マイレージ・マイライフ

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まずイントロの映像コラージュが最高に格好いい。本編もでだしからたたみかけるような速いカット割りで、パッキングから空港のチェックインまで、究極に旅慣れた主人公ライアンのスムーズな動きを見せる。特殊な撮り方じゃないが新鮮でいいリズムだ。
主演ジョージ・クルーニーケーリー・グラントの後継者といいたくなる古典的二枚目は、ゴージャスすぎるルックスを抑えるみたいにやや老けた雰囲気で登場するが、その身のこなしには全く隙がない。彼は何種類もの微笑みを使い分けて、あらゆるニュアンスを表現する。調子を合わせるための微笑。同情を表現するための、攻撃を封じるための、不満を、当惑を、哀しみを隠すための・・・観客はそれぞれの笑顔にちゃんとキャラクターの感情をかさねることができる。
ライアンの職業は企業の解雇通告代理人。象徴的でちょっと超越的ともいえる存在だ。原題『Up in the Air』という通り雲上人のようだ。人々に解雇(=死)を宣告しながら自分はその苦しみと無縁の(=不死の)立場。生活のしがらみも何もないように見える。一年の長い時間を飛行機の座席ですごし、空港近くのヒルトンで眠る。彼のスピーチのテーマは「人生の荷物を軽くする」ことだ。しかし同時に彼は、何かを喪失していることで、その超越性を身につけているタイプのキャラクターでもある。
そんな文字通り地に足のつかないライアンに、ロープをかけて少しずつ地上に引き下ろしていくのが女たちだ。彼の「喪失しているもの」は多分母性と関わりがあって、女たちとの関係や家族との再会をきっかけに彼はそれを回復しようとしはじめる。ひきかえに超越性は失われなくてはいけない。仕事の立場はあやうくなりだして、移動しつづける人生にもむなしさを感じるようになる。彼にとって最上の価値だった「飛ぶ事」の支配者であるベテラン機長との会話にそれが象徴される。彼が普通の人間になっていくのにつれて、撮影も序盤のぴしっとしたクールな画面からなんとなくドタドタした画面になっていく。そして結局、彼は超越性とひきかえに人間的な幸せをえたのか?・・・という話だ。

ライアンが出会う女たちはまず、「おなじ匂いのする女」アレックス(ヴェラ・ファーミガ)。セフレ関係を楽しんでいたはずが、だんだん親密な雰囲気になっていく。 そして会社の優秀な新人ナタリー(アナ・ケンドリック)。 「若い世代=新しいテクノロジ−をひっさげた変革者」vs「古いタイプだが仕事の本質を理解しているベテラン」という仕事モノでじつにありがちな対立構造も重なって、ライアンはメンターにも擬似的な父にもなる。最初にぼろいスーツケースと余計な荷物を捨てさせるあたりがシンボリック。そして故郷の姉妹。妹の結婚式に彼を呼び、家族の価値を思いださせる。このエピソードでは、彼の他人との見えない壁の遠因が家族との微妙な距離にあるらしいことがそれとなくにおわされる。
そんな感じで人とのつながりにだんだんと絡めとられるライアンは、マイホームを持とうと決意して、マンションを買い、家具を揃え、いきなり完璧な家を仕上げて家庭生活を夢見るようになる(実はこのシーンは撮影されたがまるまるカットされた。結構いいのにもったいない!)。そして・・・
物語の構造は『ハートロッカー』そっくりだ。ある分野の特殊なプロが主人公。最初その世界に完全に順応し、なんの疑問も持たずに気持ちよく任務を遂行する。けれど彼の完璧さは少しずつほつれる。人との関わりや環境の変化で自分のあり方に疑問を持つようになっていく。その後深い失望を味わった彼は、ラストふたたび自分の場所=空港に戻っていく。とはいえそこはオープンなエンディングになっていてふたつの解釈をゆるすつくりになっている。
この映画、解雇を告げられて必死になる何十人の人々はほとんど全員解雇経験がある アマチュアで(2人くらい俳優がいる)、通告されたときの気持ちを思い出して自由に語ってもらったのをシーンとして使ってるそうだ。つくづく苦い時代の映画だ。
とはいえだ、この映画で後世に残るのは今いってきたみたいな本質じゃなくて、何気に「美女が裸の腰にネクタイ」というスポーツ新聞のエロページにありそうなアレックスのかっこうかもしれない。いやすまん