BULLET BALLET(バレット・バレエ)


<予告編>
ストーリー:恋人を拳銃自殺で失ったCMディレクター合田(塚本晋也)。死にとりつかれた合田は恋人が使ったスミス&ウェッソンのM36をじぶんも手に入れようと夜の東京を走り回る。裏道でボーイッシュな女千里(真野きりな)ともめていると、連れのギャング風グループにぼこぼこにされる。仕事もそっちのけで自作拳銃や本物の入手に夢中になる合田。ひょんなことから探していたS&Wを手に入れたかれは、自分とおなじように死にとりつかれているような千里が気になってギャングの抗争に首を突っ込んでいく……….

1999年公開。いま見ると、むか〜し見た初期塚本晋也の感じがそのままよみがえった気がした。はげしく動くモノクロの荒れた映像に石川洋の劇伴がかぶる。画面の中には自然の風景なんてほとんどみあたらず、東京の表面をおおう、金属とコンクリートと石材ばかりひんやりと映される。主演は例によって塚本自身。、なさけない男を演じてはいるんだけど、顔には若い鋭さが残っている。お話もどことなく若い。
S&WのM36“チーフ・スペシャル”は、女性が護身用にもつこともおおい小型拳銃だ。装着できる弾丸は全部で5発。この1丁をさがしもとめる前半は、そこらで銃が買えるアメリカ人から見るとぴんとこないかもしれない。主人公合田はやくざに話しかけ、イラン人っぽい路上の外国人に話しかけ、まんまとだまされて大金をむだに取られ、あきらめずにネットで情報をさがして奇妙な自作拳銃をつくりあげ、それもおもちゃ程度の殺傷力しかなくてさらにもがく。
やけに時代を感じるのがヒロイン千里だ。監督のこのみなんだろうなぁ。ものすごく1980年代っぽい。ショートヘアで黒いレザーのジャケットとミニスカート、あしもとはごついブーツ。それで「…..なんかめんどくさい、死んじゃってもべつにいいんだあたし」的空気をただよわせつつ、なかまと一緒に暴れてもみたりして、なんというか、あのころの上條淳士の漫画にでてきそうなヒロインなのだ。岡崎京子風でもあるけど、そこまでひりひりしない、どこかファンタジックな女の子だ。最初の出会いで合田の手にかみついて歯形を残した千里は、再会すると、つるんでいる同年代のギャング(というか町のワル気取り)と一緒に金をまきあげる。その代わりに自分の手に同じ歯形をつけられる。たんなるおっさんだと思っていた合田が自分と似た死の衝動にとりつかれた人間だとわかった千里はだんだんとかれに関心をもちはじめるのだ。

ちょっと『タクシードライバー』みたいな感じで、男が執念にとりつかれて暴力的に変容していき(たぶん彼の中にその素養はあったんだけど)、ある暴力の場に銃とともにふみこんでいく。年下の女へのシンパシーもかれを動かしている。結果ぜんぜんたいしたことをおこしていないあたりも似ている。作り手である塚本が、自分の分身合田と、どこか漫画的なヒロイン千里のロマンチックな関係をテレもなく描いていくあたりや、ぼくがよく見てなかったかもしれないけど「弾はいくつ持ってたんだ?」問題など、突っ込みたくなる感はなくもない。
物語はそんな感じで、どこかかわいさすらある展開なんだけど、画面とサウンドがつくる引き締まった空気のせいで、映画全体の印象はぬるいものじゃなくなっている。ロケの範囲は、新宿っぽい繁華街から、ビルの隙間の路地や廃墟系の建物、ガード下などいろいろだ。ガード下の一部は西荻でロケしているらしい。シーンの8割くらいは夜か暗い空間のなかだ。空が狭くてノイズの多い風景を、塚本はいつものぶれぶれ手持ちカメラで切り取っていく。ギャングたちが中古のメルセデスでどこかのアンダーパスを疾走するシーンも、特別なことはしてないんだけど格好いい。硬質で、禁欲的で、もろにインディーズ的でありつつ、どこかポップなんだよなあ。
クラブのオーナー役が『野火』でも異様に格好よかった中村達也。ギャングにあこがれるボーイズをけしかけて本気の抗争にのめり込ませ、遊び半分だったリーダーには合田から奪った拳銃で「男になってこい」と後戻りできないところに踏み込ませる。合田の死んだ恋人役が鈴木京香。とつぜんゴージャス女優が出てきて驚くけれど、この何年か前に塚本は鈴木京香と共演している。竹中直人監督の『119』だ。それ以来の縁かもしれない。

KOTOKO


<公式>
ストーリー:琴子(Cocco)はシングルマザー。愛する息子にとんでもない危険がせまってくる妄想が頭からはなれない。そのうち他人が2人に見え始める。分裂した2人は、1人は無害な市民、でももう1人は息子を襲ってくるのだ。不安定ぶりがひどくなってきた琴子は、幼児虐待をさけるため子供を姉家族に預けるように命令される。沖縄ののんびりした家でくらす息子。孤独に生きる琴子に思いをよせる男がいた。どうやら高名な文学者らしい男(塚本晋也)は自己と他人への破壊衝動を抑えられない琴子を全身で受入れる。田中といっしょになることで安定をとりもどした琴子のもとに、息子が帰ってきた…….

2012年公開。見た直後の印象は「プライベートフィルムじゃん」だった。CoccoがあまりにもCoccoなのだ。いちおう劇映画だけど、キャラクターである琴子を見ている気がしない。ドラマというよりは、Coccoのストーリー付きパフォーマンスの記録みたいな気さえしてくる。シチュエーションを与えられてまったくアドリブでふるまうシーンもあるし、ワンテイクでカメラにむかって1曲歌いきるシーンも、雨のなかでひたすらに踊るシーンもある。塚本監督はむかしからCoccoに魅力を感じていて(『BULLET BALLET』のヒロイン千里はCoccoがヒントになったといってる)、ついにその機会がくると、手持ちの世界に彼女をはめこむのじゃなく、彼女にあてがきで物語の世界をつくった。Coccoも脚本からくわわって、琴子のキャラクターはいっそう「自分」に近づいた。
強烈な映画なのはまちがいない。見ていてきつくなる人も多いと思う。ぼくも正直見返す気力はなかった。クレイジーなときのCoccoの演技は、おなじような芝居を、かりに上手な女優ができたとしても、あの感じにはやっぱりならないだろう。面相や雰囲気ふくめてむきだし感がすごいのだ。演技じゃないんじゃないかという言い方もあるけれど、そこは、もとめられるシーンに、もとめられる動きとふさわしい感情の状態を自分からひっぱりだす、つまり演技そのものなんだろうと思う。でもさっき書いたみたいな理由で、ドキュメンタリックにも見えてくるとこがあるのはたしかだ。

そして理由不明に彼女に惚れてつきまといつつ、やがて一緒にくらす男。塚本は攻めの部分をいっさい出さずに、ヒロインを見つめる眼差しとして、暴力の対象として(その結果見た目が変容して)、ヒロインをまもりその存在を受け入れる、彼女にとっての世界の中の救いとしてそこにいる。物語のなかで2回だけ平穏なシーンがある。琴子が実家に子供を訪ねていく沖縄のシーン、それに琴子が男を受け入れた日々のシーンだ。琴子は普通にしゃべり、おだやかに歌う。
このあと映画の中のおおきなナゾがある。ネタバレはやめておこう。ただそのシーンに思うのは、男は琴子と違ってそんなにリアルな人物じゃない。さっき書いたみたいに琴子にとっての救いを1人の形で見せてるようなものだ。塚本は物語上のある機能として男を演じる。確固としたもう1人の人物が対峙してるわけじゃない(『6月の蛇』で監督が演じた役とそこは似ている)。あくまで彼女の道行きのなかの「ある時期」でしかないのだ。琴子がそのままほんわかと救われて治癒して話が終わったら、そっちのほうが訳がわからないだろう(夫が主体的に存在する『ぐるりのこと』じゃないのだ)。彼女は最後の救いにむけてもっと追い込まれていかなきゃしょうがない。
これ見て『ダンサー・インザダーク』を思いだす人は多いだろうと思う。あそこまで作りこまれた世界じゃなくて、かつある意味リリカルで素材感があらわだけど、ぼくも思いだした。映画のなかにある母親のあらゆる不安。監督はこのころすでに『野火』の準備でかつて戦場で一線を踏み越えたような老人たちに話を聞き続けていた。そこで焼き付いたいろいろがこの映画にも映り込んでいるだろう。