後白河院と寺社勢力(37)僧と女高利貸の近接〜聖か俗か?

 中世に関する書籍を手にすると「中世には女性の金貸が多かった」とか「寺社と女性と金融・商業は相性が良い」といったフレーズに度々遭遇する。女性が虐げられた封建制度下で、実力行使を伴う債権取立を当然視する「自力救済」の時代に、高利貸の女性が多かったとは何とも愉快である。


 ここで、当時の女金貸のイメージを具体化するために「中世の非人と遊女」「中世の借金事情」に登場する代表的な女高利貸を例示してみたい(ここでの「女」とは妻や愛人ではなく娘を指す)。

○「浜の女房」
  鎌倉末期に名前が見られる若狭小浜の太良荘で「浜の女房」とよおばれた借上は、熊野御初物」「熊野上分物」を太良荘本所の当時や荘内の名主に融通していた。

○「尼妙円」と「平氏女」
  綾小路の土倉・尼妙円が藤原氏女と称していた頃の正応3年(1290)に山城国上桂荘の領主職の権利を譲与されたが、永年元年(1293)に大中臣千松丸に譲与し、その後の徳治3年(1308)には大中臣千松丸と大中臣広康の連名で平氏女に「日吉上分銭」50貫文を借用するに臨んで、質として上桂荘の文書類を入れた。
 一方上桂荘の文書類を受け取った平氏女は上桂荘を山門東塔に寄進したことからその後代々に亘る訴訟の種となった。

○「妙阿並アネ女」
   鎌倉末期、「祇園執行日記」の康永2年(1243)には、四条坊門富小路の土倉として「妙阿並アネ女」の名前が見られる。

 
 これらの女性は熊野や日吉社の「聖なる神物」である「初穂」や「上分」を元手に質物をとって利子付貸付を営むようになり、大きな蔵を有する「土倉」と呼ばれるようになった。


 ところで、「中世の非人と遊女」(講談社学術文庫)において、網野善彦氏は、熊野や日吉社の「聖なる神物」である「初穂」(※1)や「上分」(※2)を元手に金貸を営んだ事と、中世の女性が一家の財物の収納場所とされる納戸・塗籠といった「聖なる場所」を管理して「家女」「家刀自」と呼ばれたことを関連付けて、【女性のもつ「聖性」が世俗の争いや戦乱のさなかにあっても「平和な管理者」でいられたことが女の金貸が多かったのでは】との見方を述べている。


 


 方や「中世の借金事情」(吉川弘文館)の著者・井原今朝男氏は、上記の尼妙円の子息が祭祀を担当する大中臣(おおなかとみ)を称していることから、彼女は明らかに山徒(※3)の妻女であったとの見方を示した上で、さらに下記の例を挙げて、京都の洛中に女商人(高利貸を含む)が多いのは、女性が聖性を持っていたからではなく、延暦寺の僧侶や祇園社の社僧らが、妻女や遊女たちに屋地や土倉・屋敷を配分して、寺内金融の日吉上分米や祇園社勧進銭を借用して金融を営んでいたと見るべきではないかとの見解を示している。


○「尼御前」「土佐女房」etc

 祇園社の社僧・顕瞬は文法2年(1318)に作成した譲状で、尼御前に広小路屋を与え、土佐女房に「塩梅神人」の譲渡したのを初め、錦小路の土倉と家屋・屋敷、広小路屋・塩梅神人らの権利はいずれも女性に分与したが、彼女たちは全て顕瞬の妻女であった。



(※1)初穂:その年に始めて収穫した穀物を神仏に捧げる物。

(※2)上分(じょうぶん):寺社へ年貢以外に供祭の費用として貢納したもの。

(※3)山徒(さんと):比叡山延暦寺の衆徒。山法師。


 さて、前回のなぞかけの「坊さんに女とかけて「高利貸」と解く」の「その心は」を以上の説明で納得頂けましたでしようか。
http://d.hatena.ne.jp/K-sako/20100622