Hatena::ブログ(Diary)

回路の小説置き場

2008-01-23 始動。

はてなリングに登録しますた。

01:53

はてさて吉と出るか凶と出るか。

と、いうわけで。

| 00:53

初めまして、回路と申します。

小説置き場としてこのはてなダイアリーを利用させていただきます。

これからよろしくお願いします。

松永亮介と狩猟少女

| 00:33

 徒労感を覚えながらも、少女は今日も、獣と人間の邪悪な部分を集めて作り出したような怪物に向けて、刀を振るい続けていた。刀が肉を断つ感触、神経を切る音、硬い骨を叩き割れてしまう、自分の力。

 全てが、彼女を不快にさせていく。

 だが、仕方がなかった。斬り殺していかねば、彼女が死ぬのだ。殺されることよりも、彼女は殺すことを選んで生きてきた。

――そしてこれからも、死ぬまで、私は敵を斬り殺して生きていくのだろう。

 少女は自分の作り出した血に塗れた死体を見下ろしつつ、絶望にも近い、そんな思いと共に刀をゆっくり収めた。そして、少女はその死体に背を向け、歩き出した。

 月だけが、返り血で紅く染まった彼女を見ていた。

 松永亮介は猫探しやら浮気調査やらの退屈な仕事の報告書を、あくびまじりに片付けていた。

 亮介の職業は探偵だ。20XX年の現代においては珍しい、ハードボイルドな名探偵だと、本人は自負している。

 とは言っても、ハードボイルドの名探偵なんていうものは、今の時代ではとっくにダサイものだった。そしてダサイという自覚もどこかにある。悲しい事実だ。しかし、ダサイという自覚なしでカッコイイ探偵だと1人気取ってみせても、もっとダサくなるだけだろうという不安もあった。だから亮介はその悲しい自覚を背負って、今時流行らないロンリーウルフとしてこの卑しき街を歩いている。

 この時代、探偵に舞い込む仕事もほとんどはカッコイイものではない。今書いている報告書がいい例だ。家出した猫の調査とか、浮気調査とか、そんなものがほとんどだった。

 たまにはもっと、この俺に似合うハードボイルドな事件が来てくれないものか、そう漠然と亮介は思う。だが、どんな事件がハードボイルドな事件なのだと問われると、ちょっとわからなかったが。

 亮介が探偵などという仕事に身をおいてしまった最大の原因は、少年時代の出会いだった。

 フィリップ=マーロウと、松田優作演じる工藤俊作。

 少年の時にこの2人の「本当にカッコイイ」探偵に出会ったのが、不幸にも亮介が探偵などという職業についてしまい、探偵への憧れを捨てきれないでいる原因だった。

 フィリップ=マーロウに出会ったのは父親の本棚で、工藤俊作に出会ったのは懐かしドラマの再放送だった。亮介が工藤俊作に出会った頃には既に松田優作はこの世になく、どんなカッコイイ俳優でもいずれは死んでしまうという当然の事実に涙したことがある。

 もちろん、亮介が少年の頃から、ハードボイルドへの憧れは既に古臭いものだった。だが、少年時代の亮介は、自分を特別だと思い込みたいダサイ子供だった。その「古臭いものへの憧れ」というハタから見ればかっこ悪いだけの事実でさえ、自分の「個性」であり、「魅力」だと勝手に思いこむことができる能力を、ダサイ子供というのは持っているのだ。

 そして、そのダサイ憧れを捨てきれないままに、亮介は成長してしまった。

 探偵という職業に本格的に足を踏み入れたのは、大学に入ったはいいがろくに単位も取れず、中退を考え始めた時期だった。真剣に悩んでいたその時期に、亮介は近所の探偵事務所でアルバイトを募集していることを知った。

 勢いで大学を中退してしまうと、亮介はその事務所でアルバイトとして働くことになった。

 そこに入ってすぐに、亮介は探偵というのが思っていたよりもカッコイイ仕事ではないことに気付いてしまった。探偵業というのは、単に人の秘密を嗅ぎ回るだけの汚い仕事だった。

 そういうものなどだと割りきって仕事ができればよかったのだろうが、亮介はそれを単に雇い主がカッコイイ探偵ではないせいなのだと思い込んでいた。雇い主が悪いのであって、自分が一人前の探偵になりさえすれば、カッコイイ仕事が待っているのだと、亮介は思いこんでしまっていた。

 だから、最低限の探偵のノウハウと、当座の活動資金とを手に入れると、亮介は自分の探偵事務所を設立することになった。

 独立を果たして、自分で仕事を受けるようになってようやく、探偵という職業がかつて憧れていたほどにかっこいいものではない事実に、亮介は気付いた。だが、もはや手遅れだった。

 探偵というものが本当にカッコイイのは、悲しいかなフィクションの世界だけなのだ。今ではもう、その事実は亮介だって頭では理解している。しかし、独立を果たした後の亮介は、もう引き返せないほどに、探偵という職業にどっぷりと肩までつかってしまっていたのだ。

 それでも亮介は、いつかは本当にカッコイイ探偵になれると相変わらずどこかで勘違いしている。その勘違いを背負ったまま、あくびまじりに退屈な探偵業を続けている。

 彼がちょうど報告書を1つ片付けたところで、机の上の電話が鳴った。

「はーい、こちら松永探偵事務所」

「亮介か? 調査の依頼だ」

  亮介の耳に入ってきたのは、彼自身の間の抜けた声とは対照的な、冷たい女性の声だった。亮介は彼女の声を聞いて、にやりと笑みを浮かべた。この時代でも、探偵にハードボイルドな依頼が入ってくることは皆無ではない。そしてこの女性は亮介にとって、そのハードボイルドな依頼を持ちこんで来てくれる相手なのだ。

 「雪音か。お前さんの依頼となると、また厄介事か?」

 電話の声は一条雪音という女性のものだった。彼女は、表沙汰に出来ない事件を扱う、『特殊刑事課』と呼ばれる部署の課長だった。特殊刑事課は常に慢性的な人数不足らしく、亮介のような一介の探偵などの、外部の協力も得て成り立っている、場末の部署だ。

「そうだ。殺人事件……いや、殺獣事件とでも言うべきか」

「フム……『化け物』殺しか。そいつぁ本気で厄介だな」

 この20XX年は、間違った方向に進歩した人類によって、誤って産み出されてしまった物がいくつもある時代だった。

 例えばその間違った産物のひとつが、遺伝子操作で作り出された、『獣人』と呼ばれる生物だった。獣の身体能力と凶暴性、そしてヒトの残虐性。お互いの邪悪な面だけを持ってこの世に産み出されてしまった存在。時には、『化け物』とさえ呼ばれてしまう、哀れな生き物だった。

 『獣人』は、産まれたと同時に処分することが法では制定されている。しかし、その存在を闇に紛れて兵器として利用しているような犯罪組織が、今の時代では少なくない。そのために、雪音のような特殊刑事が必要とされるようになっていた。ただ、獣人の絡む事件というのは危険なものばかりである。だから、そうそう特殊刑事のなり手はいないし、なれるだけの能力を持ったヤツもやっぱり少ない。亮介のような一介の私立探偵にも、協力の依頼が舞い込むようになっているのには、そんな事情もある。

「ああ、本当に厄介だ。特に気になるのは、どうやら殺された獣人は、人間の手で『斬り殺された』ようなのだよ。凶器は恐らく、日本刀だ」

「はぁ!? 人間が、刀で獣人をぶった斬ったっていうのか? 銃でならともかく……」

「少なくとも現段階の調査では、そうとしか考えられない。綺麗に刀で真っ二つ。それしか獣人の死因は考えられない」

「フム……ま、あんたは冗談を言えるような人間じゃないしな」

 だが、獣人の皮膚の硬度や、再生能力は相当なものだ。それを刀一本で殺した相手となると、獣人を越える『化け物』の可能性があった。

「亮介、お前はその獣人を殺した相手が何者なのか、調査してくれ。私は殺された獣人の出所を探る。危険性の高さから、報酬は規定の2倍にしておく」

「太っ腹だな。裏で何かあるんじゃないか?」

「ああ、上の方では何やら察知しているようだがな、私には関係ないことだ。それよりも、依頼、頼めるな?」

「……わかってるだろ、俺はお前さんには逆らえないってことは」

 亮介は情けない声で、そう言った。その情けない声を聞いて雪音は、電話の向こうでかすかにふふっと笑う。

「なら、頼んだ。せいぜい死なないようにな」

「あいよ。なぁに心配するなって、俺はなんせ、ハードボイルドな名探偵だぜ?」

 軽口を叩いた亮介の耳元には電話が切れる冷たい音だけが響いた。亮介はひとつ、溜息をつく。それから、よっ、と、声をあげて起きあがると、彼は黒いジャケットを羽織った。

 ジャケットを羽織った自分の姿を鏡に映す時、亮介は自分が探偵をやっている実感を覚えて、少しだけ満足する。次の瞬間には自分がフィリップ=マーロウほどカッコイイ探偵ではないことに気付いてしまって、逆に落胆するのだが。

 しかし、フィリップ=マーロウや工藤俊作ほどカッコよくてハードボイルドでなくても、探偵である以上は受けた仕事はこなさなければならなかった。亮介はまたひとつ軽い溜息をつく。そして「松永探偵事務所」を後にし、調査に乗り出した。

 夜の街。

 だが、そう言ってももはや、街には本当の夜はない。常にどこかで明かりが点いている。それが街という場所だった。

 夜の街をそう評する言葉もまた、もはや陳腐の極みだった。だが、松永亮介は、そういった陳腐な表現で物事を考えてしまうような男だった。

 亮介は今、喫茶店の窓から、その夜のない街を眺めていた。

 白くただそこに立つ街灯、赤く前を見つめる車のヘッドライト、黄色く自己主張するネオン。亮介の視線は街全体を流れて、やがて地面の一点で止まる。亮介の視点が止まったその一点が、獣人が殺された場所だった。そこを長い間、考えるともなく見ることで、時間を潰す。

 「相手はバケモンだ。殺されて当然なのかも知れない。だけど、何かが殺されるってのは、なんだかよくわからんが……少し、いやだな」

 煙草を灰皿に押し付けた亮介の口から、自然にそんな独り言が漏れた。本来なら獣人は、産まれてしまった時点で殺されるのがルールである。つまり、今回殺された獣人は、何らかの形で生き残ったものなのだろう。それが、殺されてしまった。

 一度は生き残ることが、できたのに。

 そのことを考えるだけで、亮介は少し憂鬱になった。

 ひとつ溜息をつくと、亮介の視線は、今度は店内をさまよった。やかましく騒いでいる、髪を変な色に染めた若者たち。眼鏡をかけて、黙って英語の問題集にむかっている少年。無愛想な表情で突っ立っているウェイター。没個性な客の集団だと、少し思う。と言っても亮介だってアイドルでも人気俳優でもない。はたから見れば、その没個性な集団の中に埋もれてしまっている存在に過ぎないことはわかりきっていたが。

 そんな客の中に視線を泳がせているうちに、亮介の目は、妙に長い布袋を抱えた、黒いセーラー服の少女に止まった。

 他の客とは違う「凄み」が、彼女からは発せられていた。

 その少女と、亮介の視線が、一瞬交差する。ぞくり、と背筋が粟立つ感覚を覚えて、亮介は慌てて彼女から目を逸らす。すぐ後には、ちょっと視線を向けただけで、なんで目を逸らす必要があるんだ、と思った。

 しかし、彼女を真っ向から見すえる気にはどうしてもなれなかった。

 だが、彼女を完全に視界から外すことも、彼にはできなかった。好奇心を捨てきれずに、亮介はちらちらと盗み見るように彼女の姿をうかがう。

――変態か、俺は?

 そんな考えがわずかに亮介の頭をよぎって、一瞬馬鹿馬鹿しくなる。それでもやはり、彼女に対する好奇心を消し切れず、彼は視線を何度も泳がせた。

――ま、気に入った女の子の顔を見てるのも、悪くはないか……。

 酒は飲んでいないのだが、亮介は酔ったような気分になった。美しい猛獣に魅せられるのと同じ感覚で、少女の発するエネルギーに、亮介は酔っていた。

 どれだけ時間が経ったのだろうか。少女はやがて席を立ち、会計を終えて外へ出ていこうとする。妙な予感を感じて、亮介は慌てて少女に続いてコーヒーの代金を支払う。

――この少女に逃げられてはいけない。

 亮介の予感が言葉になった時には、既に少女は喫茶店の外に出ていた。亮介も外へと駆け出し、明るい闇の中へと少女を追った。

――で、あっさり見失うかよ……。

 街の中に視線を泳がせるが、亮介の視界からは、既に少女の姿は消えうせていた。追いかけようとしたことに気付かれたか。亮介は自分の探偵の才能のなさに軽い自己嫌悪を覚えつつ、辺りの気配をうかがった。

――そこか。

 少女の持っていた、隠しきれない殺気。亮介はその殺気を、光の差し込まない路地裏から感じ取った。さすが俺、探偵としてのカンはいいぜ。亮介はあっさりと自己嫌悪から立ち直り、その路地裏に向けて駆けだした。闇の中に入っていく感覚が、奈落へと落ちて行くようにも感じられた。

 亮介が、その闇の中へと入り込んだその瞬間。闇は、銀の光によって切り裂かれた。刃物の鋭さを持った銀の爪が、一瞬前まで亮介の上半身のあった場所を抉りとっていた。

 しかし、亮介も咄嗟に身を逸らしていた。行き場をなくした爪は壁に激突し、文字通り粉微塵にその壁を打ち砕いた。

「……冗談じゃねぇ」

 亮介は爪の主――黒い毛むくじゃらの、人型の生物に向けてうめいた。人であって人でなく、獣であって獣でない。目の前の、黒い異形の生物。何度か見たこともある。こいつが「獣人」と呼ばれる、作られた生命だった。

――女の子を追って来て、なんでこんなものに出くわすんだ? 

 亮介は強烈な違和感を覚えて、すぐに打ち消す。今は、そんなことを考えるより、この獣人をなんとかするのが先だった。

 しかし、亮介は特殊刑事みたいに特殊な訓練なんか何ひとつ受けてはいない。ましてや、ウルトラマンだとか仮面ライダーみたいなスーパーヒーローではない。肉体的にも精神的にも、ただの人間に過ぎない。文字通り人間離れした力を持つ『獣人』をまともに相手にしたところで、勝てる可能性はごくわずかだ。さっきの一撃を避けられたのは、悪運が味方したというところ。次の一撃をかわす自信はない。

 そして、かわせなければ、あの壁のように粉々になるだけ――

 獣人は殺気をみなぎらせながら、鋭い爪の生えた腕を大きく振りかぶった。その殺気に、あの黒い少女と似た物を亮介は感じた。凄まじい殺気をまとった爪が、亮介の腹へと吸い込まれる、その瞬間。

 亮介の体は、宙を舞っていた。

 何者かが、亮介の背中をひっ掴んで、引っこ抜くように放り投げたのだ。

 亮介を放り投げた人間――そう、人間の姿だった――は、獣の爪が大きく振りぬかれた所を狙い、獣人の懐へと飛び込んだ。危く頭から落ちそうになって、亮介はなんとか受け身を取って倒れる。

 謎の人物は、獣人の腹に棒のような物で突きを食らわせる。獣人の体が「くの字」に折れ曲がる。亮介は倒れたまま、その謎の人物があの黒いセーラー服の少女だと、ようやく気づいた。

 少女の手もとから、獣の爪よりさらに鋭い銀の閃光が産まれる。少女の手元の棒のような物は、日本刀だったのだ。突きのダメージによって未だに悶絶している獣に向け、少女は刀を大上段に振りかぶる。

 そして、斬。

 その場にふさわしすぎて、逆に違和感があるくらい綺麗な音。その音と共に、獣人は少女の持つ刀で、いとも簡単に切り裂かれた。

 返り血が、少女の顔にかかる。

 月光が、赤く染まった少女の顔を照らす。

――とても、寂しそうだ。

 その顔を見て、亮介はそんなこと思った。

「どうやら君は、私を追って来たようだね?」

 受け身の時に腕を痛め、その腕を擦っている亮介に、少女は言った。その少女の前には、たった今できたばかりの獣人の死体が、血に沈んでいた。亮介は腕を擦りながら、彼女に問い返す。

「……なんでわかる?」

「私の気配を追っていたから、この獣人に出くわした、そんなところでしょ?」

「話が噛み合ってないぜ」

「君はカンが良さそうだからね、私の気配を察して追うくらいのことはできそうだよ」

「だから噛み合ってないっての」

「私と獣人は、同じような気配……殺気と言ってもいいかな。そういうものを持っているんだ。だから、君が私の近くで獣人に出会ったのは、私を追って来たせいだってくらいは推測できるよ。さっきの喫茶店で、君は私を見ていたしね」

「あら、やっぱ、見てたのバレてた?」

「うん。まぁ……悪い気は、しなかったけど」

 流れる獣の血を、月の光が赤々と照らした。その血を見て、亮介は少し怖くなる。人間は、血が怖いと感じるようにできている。だから仕方ない。そう思いつつ赤いものから目を逸らし、亮介は少女に問うた。

「で、君は一体何者なのさ? 獣人を簡単にぶった斬るなんて、一般人にゃできないことだ。ああ、俺は松永亮介って言うんだ。こないだぶった斬られた獣人の調査を頼まれた探偵なんだけどさ。あの事件も君がやったのか?」

 少女は自分の切り裂いた獣人を静かに見下ろしながら、しばし、沈黙する。静かな夜の中、一瞬とも永遠とも思える時間が流れて行く。

 やがて、少女は自ら沈黙を破って、ゆっくりと重そうに口を開いた。

「……話を、聞いてくれる?」

「むしろ聞きたいね。仕事だからってだけじゃなく、君自身にも興味が湧いたし」

「……えっと、ありがとうって、言えばいいのかな?」

 言い慣れていなさそうに、少女は礼を言う。

「私は、ある組織に作られた実験体なんだ」

「フム」

 この時代ではよくある話ではあった。獣人も、優れた兵器としての人間を作り出そうとした過程で産まれてしまった、鬼子である。

 しかし、そう言う産まれ方をしてしまった少女に、亮介は同情を覚えた。

 不幸な境遇の相手にいちいち同情していてはきりがないかも知れない。それに同情も所詮、偽善的な感情なのかも知れない。それでも亮介は、せめて目の前に現れたかわいそうな相手に対しては、なるべく同情を抱くように決めていた。

「理性を持った獣人を作ろうとして、産まれたのが私なんだよ。だから私は、獣人と同じような気配を持ってる。君が私を追って、彼に出会ってしまったのは、多分そういう理由だよ」

 なるほどね。いきなり獣人に出くわしてしまった理由に納得が言って、俺はうなずく。

「だが、私は理性だけでなく、感情という不要な物……組織に言わせれば、だが……とにかく、感情を余計に持ち過ぎたらしいんだ。君に話を聞いて欲しいと思ったのも、感情から」

「フムン、まぁ、それで君の話を聞ける立場になったっていうのは、嬉しいね」

 亮介がニヤリと笑い、少女もぎこちなく微笑を返す。

「私も……ありがたいよ」

 その表情からは、わずかな安心が感じられた。

 ただ、安心し慣れていない表情のようだ。そう俺には見えた。

「そして私は、戦場に送られることになったんだ。だけどね、私はいやだった。人を殺すのがね。だから私は、組織を脱走した。感情のままに、ね。だけど……」

 そこで少女はわずかに言いよどむ。だが、俺が続きをうながすしぐさを見せると、また口を開いた。よほど話したいことが溜まっていたのだろう。そして、それは、言いにくいことだったからなのだろう。

「組織は……脱走した私を処分するつもりでいる」

「処分?」

「私を殺す、ということさ」

 推測はついていたが、それでも俺は、絶句せずにはいられなかった。

「獣人に、私を殺せ、という指令を送り込んで、何匹かこの街に放っているんだ。単純な命令程度なら、獣人にも聞かせることはできるからね。追ってくる獣人を、私は組織から奪った、この特殊合金の刀で斬り殺し続けてる。だけど、ね。私にも……獣人の血が流れているんだ」

 少女の視線は、広がって行く獣人の血にずっと向けられている。

「いわば、同類……仲間なんだよ。仲間を殺すのは、辛い。だが、殺さないと私は……生きていけないんだ。本当に、辛い。だが、それ以上に死にたくは、ないよ」

 そんな少女の言葉が、亮介の胸を重くする。月光に照らされた少女の顔には、まだ幼さが残っている。それに、結構可愛かった。こんな可愛い少女がこんな過酷な運命に置かれてしまったことに、俺は再び苛立ちと怒りを覚えた。

「……俺に、できることはあるか?」

 そんな言葉が、自然と俺の口をついて出た。この少女の力になりたい。それは、亮介の本心だった。少女は亮介のその言葉を聞いて、寂しそうに微笑んだ。

「なら、私のことは忘れてくれる?」

 微笑んだまま、少女は亮介に言う。

「なんでだよ! 俺は……お前さんの力になりたいって思ってるのに!」

「だから、だよ。君は優しい。だから、もし私のせいで君が傷を負ったり……その、死なれたり、したら……耐えられない」

 少女の微笑みは、悲痛を感じさせるものだった。その事実に、亮介は今になってようやく気付いた。

「組織が狙っているのは、今のところ、私だけだよ。今後私に関わらなければ、君は傷つくことはない」

 そういうと、少女は背を向ける。

「だから、私のことは忘れて欲しい。さよなら、話を聞いてくれて、ありがとう」

 そして、少女は街の雑踏の中に歩を向ける。呼び止めよう、俺はそう思ったが、言葉がどうしても出てこなかった。亮介が何も言えないまま、少女は闇なき夜の街の中へと、消えて行く。

――雪音には、今回の仕事は失敗と言うしかないか。そんな場違いな考えが、亮介の中に浮かぶ。

 俺は、何も出来なかったのだから。結局、名前も聞くことのなかった少女のために、何もしてやれないのだから。そして――彼女の話を聞いてしまった俺は、これから無力感を抱えて生きていくしかない。

 そう思い、虚しさとともに、亮介はただ、拳を強く握り締めた。

 デスクと、その後ろにある整然とした本棚。それ以外に余計なもののない、無機質な部屋の中で、目の大きい童顔の優男が大きく口を開いてあくびをした。

 しかし、デスク越しに向かい合った女性ににらみつけられて、優男は慌てて口を閉じ、まぶたをこする。彼の顔には、あきらかな眠気があった。

 彼が眠いのも仕方がないだろう、と女は思う。彼女がこの優男を呼び出したのは、朝早くだったのだから。だが彼女は、突然「仕事を打ち切らせてくれ」とだけ連絡を寄越してきたこの童顔の優男――探偵、松永亮介に対して、そんなことを言い出した理由を問いたださなくてはならなかった。

 女性の名は一条雪音。獣人対策のエキスパートである特殊刑事課、その課長を勤める人物である。端整で冷たい雰囲気を持ち、細い銀フレームの眼鏡をかけたクールビューティーだった。全身にまとった怖いオーラさえなければ、才色兼備、という言葉は彼女のためにあると言えるかも知れない。

 雪音は眼鏡を通して、まだ眠気が消えさっていない亮介の目を鋭く見すえる。眼鏡がより冷たい印象を与える女刑事は、静かな声音で亮介への尋問を開始する。

「一体、何があった?」

 問われて、亮介の目の色がはっきりと変わる。あいかわらず隠しごとのできない男だ。雪音はそんなことを思う。探偵には向いていない男だ。

「ん〜……まーそりゃ色々とね、自分の音楽性に限界を感じた。そんなとこかな?」

 意味不明な軽口を叩いて、探偵はごまかそうとする。ただ、雪音と亮介との付き合いはそれなりに長い。そんな軽口でごまかしきれるものでないのは、亮介自身も悟っているはずだ。

 それでも探偵がついついごまかしの言葉を口にしてしまうのは、女刑事の持つ冷たい雰囲気のせいだった。しかし、そのことには雪音は気付いていない。

「ふざけるな」

 冷たく、女刑事は宣告した。その彼女の言葉で、なおも軽口を叩こうとする亮介の口が、その言葉でピタリと止まる。探偵は頬をぽりぽりと掻き、気まずそうな表情になった。

「私が聞きたいのは、そんな抽象的なことではない。具体的な事実を言ってもらいたいのだがな」

 亮介は口をもごもごさせる。雪音の眼鏡には、その様子が言い訳を考えている、情けない男に映った。しかし、言い訳も思いつかなかったのだろう。しばらくもごもごしていた亮介の口は、ゆっくりと動き出した。

「悪いが、どう言ってもいいようにはなりそうにないんでな。黙秘させてくれ」

「……フン」

 すっかり情けなくなった亮介の表情を冷たく見ながら、雪音はあきれたようなため息をつく。

「犯人に接触でもしたのか?」

 ぴくり、と動く亮介の表情。やはり隠しごとのできないヤツだ、と再認識する雪音。

「かばいだてでもしたいのなら、気にすることはない。犯人は所詮『獣人』殺しに過ぎない。人間を殺したほどの罪にはならんよ。そもそも、罪になるかどうかすら……」

「……罪にならない……? 殺しをして、か」

 亮介の表情に、怒りの色が浮かんだのを、雪音は見過ごさなかった。

「そうさ、所詮ヤツらは獣に過ぎない」

 意図して冷笑的に、女刑事は探偵に告げる。

「だったら、彼女が殺されても罪にならないっていうのか!?」

「……彼女?」

 雪音はかすかに片頬を持ち上げ、笑みに似た表情を亮介に見せた。亮介は自分が口走ったことに気付いたのか、再び口をもごもごさせ、情けない表情に戻る。

「……犯人は女、というわけか」

 亮介は慌てて黙るが、その目は「その通りだ」と正直に言っていた。全く、こいつは本当に隠しごとのできない男だ。雪音は亮介に対して完全に呆れていた。

 本当にこいつは、探偵には向いていない。

 しかし、探偵以外で亮介に出来そうな職業も、雪音の頭には浮かばなかった。

――やれやれ、どうやら俺は女には勝てない体質のようだねぇ。

 自分のことを皮肉にそう認識しながら、亮介は雪音に苦笑を向けた。それが、彼女への降伏の意思表示だった。

「ああ、俺は犯人に接触したよ。で、そいつはお前さんの言う通り、女だ」

 あきらめきってすべてを吐き出すつもりになり、亮介は動くままに口を動かす。冷静に考えれば、雪音に話したほうがあの名も知らぬ少女を救うことにつながる可能性はある。

 わずかな希望だが、すでにカードの内は半ばさらしてしまった。このまま、賭けていくしかあるまい。

 冷静になりきれてはいないし、整理しきれてもいないし、きっととても不義理なことをしている。そんな自覚はあった。

 だけど、それでも賭けることを決めて、探偵は言葉を続ける。

「……いや、まだ女じゃないな。『女の子』だ。子供だ」

 黒いセーラー服を着た。そう、彼女はまだ「少女」だった。子供扱いするには少々大人びた少女だという雰囲気はあった。

 いや、だけど彼女は子供なんだ。誰かが守ってやるべきなんだ。そして、ただの探偵に過ぎない俺では、彼女を守れない。だから、仕方ない。

 亮介自身への言い訳が、口から出て来る言葉より多く浮かんだ。

「黒いセーラー服を着た、女の子だったよ」

 そのまま、彼女が獣人の遺伝子を組み込まれていること、そして、彼女が何らかの組織に狙われているという話。少女から聞いた話を、そのまま口から再生した。

「……で、これが俺の知る全部だ」

 言い終えて亮介は、改めて自分の情けなさを思い知った。ろくに調査なんぞしていない。何もできやしないと斜にかまえているだけで、何もしようとはしていないことに、改めて気付いたのだ。

「フム……そうか、彼女に会ったか」

 探偵の語りを聞き終えた雪音の端整な顔には、興味深そうな、そしてどこか懐かしそうな表情が浮かんでいた。そして、何かを知っているような態度を見せてくる。

 だが、雪音は亮介と違い、大人だった。鉄面皮を装うことだって、簡単にできる相手だった。恐らく亮介の興味をひくために、わざと思わせぶりな態度を見せているのだろう。

 亮介だって、そんなことはわかりきっていた。しかし、彼女の思惑通りに動くしか、あの少女を手助けする方法はない、彼はそう感じた。

――あの子は自分のことを忘れろと言ったが、俺はそんなことができる人間じゃない。

――俺ができることは、忘れるなんてこと以外にも、何かあるはずだ。やってみるさ。別の方法で、本当の意味で、俺は彼女を助け出してみせる!

 そう決意すると、雪音の思わせぶりな態度も、考える時間を与えるためのものにも思えた。

――そこまでこいつはお人よしじゃないよな。

 自分の考えの甘さに苦笑を浮かべつつ、亮介は雪音に問いかける。

「雪音、お前はあの女の子のことを、何か知ってんだな?」

「ほう、察しがいいな?」

 皮肉げにそう言ってくる雪音。

――やっぱ、いつもの手に引っかかっただけか。

 苦笑を深めつつも、亮介はさらに問う。引っかかったことが悔しくないと言えば嘘になる。踊らされるのもあまり好きじゃない。もっとも、それしか方法がない以上、踊らされてやるしかなかった。

「なら、知ってることを全部話せ。俺にできることを……よこせ」

「……いいだろう」

 そうして雪音は、あの黒いセーラー服の少女のことを語り始めた。

 少女の名前は「真白(ましろ)」と言った。特殊刑事とは、獣人を狩るために選ばれた、文字通りの特殊な人材である。彼らは主に孤児から引き抜かれて、幼い頃から、強化訓練や、ドーピングなどが施される。

 ただ、獣人どもを殺すために。

 雪音が彼女にはじめて出会ったのは、その特殊刑事の養成所だった。

  当時の雪音は過酷な訓練過程をほとんど終えており、すでに大人と言っても差し支えない年齢だった。だが、はじめて出会った真白は、まだ間違いなく、小さな子供だった。

 養成所のトレーナーである大人のひとり、黒川という男が、真白を訓練所に連れてきた。

 真白が自己紹介した時のことを、雪音はいまだに鮮明に覚えている。

椎名真白です! よろしくお願いします!」

 真白の自己紹介はとても元気で、しかし、どこか無理を感じさせるものでもあった。

 孤児ということ、いきなりこんな場所に連れて来られたこと、などが原因なのだろうか、子供たちは、大抵どこか影を感じさせる挨拶をするものだった。

 しかし、真白はそう言った影を必死に隠して、無理に明るくふるまってみせたように見えた。そういう弱い部分を、必死に覆いかくしているように感じたのだ。

 そして、同じように弱い部分をかかえた他の子供たちに対して、拒絶の意志を示しているようにも、雪音には思えた。

 そう思ったのは間違いではなかったのだろう。元気な自己紹介とは裏腹に、彼女はあまり他の子供たちと関わろうとはしなかった。話しかけられればちゃんと返事はするし、話もする。しかし、一度彼女に話しかけた相手が、2回以上彼女に話しかける姿を、見たことはなかった。

 雪音自身も「仲間」を作ることを拒絶するタイプだった。だから少しだけ、真白に興味を持った。お互い群れることのできない人間だったのだろう、言葉を交わしたことはなかった。

 ただ、雪音は多くの時間を、他の「子供たち」よりも、真白を見ることに裂くようになった。

 真白は訓練では、優秀な成績を見せていた。射撃や、攻撃の緊急回避なども優れていたが、何より優れていたのは、その剣術だった。

 いや、剣「術」というのは正しくはなかったかも知れない。力技で強引に相手をねじ伏せて、一本を取る。

 それが真白の剣の扱い方だった。技術体系とでも言うべきものは、真白の前には無力だった。彼女の剣力の前に「術」や「技」などというものは効果を成さず、破られるのみ。

 彼女は「選ばれた存在」だ。雪音はそんな彼女を見て、そんなことを思った。持って産まれた能力が、他の人間をはるかに上回っている人間というのは、確かに存在する。椎名真白は、きっとそういう存在だったのだろう。

 そう思うようになってからは雪音は、軽い嫉妬と強い好奇心を持って、真白のことをより多く「見る」ようになった。それは憧憬に似た感情だったのかも知れない。今となっては、よくわからないが。

 そして、彼女に憧憬を抱いた人物が、もうひとりいた。それが彼女をつれてきた男、黒川だった。

 黒川は真白に対して、いとおしげな目つきを見せていた。性的な目ではなく、たいせつな宝物を見ているような目だと、雪音は思った。黒川はそのいとおしげな目つきのもとで、真白を鍛えあげていった。

 もともと優れていた技能を高く伸ばし、劣っている技能をおぎなわせて。黒川は真白という材料を使って、完璧なものを作り上げようとしているようだったと、今では思う。

 そして黒川はやがて、真白を連れて訓練施設から失踪した。

「彼女を完璧なものにするのには、ここでは足りない」

 黒川は、そんな意味の手紙を残していったらしい。

「で、黒川は獣人開発の『組織』に身を移したらしい。」

 雪音は話を続けながら、自分自身が思ったよりも真白を見ていたのだな、とふと気付いた。そして見ているだけでなく、話しかけていればあるいは、彼女が今のようになることを防げたかも知れない、と、ほんの少しだけ後悔した。

 だが、それは今ではもう、結局無意味な後悔に過ぎなかった。一条雪音は、そんなものに心をとらわれるような人間ではなかった。

「しかし、真白は最近その『組織』も脱走した、という情報が入った。現状、私が語れるのは、これくらいだな」

「フム――」

 亮介は真剣な目をして、話に聞き入っていた。

「で、それを聞かせて、俺に何をさせたいんだ?」

 当然予測できた問いを、亮介は持ち出してくる。

椎名真白を、もう一度見つけ出してもらいたい。そして、可能ならばこちらで身柄を拘束したい」

「拘束……ねぇ」

 冷たい響きのする単語に、亮介は顔をしかめる。

「……私だって、そんなことはしたくないさ」

「だったらなんでだ。しかも、なんで人にしたくないことを押しつけるんだよ」

「私は、黒川の方を追っている。ヤツを拘束、不可能なら抹消、すなわち殺害するのが、私の任務だ。だから、私自身が真白のために動くわけにはいかん。だが、真白のことも……」

「真白のことも、なんだよ」

 そこで雪音は、くすりと、いつもの皮肉げではない、困ったような笑みを見せた。

「……なんだ、その、助けて欲しいのだ」

 照れたような、戸惑ったような表情を見せて、雪音は言った。亮介は一瞬、雪音の表情を見てきょとんとした。雪音が人に感情を見せることは、珍しいことなのだ。亮介の間の抜けた表情を見て、雪音は少し恥ずかしいような、くすぐったいような気分になった。その雪音の様子を悟ったのか、亮介は笑みを浮かべてこう応じた。

「OK。そういうことなら受けてやるよ」

 亮介の笑みは、見ていて心地が良い。きっと、その笑みに邪気がないからだろう。雪音はふと、そんなことを感じた。

 そして、その無邪気な探偵を利用していることに、女刑事はわずかな罪悪感を覚えた。

 *

「さぁて、今度こそ探偵らしいことをしてみますかっと」

 大きな鏡の前で身だしなみを整えつつ、亮介は自分に言い聞かせた。手のひらで自分の両頬をぴしゃりと叩いて、気合を入れる。何もしないであきらめるなんていうのは、あまりにもかっこよくなかった。

 私立探偵がかっこいい仕事でないことは、充分すぎるくらいわかっている。それでも、もう少しくらいはかっこよくてもバチは当たらないはずだ。

 スゲェカッコイイ探偵がスゲェカッコヨクひとりの女の子を戦場から救い出したというスゲェカッコイイエピソードのひとつくらい、自分の事件簿の中に残しておきたい。そんな願望も亮介にはあった。

 そのためにも、絶対あの少女、真白を助け出してみせる。亮介はそう固く決意した。

 とはいえ、今の亮介には真白がどこにいるのかさっぱりわからなかった。

――まずは聞き込み調査でもしてみるとするか。

 ひとつ決意すると、次の決意も素早くできた。とりあえずは、昨日彼女とはじめて出会った喫茶店へと向かうことにした。ゆっくりしている間に、彼女は獣人に倒されてしまうかも知れない。亮介は自然と駆け足になる。喫茶店にたどり着いた時には、既に息が切れていた。喫茶店のマスターは息を切らした亮介の様子に少し驚いたような表情を見せていたが、探偵の方は気にせず、さっそく聞き込みを開始する。

「昨日見かけた女の子、よくここに来るのかい?」

 彼女の特徴を大方話してみる。黒いセーラー服に長いバッグ。どう見たって目立つ格好だった。よくに来るにせよ、そうでないにせよ、忘れたりはしていないだろうと推測できた。

「いや、あの娘がこの店に来たのは今日がはじめてだね。前に見た覚えはない」

「フム」

 亮介は少し考えてから、ふところから煙草をひと箱取り出す。

「吸うかい?」

 亮介は手品のような早業で煙草の箱の下に一万円札を忍ばせ、マスターのほうに差し出した。マスターは軽くせき払いしてから、亮介答える。

「……タカハシだが、今日はバー『ホワイトカリス』にいるぜ」

 タカハシというのは、亮介がよく利用する情報屋の名だ。なかなか優秀な情報屋だが、居場所のつかみにくい男である。この界隈では名前は結構売れていて、マスターも彼のことは知っていた。幸い、マスターは亮介の出した金の意図を理解し、的確に答えを出してくれたようだ。

「サンキュー。タカハシが役に立ったら、今度一番高くて旨いコーヒーを注文させてもらうよ」

 軽くウインクしてから、亮介はその喫茶店をあとにした。そして亮介は、今度は迷う事なくバー『ホワイトカリス』へと走り出した。

 バーに入って汗を腕でぬぐってから、亮介はすぐにタカハシの姿を見つけることができた。

 タカハシの外見は没個性的で、眼鏡をかけているくらいしか特徴はない。しかし、亮介のような男にとっては、彼は目立つ存在だった。

 修羅場をくぐり抜けてきた雰囲気、とでも言うべきものを、タカハシはかもし出していた。

 亮介はタカハシの隣に座ると、声をかけた。

「一杯奢らせてもらえるか、タカハシ?」

 タカハシは亮介の方にちらと目をやると、にやりと笑って言った。

「まだ生きてたのかい、探偵」

「ああ、幸か不幸か……な。奢らせてくれるか?」

「奢ってもらうのを歓迎しない理由はないな」

 わずかな、なんでもないやりとりの中に、修羅場をくぐり抜けてきた者同士の共感が、そこには漂っていた。

「ふう、この商売は過酷でな、酒が唯一の息抜きだ。特に人の金で飲む酒はいい息抜きになる」

 ウイスキーをちびちびとやりつつ、タカハシは言った。

「喜んでくれて嬉しいぜ。で、そろそろ本題に入っていいか?」

 タカハシはもう一口ウイスキーを含んでから、亮介の方を向いて黙ってうなずいた。

「黒いセーラー服を着て、長いバッグを持った女の子を探してんだが、知らんか?」

「……フーム。心当たりの場所はいくつかある。五万、という所か。素性を教える場合はもっと高くつくが……」

「悪いな、彼女の素性はもうつかんでんだ」

「それは知っているさ、お前さんがあのおっかない雪音嬢ちゃんの依頼で、彼女の旧友を探している、ということはな。ただ、その分実入りが減って残念だと言おうとしただけさ。なにせこの商売、過酷な労働の割には実入りが少ないんでな」

 タカハシは口の端を曲げて、自嘲するような笑みを作った。

「俺たちみたいな、『裏の労働者』ってのは底辺もいいとこだな、全く。時々嫌気が差すこともある。探偵、あんただって自分の仕事がいやになることもあるだろう?」

 挑発的な眼差しを向けて、情報屋は探偵に問いかけた。

「ないね」

 その挑発を、俺はきっぱりと切って落とした。

「俺は好きで探偵をやってんだ。もうけは確かに大したことないさ。でもな、俺は探偵という職業に誇りを持ってるんでね」

「誇り、ねぇ? そんなモン、俺はとっくに情報仕入れるための支出にしちまったよ。で、代わりに情報と、酒と、メシを手に入れた。誇りでメシは食えんぜ」

「かも知れない。でも、誇りを捨てた探偵ってのは、ちょっとかっこわるい。俺の人生にとってかっこよさってのは、かけがえのない友のひとつなのさ」

「ハッ」

 胸を張り、意地を張ってみせる亮介に対して、情報屋はただ短く笑うだけで応えた。 

 「で、そのカッコイイ探偵さんは、情報を買うのか? 買わんのか? まさか金が足りないとか言い出すなよ、それはカッコワルイぜ」

 むっとした表情で、亮介は1万円札を6枚、タカハシへと押しつけた。

「1枚多いぜ?」

「それが、俺のかっこよささ」

「フム、そういうカッコヨサなら歓迎しよう。礼としてもうひとつ教えてやるよ。お前さんは彼女が『組織』を脱走して、だから追われていると思っているんだろう? だがな、彼女はどうやら、まだ『組織』を除名されちゃいないみたいだ」

 情報屋のその言葉を聞いて、俺は目を丸くした。

「だったらなんで。実際彼女は『組織』に追われてるみたいだぜ?」

「さぁな。そこまでは俺も『組織』には踏み込めなかった。なんで身内を狙う必要があるんだか興味はあるが、好奇心で命は落とせんよ」

「フン……自分で推理してやるよ、俺は名探偵だ」

「そうするんだな、名探偵。で、彼女がいると思しき場所だが……」

 戸惑う亮介に向けて、情報屋はいくつかの予測地点を教えていった。

 真白は、追われていた。

獣人2匹が、彼女を捕えるべく迫ってきている。獣人どもも、命令を聞くだけの知性を持ちあわせるようになってきていた。少しずつだが、自分の狩る対象は、人間に近くなってきている。そのことに思いを馳せてしまい、真白の中に耐えがたい不快感が産まれる。

 いずれは、自分は人間そのものさえ殺してしまうのではないか。

 そんな恐怖を、真白は覚えた。

  しかし、むざむざ獣人に殺されてしまうことは、殺してしまう以上の恐怖だった。だから真白は、いつものように裏路地へと走っている。あまり目立ちたくはないし、狭い路地に引きこむことで、2対1の不利をある程度補うこともできる。

 鍛えられた真白の体は、勝手にそんな判断をしてくれる。

 2匹とも裏路地に引き込んだのを察すると、真白は駆ける足を素早く止め、その反動を利用、刀を抜きつつ後ろに方向転換した。

「はぁっ!」

 気合とともに、その小さな体に秘められた膂力を解き放ち、刀を獣人に叩きつける。ただ一撃で、1匹目の獣人の体が真っ二つに裂け、その切れ目から、後ろの様子が少女の目に入る。

 間髪なく、その切れ目の間をぬって、もう1匹の獣人の爪が真白にまっすぐに突きかかる。

 強じんなその突きを、真白は刀で受けとめる。鋼の刀と硬質の爪との激突が産んだ音が、夜闇に響く。真白は体重は軽い。その突きを受けて後ろに吹っ飛ばされてしまう。獣の一撃を受けた腕は痺れる。

 なんとか立って着地する真白の頭上から、獣の爪が風を切る音とともに迫ってくる。腕はまだ痺れている。

 まずい。

 敗北するという予感と、死の恐怖とが、真白の頭を一瞬の内に駆けぬける。

 だが、その一瞬の後、獣人の爪が振り下ろされることはなかった。

 何者かが獣人の腕を、両腕で抱え込んで止めたのだ。

 そのスキに真白の腕の痺れは解け、彼女は刀をかまえなおし、殴るように刃の先端を突き出す。

 ずぶり。

 そんないやな感触とともに、刀は獣人の心臓を正確に貫いた。

 刀を抜き、血を振り払い、鞘に収めてから、やっと獣人は地面に膝を突き、倒れた。そして、倒れた獣人の後ろで、腕を捕らえていた男は大きくためいきをついた。

 男は、ぜぇぜぇと息を荒げていた。

「やれやれ、獣人と力比べってぇのは、ちょっとの間でも一苦労だったぜ……」

 そういうと、男は下を向いたまま、大きく息を吸う。

「でも、それで女の子がひとり助かったんだ、苦労に見合う対価はあった、ってとこかな」

 真白に笑みを見せて、男――確か、松永亮介とか言う探偵――は顔をあげた。その探偵の笑みに対して、真白は憮然とした表情を向け、憮然とした口調で言葉を投げかけた。

「私のことは忘れてくれ、そう言ったはずだよ」

 亮介の表情はわずかに変化し、笑みが苦笑になった。

「そいつぁ、できない相談でね……」

 苦笑も消し、顔も真剣な表情に変えて、探偵は少女に向き合った。

「俺はやっぱり、君を見捨てることはできない。それにな、俺だけじゃない。他にも君を心配してる人がいるんだ」

 その探偵の言葉に、少女は戸惑いの表情を見せた。

「私を、心配? ……誰が?」

「ああ、一条雪音っていうおっかない姉ちゃんさ。覚えてるか? 彼女も君を心配してるんだ。そして、守りたいと思ってる」

「雪音のことは、覚えてる。でも、私は守られたくなんか、ない」

「……悲しいこと言うなよ。そうやって、黒川に狙われ続けて生きていく気か?」

「それが、私の決めたことだから」

 真白はきっぱりと言い放った。その真白の口調には、有無を言わせない気迫があった。その気迫に気圧されたのか、亮介は思わず言葉に詰まる。そして、額に指を当て、少し考えるような仕草をした。やがて、考えがまとまったのか、探偵は顔を上げた。

「確かに、君は誰も巻き込まず、ひとりで戦って行きたいのかも知れない。それは君なりの優しさなのかも知れない。だけど、それはさっきも言ったように、悲しいことだよ。悲しい目にあっている女の子を、見捨てることはできない。それが、俺の決めたことだから。それが名探偵の条件だからな」

 真顔でそんなことを言ってみせる亮介に、真白は思わず微笑みを浮かべた。おかしさ、同情、そしてうれしさ。その3つの感情が入り混じった、複雑な笑みだった。

「君は優しい人なんだね。だけど、探偵には向いていない。優しいままで探偵をやっていると、いつか命を落とす」

「それはない。俺は名探偵だからな。名探偵ってのはタフなもんなんだよ」

 心配するような真白の口調に対して、亮介は強がってみせる。その亮介に、真白は困ったような、怒ったような表情を見せた。

「もう一度だけ、言う。私のことは、もう忘れてくれ」

 そういうとやにわに、少女は刀の柄を亮介ののど元に叩き込んだ。げふ、とのどから変な音を出して、亮介はうずくまる。

 探偵が倒れ、気を失ったのを見届けると、真白は背を向け、闇の中へと歩み出した。

 のどに鈍い痛みを残したまま、亮介は重いまぶたを開いた。立ち上がろうとして、縄が腕に食い込んだ。立ちあがれない。

 わずかにとまどってから、彼は自分が据えつけられた椅子に縛りつけられていることに気づく。自分と椅子以外なにもない、薄暗い殺風景な部屋の中に、亮介は監禁されていた。

――真白にぶっ倒されて、気ぃ失ってる間に、誰かに拉致監禁でもされたか? しかし誰が……?

 探偵は推理すべく頭を働かせようとした。だが、ろくに推理が始まりもしない内に、目の前にあったドアが開き、スーツを伊達に着こなした、小ぎれいな中年男が入ってきた。

 男の口元には、いやみな笑みが張りついていた。亮介が椅子の上でじたばたしている様子を見て、中年男は皮肉げに言った。

「お目覚めかね、ホームズ君」

「フィリップ=マーロウと呼んで欲しいもんだな」

 男の皮肉な口調が気に食わず、亮介はそうやり返した。

「それは失敬、マーロウ君。わたしは黒川というものだ。名前は雪音から聞いているかな?」

「……あんたが!」

 怒りのまなざしを、亮介は黒川に向けた。

「なんで俺をこんなとこに監禁しやがった!? なんで真白の命を狙う!? 真白はまだあんたらの仲間なんだろう!?」

 もがきつつ、亮介は黒川を問い詰めた。

「質問は1つずつにしてもらいたいがね、ま、いいだろう。最初の答えは簡単さ。わたしと真白の邪魔をしないでもらいたい、それだけだよ」

「余計にわからないぜ。あんたの邪魔はしてるが、真白の邪魔なんか――」

「しているのだよ。わたしの目的は、真白を最高の兵器として完成させることだ。そのために獣人どもと戦わせている。そうやって、真白に訓練をほどこしているのだよ。今は真白は、罪悪感を覚えてしまっている。かわいそうじゃないか。だから彼女から罪悪感を取り除き、そして戦士としてもさらに強力にするために、彼女を戦わせているのだよ。そして完璧な戦士となった真白は、私のもとへと戻ってきてくれるに違いない。だから君は、真白の成長の邪魔をしているのだよ。わかったかね?」

 黒川の長広舌に吐き気さえ覚えて、亮介はギリッと奥歯を鳴らし、怒りを示した。

「わかりたくもないね。俺がわかるのは、腕が動けばあんたをぶん殴ってるってことだけさ」

「フン、君は優しいが、愚かな男だな。マーロウ君?」

相変わらずのいやみったらしい口調の直後に、亮介の頭部に衝撃が走った。黒川が亮介を殴りつけたのだ。獣人レベルではないがなかなかのパンチに、亮介の意識はかすんだ。

「次があれば、この程度では済まない。それに、しつこい男は女性にもてんよ? そこでよく頭を冷やすことだね」

 冷たい笑みとともにその言葉を残し、黒川は部屋を立ち去った。亮介は一回だけ舌打ちをしてから、殴られた衝撃で、また気絶した。

 探偵の表情には、黒川への怒りが残っていた。

 特殊刑事のトレーナーなどやっていれば、獣人開発に魅力を覚えてしまうのも当然だ。

 黒川は自分の裏切りを、そうやって正当化していた。

 人を普通の人間から一歩踏み出した存在に変える、という意味では、実際特殊刑事の訓練も獣人の開発も似たようなものではある。ドーピングや人体改造といった、違法すれすれの行為に快感を覚えるような、どこか歪んだ人材でなくては、とても手を出せない職業だ。

 それに、獣人に対抗できる人材を作る、というのが特殊刑事の訓練の目的である以上、獣人開発の知識もある程度身につけておかなくてはならなかった。

 そして、真白という素材に出会ってしまったのが私の不運なのだ。そう黒川は本気で思っていた。

 自分の行いの責任を、まだ少女に過ぎない真白に押しつける。それも、全く無意識にだ。それが黒川という男の汚さだった。

 彼女は特殊刑事として終わってしまうには、あまりにも惜しい才能だ。

 卓越した、選ばれた者こそが持ちうる彼女の身体能力を、特殊刑事という枠の中に押しこんでしまうということは、彼女を見捨てるようなものではないか。

 彼女は、この私が見つけ出したのだ。埋もれる神の体を、この手で掘り出してやらねばならないのだ。

 それは使命感だと黒川本人は思っている。だがそれは所詮、凡夫に過ぎない黒川が、天才的能力を持つ少女と少しでも近い存在になろうとする浅ましい心根でしかなかった。

 ただ、ナルシスティックなマッドサイエンティストたる黒川には、自分の浅ましさを知り、認める能力というものが欠如していた。

 だから誰かが気付いて止めようとしても、黒川を止めることは不可能だっただろう。

 誰も気付かない内に黒川が『組織』と内通を始めたのは、止めようとするだけの正義感を持つ人物の命が助かったという一点において、世界にとって幸福だったかも知れなかった。

 そして今、黒川は一匹の獣人を引き連れ、笑みを浮かべている。

 自分の計画を達する時が、来たことに。

「起きんか! この馬鹿!」

――ああ、雪音は怒鳴り声まで冷たいんだな。

 そんなことを夢とうつつの狭間で思いつつ、亮介は目を再び開いた。腕は、いつの間にか自由になっている。

 そして、自分を起こした黒スーツの女性の姿を見て、亮介は少しだけ驚いた。

「雪音……? なんであんたがこんなとこに。そうだ、黒川のヤツは!?」

 今までの記憶も一気に復帰して、探偵は慌てて立ちあがった。

「私はその黒川の実験施設を探り当てて、ここまで来たのさ。だが、ここはもうもぬけの殻だ。残っていたのはお前だけだった。どうやら、ここはもう廃棄されたようだ」

「で、ついでとはいえ、俺を助けてくれたってわけか。感謝するぜ」

 亮介は雪音にウインクをしてみせた。

「フン、まぁそうなるか」

 そっけない表情で女刑事は言う。そして特殊刑事は真顔に戻り、言葉を続けた。

「そんなことより、ここに残ったデータから、次の獣人の出現地点がわかった。次に出て来るのは最強クラスの獣人のようだ。どうやら黒川は、真白に最終テストをするつもりのようだな。もっとも、我々をおびきよせるための罠かも知れんが……」

「だからって、行かないでいられるかよ! 急ぐぞ! 今度こそ真白を助ける!」

 特殊刑事の言葉をさえぎって、亮介は叫ぶ。その亮介の様子に、雪音はかすかな笑みを浮かべた。

「フ、そう言うと思ったよ。そう言って欲しくて、私はお前を助けたのかもな」

 その雪音の言葉は小さな声で、亮介には聞き取れなかった。

「なんだって?」

「いや、ひとりごとさ。では、お前の言った通り急ぐとしよう」

 そう宣言すると、雪音はもう駆け出していた。

「ちょっ……待ちやがれ!」

 慌てて、亮介は雪音の後を追った。

 雪音が飛ばす車の中で、亮介は少し悩んだ。

 自分のやっていることが、本当に正しいことなのかどうか。

 今まで一度も「普通の生活」を味わったことない真白に「普通の生活」とやらを与えることが、本当に彼女にとって幸福なのかどうか、と。

 だが、亮介はその悩みを、自力で断ち切った。

 真白は今、いつ死ぬかも知れない戦いの中にいる。死んでしまえば、幸福なんてものはありはしない。生きていればこそ、幸せにもなれる。

 今ここで真白を助けることは、残酷でデリカシーに欠けることかも知れない。余計に彼女を苦しめることになってしまうかも知れない。

 しかし、それでもいい。俺は真白に、生きていて欲しい。生き続けて、いつかはわからないが、幸せになって欲しい。

――結局、それは俺の自分勝手に過ぎないかも知れない。

――だけど、俺にできるのは、それだけだ。だったら、それをやるだけさ。

 そう自分の中で決意すると、亮介は、力を込めてぐっと拳を握り締めた。

 真白に埋め込まれたチップが、また反応を示した。獣人が近辺に現れたとき、それを察知させるために、黒川が彼女に埋め込んだチップである。

 獣人がいるなら、殺さなくてはならない。そうでなければ、獣人は無関係の人間を襲うだろう。そんなことは、させたくない。

 自分が傷つくのには耐えられる。だけど、他の人まで傷つくほうが痛い。

 だから――戦うしかない。

 黒川が、その真白の考えを利用していることは明らかだ。真白は結局組織に踊らされている、それだけの存在でしかない。

 でも――

 真白はその反応を頼りに、獣人のもとへと走るしかなかった。

 獣人は路地の隅で、飢えを必死に堪えていた。 獲物が来るまで、隣にいる黒川に「おあずけ」をさせられているのだ。

 ただ、獣人の飢えとは食欲ではない。もっと破壊したい、人を殺したい。そういう欲求だった。

 その欲求が果たされることを、獣人は待ち望んでいた。

 そばに車が通りがかる。ただそれだけで、獣人の忍耐は限界に近づき、低く唸る。その車のドライバーは、何を考えてか、こちらへと車を突っ込ませてきた。

「よし!」

 黒川は獣人の後ろに下がると、そう声を発する。

 今まで抑えつけられていた欲望が開放され、獣人は突っ込んでくる車へと、爪の一撃を叩き込んだ。

「くっ……」

 車の中に衝撃が走り、車のドライバー、雪音はともに軽くうめく。獣人との激突の後は、いくらアクセルを踏み込んでも車はわずかたりとも前には進んでくれない。

「これほどのものか……死ぬ覚悟はしておけよ、亮介」

 獣の力に冷や汗を一筋流しつつ、雪音は助手席の探偵に言う。

「……そんな覚悟できるかよ。俺は……死なない!」

  自分を鼓舞するかのように亮介は叫ぶと、助手席のドアを蹴り開ける。そのまま車の外へ踊り出ると、咆哮をあげて獣人に突っ込む。

 さすがに車相手だ、獣人も動けそうにはない。

 そのスキを狙って懐まで駆け寄ると、人間で言うみぞおちの辺りに、思いっきり拳を叩き込む。

――そう、死ぬわけにはいかない。

 真白が俺を巻き込むのを嫌ったのは、きっと彼女が他人の痛みを自分の痛み以上に感じてしまうから。

 そういう少女だから、俺も彼女を助けたいと思ったんだ。

 だから――死ねるかよ!

 そんな思いを込めて、硬い獣人の胸板へと、探偵は拳を連打する。正拳、裏拳裏拳、肘撃ち、さらにもう一発正拳突き。どれも、効いているかさえわからない。

 でも、やれるだけやらなくちゃいけない。亮介の決意は、彼を激しく突き動かしている。

 やがて獣人は車相手に業を煮やしたのか、もう片方の爪も大きく振りかぶり、雪音の車へと叩き付ける。勢いの乗ったその一撃は風を巻いて、車のボンネットと窓ガラスを、ぐしゃりと打ち砕く。

 割れて降りかかる窓ガラスを避け、雪音も車から外へと飛び出る。彼女は地面に着く前に懐から銃を引き抜き、引き金を引く引く引く。

 3連続で放たれた弾丸が、獣人の腹に突き刺さる。

 が、次の瞬間にはこぼれ落ちる。

 撃ち抜けていない。この分では当然、亮介の攻撃など効いてはいまい。

「ちいッ!」

 かと言って、今の亮介を呼び止めても聞こえはしまい。もし耳に届いても、それが原因でスキを作らせることになれば一大事だ。

 雪音はただ舌打ちひとつして、再びトリガートリガートリガー。同じ部分を狙って3つの弾丸が獣人を貫こうとする。

「グッ……」

 同じ部位への3連打はどうにか通用したのか、獣人はわずかにうめく。それを亮介は見逃さず、その弾の当たった部分を狙い、亮介は渾身の蹴りを繰り出す。硬い感触がつま先に走る。

 しかし、確かにその蹴りはダメージの蓄積した場所を捕らえたようだ。その証拠にに獣人が、わずかにのけぞる。

 倒れてくれ。亮介はそう願った。

 だが、それは甘い願いに過ぎなかった。

 上半身がわずかに傾いだだけで獣人は態勢を立て直し、そのまま爪を、目の前の探偵に向けて振るった。げふ、と亮介の肺から息が漏れる。そのまま、亮介は横の壁に叩き付けられる。

 全身がぶっ壊れるような感触を覚えて、亮介はくず折れた。

 爪が体から離れてから、探偵は地面にうずくまり、赤い液体を吐いて地面を汚す。腹からも同じ赤色の液体――血が染み出している。

「わたし達の邪魔をするからだよ、マーロウ君。自分の血の池で溺れ死にたまえ」

 獣人の後ろから、冷笑的な黒川の声が亮介の耳に、かすかに聞こえた。

 耳までがキィンと鳴って、うまく機能していない。何か言い返したかったが、声さえ出てくれない。

 ただ、苦しい。

「雪音、君は優秀な生徒だった。殺したくはない。わたしたちと組まんかね?」

 返事もできない亮介に興味を失い、黒川は雪音に向けて言う。雪音は手元の拳銃に銃弾を込め直すと、黒川の方に向けた。

「これが答えだ」

 銃弾が黒川へと放たれる。が、その弾丸がが届くことはなかった。届く寸前で、獣人の爪に弾かれたのだ。

「なら残念だが、君も……」

「あなたには、誰も死なせはしない」

 言いかけた黒川の言葉を、さえぎる声があった。

 車の後ろから、黒い人影が飛翔する。その人影は驚くべき跳躍力で砕けた車を飛び越え、獣人の頭上へと刀を振り下ろす。咄嗟に獣人は爪で頭をかばい、刀と爪がぶつかり合って鋭い音が響く。

 人影はその激突の反動を利用して再度跳躍、着地した。

「……真白!」

「ひさしぶり、雪音」

 刀を片手に持ったその人影は、椎名真白だった。

「ごめん……真白……君を……もう、戦わせたくなくて……でも……やられちまって……」

 途切れ途切れになりながらも、真白の前では亮介は言葉を発することができた。

「その傷で喋らないで、探偵さん。あなたは馬鹿だけど、優しさは受け取ったから」

 そう言いつつ、真白は亮介に視線をやる。

「これで、最後にするから……。もう一度だけ、戦わせて」  

亮介はかすかな笑みを浮かべて、うなずく。

「……ははは、これで最後? 真白、君は素晴らしい兵器だ。そいつを倒して、最強の兵器となってわたしの元へ戻ってきてくれるよね? そしてこれからも、わたしのために戦ってくれるよね? それがわたし達の幸せなんだ。我々は普通の人間ではない、普通の幸せなんてありえないんだから!」

 不安げに笑いつつ、黒川は語る。

「五月蝿い!」

 そう叫んで、真白は刀を構え直す。

 それが、彼女の意志表示だった。目の前の獣人を斬り、その後黒川も斬る。そして、戦いを終える。ただ刀を構えるだけの仕草に、真白の意志が込められていた。

 黒川はその彼女の叫びに萎縮し、言葉をなくした。

「や……やれ!」

 おどおどとしながら、かろうじて黒川は獣人へと命令を下す。それより一瞬早く、真白は刀を横薙ぎに振るう。

 刃はしかし風を斬っただけで、獣人は大きくのけぞってその斬撃をかわす。態勢を戻す勢いで、獣人は牙を剥いて真白を頭から食らおうとする。

 だが真白も負けじと振り切った刀を戻す勢いで、刀の柄を獣人の脇腹に叩き込む。獣人が苦悶の咆哮をあげる。

 柄を叩き込まれたのは、雪音が銃弾を3発撃ちこみ、亮介が蹴りを打ち込んだ場所だったから。

 真白はそのまま、咆哮をあげる獣人の口へと、日本刀を突き入れる。ずぶり、と刀は獣人の喉を貫く。

 刀の切っ先が、首の後ろから生えたような状態になる。

 そのまま獣人は膝を着き、絶命した。

「はははははは、素晴らしい……。こいつが一瞬じゃないか! こんなに、強くなっていたとは。それだけの力を持ったお前に殺されるなら、本望だ! はははははははは!」

 狂ったように笑って、黒川は言った。あるいは、本当に狂ったのかも知れなかった。その言葉には虚偽が含まれてはいないように、真白には見えたから。

 だが、真白は獣人の死骸から刀を引き抜くと、刀身についた血を振り払って、鞘に収めてしまう。黒川を見るその瞳は、とても冷たいものだった。

「私は、人間は殺さない」

 そう言い放つと、真白は黒川に背を向けた。黒川の表情が、絶望に覆われる。

次の瞬間、黒川の額に黒い穴が開き、そこから血を噴き出しつつ、黒川は倒れた。黒川の命を奪ったのは、雪音の銃弾だった。

「とはいえ、生かしておく理由もない。黒川、貴様は何も手に入れられずに、終わるんだ」

 雪音は銃をしまうと、そう死体となった黒川に告げた。

 真白は、亮介の方を向いていた。傷の様子を見る。かなりの重傷だが、命は助かる。そう判断できた。

 安心した表情を見せた真白に、亮介は苦痛を堪え、真白にやさしい笑みを浮かべ、手を差し出した。

 この手を取ることで、『平穏』を手に入れられるかも知れない。それは戦いしか知らなかった真白にとって、苦痛となるかも知れない。

 だけど。 

 真白は亮介に笑みを返すと、その手をとった。

 これから始まる、『平穏』のために。

 

―了―