「かっぺの逆襲」にかける思い(そらともも)

福島原発事故のニュースを聞いた時、思った。
地方は差別されていないか。地方は搾取されていないか、と。

東北の農村は貧しかった。農業で食べていけない村から、女が、子どもが売りに出された。
高度経済成長の陰で、多くの東北出身者が上京し、労働力を提供した。
人だけでなく、豊かな自然の恵みによる食材を、一次産品を提供してきた。
減反政策、輸入化で、一次産業は翻弄されながらも、ようやく兼業が出稼ぎではなく、
地元での工場労働に置き換えられたと思ったら、地震津波放射能の被害から、
企業は海外を睨み、移っていく。
地産地消、その地域の自然、そこにある特色を売る、そうして地域から産業を
起こそうとしてきた積み重ねも、 放射能によって一瞬で崩れ去る。
その土地と、自然とともに生きる人々が、生き方そのものを奪われる。

やるせなかった。悲しかった。

わたしは、出身地の東北を出て、いま首都圏で暮らしている。
決して当事者として、怒りの言葉を発せない。むしろ、首都圏で電気を使う者として、責任がある。
でも、東京人とも言い切れない。

そんな曖昧な立場でも、小さな異を唱えずにはいられなかったのは、
わたしもそうだが、311以降に原発の問題について多くの人が知り、動きだした運動の中に、
地方に原発が置かれているその構造は見ないで、反対する問題の立て方に、
違和感をもったからだ。

地方と中央に分断を生むようなことをして何になるのか。
そんな批判も、周りから聞こえてきた。
けれど、ただ中央の訴える脱原発で、卒原発で、原発が止まったとして、
その根底にある、差別の構造もなくなるのだろうか。
原発はもちろん、過疎化した地場産業で成り立たない地域に、あるいは海外に、
札束で叩きながら、廃棄物を押し付けたり、基地を押しつけたりすることはなくなるのだろうか。

地方は、中央の発展のためにあるのではない。
中央の発展の為に、消費され、安全の為に踏みつぶされるモノではない。
地方に押し付けるな。
地方を喰い尽すな。
わたしはここで、小さくとも声をあげ、
地方出身者としての、ささやかな抵抗の試みを東京に残そう。
と、思っていた。

いたけれど、そうやって結集した先で、地方と中央について、
かっぺという立ち位置について考え始めたら、
コンフリクトを起こすより先に、レジスタンスの旗を翻すより先に、
もっと、かっぺのもつ、何かまとまりきれない思いとか、まだ表出できないでいる言葉とか、
そういったものを、語り、考え、つむぎだす場が必要で、
それを始めていくおもしろさに気付いた。
別に反原発だけに囚われない話なのだ。
どんどん年を経ていくごとに、抱える悩み。
年老いていく両親の心配、家業を継ぐことの問題、地元がどういう変貌を遂げていくのか、
自分がどこに根をおろし生きていくのか、
そいういった問題には、当然、地方と中央の関係性がでてくる。

かっぺは、もう、1歩踏み出した。
曖昧な立場のアイデンティティをもちながら、言葉を発し始めた。
「屁のかっぺ!」 そんな、何を訴えたいのか意味がわからない
と言われるだろうデモをやりながら、
いや、ただ、だべり、悩み、他者と自分と向き合うこの場で、
かっぺは、奪われた力を取り戻していく。
かっぺたちが力をつけて、地方で、中央で生きていく。
抵抗が始まっていく。
これが、かっぺの逆襲、なのである。

(そらともも)