新古今の周辺(36)鴨長明(35)歌論(7)今の歌体は会得し難く

さて今の歌体(新古今の体)と中頃の歌体の優劣論争は「今の歌体を会得することが如何に難しいか」に移り、その模様を鴨長明は『無名抄』で次のように述べている。

71 近代の歌体 7

先に述べたように、いかにも今の歌体を会得するという事は、和歌の基本的な技能を全て修得して、さらに名人の域に達した人が頂点を極めて初めていえる事であり、そのレベルにすら達しない人が詠む今の歌体の歌は聴きにくい事甚だしく思われる。

それでなくても、歌の趣向が足りず、さらに歌の頂点にも達していない人が、このように詠めばよいだろうと自己流に解釈して今の歌体を学ぶなどは片腹痛いもいいところだ。

そういうのは、化粧をすることを覚えたばかりの身分の賤しい女たちが思いつくまま手当たり次第に白粉や紅を塗りたくっているのと同じといってもよい。

このような学び方では、自分の頭で今の歌体を創りだす事は到底できず、精々他の人が詠み捨てた歌の言葉などを拾い集めて上っ面を学ぶだけである。

例えば、よく詠まれる「露さびて」「風ふけて」「心の奥」「あはれの底」「月の有明」「風の夕暮」「春の古里」などの言葉は、初めは目新しく詠める時もあるが、2度ともなれば、深く思案して生まれたものではないその歌人特有の癖のようなものを学ぶだけに終わる。

あるいはまた、自分で深く理解していないものの、うわべは深い意味が籠っているかのごとく詠もうと言葉を捏ね繰り回しているうちに、結局、自分でも何を詠っているのかわからなくなり、正真正銘の「意味不明歌」に行きついてしまう。

この様な類の歌はとても幽玄の境とはいえず達磨とでもいうしかない。

参考文献: 『無名抄 現代語訳付き』久保田淳 訳注 角川文庫