トスカーナの贋作


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アッバロ・キアロスタミ、2010年の作品。この映画、ふたりの俳優を中心にした会話劇だけど、ひとことでいうと、ぱっと見そんなに面白い話じゃない。そもそもドラマを楽しむ映画じゃないからだ。
ストーリーはほとんどない。イギリス人作家(ウィリアム・シメル)が講演でおとずれたトスカーナ地方の小さい町でフランス人のギャラリーオーナー(ジュリエット・ビノシュ)と出会い、2人でドライブに行くだけの話だ。でも見ているうちにものすごく奇妙なことになってくる。はじめから2人は何かと議論をし、どちらもやけに辛辣な言葉をぶつけあって、とうていいい雰囲気には見えない。それでも2人でちょっとした観光旅行にでかける。旅先でカフェに入り、英語やフランス語で会話していると、言葉がわからないカフェのおかみさんが2人を夫婦だと思い込む。すると間違われた彼女はそれに乗って妻としてふるまいはじめる。カフェを出てからも作家に不満げな妻として話しかけ、やがて作家も夫としてふるまうようになるのだ。その町で2人は新婚の夫婦、中年夫婦とことばをかわす。後半はあったばかりの作家とギャラリストの立場は完全に忘れられたみたいに、ふつうの夫婦として会話がすすむ。
二つのドラマ、ふつうなら「ようするに作家とギャラリストが夫婦ごっこをはじめたら思ったより入り込んじゃったんでしょ」という見方になるだろう。「演技の憑依性」みたいなさ。それが一番、常識がゆらがない見方だ。でも物語としてはそんなにカタルシスもないし中途半端。それより僕はゲームとして見る。監督のしかけたゲーム。どういうことかというと、僕たちがドラマを見るときのある了解の仕方を突っついているのだ。
ロジェ・カイヨワは『遊びと人間』のなかでミミクリーという遊びの類型をあげている。<ごっこ>のことだ。子供はなにかになりきって遊ぶ。あるいは人形やその辺の積み木でも小石でも何かに見立てて、彼らに何かの役をあたえてする<ごっこ>もある。それは自分でする演技にも発展していくだろうし、演技を楽しむ観客の能力にも育っていくだろう。カイヨワが指摘するのは、<ごっこ>をする子供は、どんなに何かになりきっていても、それそのものじゃないことを十分に承知しているということだ。とうぜん観賞するがわになっても同じことだろう。すごく小さい子供でも、声色やモノマネをすぐにそれと理解して笑うし自分でもするでしょう。本来の人格なりものの性質(とされているもの)とは離れたところで別のキャラクターをかさねて、そのキャラクターのおりなす物語を理解する…これってよく考えるとけっこう高度なことじゃないかと思うけど、原初的な能力でもあるということなのだ。
つまりそれがドラマを楽しむぼくたちの態度だということだ。「役者が死んでるわけないのに、何で悲劇のドラマで泣けるの?」という突っ込みは、あたり前すぎて誰にも相手にされないだろう。<ごっこ>の時代から、ぼくたちは演じられているドラマのリアリティを感じ取りながら、目の前のそれがフィクションであることは了解しているのだ。
それだけじゃない、別のことも了解している。最初の「作家とギャラリスト」のドラマ。これがそのままつづいているかぎり、物語のなかでは「現実」がつづいているいうことをだ。映画作家たちは、じつにさまざまな、物語のなかでの現実と非現実の描き分けかたや時制の切り替えかたを開発してきた。観客はそれを学習して、物語内の現実味とか時制のレイヤーを器用に整理しながらドラマを楽しめるようになっている。みなさん、回想シーンとかキャラクターの妄想シーンとかそんなに苦労しなくてもわかるでしょう? それを逆手に取って今度は「現実かと思ったら…」式にひっくり返して、わざと混乱させたり誤解させるやり方がいろいろ開発されてきたくらいにね。この二つの了解を無意識にすることで僕たちはドラマをスムースに楽しんでいる。

この映画はその二つにわざと矛盾をつくっているのだ。たとえばさっき書いたみたいな現実の描き分けの話法を一切使わない。そもそも2人の基本設定も変えていない(もちろん服もメイクも名前も)。だから観客はこの二つのドラマは地続きだと了解しないわけにはいかないのだ。監督は後半に「関係がぎくしゃくした夫婦の感情のゆれうごき」という、わりと誰にでもフックしやすい(そんな若者が見る映画でもないからね)題材を持ってきている。観客は、これが二重に演じられているんだと思っても、ついついそのドラマに入り込んでしまう。
ビノシュは夫婦の会話も「キャラクターが芝居をしている」風じゃなく、ストレートなドラマと同じレベルの感情表現をする。だから観客にとってその演劇的効果は普通のドラマと変わらない。観客からすれば、物語の中では「現実」と「非現実」というレベルの違いがあってもなくても、ドラマとしては同じやり方で了解できるし、受ける印象は同じレベルなのだ。でも後半に見せられるドラマはどう見ても違う話になっていて、物語の中では非現実と了解するのがふつうだ。二つの「了解」が不協和をおこす。人によっては混乱するし、人によっては二重に、つまり演技者がドラマの中でさらに演じているんだ、と無理矢理解釈するだろう。なんというか、エッシャーの絵を見ているときの混乱に似ている…そんな監督のゲーム、という風にこの映画は見える。
タイトルの原題は「認証された贋作」。作家の本も、2人の対話も贋作についてのもの。美しい景色は(スクリーンの中というのを別にすれば)ホンモノだ。