通常営業?

通常運転やってると思うだろ?
実はそうじゃない。とんでもなく無気力で、逆にとんでもなくぴりぴりしてる。躁鬱まっしぐら。
いつもなら無理矢理テンション上げて突っ走るところが、鬱に鬱重ねてしまったんで、テンション上げて突っ走るのもちょっと厳しい。ここの記述も後で読めば無茶苦茶かもしれない。

で、たとえばどれくらいささくれてるかというと、研究室でふらっと論文*1を読んで、引用されている森村誠一の言動にいちいち腹立てるくらい。本筋とさほど関係ないところに目を付けてどうする。

■ 対談 森村誠一 VS 小林久三

推理小説の中の事件と現実の犯罪の差

(前半略)
 森村 推理小説と現実の犯罪のいちばん大きな違いは、推理小説では作者が都合のいいように状況を設定するということですよ。
 それが、小林さんの『錆びた炎』の場合、血友病という病気なんです。その病気によって、72時間というタイム・リミットをかける。それによってサスペンスを盛りあげるわけですよ。
 それを、朝日新聞が医学的なミスがあると叩きましたが、これは、推理小説が知的ゲームだということを、まったく度外視しちゃってる。血友病はたんなる道具だてのひとつであり、その医学的な記述だけをとりあげて、作品全体を否定するのはおかしいですね。
(後半略)
『女性セブン』1977年3月17日号 p182

(引用はhttp://www.ritsumei.ac.jp/acd/gr/gsce/d/h001005.htm、錆びた炎事件に関するページ。)

少なくとも明らかに間違ってることを道具にしちゃいけないよなあ、と。たとえ当初は未知のものを材料にしていても、それが何者であるかはっきりしたなら、そのはっきりしたものを根拠に描写しないといけない。それは推理小説であっても同じだと思う*2

宇宙旅行が夢想の対象でしかないようなときは、技術的手段として何を使おうと違いはない。
(中略)
しかし、宇宙旅行が現実のものとなってしまった時、もはや現実の手段以外の好き勝手な手段を選ぶことはできない。
スタニスワフ・レム、沼野充典編訳 2004「SFの構造分析」『高い城・文学エッセイ』国書刊行会 P.203)

シュレディンガーの猫」そのものの制限が、同時代を描く作品には常に要求される。執筆時点ではっきりしているものを題材にするなら、そこには実物に対する考証が要求される。考証の為されていない作品の評価は推して知るべしである。
この点で、森村の発言は、作家として、明らかに誤りであり、言ってはいけない言葉の部類に入ると俺は思う。*3
まあ推理小説に限れば森村誠一は、辛気くさいのと泥臭いのとドラマの主役が片岡鶴太郎*4なのを多少我慢すれば結構読めるし、全否定する訳じゃないんだが……なぜか腹が立ったんだよな……。ささくれすぎだ俺。

*1:読んでたのは、北村健太郎「「錆びた炎」問題の論点とその今日的意義」。『コア・エシックス』vol.1 (立命館大学大学院 2005)収録。

*2:だから俺は建築法規もへったくれもない綾辻の館作品は推理ではなくファンタジーだと考えている。

*3:で、この発言自体が作品執筆の上で考証をないがしろにしていることを白日の下に晒してしまい、『悪魔の飽食』のような著作(その真実性はここでは置く)の評価をも、「同様にいい加減な考証で書かれた『作品』」にまで真っ逆さまに叩き落としてしまう危険性がある。

*4:これは個人的趣味。