セカイ系論議葬送。
 所謂三大セカイ系、『イリヤの空、UFOの夏』『最終兵器彼女』『ほしのこえ』には、彼と彼女が出てきて彼女がどっかで戦争、以外に、あんまり共通点はない。
 せめて彼女が戦争する「どっか」が彼の生活圏の外だったりして欲しいが、これは『最終兵器彼女』においてはそうではない。
 生活圏の外、と言えば『ほしのこえ』でミカコが戦ってるタルシアンは地球には全然攻めてこない。ピンチは人類的なアレではまるでなく、まあ、物好きな宇宙開発の人が迷惑しているだけの話。
 でもって『イリヤ』には、子供を導こうとして失敗したり子供にむかついてなぐったり色々する社会人のオトナさんが大挙して出演されておられます。
 男子完全傍観、絶滅戦争、社会中抜き。セカイ系の三大特徴は、この典型と誰もが認める三作品においても勢揃いはしていない。
 これが「セカイ系。そんなものがあるならほれ、ここに出してみなさい」と言われる所以である。
 なお、絶滅戦争ははみこ間恋愛に置換することも認められており、『永遠のフローズンチョコレート』に出会った宇野常寛氏の喜びいかばかりであったろうかと思うと泣けてくるわけだが――100%の相手に出会うことは、なんであれ、僥倖、ひとつの奇跡であろう――あの作品はそもそもマニエリスム的な成り立ちをしているのであって、三大特徴に「彼女」のバイオレンス、とすべてを備えた作品に仕上がっているのはセカイ系ムーブメントがひと段落した地点から技法的な部分を総括しているからにほかならない。そういう意味で、セカイ系に限定的な、一手法としての有効性以上のものを認めている、とみなすことは恐らくは不当だ。時代遅れなのではなく、古風なのである。そういう意味で、ある古典的な均整の取れた、端正な小説だと思いました、『永遠のフローズンチョコレート』。
 ところで。
 フィクションが社会に対する批評として機能することは可能だろうか。
http://sto-2.que.jp/ndiary/2006/12/200612211.html

 いまこの世にある評論というもののは、すべてが「正しく」なく、厳密に「正しい」批評があるとするならば、このような形になるべきだと。
 ひとつは、批評対象のすべてを引用していること。
 ひとつは、批評自体が、評論対象と等しいかそれ以上の分量であること。
 もうひとつは、批評対象に対するいわば「返歌」として、新たな作品を生み出すこと。

 社会のすべてを引用し、社会以上の分量を持つ作品、て多分不可能なんじゃないかなあ。

 アニメ声について。
 漠然と、アニメでよく聞く感じの声、という意味なら、中原麻衣とか植田佳奈とかいっそ岩男潤子とかああいう感じがそうだなと俺なんかは思うわけですが、地下アイドルだの風俗嬢だの女芸人だのAV女優だの、なんかそういうのでアニメ声、みたいな言い方をされる時には、大体こやまきみこの出来損ないみたいな声の人が出てくるものです。なお、釘宮理恵をアニメと呼ぶ小山剛志のセンスは前者。我々(誰?)がアーツ声と呼ぶアレよね、つまりは。
 で、これ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/アニメ声
 音声学的な説明はなるほどと思うのだが、ここで説明されてるのって明らかに前者、で、例に挙がってるのがどっちかというとっつーか後者なのは、これいったいどういうことなんだすか?
 本文読まずに追加したかあとから本文書いた奴がまあいいやと放置したかだなあ、当然。