花影


ストーリー:1960年代あたまの東京。水商売もだんだんモダンになり「女給」は「ホステス」に変わる。「最後の女給」といわれた銀座の伝説の女、葉子(池内淳子)はかつて文学者や大学教授、名高い骨董商たちに気に入られた、文化人サークルのミューズだった。でも男たちとの関係は長く続かない。大学の美術史教授松崎(高部良)にも自分から別れを言い出してしまう。けっきょく古くから面倒を見てもらっている骨董商高島(佐野周二)を頼り、知り合いのママ(山岡久乃)のもとでホステスとして働く。弁護士やテレビの演出家、それにワインメーカーのオーナー(三橋達也)たちとそれぞれに付き合うけれど、いつも1人の男の存在が関係を終わらせてしまう。けっして肉体関係は持とうとしない高島だった。骨董商として名高い高島だったが、だんだんと苦しい内情、あやしい仕事ぶりがあらわになる…….

川島雄三監督、1961年。カラー映画だ。まだ白黒のメジャー作品も多い頃で、だからか色彩を意識した演出がわかりやすくされている。葉子が住むアパートの前にはぽつんと真っ赤なポストが立っていて、建物から見下ろす道路の風景のアクセントになっている。最初のシーンからなんども象徴的に映されるのだ。「手紙」が物語で重要な役目を果たすのは最後のシーンだけ。それでも急な坂道の歩道の脇のポストはいやに強調される。それから薬が入っている青い瓶。殺風景な葉子のアパートの室内で青いガラスだけが妖しく光る。影を使った画面が印象的で、画面のほとんどを暗く落として見せたい一部だけを浮かび上がらせたりする。お話のトーンもあってすこし暗うつな画面だ。
・・・・この映画、ぼくはたまたま名画座で見たんだけど、DVDやブルーレイは発売されてる気配がないし、予告編も見当たらないし画像もほとんどないのだ。もし興味があったら、どこかの名画座の特集を待ってくださいね。製作の東京映画は東宝の子会社で、「日本映画歴代ベスト」的なものに顔を出す作品よりは当時大量につくられたシリーズものの娯楽映画が多かったと思う。監督川島雄三は松竹、日活(このあたりの名作は日活時代)と移ったあとは若くして死ぬまで東京映画で作品を撮っていた。
原作は大岡昇平の小説。小説とはいってもモデルがいる。主人公のモデルは坂本睦子という有名な女給だ。彼女は戦前のまだモダンが許された時代に15歳で銀座のバーにデビューし、次々に文学史上のビッグネームたちの愛人になり、43歳で自殺した。彼女の死、小説の発表が1958年。たくさんいる知人や愛人のなかで、いま多くの人が「ああ」というのは白州正子だろう。坂本睦子をむうちゃんと呼んだ彼女は睦子が死んだ時に惜別の文章を書いている。そのエッセイによればむうちゃんは美しいけれど、どちらかというと透明な目立たない感じの女性で、次から次に彼女を独占しようとした男たちが20年以上かけて彼女を「つくりあげた」んだという。10年来のともだちといいつつさばけた距離感で、男と寝る時もまったく感じることがなくて、男たちにはどこか冷たく、自己破壊的なところがある女性として描いている。そんな睦子と男女の関係にはならずに最後までつきあっていたのが有名な骨董商の青山二郎。もちろん映画の高島のモデルだ。映画の中でのかれは微妙な描かれ方だ。愛人にはならないのにゆるく彼女を支配して、付き合う男ごとにそれとなく別れる方向に持っていってしまう。金に窮するとちょくちょく女たちに金をせびるようになり、とうとう詐欺商法で客に損をさせる。でも佐野周二の品のある雰囲気もあるし、観客が単純に軽蔑したり嫌悪したりしづらいキャラクターになっている。作者がモデルになっているのは教授の松崎だ。松崎は不倫関係をつづけようとしていたけれど、やがて家に比重をおかざるをえなくなって葉子に別れを切り出される。
この映画で彼女の仕事場であるバーとならんで大事な場所が彼女のアパートだ。男たちとの不毛な関係の舞台はいつもこのアパート。実在の坂本睦子が最後に住んでいたのは新宿区の大久保のあたり。でも映画のアパートは麻布か六本木じゃないかなあと思う。建物の外観は戦前の学校や役所によくあったスクラッチタイル。なかなかいい建物だ。幹線道路に降りる坂道沿いにあって、近くにはさっき書いた赤いポストが立っている。写真がないからうろ覚えの絵をのせているけれど、こんな感じの立地だった。どこかヨーロッパっぽい景色だ。あの辺りの坂がちな街の多くは大規模再開発されて地図から抹消されてるからもう見つからないかもね。六本木の谷町なんて独特のひっそりした感じがあったけど.....

映画には高島が住んでいる家と近所の墓がうつる。麻布十番の一の橋ちかくの川沿いだ。彼女に求婚する田舎育ちの弁護士の家を訪ねるシーンもある。こちらも川沿いで、高台にある芝生の庭がゴージャスだ。雰囲気でいうと東急線多摩川ちかくじゃないかという気がする。
そしてラストちかくで葉子が松崎と再会して桜を見に行くシーンがある。2人が進むに連れて照明がつぎつぎに点灯して満開の桜がぱっと浮かび上がる。なかなかけれんみたっぷりの見せ方だ。ここは青山墓地。じっさいにむうちゃんも死の直前、なじみのバーテンに付き合ってもらって青山墓地に桜を見に行ったそうだ。

女が階段を登るとき


<予告編>
ストーリー:夫を亡くして仕方なく入った夜の世界。圭子(高峰秀子)は人気の雇われマダムになっていた。お愛想がきらいで電話営業ができないから、オーナーが要求するほど売上はあがらない。彼女の下にいた売れっこホステスはパトロンを見つけて独立してしまい、ついでにお得意さんも何人か連れていった。でも実態は借金地獄、狂言自殺で借金取りを追い払おうとしたはずが、手違いか本当に死んでしまう。上客でありつつ金を貸し、ヒルのようにその子にはりついていた怪しい実業家は、平気な顔でまた圭子の店に顔をだすようになる。圭子のことがお気に入りの関西のお金持ちは独立資金を援助しようともちかける。東京の愛人にするつもりなのだ。彼を頼りたくない圭子が心を寄せているのは品のいい銀行員(森雅之)。とはいっても小心なサラリーマンが援助してくれる額なんてたかが知れている....そんな圭子を忠実なマネージャー小松(仲代達矢)が見まもる。嫌な男に言い寄られて突き放した圭子は、とうとう心労で胃潰瘍に倒れてしまう.....

こちらは脚本の菊島隆三オリジナル。1960年だから『花影』の1年前だ。おなじ「銀座の女」モノでよく知られているのはこっちのほうだろう。それにしてもよく似てる。話のトーンがほとんど同じだ。まぁ定型だよね。溝口も得意だった花柳界モノの現代版っていうことだろう。見てないけど、銀座あたりの夜の女の哀感話はいくらでもあったんじゃないか。華やかな見かけとうらはらの苦しい日々。主人公は明るくふるまっても影をしょっている。誘う男、執着する男、ささえる男、まわりにうごめく男たちの群像劇だ。ヒロインは時にはかわし、ときにはタンカを切り、ときには痛い目にあい....時代がほとんど一緒だからバーの雰囲気も似たようなもの。お客のネクタイ紳士の雰囲気もおなじみの昭和感だ。
ただこちらのほうがすこしだけ雰囲気は明るい。お話の救いのなさは似たようなものだけど、主人公が『花影』の葉子ほど破滅型じゃないからね。高峰秀子のふくぶくしい丸顔とポジティブ感あふれる眉毛で、いろいろ思い悩んでいてもどこか安心できる。それと仕事のパートナー小松もいる。小松は彼女のかわりに客のツケを集金に行ってくれたり、独立したいというと空き店舗をみつくろってくれたりする。悪ぶった台詞回しといい、ヒロインによせる純情といい、いかにも若い役者にあてた感じの役だけど、仲代達矢の甘さのないルックスのおかげでけっこう見られる。惚れられる役の森雅之は、まぁ俳優の格からいえば当然の役で、そんなに面白みもない。お客さんは2人が腐れ縁を演じた『浮雲』を当然ふまえて見ただろう。
ちなみに「女が階段を登るとき」とはお店に出勤するときだ。いろいろあっても上を向いて階段を登りながらリセットして仕事の顔になる。狭いけれど真っ直ぐの階段で、効果的に何回か映されている。

それにしても、さっきも書いたけれど夜の女モノって、必然的に男たちの群像劇になる。複数の男たちに擬似的にでもほれてもらわないと成り立たない商売だ。1人の男との純愛を描くだけじゃ物足りない。男たちは濃淡はあってもヒロインの女の部分に欲望をもってあつまってくる。そのアプローチの仕方もふくめた描き分けの巧みさがこういう話の分かれ目かもしれない。この話でいえば、男たちの類型は、悪役・醜男・色男・老人・年下で、色男=森雅之のポジショニングはわかりやすい。『花影』の場合、男たちがみんなヒロインの愛人だから、教授も若い男も青年実業家もそれなりにいい男風で、ゆいいつ田舎そだちの弁護士だけが醜悪に描かれる。共通するのは、ヒロインに露骨な性的興味をしめさない男が全編をとおして彼女によりそうのだ。性的興味の対象でありつづけなければならない夜の女にとって、そういう男がある種のやすらぎになる。だからそうとわかっていても小松は圭子への思いを口に出さずに、仕事のパートナーとしてふるまいつづける。ところが最後の最後で銀行員に嫉妬をむき出しにして思いを告白してしまうのだ。もちろんそれが関係の終わりになるだろう。
この話でも圭子のアパートがバーとならんで大事な場所になる。「月3万円で無理して借りている」部屋だ。このサイトによれば、1960年頃の民間の借家の家賃は1坪あたり250円くらい。1人用だったら10坪として2500円。この数字は東京都区部の平均だから都心で3倍としても7500円。3万円はけっこうゴージャスだ。映画に出てくる室内はまるでゴージャスじゃないけどね。でもベッドが置いてあるあたりがそれらしい。女が自力で維持する都心の家。『花影』でもそうだった、お妾さんや茶屋の女じゃなく、自分の空間に男をまねいて愛を成就させる、彼女たちの強さを表現するためにもちゃんとしたアパートに住んでいる描写は必要だったんだろう。この物語では圭子は東京に実家がある。佃島だ。今でも微妙に漁村のなごりがある佃だから、当時ならもっともっと濃かっただろう。2階建ての小さな家に兄の家族と母親が住んでいる。圭子は彼らに仕送りをしながらも、自分はそこには住まずに高い金を払ってアパートに住むのだ。