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Feeling or Thinking? このページをアンテナに追加 RSSフィード

2008-03-29 引越し直前

[]リチャード・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」 21:23 リチャード・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」を含むブックマーク リチャード・ローティ「偶然性・アイロニー・連帯」のブックマークコメント

サークルでこの本について読書会をしていたことは前にも書いたと思う。

とりあえず、読書会が終わって、自分の中でおぼろげながらもこの本で言われていることに対しての意見がまとまってきたのでちょっと書いてみる。多分、間違っているところや勘違いしているところ、よくわかっていないところは多々あると思うけれど、そんな自分にとっての整理の意味も込めて。

この本でローティが言っている「アイロニー」というものは、特定のものを絶対だと信じない態度、全てが入れ替え可能だという考え方のことである。そして、この考え方は現在に生きる僕たちが持ちがちな考え方だ。僕が中学生の時「個性を伸ばす教育」という言葉が叫ばれていたけれど、これもある意味「考え方は人それぞれ」というアイロニズムの提唱であるともいえる(もっとも、その教育を受けた僕の印象では、残念ながらそれは実際には叶っていなかったように感じていたが)。

アイロニーという考え方はどんな価値観でも存在を許容できるという点で現在の世界にとって重要である。だが、アイロニーは「何者も絶対と信じない」が故に残酷でありえてしまう。

だが、ローティは「リベラル」も同時に推奨する。ここでのリベラルとは残酷さを人間のなしうる最悪の行為であるとする考え方のことで、この考えによってアイロニズムの持つ残酷さを打ち消そうとする。

そこでローティは、アイロニストであり、かつリベラルであることを実現するために、自らの考えを「私的」と「公共的」に分けて考えることを提唱する。「私的」には絶対的なものなど何も無い、と考えながらも、「公共的」には「残酷さが悪だ」という態度を取ることによって「リベラルアイロニスト」となることが可能であると、ローティは述べているのである。「リベラルアイロニスト」になることによって私たちは何か一つの価値観に固執することなく、それでいて他人に残酷でない社会が、ローティの提唱する「リベラルユートピア」が実現する、とローティは語っている。

この主張は少なくは無い数の物語に触れてきた僕にはかなり共感できるものだった。物語というものはそれ自体が一つの価値観だ。そして、僕は数多くの物語を楽しんできた。つまり僕は多くの価値観に出会い、それらを受け入れてきたということだ。それによって、僕にはある意味アイロニスト的な考え方が自然と身についたのである。この本を読むことで、無意識だったそんな自分の側面に気付くことができた。それだけでもこの本を読む価値はあったと思う。

また、僕は(そのように全ての価値観に絶対性を感じられなくなったが故にかもしれないが)「全ての価値観を肯定出来たらいいのに」と結構本気で考えるときがある。もちろんそんなことは不可能だ。何かを肯定するということはそれに反する何かを否定することにどうしてもつながってしまうからだし、どうしても肯定できないものは存在する。それでも僕がそうやって夢想してしまうのは僕は何かを否定するということ自体を否定したがっているからだ。そしてそう考えるということは僕は「リベラル」を目指しているのかもしれない。

だから、ローティの提唱する「リベラルアイロニスト」という姿はおそらくかなり僕の理想に近い。だけれど、だからこそ、僕はそれに対して実現が難しいと感じてしまう。それこそ、そんな事が出来るのは架空の人物だけじゃないか、と。

ゆえに、僕はこの本は哲学書というよりも小説に近いと思う。僕が持ったこの本で語られている「リベラルアイロニスト」に対する憬れは小説の語る理想に対しての憬れに近いと思うからだ。ただ、そんな理想を現実に、きちんと本気で考えている人がいたということは、僕にとって嬉しいことだと感じたのは確かである。

SuzuTamakiSuzuTamaki 2008/03/30 09:51 理想を語っている、という意味で「小説的」と言っていたのですね。
でも、哲学書って実は案外、どれもこれも理想を語っているものだったりして。

理想的な言葉って、集団としての人間社会に対してではなく、各個人に語りかけられている言葉だとぼくは思う。
つまり、各個人に、こういう考えかたがあるから、ちょっとこんな風に行動してごらんとか、そういう語りかけをする。
小説なんかは多くがまさにそうだろうし、このローティの書もそんな感じ。
そして哲学書って大体そんな感じがする。
そういう意味で、ローティのこの書はガチガチの哲学書っぽい。

何を念頭においているかというと、具体的な政策を提言するような書とか……そういうのをなんていうべきかよくわからないけれど、哲学というよりは社会学に近いのかな。
リベラリズムは政治哲学だし社会学ともよく関わる思想だとは思うんだけれど、その由来や語義に関わらず、意外と個人に対して向けられても十分に効果を発揮する思想だと思う。
そしてローティのこの本は個人に向けられたものであるようにも思う。

何が言いたいかっていうと、前から「小説的」って言葉が気になっていて、なんでわざわざそういう言葉を使わなくてはいけないのかな、って思ってた。
なんでそう思うかっていうと、人によって「小説」の定義ってすごくまちまちだから、「小説的」って言う言葉はレトリック以上の意味を持たないような気がするんですよ。
まあ、「理想」っていう言葉もそれこそ人によって定義がまちまちなんだろうけれど。

なぜあえて「小説的」という言葉を使おうとするのか。
そのことについて自分の中でもう一度考えてみてほしい。

K-AOIK-AOI 2008/04/01 16:29 返信が遅れて申し訳ありません。

確かに、「小説的」という言葉はレトリック以上の意味を持たないかもしれない。それはあくまで僕個人的な感覚の感覚によるものだからです。この「小説的」という言葉はたぶん他のレトリックによってそれこそ「入れ替え可能」な言葉ではあると思います。では、なぜ僕はこの本に対して「小説的」という言葉を使ったのか。
僕はフィクションをエンターテイメントとして受け取りたいと思っているのですが、それでも、いやむしろ、それゆえにただ「楽しかった」以上のものを僕はフィクションから受け取れることはできると思っています。たとえば「あの主人公かっこいいからオレも見習いたいな」というように。
そして、そのフィクションのぼくにとっての一番の対象は「小説」なのです。
だから、僕はこの本のことを「小説的」だと表現したのだと思います。

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