真面目なふざけ、適度な過剰 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

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2008-05-26 今はさすがに

K4162008-05-26

論文

 論文チョコチョコと書く。

 チョコチョコと進む。

 途中、後輩と飲み会の予定を立てる。

 携帯メールで。

 携帯メール中学・高校時代にあったら、どうでもいいことを延々と送ってたろうなと思ったりする。

 ポケベルで、「オツカレ」とか、友達とやってた気もするし。

刺さる

 font-daさんと杉田俊介さんによる、「当事者性」に関する議論。「当事者性」に対する捉え方が、お二人の間では微妙に異なるんだけれども。お二人の文章どちらも刺さるものが。なので、ここに書き留める。

*追記

 font-daさんと杉田さんのお二人にトラバを飛ばすのを忘れてた。アホだ。font-daさんの「当事者が幸せになること」(「キリンが逆立ちしたピアス」)(←リンク)と杉田さんの「当事者を/として批評すること」(「いちヘルパーの小規模な日常」)(←リンク)が元の議論。追記ここまで。


 font-daさんはこう書かれてる。

私も、当事者を名乗って生きていくことは、「悪魔の取り引き」だという主張に賛同する。実際に、これまで、悪魔に魂を持っていかれた犠牲者もいる。急いで付け加えるが、これは当事者を名乗った人に対する価値判断ではない。「当事者を名乗ること」はそういう構造を持つ、ということだ。

 「悪魔に魂を〜」ってのは、内田樹さんのブログで、「被害者呪い」(http://blog.tatsuru.com/2008/05/13_1156.php)とのタイトルで書かれた

 自分の不幸を説明する仮説の正しさを証明することに熱中しているうちに、その人は「自分がどのような手段によっても救済されることがないほどに不幸である」ことを願うようになる。

 自分の不幸を代償にして、自分の仮説の正しさを購うというのは、私の眼にはあまり有利なバーゲンのようには思われないが、現実にはきわめて多くの人々がこの「悪魔の取り引き」に応じてしまう。

という文章から。

 また、杉田さんは

 ある種の当事者が自分で自分にかける「呪い」とは、「自分は当事者だ」という強い意識と、「自分は当事者ではない」という強い否認、それらの矛盾葛藤から(も)生れるのではないか。そういう気がしている。

 一方で「自分は当事者だ」「当事者の立場から現実不正を批判しなければ」と強く自分を説得しながら、しかしどこかで、「自分は当事者を名乗ってはならない」「いや当事者でなんかありたくない」と強く自己否定してもいる。しかも、自分ではその自己矛盾に――半ばまでは気付きながら――気付けないのである。いや正確に言うと、無意識では気付いているからこそ、その「気付けなさ」の盲目性が凄まじく深いのである。

 そしてその人の《当事者性》は、むしろ、周りの他人への批判・違和・波紋として、ジグザグに示されていく。たとえばある第三者的な人が「人間は平等だ、あとは自己責任だ」と主張すれば、当事者の立場からそれを批判する。また「当事者だから何を言っても赦される」と自分以外の当事者が主張すれば、その自己絶対化をも強烈に批判する。――このような消極的な形で。これは確かに矛盾である。しかも本人の無意識に食い込んだ矛盾。ぼくはそこから「熱情」というより、何か「暗い熱情」という印象を受ける。

 そういう人――スメルジャコフやイッポリート、スヴィドリガイロフを思い出すけれど――は何と呼ばれるんだろう?

 たぶん、すでに「当事者」でも「被害者」でもないのだ。

 font-daさんの言葉を借りると、「一線を越え」てしまった人。

 そういう人は、被害者とも加害者ともいえない。通常の善悪をどこか超えてしまっているのだ。その生き方は、凄い、としか言えない。しかし、その凄さの中で、周りの人間を疲弊させ、巻き込み、亡ぼしていく。しかし亡ぼすことで、何か本質的なことを考えさせ、奇妙に倫理的にしていく。ぼくはそういう人々の生に漲る言い難い魅力と嫌悪を、何と呼んでいいのか、そしてそれにどう対処していいのか、今もよくわからないままでいる。

と書かれている。「呪い」というのは、やはり内田樹さんの前掲エントリタイトルや、同エントリにおける

 けれども、その相対的「優位性」は「私は永遠に苦しむであろう」という自己呪縛の代償として獲得されたものなのである。

 「自分自身にかけた呪い」の強さを人々はあまりに軽んじている。

をふまえたものか。

 読んでって、嫌な気持ちが高まっていく。嫌な気持ちというのは、書かれていることへの反発じゃなくて、書かれていることが自分に当てはまる部分が多くて自己嫌悪が生じたわけで。

 研究としてること(=ハンセン病者の生活史)では「当事者性(「私自身が〜だ」「対象者が研究を認めてくれた」等々)を持ち出して研究の意義や正しさを保障するのはダメ」って思って、ものすごく遠ざけてるんだけど。

 自分が実際「当事者」になりそうなことでは、当事者性を利用している部分があるような。スケボーなんかは特にそうかしら*1

 「嫌がってるくせに利用することもある」という部分が自分でもあって*2杉田さんの文章でそれをかなり強く自覚することになり、すごい自己嫌悪に。周りを疲弊させたり亡ぼしたりしてはいない…と思うけど、それは多分、「普段は嫌だから利用してないけど、いざとなったら利用する」って部分があるからで。そうしたところがますます嫌。

 

 この嫌さをどうにかするには、font-daさんが

 そして最後に、書き添えるのは、それでも当事者を降りて生きていく道を、私は推奨することだ。私は、「美しい死」より「醜い生」を称揚する。自制できずに、とんでもない結果を導いたとしても、私は彼らは生きていて良いと思う。(罰をうけることはあるだろうが)悪魔に魂を売る、というのは表現だけであって、実際には、魂までもとられない、という社会制度を作ることが必要だ、といつもどおり言っておく。

 一度、当事者として生きる道を選らんだ責任を、死をもって負う必要はない。負いながら、生きるべきだ。どうか、当事者が死なない社会を。

と書かれ、杉田さんが

 いったん自分を呪ってしまったなら、二度とは完全な形で解けない。そういうものだろう。しかし、『ハウルの動く城』の呪いのように、ある不思議な仕方で、自分の中に染み込ませていくことができるものかもしれない。きっとそのためには、当事者理論をどんなに懸命に練り上げても、ダメなのだろう。矛盾は悪化するばかりで、回復はしない。そこに他者の力が差し込んでいなければ。正確には、外から差し込む他者の力に自分の力を重ねることを通して、自分を変えるのでなければ((この後に「しかし、「一線を越え」てしまった人々は、その「他者の力」こそが、永久に感じ取れないのかもしれない。いや――どうなのだろう?もしそうならば、絶望的なんだろうか。わからない。だとすれば、批評もまた、永久に意味を持たないのは確かだと思われる。」という文章が続きはするけど…。引用者注)。

と書かれてることが関わるんだろうけど。「嫌さをどうにかするために、お二人の文章をふまえて、具体的にどうするか」ってことはまだ俺の頭の中に浮かばない。「降りる」、「他者の力」ってことは漠然とは分かるような気もするんだけれど、頭のもやが晴れてこない…。


 お二人に乗っかってぶつぶつ書いただけだなこれ。俺のブログはそういうの多いけど。

『健康観にみる近代』

 「健康」の社会的位置づけの変遷から近現代を捉えようとするもの。

 健康観を軸として、明治維新以来今日までの一と三分の一世紀を眺めると、健康をめぐって、さまざまの方向づけや希求のしかたのあることがみえてきた。それらを、時間系列に従い、力点の置きかたによって特徴づけると、六つの時期に大別できる、と主張したい。

 もとより、一つの時期に特定の方向づけが、独占的な地位を獲得したというのでなく、あくまでも相対的にそこに力点が置かれたというにすぎない、また、一つの時期が過ぎると、その時期の特徴が跡かたもなく消滅してしまうというのでもない。現在は、それら過去のすべての集積としてある。

 にもかかわらず、そのことを前提とするとき、六つに区分される健康観の変遷と、それによって照らし出される日本近現代の位相をかなり明瞭に辿りうるであろう。(pp.6-7)

と。で、六つの区分は、目次の6章に対応してて、「健康」の時代、「体質」の時代、「体力」の時代、「肉体」の時代、「体調」の時代、「生命」の時代とのこと。

健康観にみる近代 (朝日選書)

健康観にみる近代 (朝日選書)


 ちょっと面白いのは、「『体調』の時代」=健康病気が二択じゃなくて境界が不分明になってきた時代(p.144)の話。この時代の健康観の誕生が、従来の「病者/健康者」という枠組みを変えて、両者の共存を模索する思想を逆説的に生んだんじゃないかってところ。

 (この時代が生んだ転換のひとつは:引用者注)病者を囲い込むという隔離の思想に代わって、共存への模索が始まったことである。(p.158)

だとか。

 あるいは、「病者」って呼称の台頭も同様の流れからとらえられるとか。

 「病人」という呼称には、ふつうにたいしてその人びとを特殊と捉える意識が込められていた。そのなかで「病者」の定率は、それまでふつうとして自己を疑わなかった人びとを「健常者」と意識化し、その立場を相対化させた。両者は相互的な存在となり、それゆえにその間の垣根は低くなり、往来可能ないし不可避の関係となった(これらは「障害者」についてもいいうる)。(pp.162-3)

 という感じ。学問における「健康観/病観」も含めて遡上に乗せてるわけか。

 面白かった。

 しかし、かなり明確に一本のストーリーが描かれてるんだけど、この辺(のバランス――たとえば、ストーリーの明確さをどれくらい保つかなどの)も書き手のセンスだな、と。

非常勤

 夜、眠れなかったもので、「どうせ寝れんなら何かやろう」と思い、非常勤の資料作りを。

 ボチボチとやってたら、できあがった。

 その後、ニコニコ動画なんかを観てたら6時近く。

 さすがに眠くなったので寝て、いつもより遅めに眼が覚めた。

 非常勤の資料ができてるので、気が楽。

 

 で、学会事務局の仕事を進めてみたりした。

*1:でも、こうしたのは研究にしたくなかったりする。実は。一時は「スケボー研究もしよう」と思い立ったこともあったけど、結局全く気が向かず、全くやってなかったりしてて。この辺も何かあるんだろう。

*2杉田さんも書かれているように、「嫌がってる」ってのは、「当事者であることを嫌がってる」ってのと、「当事者を名乗ることを嫌がってる」の2つがあるが。

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