海街ダイアリー


<公式>
ストーリー:鎌倉極楽寺近くの古い家に住む幸(綾瀬はるか)佳乃(長澤まさみ)千佳(夏帆)の3人姉妹。それぞれに鎌倉で働き、恋もする。不倫の末に家を出ていった父親が亡くなり、遠くの村へ葬儀に出かける。そこには母親違いの妹すず(広瀬すず)がいた。実の両親をなくしたすずを鎌倉に呼び寄せて、4人の季節感あふれる1年がはじまる。

受賞。おめでとうございます。監督は日本映画にあった娯楽映画のひとつの定型をきっちり仕上げようとした気がする。美人姉妹、古都鎌倉の美しい景色、定番アイテムの季節感の描写….文芸作品とかで、こういうジャンルは連綿としてあった。ほとんどそのままの脚本で時代設定を昭和中期にしても通るんじゃないか。いわゆる今風の小道具も状況もだいたい見せてないからね。パスティーシュじゃない、だけどある型にはまることをまったくいやがっていない感じはした。是枝監督の作品にところどころで感じることではあるんだけどね。

画面はどこも美しい。ロケーションが多くて、風景には実在感があるけれど、ドキュメンタリックじゃない。たとえばライティングだ。特に夜の屋外シーン。鎌倉の夜ってどこもわりと暗いんだけど、「いったい何台照明あててンだ⁈」というくらい明るくして、4人の美女たちの顔には陰気な影が落ちることはない。アカデミーで照明賞も受賞してるんだよね。照明担当の藤井氏は『そして父になる』でも担当だ。そのときは夜景にそんな印象なかったから、やっぱり本作の演出意図だろう。
物語は適度な陰影や沁みるエピソードがありつつ調和をやぶるなにかはなくて、どこかファンタジックだ。3人のお姉さんたちの職場がみんな鎌倉市内というのも、自営業やみんなが店員とかならともかく、じつはなかなかない。物語が市内の風景で完結するようにそうしてあるのだ。
そしてすず。気むずかしかくてがさつな中学生じゃない。素直でまっすぐでだれにも悪意を持たない純正の美少女だ。監督は彼女を子役じゃなく美人女優として撮る。どこから見てもね。でも立ち位置は恋も知らない、いたいけな子どもなのだ。


この物語の一つのテーマは「受け継ぐこと」。姉妹がくらす古い家も、庭の梅の木も、張り替える障子も、おばあちゃんの浴衣も、毎夏の花火も子供の頃にあたえられたくらしかただ。そして監督が得意な「食の継承」。『歩いても歩いても』にもあった、本作のサブテーマだ。シラス丼、アジフライ、シーフードカレー、竹輪のカレー、庭の梅で漬けた梅酒.... 親から娘、姉から妹に受け継がれる「ていねいな暮らし」だ。
そんなていねいな暮らしが、手足が長くておっぱいが豊かな美女たちによって祝祭的につむがれる。古い台所で女たちがまな板に向かうと、北側にもかかわらず窓からの明るい光が下から照らしあげる。彼女たちの顔と食材と湯気が美しく浮かびあがる撮り方は、『歩いても歩いても』でも使われていた、そして、ライフスタイル系レシピブックもなんとなく思い出させる撮り方だ。

監督が、すこし古臭く見えるところもある型をあえて取り入れたのは、「受け継ぐこと」をスタイルでも意識したからなのかもしれない。でも、さっき「この脚本は昭和中期でも通用する」と書いたけれど、昭和中期にはぜったい書かれない。本作でピックアップされてるあれこれは、あたりまえに身の回りにあったからだ。平成初期だって書かれなかっただろう。そのあれこれを、日本の固有種の貴重な植物みたいに描くのは、間違いなくいまだからだ。

ぼくは普通に楽しんだ。姉妹は美人だし、芝居も脚本も無理がないし(「ダイアリー」の感じを残すためにか、どのエピソードも等分に短くて断片的な印象はあったけれど)、なにより鎌倉の景色が美しい。毎日見てる人じゃなくてもロケ地あてを楽しめるように、ちゃんとランドマークを入れて撮っている。たとえば海を撮るときは岬の全景をバックに写す。岬が見えればどこだかは簡単にわかる。
すべての景色はやさしくおだやかに撮られる。西風で荒れる海もヤンキーとOBもごちゃごちゃ歩く観光客も映らない。ちなみに最初のシーン、佳乃が歩きだす彼氏のマンションは鎌倉じゃなく横須賀の西海岸、佐島。あとラスト近くで幸がすずを連れていく、海の見える丘はたぶん葉山の公園だ。
半分はファンタジーかもしれない「鎌倉」という場所が、姉たちも、そして傷ついたすずも包み込んではぐくむ。その環境自体が心やさしい主人公ともいえる物語だ。街が、環境が、人をのせて時間とともにゆっくりただよう感じ、これ、かならずしもファンタジーじゃない。住むところによってはふつうに実感されることなのだ。
すずを写す2つのシーン、桜の下で自転車で走る彼女と、船から花火を見る彼女、ここだけは、だれでも気がつく、現実にはありえないアングルから撮る。天上からの視線だ。この環境を姉たちにあたえ、彼女たちに妹をたくして、同じところではぐくまれる4人の娘を見まもるだれかの視線。そういうことかもしれない。

小さいおうち


<予告編>
ストーリー:大正生まれのタキ(黒木華)は雪深い山形から上京して、大田区にある小さな洋風の家にすむ平井家の女中になる。奥さま時子(松たか子)は苦労を知らなさそうな、あかるい美人。病弱で存在感のうすい息子、奇妙に記号的な夫とくらしながら、風采のあがらない父の部下(吉岡秀絀)に思いを寄せる時子に、タキは胸さわぎをおぼえる。時代は昭和10年代、おだやかな空気から急激に戦時の社会に変わっていく東京でタキは小さな家とその家族を見つづける。

しっくりとよかった。主演の女優2人の魅力はもちろんある。不思議なくらいの田舎娘顔と頭身が高い体のアンバランスさがいい黒木華。そこにいたら何もいわなくても周囲を支配する空気をつくるだろう、松たかこの存在具合。
原作だと2人の関係はもっと深いみたいだ。映画では平井夫婦のもとに奉公にはいるタキだけど、原作で最初に仕えたのは時子の前の旦那との家庭だ。旦那はすぐに亡くなり、連れ子と一緒に再婚する時子にタキもついていく。プロローグ的な前の旦那のエピソードをはしょったからか、映画ではわりとシンプルな一方向のながれがある。子どもの病気はあっても、のんきで希望のある序盤の時期から、きゅうくつで身の回りの死が日常になっていく戦時への世相だ。平井家をめぐる人々も、急流に浮かぶボートみたいに、止めようがない流れにのって変わりゆく景色のなかを漂流するのだ。

時代にほんろうされる家族をかよわくも守るのが、赤い屋根の家だ(こういう間取りだそう)。洋風でちょっと洒落たその家は、堅固でマッチョな城じゃない。台風がくれば扉や雨戸がおかしくなる、どこかたよりない居場所だ。昭和初期にはこういう、外観がすこし洋風で、玄関わきにシュロだのリュウゼツランだのが植わり、玄関と応接間だけが洋風な家はけっこう多かった。って知っているみたいな言い方だけど、映画の設定にある大田区の馬込や多摩川の段丘上の地帯、それに目黒や世田谷、荻窪や大泉……当時の新興住宅地には多かったのだ。さいきん急激に建て替えで消滅したけれど、1980〜1990年代ならじゅうぶんにあった。
こんな街でのくらしを同時代に描いていたのが、たとえば小津安二郎の『生まれてはみたけれど』だ。そこでも書いたけれど、ぼくはこのての家の一つで生まれたから(もちろんだいぶ古くなっていたし、そのあとしょうもないプレハブ住宅に変わってしまったけれど)みょうなノスタルジーがある。原作では東京の西部だというから、荻窪あたりかもしれない。映画では大田区の丘の上にかわり、時子が息子がいく小学校を「宮前小学校」といっているから、品川区の戸越の近くという設定かもしれない。

この映画、女たちと、彼女たちを包む環境のはなしで、『海街ダイアリー』と共通性がある。でも本作には街の風景はまったく出てこない。家の前の道路、丘の上の家から見たぼんやりした遠景くらい。いま、戦前の住宅地の雰囲気があるロケ地を見つけるのはたしかに難しいだろうし、CGでつくっても....というのもあるだろう。予算の制約もあるだろう。おうちの外観が全体に映るシーンは「わざとか?」というくらいに模型っぽくてリアリティがないときがある。タキが上京する雪深い村の景色はちゃんと雪中ロケで撮っているんだよ。
タキの視点から描くこの話が『海街』と決定的にちがうのは、彼女をつつむ環境は小さいおうちそのものなのだ。『海街』の姉妹たちみたいに、気のいい街の人たちに囲まれているわけじゃない、タキには地縁がないのだ。
小さな女中部屋に一生いられればいいんだ、とタキは時子にいう。時子への思いがすこしセクシャルなニュアンスを含んでいるのは2回くらい描かれるけれど、そこは本筋じゃない気がする。少なくとも相手が応えてくれる愛である必要はないのだ。
ほかに居場所がないといえばそうだ。東京には身よりらしい身よりもないお女中だ。はたからは「もっと広い世界があるのに」と見えるかもしれない。それでも小さな親密圏のなかにとどまること。
限定された世界と可能性の中にしあわせを見る、そんなタキに、観客はせつなくも「昔の人の矜持」みたいなものを見るのかもしれない。