誰も、『天元突破グレンラガン』のDVDが売れていることをもって四話の作画は商品力を下げはしなかったのだ批判派涙目ざまあねえな、という勝利宣言をしていないようなので、するなりよ。
 ざまあ見ろ。
 あ、当該話数収録の二巻だけ数字が下がってるとか言うこともなさそうです。
 燃え標榜アニメ特有の歴史的感覚の欠如、ラスト三話あたりのアレっぷりと終了後の過大な評価で微妙にアンチげな最近の俺ですが、この、あの四話が商品力を下げなかったという事実はいくら喧伝されてもいい、と思うの。
 ところで、この事実にはいくつかの解釈の可能性があります。

  1. 他の収録話数のよさ、あるいは全巻買い揃えておきたい欲求が四話の作画のマイナスをはるかに大きく上回った。
  2. 購買層は良くも悪くも作画なんてかけらも気にしない。だから、四話の作画が悪いとも他がいいとも思わず買っている。
  3. 四話の作画のよさが購買層に伝わった。

 まあ、一番大きくは1なんだろうけど、3の可能性って案外捨てがたいよなあ、と最近、に限らず思っている俺がいて。
 もし、アニメの作画の良し悪しが、一部専門家にしか伝わらないものだとしたら、大作劇場アニメにあれだけの予算は付き続けるだろうか。
 なんだかんだで、大衆には、表現の良し悪しって伝わるんでないのかしら。
 つまるところ、アニメの作画であれなんであれ、表現は受け手の感性をどうにかするべく組織されるものであり、感性をどうにかするべく、かなりの部分は感覚的に組織されてもいよう表現のありようを正確に言語化しようとすれば、そこにはそれなりに高い見識、が必要とされる。
 そこまで高い見識がなく、感性的な受容にも徹せない半端モノが、半可通のラウドマイノイティとなって、作画崩壊と叫ぶ。
 多分そういう構図があって、『グレンラガン』の四話の件もきっとこのようなラウドマイノリティだけの吹き上がり、ネットの不評なんて気にしなくていいんだよ現象の一例だったのではないかなあ、と愚考する次第。