でもやっぱり、「どれが自分に合っているか」を見分けるのはとっても難しい。自分が思ったとおりのゲーム内容だとは限らないし、自分の嗜好が以前のままとも限らない。はっきりとした拠り所なんて、実はどこにもない。
 これが本当に厄介なのは、それで失敗を恐れて頑なに「いや俺はこれ合わないから絶対やらない」と思ってしまうと、自分の新しい境地を拓く機会をみすみす失ってしまうことにある。そして、それはそのまま、「自分の嗜好がどうやら以前と変わったらしい」ということを認識するチャンスも失うということだ。自分の嗜好にあったものを選んで楽しむためには「自分の嗜好」を常にしっかり把握できないといけないが、それを把握し続けるためには、失敗のリスクも犯さなければいけないのだ。そうしないと、いつまでも同じものをやり続け、他のものには目を向けず、そしてある日、「自分が認識する自分の嗜好」と「現実の嗜好」のズレが許容範囲を越えたとき、「なんか最近のって面白くないよなぁ」ということになる。ずっと修正を拒否してきた彼らは、もうそこに至っては「修正しなければ」という意識すらないだろう。「つまらない」と愚痴る人に限ってこっちが別のものを薦めてみても「えー、でもそれはどうもなぁ」となんだかんだ理由をつけて拒否してしまう。ダメだと言っておきながら何故かその「ダメになったもの」にしか目を向けようとせず、別のものに視線を移そうとはしない。他のものを試してみない。そんな光景を目にしたこと、自分が出くわしたことが、皆一度はあるんじゃなかろうか。
 ただひたすらにリスクを避け、修正の機会をことごとく捨て、「俺はこうだ、これからもずっとだ」と思い込んでしまうのは、確かに楽かもしれない。極端に言ってしまえば「このシリーズの続編だけ買ってりゃいいや」みたいなことだ。判断の基準が強固だから、迷わずにすむ。失敗する可能性も低い。でも、その強固な基準とやらが、実はただの妄想の産物でしかないとしたら……。

自分は信用できるのか

 もう一つの問題は、自分の「楽しい」という感覚はどこまで信用して良いかということ。
 人それぞれ「俺はこういうゲームが好きだ」というのがあるだろう。聞かれれば、それにあったゲームソフトを何本か挙げられるに違いない。でもそれを楽しいと思った自分の感覚は、本当だったのだろうか。面白いと思い込んでるだけなのじゃないのか。そう思ったことはないだろうか。
 「最近はつまらない」という感覚は、自分の嗜好と世間の流れをしっかり把握できないところから生まれる。自分がどんなものを選べばいいのかが分からないから、つい愚痴ってしまう。「自分はこういうのが好きなんだ」と思い込み、「あのソフトなら俺の期待に応えてくれるはずだ」と思い込み、でもその判断が間違っているから、楽しめずに失望してしまう。けど、そういった判断について「(誤った基準を、正しいものだと)思い込んでいる」と考えるのは、「楽しくなかった」という結果があるからだ。では「楽しい」と認識してさえいれば、「判断は的確だった」と言うことになるのだろうか。「判断は的確だった」「自分は失敗していない」と思いたいがために、「楽しかった」と思い込んでいる可能性は、まったくないと言えるものだろうか。


 このブログでは何度か書いたけど、昔は俺、いわゆるギャルゲーばっかやっていた。クラスメイトから「おまえはギャルゲー大王か」とか言われたこともある。今思えば数としてはそれほどでもないのだけれど、当時(中学生)としてはそんな感じだった。実際、ほとんどそう言うゲームしかしてなかった。でも今は、まずやらない。あまり興味が湧かない。
 変わったのはドリームキャストのあたりか。そのあとプレイステーション2Xboxになってからは、ギャルゲーやそういった要素を含むゲームを買ったのはあまりないはずだ。ナムコの作るギャルゲーと聞いて買った(でも積んだままやらず結局売ってしまった)『ゆめりあ』、アニメ版が気に入った『ラーゼフォン 蒼穹幻想曲』、あとは『九龍妖魔學園紀』と『転生學園』シリーズくらい。ここでぱっと浮かばないのが他にも何本かあると思うが、それでも両手あれば数えられる程度だろう。
 ギャルゲーマーから非ギャルゲーマーへの転換の時期は、今考えても酷かった。もうほとんどギャルゲーへの興味は失せているのに、一方「俺はギャルゲーが好きなんだ」と思い込み、そういうキャラクタを演じ続けようとする自分がまだいて、やりもしないギャルゲーを買い込んでた。買うだけ買って積んでしまう性向が俺に付いたのもこれがきっかけだったと思う。そりゃそうだ、内容への実際的な興味はないのだから、ソフトを買った時点で完結してしまうのだ。多少はやってみて楽しみはしたが、ほとんどは手を付けず、やってはみても楽しめず、今もそのまま実家で紙袋に詰められ仕舞い込まれたままだ。
 そんな経験があったからか、今でもたまに不安になる。「俺は本当に洋ゲーが、FPSが好きなのか? 楽しんでいるのか?」と。『Call of Duty 4 』をやっているとき、『Halo 3』をやっているとき、確かに楽しかった。と俺は思っているけど、それはそう思い込んでいるだけじゃあないのか。自分ではもう払拭したと思っている「洋ゲーを楽しめる俺カッコイイ」的な、背伸びした中高生みたいな思考がまだ心のどこかにあって、それを正当化するために「楽しんでる」と思い込もうとしてるんじゃないのだろうかと。特にXbox360を買ってからは、加速度的に積みゲーが増え、楽しむためだけでなく「せっかくソフト出るのだから」とご祝儀的な動機が混じったまま買うことも多くなり、「ここで買っておかないともう買えないかも」なんてコレクターみたいな考えになってしまうこともある。そのたびに、「あれ、俺って本当はゲーム好きじゃないんじゃないのか?」という不安が頭をよぎる。それを「不安」と感じることがまた、「思い込んでいる」ことの証拠と言えるんじゃないのかという思いを呼び、あとは一気に泥沼だ。ま、大体は嵌まり込む前にその考えを追い払って何もなかったようにするのだけど。そうしないと、もうどうしていいか分からない。


 「思い込んでいる」ということは、自分ではそれと気が付かないということだ。自分を矯正・修正するには、まず自分が間違っていること、現実に沿ってない部分があることを認識できないといけない。でも、どうやったらそれを認識できるものだろう。有意識にあるものだけが正しいのだろうか。その裏に別の考えがないと言い切れるだろうか。後になって振り返れば「あのときは間違っていた」というのは分かるが、それは修正に成功したからで、修正できないままだとすれば、「俺は変わってない」としか思わない。当然そこでは、今も昔も自分は間違っていないと思ってしまう。
 「最近はつまらない」と思うこと。それは、今の自分が昔の自分と違うことを意味する。周囲の状況も、経った時間相応に変わっただろう。このまま昔と同じことをしていてはいけない、ということだ。その変化を「悪」として周囲だけに責任転嫁したのが「最近は」の愚痴であり、それは見方を変えれば、変化を促すための重要なシグナルということだ。しかし、本人がそれを受け止められなければ、何の意味もない。本人が「自分が変わらなきゃ」と思わなければ、最後まで「おかしいのは周りだ、周りがダメになったんだ」と言うだけで終わってしまう。




 自分の嗜好にあったものがなになのか選ぶのは自分。その選択のために自分の嗜好がどういうものなのか判断するのも自分。そして、その判断に用いた基準が、その判断の結果が正しかったかを判断するのもまた自分だ。すべて自分でやらなければいけない。他人には、どうやっても分かりはしない。自分で遊ぶゲームなのだから、自分でやるしかない。だが、それほど難しいものもない。誰だって失敗はしたくないが、リスクを犯さないと嗜好の変化を把握できないし、変化を認められなければいずれ行き詰って、世を呪い愚痴るだけの「可哀相な人」になってしまう。


 とか書いてたら、最近ちょっと寝不足気味だから今日早く寝ようと思ってたのに0時過ぎたので寝る。終わってないけどもう終わり。調子乗って、乗り遅れ気味な話題でだらだらと長い文を書いちゃう癖抜けないな俺。まぁ基本は俺がずっとあとで見返すためのものだから、他人からの読みやすさとか時事性とかどう良くはあるんだけども。