ホドロフスキーのデューン


<公式1><公式2>公式がなぜか2つある!

映画作家ホドロフスキー。『エル・トポ』『ホーリー・マウンテン』で欧米で注目のクリエイターになった彼に、フランスのプロデューサーが新作をオファーする。1975年、ホドロフスキーが選んだのは名作SF、『デューン』だった。まずはスタッフさがしだ。自分のスピリットを理解し、目的を共有してくれるビジュアルクリエイターたちをホドロフスキーは「戦士」と呼ぶ。最初に加わった戦士はコミック作家のメビウス。彼と2人で壮大なストーリーボードを書き上げたホドロフスキーの呼びかけに応えて、各国の戦士たちが集まってくる .....

やけにでかいことをいう男というのがいる。「いまの国内のシステム、これでまるっきり変わる」「世界から人々が集まるような場所を地元に」「いま日本でこれに気がついているとこない」「すごいヤツらが集まって面白いことしようとしてる」みんなじっさいに聞いた。もっと変なケースもある。やけにでかいことをいう人はえらくて見えないところにいて、部下がかれの大言壮語を真面目なビジネス文書にして送ってきたりするときだ。
ま、そんな人たちはどうでもいい。ホドロフスキーも話がでかいひとだ。自慢というより、ビジョンがでかい。しかも雄弁だ。でもそれだけじゃないんだとこの映画を見てわかった。どうしても初期の2作のイメージでアウトサイダーよりの表現者だと思ってしまうけれど、かれの壮大なビジョンは若いクリエイターたちをその気にさせるし、なによりかれもそんな「戦士」たちの表現をちゃんといかすディレクター資質がある。

このブログでも取り上げているメビウス。かれは『エイリアン』『トロン』『フィフス・エレメント』にもかかわる。そして『エイリアン』をへて本格的にブレイクするギーガー、おなじく『エイリアン』『A.I』ほかで仕事をしたSF系イラストレーターのクリス・フォス、やはり『エイリアン『トータル・リコール』の脚本ダン・オバノン.....。最初の戦士、メビウスはキャラクターとコスチュームをデザインし、素早いタッチでホドロフスキーのビジョンを長編のストーリーボードに仕上げる。ほかのクリエイターたちは絵コンテの説得力に「これなら...!」とわくわくして参加を決めただろう。映画監督ニコラ・ワインディング・レフン( 『ドライブ』)のインタビューでは、かれは後年ホドロフスキーにじきじきに絵コンテを見せられて、ストーリーの独演を聞かされた、と自慢げにかたる。

キャストにはミック・ジャガーオーソン・ウェルズサルバドール・ダリといったビッグネームとウド・キア(ぼくはラース・フォン・トリアーの映画で知った)、デビッド・キャラダインなどのクセもの系。そしてこの大作の主役の少年は.....かれの息子、ブロンティス。えー…......息子? たしかに映画出演経験はある。エル・トポの子役としてね。映画にそなえて息子はカラテのレッスンを受けたりするのだが......そこもホドロフスキーのおもしろさとしとこう。ちなみにホドロフスキーは息子たちを自分の映画に起用するひとで、弟のクリストバルは78年の『サンタ・サングレ』にでているし、ブロンティスやクリストバル、弟のアランは最新作『リアリティのダンス』にみんなで出演している。他の映画では見たことないが……..。

で、この映画は結局実現しない。メジャーな制作会社はどこも企画にのらなかった。そこまでのあいだにかかった費用は(クリエイターのギャラとか)どう支払われたのか気になる。ともかくこの映画も「映画を撮ることの映画:実現しなかった編」のひとつで、例に漏れずぼくには面白かった。上のスタッフでわかるようにこのチームが『エイリアン』にひきつがれたんだよね。古めのSF映画ホドロフスキー本人に興味がない人にはどうかとも思うけれど(ひょっとするとおっさんホイホイ的映画かもしれないけど)、上のほかにも70年代のカルチャーアイコン、ピンク・フロイド、特撮技師のダグラス・トランブルとかの名前がでてきて楽しい。だいたいダリなんて美術史上の人のつもりでいると、当時は映画出演もありえるポジションだったのか、とか。ちなみに知合いの画家がいってた。60〜70年代のロックはアートスクール出もおおくて、ある意味かれらはアートの世界のひとたちでもあったとね。そう聞くとミックとかピンク・フロイドとかなんとなくしっくりくるところもある。

モネ・ゲーム(Gambit)


<予告編>
ストーリー:美術品の鑑定家ハリー(コリン・ファース)は、クライアントのメディア王シャバンダー(アラン・リックマン)の人を人とも思わない扱いにむかむかしていた。彼を出し抜こうと贋作のプロ、ネルソン中佐と組んで幻と言われるモネの絵を売りつける計画を立てる。その鍵になるのがアメリカ人ロデオガール、PJ(キャメロン・ディアス)。ハリーの話に乗った彼女はカウガールスタイルでロンドンにやってくる.....

「脚本:コーエン兄弟のコメディ」てところにひかれて見た。で、まず思ったのは、これ脚本ができたのがそうとう前なんじゃないかということ。笑のノリとかはそもそも古いコメディをやろうとしてるんだからいいとして(だいたい欧米の「今の」笑いとか知らんし)、物語の設定がいかにも90年代っぽいのだ。
2012年公開のこの映画、wiki先生によるとオリジナル1966年版『Gambit』のリメイク企画が立ち上がったのは1997年だ。コーエン兄弟の脚本ができたのは2000年あたりみたいで、その前後にもじつにいろいろな脚本家、監督、俳優の名前がでてくる。とにかく「紆余曲折」という言葉がぴったりで、気がつけば企画から15年たち、66年の映画を97年に見返す、その半分くらい時間がすぎてしまった。脚本完成からも10年以上だ。モダナイゼーションでこれはどうなんだろう。お話の骨格いかして、設定やセンスを今の観客にあわせるのがリメイクちゃうんけ。
主人公とカウガールはまあいいとして、お金持ちのごう慢なメディア王、ようするにマードックだけど、ネタとしては新しさに欠ける。彼のライバルコレクターは日本人のリッチマンだ。メディア事業で提携しようとしているビジネスマンも日本人。少なくともここ10年はこういう役回りは中国人なんじゃないの。90年代後半の設定としても微妙だ。市場としてでかい中国人観客にとっても、役が中国人になってマイナスはないと思うけどな。
ライバル東洋人を中国人に書き替えたらなにかかわるかなぁ.....3分考えたけど、あまりかわらない気がする。どのみちかれらは人格を掘り下げられているわけじゃなく、ストーリーのピースとしての機能しかないのだ。だから描きかたもまったくのステレオタイプになる(日本人であるぼくからすると、これも新鮮とは思えないが)。ただし、このベタな描写は伏線で、あとのヒネりを際だたせるためだけどね。

最初に書いたみたいにこの話はコメディで、ギャグもまたベタである。微妙な笑いというより「ここ、笑いどころですんで」とモロに見せるタイプ+ハリーとPJの男女の口げんかモノ の繰り返しといえる。たとえば『ビッグ・リボウスキ』的ブラックな笑いはない。それにしてもギャグの根幹が「おっさんの裸」「おっさん下半身パンツ一丁」って.....とくに「おっさんの裸」は唐突にアラン・リックマンが裸になるだけで、それ以上の拡がりも何もない。「パンツ一丁」にしたって、コリンが上半身スーツ+無難な白っぽいトランクスになるだけで、べつにTバックな訳じゃない。いやべつに見たくないけどな、そんなもん!かたや意味不明全裸なんだからつり合い上そのくらいもありかと.....
とまあ、ぜんたいにどうもリズムにキレがない、あまり印象に残らない一作ではあった。『シングルマン』風のおかたいルックスできめるコリン・ファース、知合いのいけすかないおっさんにどことなく似ているアラン・リックマン、とりあえず役どころにはピシッと合っているキャメロン・ディアス、イギリス映画には欠かせない「軍経験がある年長の補佐」キャラの中佐、あと客を小馬鹿にするホテルマンなど役者はいい。で、オチは「ほほぅ」というモノがあるから、役者だれかのファンなら楽しいかもしれないです。