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事務屋稼業

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   ★カテゴリー「クルーグマンマクロ経済学」より、同書の要約集に飛べます。

2012-01-20

[][]中庸の経済学史―『サムエルソン『経済学』の時代』 中庸の経済学史―『サムエルソン『経済学』の時代』を含むブックマーク

「志」という言葉を使うと、歴史愛好家には、もしかしたら維新の志士たちを思い起こさせてしまうかもしれないが、私は今これ以外の言葉が浮かんでこない。

 のっけから引用で恐縮だが、第一章の書き出しだ。経済書としては意表をつくものだろう。根井雅弘氏は志士のひとり坂本龍馬の歌を引用する。

   君がため捨つる命はおしまねど 心にかかる国の行く末

   月と日のむかしをしのぶみなと川 流れて清き菊の下水

 どちらの歌も、素直にとるだけで、憂国の想いや楠木正成を偲ぶ心が私たちにも伝わってくるが、私は歌人ではないので、もちろん、和歌の評価をするためにこの二つを紹介したのではない。ただ、龍馬が抱いたような「志」に近いものを、現在「経済学者」とふつうに呼ばれている人たちが抱いた時期があったということを示唆するためである。すなわち、一九三〇年代の世界的大恐慌の時代に多感な青年時代を過ごした人たちであり、本書の主人公サムエルソンもまたその一人であった。

 根井氏の著作はわずかに数冊を読んだ程度だけれども、浪漫主義的なものを超えて、なにか鬼気迫る思いを感じるのは私だけだろうか。

 仮に著者の評が的を射ているとして、では本書の主役たるポール・サムエルソンは、どんな思想哲学をもとにどんな経済理論を構築したのか。それはベストセラー教科書『経済学』にどのように盛りこまれていったのか。それが経済学界のみならず経済政策にあたえた影響とは。

サムエルソン『経済学』の時代』はその軌跡をたどる、おもしろうてやがて悲しき物語である。

 数十年にわたる物語を彩るのは、ケインズシュンペーターハイエク、ヒックス、トービン、カレツキ、ロビンソン、スラッファ、カルドア、フリードマンルーカスガルブレイスクルーグマンといった多士済々の面々。著者は彼らの理論を引用し、あるいはサムエルソンとのあいだに闘わされた論争を描きつつ、「新古典派総合」の全貌を浮き彫りにしている。

 さて、新古典派総合はしばしば「折衷的」などと批判されがちだ。理論の精密さというものさしを当てはめるかぎりにおいては、根井氏もそれを肯定する。しかし、経済思想上の姿勢としては、サムエルソンの「中庸」の徳のあらわれであるとして再評価をこころみている。

 ひとつの理論に固執すると、現実がみえなくなり、原理主義におちいってしまうのはよくあることだ。サムエルソンはプラグマティックな「中庸」の徳をもってこれを排したのだと著者は説く。

 その姿勢を端的に説明する一節がある。引用しよう(p.142より)。

 経済学者で「市場メカニズム」の役割を否定する者はいないだろう。だが、同時に、「市場メカニズム」の限界をわきまえることも重要であり、「新古典派総合」を提唱したサムエルソンは、誰よりも市場の効率性と市場の限界のあいだの微妙な境目を探る努力を惜しまなかった。彼は現代資本主義を「混合経済」(生産手段の私有が認められてはいても、政府が必要な分野で経済管理を担っているような経済体制)と呼んだが、それは、「市場」か「計画」かという両極端の方へぶれることを警戒した彼のバランス感覚とも調和していた。

 このような問題意識に立ち、本書では多様な理論が紹介されている。そのほとんどは傍流、異端とされ、経済学の主流からは忘れられた理論だ。たとえばロビンソンやスラッファが主流派に攻撃を仕掛けた資本論争。ヴェブレンやガルブレイスといった制度学派の主張。

 そもそもケインズの『一般理論』だって、当時にしてみれば「異端」だったわけだ。 事実サムエルソン自身がこう語っている(p.22より)。

最近の学生にとっては、適切にも「ケインズ革命」とよばれているものが、正統派の伝統のなかで育てられたわれわれのうえにおよぼした全影響を、実感することは全く不可能である。こんにち初学者がしばしば陳腐であり明白であると考えることも、われわれにとっては謎のようであり、新奇であり、異端的であった。

 こうして築き上げられた「新古典派総合」の黄金時代。それはまさしくサムエルソン『経済学』の時代であった。

 だが、マネタリズム、サプライサイド・エコノミクス、合理的期待形成仮説という新思潮に押され、その時代も終わりを告げる。とりわけ、サムエルソンの「折衷」にとどめをさしたのは、「マクロ経済学のミクロ的基礎」を追求する方法論を確立し学界を席巻したルーカスだった、と著者は記す。

 その書きぶりからして、根井氏はいわゆるルーカス批判以後の主流派経済学を評価していない。ニュー・ケインジアンについても同様だ。著者の思想はケインジアン、それも、IS-LMを奉ずるアメリカ・ケインジアンよりも、イギリスのポスト・ケインジアンに親和的であるようにみえる。

 かといって、「主流派」と「異端派」の派閥争いは不毛だろう。いやまあ、経済学者経済学徒にとっては大事かもしれないけれども、私のような一介の事務屋にしてみれば、「勝手にやってろ。ただしカタギの衆に迷惑かけるな。カタギの世間に首つっこむなら、それなりの仁義を切れ」で済む話だ。

 本書から汲みとるべきなのは、ひとくちに「経済学」「経済学者」といってもいろいろあるんだな、ということだろう。そんな「いろいろな経済学」にふれるには、本書は格好の一冊といえる。文章はあいかわらず明晰。読みとおすにはある程度の経済理論の知識が必要かもしれないが、そんなに難しいものは出てこない。

 そして、私たちそれぞれの「志」もまた、「いろいろ」を学び合い、ときに争うことによって育まれ、鍛えられていくのかもしれない。その可能性こそが、サムエルソンの何よりの「遺産」ではないだろうか。

サムエルソン『経済学』の時代 (中公選書)

サムエルソン『経済学』の時代 (中公選書)

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