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2020-02-02 INDEX

INDEX

23:40 | INDEXを含むブックマーク

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あ ー お

か ー こ

さ ー そ

た ー と

な ー の

は ー ほ

ま ー も

や ー よ

ら ー わ

1 ー 0

2017-07-08 なるほどこれは話題に

愛の渦

18:22 | 愛の渦を含むブックマーク

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<予告編>

ストーリー:都心のマンションに秘密のスワッピングサークルがある。男性は20000円、女性は1000円を払えば参加できる。今夜の客は男女それぞれ4人。男は如才なさそうなサラリーマン、少しヤンキーが入ったフリーター、太った童貞、うつむきがちなニート、女は気が強そうな保育士、外見だと一番もてそうなOL、常連だというピアスだらけの歳がいった女、それに無口で地味な女子大生。まずはリビングに全員あつまる。タオルを巻いただけの裸だ。重苦しい沈黙から、最初にサラリーマン保育士フリーターとOLが話がつく。カップルは下の階の「ヤリ部屋」に行くのだ。おたがい丸見えの4つのベッドがある。それぞれニーズがない童貞と常連もとりあえずカップルになる。そして残った2人。無口な2人だったけれど、いざSEXがはじまると他の男女はあぜんとした。地味な雰囲気から想像もつかないくらい女子大生ははげしく動き声をはりあげる…...

公開当時はけっこう話題作だったんだろうね。ぜんぜん知らなかったけど。三浦大輔の監督・脚本作品。かれの監督作だと『 ボーイズオンザラン』があったけれど、脚本が三浦、監督大根仁の『恋の渦』が設定といい語り口といい双子みたいな作品だ。20代くらいの男女が都会の一室に集まる。それぞれに男が、女が欲しいと思っている。男にも女にも強いやつ弱いやつがいて、それは同性の間での力関係でもあるし、モテ・非モテの区分けでもある。短い時間のなかでかれらのバランスはめまぐるしく変わる。

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強いやつははじめはにこやかに、温和に振る舞っているけれど、欲望がむき出しになる瞬間キバをむく。弱いやつは強者が占有している残りのスペースで生きようとする。強い側に入っていたつもりが弱い側にひっくり返ることもある。そんな集団の関係のダイナミズムを描ききったところは『恋の渦』が上だ。微妙な力関係の探り合いも、優位に立ったと勘違いしてひっくり返されるやつも、最後のどんでん返しも。本作も同じだ。でも明白な主人公がいる。そして主人公の魅力が映画をひっぱっている。

いうまでもないよね、門脇麦だ。序盤、受付で話しているところはどこからみても冴えないのに、後半はびっくりするくらい妖艶に見える。撮り方をおいといても、ふつうの女優だとこのふり幅はなかなかでないんじゃないか。乱れまくっているところでは体中にオイルだか霧吹きをふいて、ちょっとテカリ過ぎじゃないかくらいの汗みずく風で熱演する。何日も練習したという悦びの声も、あまりそれらしく聞こえないけれど、すごく声は出てる。まわりを支配するような強さじゃないがいつのまにか目を離せなくなるような存在感がある。スワッピングだから、基本だれもが色んな相手と寝るわけだけど、他の男の下でこっちをみる彼女の色っぽさはただごとじゃない。

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男も超インディーズの『恋の渦』とくらべるとメジャーな役者がいる。フリーター役の新井浩文のいつもどおり底知れない感じがいい。デブでもてない童貞役の駒木根隆介(『サイタマノラッパー』)は、そう見えつつもちゃんとした役者のたたずまいで画面がもつタイプだ。それにウェイター役の窪塚洋介。いちサービス係でありつつ、観客といっしょに男女の生態を観察している立場のかれは、ふわふわ頭にだるそうな喋りでイメージ通りだけど、なんだろう、独特の品の良さがあって、超然とした立場にぴったりだ。

物語は序盤、見た通りにフリーター世間慣れしたサラリーマン保育士とOLが強者側になる。4人ともそれなりにSEXとうまい距離を取れるタイプだ。でもなんともいえないところで1人がそこから滑り落ちる。地味な側だったニート女子大生ははるかにSEXにのめりこんで周囲を圧倒し、童貞も健全な童貞なのでこのチャンスにものおじせずに直進する。強い側の男と女は欲望が満たされなくなると攻撃性をむだにむき出しにしはじめる。そんな煮詰まったところにコメディリリーフとしてカップルが途中参加する。記号的なまでにコメディリリーフであり、男は柄本明の息子時生、女性は4等身のまるまる太った金髪だ。柄本時生ははじめて見た気がするけど、若いのに味がありすぎる風貌で、バカップルを完璧に演じきっていた。

物語は『恋の渦』よりある意味さらにミニマルな1室。いや2室かな。舞台とおおきな違いがあって、舞台では上の階にあって起きていることがよく見えなさそうな「ヤリ部屋」をもう一つの場所としてがっつり映しているのだ。映画では下の階になっている。舞台ではSEXシーンはどうしていたんだろう?声は聴かせていたんじゃないかなあ。「その間のこと」をみんなセリフで説明してたらつまらないし。最初と最後は『恋の渦』にはなかった〈部屋の外=街〉のシーンが入る。部屋の中がリアルで外の世界はぼんやりしていた『恋の渦』とちがって本作では外の世界がリアルにある。夜が開けて朝の光が差し込んでくる。部屋の中が一瞬の夢みたいなときなのだ。

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舞台の『愛の渦』

2017-07-02 しみじみとSF

メッセージ

19:20 | メッセージを含むブックマーク

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<公式>

ストーリー愛する娘と湖畔の静かな家ですごす言語学者ルイーズ(エイミー・アダムス)。ある日、大学の研究室に軍人、ウェーバー少佐(フォレスト・ウィテカー)が訪ねてくる。世界の12カ所に突然出現した宇宙船とそこにいる知的生物とのコミュニケーションを支援してくれというのだ。空中に浮遊する巨大な宇宙船には対話のための部屋があった。水槽のようなおおきな窓ごしにルイーズや物理学者のイアン(ジェレミー・レナー)たちは対話を開始する。音声言語だけじゃなく文字言語ももっている知的生物。アメリカ以外にも中国ロシア・日本・パキスタンスーダンなどにもやってきた宇宙船に、各国の研究者は共同で対話をこころみていた。でも一方ではなにかがあれば宇宙船を一斉に攻撃する準備も着々と進んでいた…...

物語の中心的なアイディアと語りの構成は原作そのまま、監督ドゥニ・ヴィルヌーブの忠実な映画化だ。話は娘との思い出からはじまる。そして宇宙からの来訪者との対話を通じて主人公の意識が変わっていく。

でも感触はけっこう違う。原作はじつに思索的な小説だ。コアになるアイディアと哲学的な命題を主人公ルイーズにたくしてそれだけを無駄なく書いた、ほとんどミニマルな短編だ。ほんとうなら全地球が上へ下への大騒ぎになるはずが、その描写も一切ない。感情に訴えてくるとすれば、母親が子ども(この場合は娘)を産み、育っていく彼女との時間に感じることを繊細に描いている部分だ。映画はやはりエンターテイメントとして、エモーションをかき立てなくてはいけないだろう。宇宙船の到来は地球規模の危機になるし、各国政府の駆け引きはあるし、爆発はあるし、主人公の暴走的活躍もちゃんとある。

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とくに大きいのは地球外生命体〈ヘプタポッド〉(7本脚)の存在だ。原作のヘプタポッドはコミュニケーションに協力的で物理学的な対話までこなす。他の研究者とも、映画よりだいぶ踏みこんだ対話もしているふうだ。でもぼくは読んでいてヘプタポッドに思いをはせることはあんまりなかった。かれらは人間が情報を引き出して解読するたんなる対象で、なんなら古代文明書物とあんまり変わらないのだ。ぼくらから見るとその意志とか主体性はほとんど見えない。

映画ではもう少し感情移入の対象になる。外形はそうでもない。原作どおり7本脚で〈人〉的なものを思い起こさせる要素は最低限にしてある。目はわからないし、サイズは巨大だし、服も着ていないから〈知的生物〉感はない。スターシップトゥルーパーズ的な、嫌悪感をかきたてる別の生物に似せてるわけでもない。おまけに霧の中にいつもいてなんだか現実感がない。でも、見ているぼくたちは主人公の「かれらと対話が、理解しあうことができるの?」というところから、だんだんと話が通じる相手になっていくところも描かれるし、ヘプタポッドにはちゃんとした意志も意図もある。だからファースト・コンタクトもの映画らしい、出会いと理解のいい話が感じ取れるようになっているのだ。

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もう一つ、話のコアは主人公の意識の変容をうながすかれらの言語だ。「かれらの言葉は表意文字だ、漢字みたいなね」的なコメントもときどき見るけれど、原作ではそれともはっきり違うといっている。「語順」というのがないのだ。漢字だって、たしかに一文字に情報が凝縮されているけれど、それがシーケンシャルに統合されることで情報が伝わるでしょう。かれらの言語は、ぼくの理解でいえば漢字の単語を並べてその関係性を矢印か何かで図示したダイアグラムみたいなものだ。

原作ではそれは直行するマトリックスっぽいイメージで語られるけれど、映画ではドリップペインティングか書道みたいな飛沫の多い円で示された

しかも宇宙生物が空中に脚から煙を飛ばすとそれがやがて形になるのだ。彼らの字をどう見せるか、ほかにも正解はあるかもしれないけれど、この丸はすごくシンボリックに見えるし、違う文化のものに見えるし、どことなく洗練してみえるし、たしかに成功している。一般人であるぼくたちにはとても秩序だった形態には見えないけれど、細かく文節すると読み取れるのも納得できるあたりのバランスもね。

お話のスリル要素、「世界の危機」「暴走する軍事国家」「撤退のタイムリミットと抵抗する主人公」あたりはまぁ入れざるをえないんだろうね。途中ででてくる時限爆弾はともかく。それでもエンターテイメント映画としては異例なくらいアクション要素は少ないし、抑えめの描写だ。プロデューサー側は「宇宙船の内部も見せてくれ」といったそうだけど監督はそれも止めたという。そのかわりにさっき書いたみたいな地球外生命体の意志はなんなんだ?というなぞの要素を入れてひっぱりにする。

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このお話は時間と因果関係についての考察でもある。ぼくたちが感じるみたいに時間は不可逆で、後におこる出来事は前におこった出来事の結果でしかないのか、そうじゃない世界もじつはあるんじゃないか…..? 原作はそこの説明にわりと力点を置く。映画では説明は簡略にしているかわりに、想像力をもう少しふくらませて、一種のタイム・パラドクス的要素(って言っていいのかな)を付け足して、終盤を盛り上げていく。そして因果のくびきから離れたと感じた時に、ひとはどう生きるのか?というメッセージもつたえる。

映画は音楽とならんで、強力にシーケンシャルな表現メディアだ。ふつうに見ると観客は映画の時間は物語の中の時間と同じようい進むと思うし、後でおこる出来事は前にあったことの結果だと感じがちだ。その無意識の見方をひっくり返すトリッキーな構成の映画といえば『メメント』があった。話が逆に進む『アレックス』も、それから時間構成がちょっとしたオチになる『エターナルサンシャイン』もあった。共通してるのは主人公たちの〈記憶〉が話のキーになるんだよね。本作もまさにそうだ。あたらしい言語の習得によって意識が変容した主人公にとっては、記憶の意味が変わる。一番のおどろきも感動もそこにある。

主演エイミー・アダムスは美しく見せすぎず、そこもじつに抑えめ。パートナーの物理学者役、ジェレミー・レナーも終始温和だ。原作でイメージされる2人より映画の2人が少し年上なのも、このストーリーの味わいをぐっと深めている。ぼくはなぜかテレンス・マリックの哀切な『ツリーオブライフ』を思い出していた。

*画像はUS版予告編からのキャプチャ

2017-06-18 青春とか旅とか

あの頃ペニーレインと

12:45 | あの頃ペニーレインとを含むブックマーク

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<予告編>

ストーリー:1970年代前半、カリフォルニアののんびりした街で育つ少年ウィリアム。飛び級になるくらい頭はいいけど、どうもまじめすぎる。お姉さんは逆に自由がほしいお年頃。支配的なお母さんと喧嘩してさっさと家を出てしまう。出がけに弟に託したのがたくさんのロックのアルバムだった。ロックにひたり、順調にロックおたくになったウィリアムは評論記事を書きはじめる。カリスマ編集者レスターと知り合った少年は記事を書かせてもらうことになる。いっぱしのプレス気取りでライブ会場に乗り込んだウィリアムだけど、子供を相手にするやつはいない。そんななかで売り出し中のバンド、スティルウォーターのリーダー、彼をおっかける女の子の中で一番のカリスマがあるペニー・レインと仲良くなる。ライブの記事を書いたウィリアムにチャンスがやってきた。記事を読んだローリングストーン誌の編集者がスティルウォーターのツアー記事を依頼してきたのだ…..

監督キャメロン・クロウの自伝的ストーリーだ。監督の生まれはパームスプリングスだけど少年ウィリアムが育つ街はサンディエゴ。お母さんは大学の教員だ。ちゃんとした家庭でそだち、勉強ばかりできる少年。そんな少年がロックにめざめ、バンドマンたちとすごして社会にふれあい、簡単にいえばすこし大人になる。一夏の少年成長物語だ。『シングストリート』を思い出すよね。支配的で心配性のお母さんの手の内にいた少年は、一夏の経験をとおして心身ともに独立する。ウィリアムは、いかにもという感じの坊ちゃんぽい髪型に「お母さんコーデ」的な地味目の着こなし。言葉遣いだけはいっぱしで、ときどきアメリカ映画で見るませた少年、『天才マックスの世界』とかのあれだ。

外の世界を見るのと同時に女の子との出会いもやってくる。少年にはいかにも謎めいて、大人びて見える少女、ペニー・レインだ。「あたしたちはミュージシャンを応援するの、グルーピーとは違う」と胸を張る彼女だけど、スティルウォーターのリーダーに惚れていて、仲間の娘たちもそれぞれのメンバーといちゃいちゃして、どこから見てもグルーピー。ようするに彼女もちょっと痛いナイーブな子供なのだ。子供2人は学校の夏休み、バンドのツアーに同行することになる。他のグルーピーたちもついてくる。少年かには、なにもかもが目眩がするくらい新鮮なあれこれだ。彼らからするとカリスマであり大人なバンドマンたちも、じつはまだまだ売り出し中、方向性もマネジメントも定まっていない、身内でも喧嘩ばかりしてる若者たちにすぎない。そんな視線の物語だ。

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映画のなかで主人公がであう「大人」は2人しかいない。1人はもちろんお母さん。少年を子供のからの中に引き止めておこうとする存在だ。お母さん役はフランシス・マクドーマンドコーエン兄弟の『ファーゴ』の渋い女性警官が彼女だ。顔がどっしりとごつく、母性と父性を同時にかねそなえているみたいなお母さんで、息子が急激に外の世界に飛び出していくのにとまどい、1人の男としてふるまいたい少年にどこまでもママとしてついてくる。なかなかに味わい深い存在具合だ。監督は撮影現場に実の母親が来たとき、「やばい!」と思って母とフランシスを合わせないように画策したそうだ。母親をモデルにしているので色々気まずかったんだろう。でも監督がちょっと席をはずして戻ってみると母とフランシスは一緒にランチをしていたという。この小オチ的展開。

もう1人の大人は少年にロック評論への扉をあけてやるレスターだ。レスターの出番は短い。ほとんど機能的ともいえるメンター役で、最初にかれを見いだし(会うのはそのときだけ)、あとはポイントポイントで少年の電話にこたえてどうあるべきか伝えるのだ。演じるフィリップ・シーモア・ホフマン思索的な面はださず、勢いのあるかっぷくのいい男系で演じている(方向性は違うけれど『パンチドランク・ラブ』とかもそうか?)。あとは少年にとっての「社会」「責任」を象徴するローリングストーン編集部のひとびとがいる。めくるめく経験に溺れそうになる少年に原稿を催促し、できあがった原稿はきびしく審査し、「大人になること」のもう一つの面をバランスよく見せている。

お話は基本ウィリアムの成長物語なんだけど、監督は少年視線だけにせず、彼が同行するバンドももうひとつの主人公として描いている。実質的なリーダーであるギタリストと主役面されたくないボーカリストのいがみ合い、お友達の素人マネージャーが力不足でいろいろトラブルにあい、レコード会社がプロのマネージャーを送り込んできてバンドが自由さを失いかけ、そして空中分解の気配がではじめて….的なあれこれだ。彼らも彼らで成長なり変化なりを一夏でいやおうなく経験するのだ。

同士みたいに手をたずさえて大人の世界にふみこむ子供2人。少年はつぎつぎ色んなものを獲得していく。少女が獲得したかったのは大人の男のハートだ。男は彼女を獲得しておいて、でも彼女に獲得させない。そのアンバランスさが物語の残酷さでもある。ペニー・レインちゃんは、演じるケイト・ハドソンの少しくちゃっとした顔もふくめてジャニス・ジョプリンをほうふつとさせる。ちなみに家を飛び出るお姉さんはCAになりひょんなところで弟と再会し、なんだかいい感じで心暖まる系に昇華していく。お姉さんは『500日のサマー』のズーイー・デシャネル

マイ・ブルーベリーナイト

12:45 | マイ・ブルーベリーナイト を含むブックマーク

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<公式>

ストーリー:NYで深夜営業のカフェを経営するジェレミージュード・ロウ)のところに飛び込んできたエリザベスノラ・ジョーンズ)は失恋寸前。傷ついて店にやってきて、売れ残りのブルーベリーパイを食べる。何度も来るうちにおたがいの気持ちは近づいていた。でも1人になったエリザベスはジェレミーのカフェには行かず旅に出る。メンフィスのレストランでウェイトレスとして働く彼女は、妻と別れて傷ついた警察官、毎晩カウンターで酔いつぶれるまで飲む彼が気にかかる。その後エリザベスラスベガスカジノで働いていた。知り合った女ハスラーナタリー・ポートマン)がちょっとした旅の道連れになる。

監督ウォン・カーウァイ。新鮮でしたね1994年の『恋する惑星』。日本人からすると、撮影監督クリストファー・ドイルのカメラに東アジアの街がひたすら格好よく撮られていて「こんなふうにおれらの街も見えるんだ」という楽しさもあった。本作は2007年の公開だ。おはなしは主人公2人のラブストーリーなんだけど、物語は3部に別れている。2人の出会い、旅に出たエリザベスが出会う、メンフィスでのエピソードラスベガスでのエピソードだ。2つは特につながりはなくて、エリザベスはどっちも出会った人たちを見守る立場だ。つまり2つのエピソードオムニバス的にそこにあって、主人公は狂言回しみたいになる。

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カーウァイは完成した脚本をもとに撮るタイプじゃなく、現場でお話もどんどん変わっていく。本作もはじめはNYで完結するつもりだったそうだ。でもNYロケは予算がかかりすぎるので地方ロケを入れて、こんなスタイルの構成になったらしい。2つのエピソードはそれなりにエモーショナルな筋立てにはなっている。愛するはずの家族と反発しあう関係になる人たち。そこには愛する人の死も入り込んでくるだろう。でも見ていて感情がゆさぶられるというほどじゃなかった。特にメンフィスの別れた妻ばなしは型通りすぎて、この低いトーンの物語にはうまくはまっていない感じだ。ラスベガス編は、ジャームッシュ的とでもいうのか、ちょっと変わった人との出会いを物語的に構築しすぎない断片的エピソードで描いていて、こっちのほうが本作にはフィットしてる気がする。

ジェレミー役のジュード・ロウはここでは絵に描いたような気のいいイケメンだ。本作のノラ・ジョーンズは「見かけは質実で華やかさはないけれど芯がしっかりした女の子」という雰囲気で少女漫画の黒髪系ヒロインにときどきいるタイプ。金髪ふわふわヘアーのジェレミーはいつのまにか心が惹かれていて、カウンターで寝てしまった彼女に思わずキスしてしまう。だまって旅立ち、手紙を送ってくる彼女が気になってしかたなくて、メンフィス中のレストランに電話したりする。「えっ、そこまでだったの?」的な感じはあった。

撮影はあいかわらずきれい。ただ、盛大にぼかした前景を入れて画面をフレーミングする構成は、ちょっと多用されすぎな感じがした。「異邦人の目で見る〈なんでもないアメリカ〉の風景の格好よさ」系という意味では古典『パリ・テキサス』的ともいえる。

2017-06-03 パク・チャヌク2作

お嬢さん

21:44 | お嬢さんを含むブックマーク

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<公式>

トーリー:1939年の朝鮮半島、森の中の豪邸に新しい女中スッキが呼ばれた。豪邸の主は上月という富豪。彼の姪にあたる日本の華族の令嬢、秀子と召使いたちと暮らしている。屋敷にはたびたび藤原伯爵という身なりのいい男が訪れる。伯爵は秀子の美貌に惹かれ、やがて結婚を申し込むようになる。世間知らずの秀子はとまどいながらも伯爵にリードされていく……..でもすべてには裏があった。上月はひそかに淫靡な趣味を持ち、同好の客を集めて、子供の頃から秀子を見せ物にしていた。藤原伯爵はじっさいは朝鮮人の詐欺師。そしてスッキはかれによって屋敷に送り込まれたスリの少女だったのだ…..

基本的に後味のいい映画である。公開中だしネタバレは避けるけれど、どんよりとやるせない気分で劇場の夜明けを迎えるって感じじゃない。映画は2人のヒロインと2人のしょうもない男、4人のゲーム的なだましあいだ。監督パク・チャヌクは視点を変えてひとつの出来事を語りなおす『羅生門』スタイルで(『現金に体を張れ』『その土曜日、7時58分 』とか)観客もゲーム的な気分に巻き込む。

「抑圧された状況の中で闘う賢明な女性が魅力的。従順な女性が一番魅力がない」と監督はいう。『オールドボーイ』も『渇き』もそうだった。立場的には抑圧されてもヒロインは強い。本作はストリートの知恵を身につけたお手伝いのスッキ、ただの箱入りお嬢さんかと思うと強烈な精神と悪知恵を持っていた秀子。どちらも強い。悩みとかうじうじ要素は一切ない。そして2人は画面の中で存分に愛しあう。『アデル、ブルーは熱い色』に匹敵する愛しあいっぷりだ。ただ、なんだろう、この監督のSEXシーン演出はわりとビジュアル優先で、今回も出し惜しみなく見せてくれるんだけど、ちょっと『ラスト、コーション』にも似て、ことばにできないようなエロさはあまり感じなかったなぁ。

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舞台設定が面白いんだよね。1930年代韓国で、統治国の日本が意外なことに露骨な敵じゃなく、主人公たちの文化的な憧れだったり、束縛された世界から解放されて行きつく、光にあふれる「外」として描かれるのだ。戦後の日本で、アメリカがそういう風に描かれたことはたぶんいくらでもあった。韓国でもポン・ジュノみたいに現代日本ポップカルチャーに親近性がある人はいる。でも占領時をそういう風に描けるのか.....  そこで描かれる日本は伝統的な「和」の世界だけじゃなく、神戸モダンなレストランだったりホテルだったり、実在するかはともかく中世の城みたいな精神病院だったり。じっさいに日本国内でもかなりロケをしてることが公開されてる。メインの屋敷のシーンの一部は桑名市六華苑の屋敷と庭だ。ちなみに六華苑の主、諸戸家というのは明治の頃から繁栄した山林王。一時は都内の渋谷から世田谷にいたる住宅用地を大量に所有していた。本作の韓国人富豪、上月も一代で財をなした男で、森の中の屋敷は門をくぐっても家まで車で一眠り出来るくらいに広大という設定だ。そんな彼の家は、英国風の屋敷と和風の数寄家がならんだもの。女中たちのすまいは韓国風だ。六華苑の庭園は映るけど、屋敷の外観はブルーバックで隠し、たぶんCGでレンガ作りの建物にされている。

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パク・チャヌクは物語を描くときも省略なく直截にいく。誇張気味になることもあるし、分かりやすさ優先の漫画的に見えるときもある。どことなくキッチュにみえる描写とかもときどきある。漫画的といえば、物語中の悪の根源、上月 がコントめいた老けメイクなのが謎だった(きびしい減量の役づくりで臨んだらしいが)。いや、日本でも50年以上前の名作(コメディじゃなくね)で、やっぱりコントというか舞台劇調の老けメイクのおじさんが出てくることはある。でもいまの技術でなぁ.... あとお嬢さんが地下ショーで日本髪になった時の巨大なフォルムね。この映画での日本文化の扱いはときどき「ガイジンの誤解込みのキッチュな和風」テイストを狙ったかのような、それでいてお金がかかった美術でもあるような、『キル・ビル』を思い出すのだった。面白さのけっこうな部分はじっさいの日本語で話されるセリフもふくめて、奇妙にハイブリッドな文化の香りだと思う。

富豪の上月は日本文化に同一化したくて、日本語をしゃべり、和風の家を建て、日本の春画や春本をひたすらに集める。幼い頃に日本から連れてこられた秀子は自分の目的のために伯爵になびく世間知らずの女のふりをする。彼女と結婚し家から連れ出そうとする藤原伯爵は、じつは済州島のまずしい家で生まれ、日本で商売と言葉を覚えた詐欺師。そしてほんとうはスリだけど詐欺師と組んで女中のふりをして屋敷に入り込むスッキ。全員がそれぞれの思惑や思いにしたがってアイデンティティを上塗りして演じあう仮面劇のなかに「真実」として愛がおかれるのだ。

渇き

21:44 | 渇きを含むブックマーク

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<予告編>

トーリー:孤児だった神父(ソン・ガンホ)は病院に勤め、助からない患者たちにやすらかな死をもたらすべく祈る。神父はある目的のためアフリカに渡った。致死性の伝染病の人体実験に応募したのだ。罹患したものは必ず死ぬ。かれも大量に吐血して絶命した。ところがその直後にかれは甦った。奇跡の存在になった神父は病人たちの救いの象徴になる。でもその体は生まれ変わっていた。定期的に人間の血を飲まないと死んでしまうヴァンパイアになっていたのだ。神父は幼馴染のチョゴリ屋へ行く。病弱な友だちと、チョゴリ屋の養女から妻になったテジュがそこにはいた。義母から下女扱いされている彼女に同情する神父にテジュも惹かれていく...

神父がヴァンパイアになる。血を与える側に仕える人が血を求める人になる。伝染性の病気と絡めてそこまではシリアスに行く。神父がくらす一室には聖セバスチャンの絵が意味ありげに置いてある。たしかにこれから起こるのは、自己犠牲と傷ついては再生する肉体の物語だ。

ソン・ガンホは悪魔的な欲望(それが生への執着でもある)と聖職者としての良心のあいだで悩む神父を抑制的に演じる。ヴァンパイアモノのセオリーで二枚目俳優を置いてしまったらそうとう軽くなっていたところを、彼の重量感と何か背負っている感で見せていく。

かれと対置されるのが、パク・チャヌクならではの「抑圧されていたけど闘う賢明な女性」、旧友の妻のテジュだ。韓国の女優にはちょっと珍しい南方系の顔で、ぼさぼさ頭とひょろっとした手足にぎょろりとした目つきが気になる。テジュは再会した神父を気に入り、あっという間に戒律を破らせてしまう。『薔薇の名前』の修道士の時と同じライディングポジションだ。主人公は自分が吸血鬼だと告白する。生きた人間の血を飲む神父におびえたテジュは、でもかれを受け入れる。そして2人は引き返せない共犯的な関係になっていく。

神父がチョゴリ屋に出入りするようになってしばらく、病弱だった夫は死んでしまう。病気でじゃなく。そして神父とテジュは夫の死に消せない罪悪感を感じるようになる。で。そのあたりから本作は伊藤潤二めいた、ホラー風味なのにまじめか笑わせにかかっているのかわからない過剰な表現がではじめるのだ。まず夫の死問題。神父とテジュは夫がいなくなったのをいいことに家で一緒に寝るようになる。ところが罪悪感のせいで水死した夫の幻影に悩まされる….その描写がびしょびしょで不気味な笑顔をみせる夫が「どーん」という感じであちこちに現れる、というものなのだ。しまいには重なった2人にはさまれつつ不気味な笑顔を見せる。

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そして息子を失い被害者となった母。もともとどこか怖さをもった四角い顔の彼女は、意識があるのかわからない麻痺状態になり、しかし家のなかのどたばたを常に見ている。家のあちこちで無造作に転がされつつ、目だけは「ギンッ」とこっちを見ている感じ。これも楳図かずおのアップが怖くも笑えるのに似て、やはり境界線上にある表現だ。

さらにほとんど漫画的といっていいのが、ヴァンパイアが圧倒的な身体能力を身につけてしまうのだ。いやまあそれは設定なんだからいい。吸血鬼もののお約束に、美女が寝ていると、高い窓からやってきて部屋に侵入し….というのがある。それを数メートルは楽に跳躍できる神父はジャンプでこなすのだ。腕力も超人的になる。後半でヴァンパイア同士があらそうシーンが出てくるんだけど、2人で夜の街、屋上をぴょんぴょん跳ねながら追いかけっこしたり、重量バランス関係なく人を軽々と持ち上げたりする。ワイヤーアクションだったり特殊効果だったりするんだろうけど、「超高性能になった身体パーツ」の描写がぜんぜんないから悪い意味で漫画っぽいのだ。

おはなしは最初とだいぶトーンが変わっていき、テジュは抑圧された女からファム・ファタールへと変身し(それにしたがって羽化したみたいに美しくなり)、神父はどんどん受け身で抑制的になっていく。ラストは吸血鬼もののお約束をふまえる。一種のジャンルムービーだからポランスキーのこれとか、『ぼくのエリ』とかと同じくそこを効果的につかうものなんだろうね。お約束でありつつ、ちょっと切なく美しいシメになっている。

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Jiz-cranephile

旧作メインのレビューです。なぜってDVDでだいたい見てるから。映画のなかの風景や植物・空間についてもふと語る。