『DOCUMENTARY of AKB48 Show must go on 少女たちは、傷つきながら夢を見る』

・公式サイト
http://www.2011-akb48.jp/index.html

*ネタバレを気にするような映画ではないと思うのだが、一応ネタバレ注意。

 客席は3分の1くらい埋まっていた。公開開始から結構時間が経っている平日夜の上映にしては多いと思った。
 タマフルで絶賛されているのを聞かなければ、観に行くことはなかっただろう映画だが、観賞することで、思いの外、色々なことを考えさせられた。
 僕はAKB48について通り一遍のことしか知らず、ライブや総選挙やPVをまともに観たことはない。にもかかわらず、楽しめた。
 僕の記憶では、結成当初は、(主に秋元康氏による)仕掛けが見えすぎて、アキバ文化、オタク文化への“媚び”だと非難されていた。その頃は、小さな小屋で毎日ライブを行っていたが、あんなのを観に行くのは、アキバについて誤ったイメージを抱いた“にわか”や観光客だけであって、ディープなオタクには冷笑されている。実際、そんなに客も入っていないらしいぞ。ってな評判だった記憶があるのだが、それがいつの間にか、押しも押されぬ日本のトップアイドルになっていた。本当に目を離した隙に「いつの間にか」といった感じで、「どうしてこうなった」と思わざるを得ない。
 本作を見ても、そういった疑問が解消されることはないが、トップを走っているアイドルグループだからこその濃厚な人間ドラマがあり、メンバー同士の関係性や、メンバーそれぞれの苦しみや葛藤、使命感や責任感、そこから生じる輝き等が見られる。それらがすべて人工的・人為的な仕掛けによるもの、ということこそが、作られたイメージなのではないか。鉄砲を数撃って偶然得られた成果を、「最初からそうなるよう仕組んでいました」というフリをするのがプロデュースというものなのではないか。つまり、どれほど人工的な土壌から生まれたとしても、そこで咲き誇る彼女たちの輝き(生命力)そのものは本物なのだ。本作を観賞した後では、そのようにも思う。

 一言で言うと、本作は、東日本大震災から始まり、紅白歌合戦出場で終わる2011年のAKB48の記録(ドキュメント)である。それは徹底していて、それ以前の歴史にはほとんど触れもしない。二作目だからかどうかは一作目のドキュメンタリーは観ていないので分からないが、AKB48の存在や成り立ちについては知っていることを前提にした映画である。
 構成は、ほぼ時系列に沿って、コンサート、総選挙、被災地支援などのステージとその舞台裏の様子が映し出され(比重としては舞台裏の方が多い)、その合間にメンバー個人のインタビューが挟まれるという、比較的オーソドックスなもの。
 縦糸は「AKB48から見た東日本大震災」、横糸は「少女残酷物語」。
 メンバーの中で唯一の被災者である岩田華怜氏が真っ先に登場するのはあざといと思った。数多い下位メンバーたちのほとんどに一度もスポットライトが当たらない中で、上位メンバーでもない彼女がフィーチャーされたのは、被災者であるという一点のみによるのだろうから。だが、2011年の記録である限り、大震災を避けては通れないのも確かであろう。というのも、アイドルというのは時代と共に、時代に支えられて成立するものであり、トップであればあるほどその程度は大きくなるものだからである。アイドルは時代を象徴し、その時代の空気を表す(逆に言えば、アイドルには普遍性がない)。だから、同時代の出来事を抜きにアイドルを描くことはできないであろう。
 そんなこともあって、日本武道館での第3回総選挙のシーンが始まるまでの冒頭部分は、どういう気持ちで観ればよいのか定まらず、居心地が悪かった。インタビューの応答なども、優等生的というか、演技っぽいというか、わざとらしい感じがして、素直に受け取れなかった。その違和感は徐々に薄れていったが、そもそも観客の我々が見る映像はすべて、(隠し撮りではなく)カメラがあることを被写体であるメンバーたちが意識している状態での立ち振舞なので、その疑念がゼロになることは最後までなかったのだが。
 一方で、そこには全てが演技に過ぎないと言って済ますことのできないリアリティがあったので、全て演技だと断じるのはさすがに行き過ぎだろう(ずーっと撮られていれば、それに慣れて撮られていることをあまり意識しなくなるということはあり得るだろうし、何かに熱中していれば撮られていることを忘れる瞬間というのは当然あるだろう)。しかし同時に、全てが素の言動だと信じるのも無邪気すぎるだろう。本作について考える際には、全てがカメラの前での出来事だということは忘れてはならない。

 メンバーたちは思っていたより「大人」だった。アイドルになろうと思う女の子なんて、「自分は可愛い」「自分はアイドルになるべき存在である」といった自己肯定感に溢れた人たちだという先入観があったのだが、結構否定的であったり、自虐的であったりする*1。現代においてはアイドル(予備軍)といえども無邪気なままではいられず、多かれ少なかれメタ視点をビルドインされているのだなと思った。
 もちろん、しっかりとした応答のみを切り取ったと考えることもできるだろう。しかし、昔のアイドルならば、しっかりとした応答は不要とされ、無邪気な言動、ちょっとボケた言動がクローズアップされたことであろう。ということは、少なくともアイドル側も製作者側もそれがアイドルの態度として自然なものだと考えているということだ。

 ところで以前から僕は、AKB48の中で前田敦子氏が人気トップである理由が分からなかった。飛び抜けて美人だとも、突出した歌唱力・パフォーマンス力があるとも思えないからだ。だが、それは僕だけの疑問ではなく、タマフルの放課後ポッドキャストによると、AKB48ファンにも前田敦子がセンターであり続けている理由は分からないらしい*2
 前田氏を改めてスクリーンで動いているのを観ると、思っていたよりキツメで色黒でちょっと男っぽい。それがピークに達するのは、西武ドームライブで過呼吸で倒れた後、セーラー服姿で戻ってくるときの険しい表情や歩き方、無言で円陣に加わる様子である。それから、単独インタビューのシーンでのあの黒一色のシンプルな服は何? 他のメンバーたちの服装と比べて異質すぎるだろう。で、今回思ったのは、彼女の中で一番特徴的なのは目だということである。とにかく、目力が凄い。
 そもそもトップに立つような人、特に女性には、弱さを孕んだ強さ、強さの内に垣間見える弱さがある。脆さと言い換えてもよい。それは、身体的なものだったり、家族関係だったり、運だったりする。例えば、美空ひばり氏、山口百恵氏、松田聖子氏、中森明菜氏、浜崎あゆみ氏、安室奈美恵氏……。それは生まれ持ったものだったり、トップアイドルという立場が強いてくるものであったりする。いずれにせよ、大抵のトップアイドルには、孤独と不幸の影が付いて回る。そこにこそ大衆は惹かれるのかもしれない。
 AKB48のメンバーたちが思ったよりも「大人」だったのは、悲劇が人を大人にするということなのかもしれない。
 そして、本作ではその悲劇性にこそ焦点を当てている。そのことは本作のタイトル「少女たちは、傷つきながら夢を見る」にも、終盤に映し出される「奇跡の一本松」にも表れている。津波のせいで周囲のすべての松がなぎ倒され、ただ一本だけ残った松、更地になって荒野のようになった沿岸にただ一本だけ天へ向かって立っている細い松の木、それは悲劇であると同時に希望でもある。その姿は、アイドルとは悲劇の中の希望であると言わんばかりである(それを是とするか非とするかは別の問題として)。

 アイドルには2種類ある。一つは裏付けのあるアイドル、もう一つは裏付けのないアイドル。売れている理由が比較的客観的に分かるアイドルと、なぜ売れているのかファンでない人たちには分かりにくいアイドル。前者は容姿が良かったり、歌やダンスの技術力が高かったりするアイドルである。後者はもしかしたら日本特有かもしれないアイドルである(外国には全く存在しないとまでは言わないが、日本で独自の発展を遂げたアイドルの有り様であることは確かだ)。
 例えば、抽象化および簡略化して言うと、最初から200の力を持つ人がもてはやされるのが日本以外のアイドル。それよりも、100の力しか持たない人が150の力、実力以上の力を発揮することに魅力を見出すのが日本的アイドル。客観的にはそれでも後者は前者より劣っているわけだが、その伸び代にこそ熱狂するのが日本的アイドルファンである(もちろん、そういう人ばかりではないが)。
 だとすれば、日本のアイドル業界とは本質的に、アイドルにオーバースペックを強いるものであるということになる。それでなくても風当たりの強いアイドルに多大なストレスやプレッシャーを与えることで、本人や周囲の人たちが思ってもみなかった力(美)を発揮させる。そういう意味で、アイドルを生み出す日本的システムは残酷である。そして、そのシステムにそのファンたちもまた加担している、というのが、舞台裏で気息奄々のメンバーたちの映像に、満場のファンたちのアンコールの大音声をかぶせる監督の意図するところなのであろう。
 さらに話を広げるなら、彼女らのゴシップを追い求めるマスコミも、彼女らをバッシングする声も、彼女らをアイドルたらしめるのに一役買っているということになる。
 もちろん、だからといって、その対象となる本人たちはたまったものではないだろうが。これはアイドルというものを成立させている構造についての話であって、アイドル本人がそれを望んでいるかどうかとは無関係である。
 したがって、それに耐え切れず、病んだり、芸能界を去ったりしたアイドルも少なくない。逆に、批判に対して真っ向から反論しようとすると、アイドルらしくないとまた批判される。だから、反論するにしても、アイドルのイメージを崩すことのない、アイドルらしい反論の仕方が必要とされる。その例は本作の中でも見られる。
 では、そもそもなぜ人々はアイドルについてあれやこれや言いたがるのであろうか。それは、肯定であれ否定であれ、彼女ら/彼らについて語るだけで世の中について語っているような気になれるのがアイドルという存在だからである。言い換えれば、アイドルは人々の語りの欲望を駆動する。本作そのものがそういった欲望を駆動する映画として、すなわちアイドル映画として、よくできている。僕自身も何事かを語りたくなり、その結果、久しぶりに記事を書くことができた。そして、アイドルがそういう存在なのだとすれば、アイドルとは愛される存在というよりは語られる存在であると定義した方が正確かもしれない。
 このようなアイドルを生み出すシステムは、自然の物に様々な手を加えることで、自然と同等の、あるいは自然以上の美を、小さなスケールの内に作り出すという意味では、それは盆栽の考え方に似ている。
「日本のアイドルは海外のアーティストに比べて歌もダンスも下手」などと批判することは、盆栽が自然の大木より小さいからダメだと批判するようなものである。
 誤解を恐れずに言えば、(日本的)アイドルの美しさとは奇形の美しさである。

 その他雑感。
 エンドロールで、AKB48およびその姉妹グループのメンバー全員の名前がクレジットされているのだが、一度も出てこないメンバーもたくさんいるのに欺瞞というか、普通の意味でのキャストではないよねというか。AKB48の12.5期生として江口愛実の名前がクレジットされていたのには笑った。
 そのエンドロールを見て初めて気付いたのだが、ナレーションは能登麻美子氏だったのね。どうりで聞き覚えがある声だと思った。しかし、AKB48とは全然関係なさそうなのに、なぜ?
 今春放送予定のAKB48をモチーフにしたテレビアニメ『AKB0048』に声優として出演するわけでもないようだし。製作者の中にファンでもいたのかな?
 と思っていたら、数日後、出演するとの発表があった。どちらのキャスティングが先だったのかは分からないが、これで繋がった。

・<AKB48>初アニメ「AKB0048」キャスト追加発表 こじはるは能登麻美子 全国12局で4月放送開始 | ニコニコニュース
http://news.nicovideo.jp/watch/nw207737

 西武ドームライブの2日目。過呼吸で倒れて戻ってきた後、壁に向かってあり得ないほど近づいて練習していた「Flower」を、ステージでソロで歌う前田敦子氏を、舞台袖の階段に腰掛けて見守る高橋みなみ氏の表情がよい。本当に「見守る」という感じの温かくて優しい表情で。

*1:本作内にも登場する、有名な「私のことは嫌いでもAKBのことは嫌いにならないでください」という前田敦子氏の発言とか。しっかし、総選挙で1位に選ばれた席上で、ファンたちの前で言うことじゃないだろう、これw。

*2:それは1ファンの考えに過ぎず、ファン全員がそう思っているとは限らないが、妙に納得の行く答えでもある。