パフューム トム・ティクヴァ


フランスが舞台だが原作(パトリック・ジュースキント)、監督ともドイツ人。『ラン・ローラ・ラン』の監督ですね。悲惨な生まれの天才調香師(香水作家)が理想の香りを追求するうちに奇怪な犯罪にコミットするというホラー風味のストーリー。わりあい原作に忠実な映画化だが、1章だけまるまる外してある。主人公が何年も洞穴にこもり、この後彼が自己改造して、自分の理想と犯罪を追求しはじめるまでのエピソードだ。
題材としてはエグい連続犯罪モノなんだけど、実はそれほどエグくない。ときどきあるタイプだが、昔話のスタイルで、過去形の語りなので、どこか寓話的で生々しさがないのだ。絵だって近世パリやヨーロッパのノスタルジックな風景。女性が連続殺人の餌食になるが、そのシーンも必要以上にショッキングに撮らないで、「死者が出ました」というのを最小限にみせるだけなので、こういうのが辛い人でも意外に耐えられる。撮り方はやはり同時代の先人、ジュネ&キャロの影響があるだろう。このスタイルで影響をまぬがれるほうが多分むずかしい。
主人公の能力設定自体フィクショナルだし、調香師としての能力も人間離れしているように見える。しかしプロの調香師たちの手記を読むと、これは実際にあるものだということがわかる。彼らは匂いを「感じる」んじゃなくて「読める」のだ。ただしラストのスペクタクルシーンはかなり微妙。ここで一気にリアリティが低下し、あきらかな奇想天外モノに変わってしまう。「匂いの力」というのを最大限拡大してみた思考実験みたいなフィクションなんだろう。

オールド・ボーイ パク・チャヌク


漫画っぽい極端な演出というのは、どこかが抑えめじゃないと軽すぎてしまって真剣に見られない気がする。この主人公の芝居は僕からするとオーバーアクトすぎた。敵役といい、ヒロインといい、色々とキツめの因縁が用意されているし、ストーリーや暴力描写の容赦なさをふくめたテンションはその辺のサスペンスもどきははるかに超えているが、たとえば素手で武器を持ったヤクザ20人くらいをワンカットで一気にブチ倒せるとかいう漫画的設定の主人公が、クライマックスで床を転げまわってわめきちらすような芝居となると、大げさすぎて最終的には失笑気味になってしまう。この映画は北野武の一定の影響下にあると思うが、北野の極端に抑えた芝居とは対照的である。むしろ敵役ユ・ジテの不気味な存在感のほうが映画を支えているように見える。

フロスト・ニクソン ロン・ハワード


まったくピンとこなかったことを告白せざるを得ない。この映画は同名舞台で名演した俳優二人をそのまま配役したことからも、見せ場は名優たちの演技そのものということなんだろう。なかでもフランク・ランジェラニクソンの評価が高いのはみなさんご存知のとおり。
日本人にとっていえば「角栄」の映画化ということになる。相手は立花隆か。子供の頃からニクソンは知っていたし、名作と言われた自伝も読んだ。・・・という程度の予備知識はある僕だが、役者の「ニクソン性」の再現ぶりがどうだったか分かるほどには知らない。アメリカ人の観客ほどに刺さるものがないのは当然だろう。しかしだ。この映画の元になった演劇はイギリスで制作されているのだ。ウォーターゲート事件も、35年くらい過去、あきらかに「現代史」上の物語だ。つまり同時代人でなくても受け入れられる作品として当然作られているはずなのだ。しかしなあ、なぜだろう。正直に言うと何度か見たけれど、毎回微妙に途中で寝落ちして、一貫した印象がないのだ。

ナビィの恋 中江裕司


西田尚美というひとは、ある時点から華のない苦労人役がぴったりくる女優になってしまったが、1999年のこの映画では別人のような雰囲気を見せる。適度なエロスを供給しつつ、モデル体型の長い手足をのびのびと振り回して天真爛漫に振る舞う彼女は今とはなかなか結びつかないほどだ。
栗国島でロケした沖縄離島のいなかの風景は、内地の人間が夢見る古き良き沖縄そのものであり、もう何もいうことはない。
何より、登川誠仁師が演ずるダンナの格好良さにしびれるだろう。もともと彼の唄のファンだったからよけいそう見えたんだが、因縁の愛に出奔する老妻をすべてにおいて許し切るこの包容ぶり。深すぎる。マッサージチェアに泣けもう。