Hatena::ブログ(Diary)

Klovharu

2011-02-20

「大人になれよ」

色々と考えることはあっても言葉にならないことが多いのは、ある意味人生の岐路に立っている自覚があるせいかもしれない。それを詳しくここで書くことは避けるけれど、そういうときに必ずあたしの身に降り掛かってくるのは、言うまでもなく「どういう生き方をしていきたいか」という問題であり、その中でsexualityは大きな問題だ。

「Sexualityの問題は自分の中のごく一部のことでしかない」という言葉をSexual Minority当事者の発言としてよく目にするようになった。十年前にはこういう言葉さえ出ないくらいに袋小路に居る人が多かったことを考えると、ずいぶん世の中変わったんだなあと思ったりする。でもこの言葉には色々な角度の見方が含まれている。もちろん言うまでもなく、あたしとてSexualityのことを考えている時間なんて平和であれば少ないし、日常生活の中でいちいち「あたしは同性と暮らしていて、結婚もしないし」とかずっと考えているわけではない。むしろ思い出すのは何か「問題」が起こった時だけだということを考えれば「ごく一部」という言葉には大いにうなずける。もっと言うならレズビアン、ゲイ同士なら必ず友達になれるに違いないと信じて「私の友達にもゲイがいるから」と無邪気に「紹介」してくれる人のおめでたさに呆れる程度にSexuality is Allではない。あたしの現在の交友関係ではゲイ/レズビアンとヘテロセクシャルの率は半々というところで、「それ」以外の共通項がない人とは自然と途切れてゆく。

それでも。

それでも「それ」による苦しさと痛みを知って互いに打ち明け合ったり支え合った友人というのは、だからこそ特別な部分は必ずあって、あたしはそういう特別さを弱者の傷の舐め合いとは決して思わない。だって苦しいし、痛いし、崩れ落ちそうな時にどのくらいその奈落が深いのかを知るのは、やはりこの痛みの出所を知る人には違いないのだ。

アメリカのテレビ局FOXのドラマシリーズ「GLEE」で、合唱部に所属するゲイのキャラクターであるカート(カムアウトしている)が、父親の再婚によって一つ屋根の下に暮らすことになった同じ合唱部の片思いの男子学生フィンに、ひどく非難される。「学校の連中はお前と俺が恋人同士だと思ってる!」それに対してカートは「言いたいやつには言わせとけよ」そして、合唱部での化粧をうまく落とせないフィンを手伝おうと手を出したカートを、フィンは意識しすぎて振り払ってしまう。カートは怒って言い放つ。

「大人になれよ!」

この言葉は実はあたしには衝撃的だった。「ごめん」とか「僕がゲイだからって嫌な思いさせて悪かった」ではなく、ゲイの自分に対して自意識過剰に振る舞う男の子(自分が片思いしている相手!)に対してひとこと、「大人になれ」。これは、絶対的に自分に自信を持っていないと出る言葉ではない。でもこの言葉の背景に、あたしは衝撃を受けたのだ。

カートは自分に自信をたっぷり持っているタイプではない。元々クローゼット(ゲイであることを隠している)のゲイで、周りはみな彼がゲイだということに気付いていて(彼のお父さんでさえ)、学校でもずっと虐められっこの立場に甘んじていた。合唱部に入ってからも自信が持てずにじくじくとして、父親の理想の息子(キャッチボールしたりするような)になれない自分を申し訳なく思って、新しく息子になるであろうフィンに対してもコンプレックスを抱いている。そんな彼が片思いの相手に対して「大人になれ」と言える背景はつまり、アメリカという国の社会が同性愛に対してそういう認識を持ち始めているということなのだ。ゲイがみな全ての同性を恋愛相手として見て隙あらば裸を見たいと思っていたり、あるいはゲイと仲良くする男はゲイだという十把一絡げの認識に対して「否」という姿勢を貫くのが正しいというところまでSexual Orientationへの認識が進んでいるということなのだ。

あたしが正月に母のところで過ごしたとき、期せずしてあたしの性的指向性の話になり、あたしは突然ボロボロに崩れた。それは母があたしが十年以上「あたしのパートナーは女性であり、その女性を心から大事に思っている。あなたが父を大事に思っていたように」と説明してきたにも関わらず、全く理解していないことを言い始めたからだ。彼女は言う。

「なぜあなたはこちらに帰ってきて住まないの?」

「あなたとNちゃんは結婚できないでしょ。結婚できなければ、何かあなたたちの間で不都合が起きたとき、別れることになったとき、何の保障もないじゃないの」

あたしは言う。

「お母さんの言う通りだよ。だからこそ、あたしらには似た境遇の友達がとてもとても大事なの。東京は地方に比べればずっとあたしたちみたいなカップルと出会える機会が多くて、孤独にもなりにくい。もし地方に行ったらあたしらの孤独はずっと今より大きくなる」

実際には地方で同性同士のカップルのコミュニティを努力して築いている人たちもいる。だからこそネットが大きな力になり、そのネットに寄って得た心強い友人は多い。もうすぐ十一年になる恋人と知り合ったのもネットがきっかけだ。あたしはやはり、地域格差は大きいと感じるし、血の繋がりを広げられない同性同士のカップルにとって、似た悩みを抱えた友人はとてつもなく強い心の支えになってくれると思う。この言葉によって、初めて母にはあたしの感じていた窮屈さが少しだけ通じたようで、しばらく黙ってからこういった。

「そう。そんなふうに考えたことは全くなかったよ」

「社会が悪い」とばかり言うつもりはない。あたしも間違いなくこの日本の社会の一員で、あたしが行動した結果の一つが今の社会の同性愛や性的少数者への認識の低さだとしたら、もう情けない気持ちでいっぱいになるけれど、それが現実で、目を逸らしても仕方が無い。あたしはあたしなりにこうして家族や友人たちに自分たちの立場と苦しさ、あるいは楽しさを伝えながら小さな努力を重ねるしかない。そうして続けるいっぽうで、自分の市町村の首長が同性愛者を侮辱する街で、それでも笑って生きて行くしか無いのだ。なんという屈辱。自ら「声を上げる」しかないことは知っていつつ、例えばGLEEのカートが言ったたった一言の台詞「大人になれよ」という言葉に大きくうなずいてくれるような社会に、どれほど今のあたしが憧れることか。その憧れの強さを、言い訳や弱さと言うなら、あたしはもう俯くしかない。

顔のない「社会」に対して、でもその社会の中であたしは生き方の方向性を探っていかなければならない。はっきり言おう。Sexualityはハンディだ。でも、それは乗り越える価値がある。というより、あたしがあたしである以上、乗り越えるしか道はないけれど、そんな試練は最初から無い方がいいに決まっている。弱さや脆さを否定してどうなる。あたしは弱くて脆くてすぐ崩れるし、ダメダメで、そんなあたしは一人で立てないから、社会にだって支えて欲しいのだ。その権利はある、と思っている。おそらく誰にでも。

2011-01-27

おとなしく。

最近はtwitterであてどなく呟いていることが多く、ネット初期にはメール友達と自分で「大河メール」と呼ぶほど長いメールの応酬をしていたのが、最近はメール自体のやりとりもほとんど無くなった。呟きで事足りてしまうのだが、これはこれで寂しくもある。

そんな中、頂いたメールで、あたしのことを称して下さった言葉。とても大きな力を吹きこんでくれた言葉をご本人の許諾無くここに記す。仮にその方をMさんと呼ぶ。

-----------------------------------------

おとなしくは収まらないだろうと思ってたけど、べつにおとなしく収まるのが幸せな人生じゃない

-----------------------------------------

読んで、ああ本当にそうだった、と、二十代終わりからの自分を振り返る。そうだよね。おとなしく収まるような人生じゃなくて、それをあたし自身選びとって来たんだった。三十代の入口でやりとりしたMさんはそういうあたしを感じてらした、というのが素直に嬉しかった。

会ったこともなく、けれどじわじわと滲み通るように何かが通じる相手というのがネットの海にはごく稀にいて、Mさんはあたしから見て、まさにそういう方だった。あたしは四十路を過ぎた大きなスタートにあたって、彼女にどうしても知って欲しくて一方的にサイトからメールを送ったのだった。むろんその、相手のにじみ出るものを知らず掬いあげるような能力はご自身に備わった性質であり、あるいは大きな仕事を成し遂げておられる彼女の会得した力であり、ネットの隅っこのあたしに対してだけでないのは承知の上だけれど、十何年前かのあたしに力を付けて下さったのと同じ強さで、今のあたしにパワーを投げて頂いた(と勝手に思っている)。

Mさんがその当時教えて下さった一つに、須賀敦子、がある。須賀敦子は30代のあたしのエポックメイキングな出会いとなり、この十年のあたしを形作った作家の一人。今ふたたび、須賀敦子の記した「ユルスナールの靴」を手に取って、あたしは四十代というこの新しい道を歩き始めようと思う。

おとなしく収まるのが幸せな人生じゃない

そうですよね、Mさん。あたしはこうして歩いてきて、こうして歩いていくのだな。振り返りながら、次の出会いに向かう。

2010-12-06

転換。

色々なことがあって、色々なことを乗り越えて、乗り越えさせてもらって今がある。

様々考え、あたしなりに悩んで検討した結果、あることをスタートさせた。もう何年もくすぶって悩んでいたことでもあるのが、ひとつのネガティブなきっかけを経て、背中を押された。とてもポジティブな決意のつもりなのに、最終的に背中を押されたのはネガティブなきっかけだというのは、おかしなことだけれど、きっとあたしには必要な最後のひと押しだったのだと思う。

未だゆめまぼろし状態の決意であるため、Nはじめごく少ない人たちにしか明かしていないのであるが、絞り込んで絞り込んで、これだけはというものを残した結果の決意なので、グラグラに迷い続けたこの十年ほどをうっちゃって飛び出すつもりである。

まずは自分、そして身近な場所で少し苦しかったり、かなり居心地悪かったりする人たちが心地よい、楽しい時間空間を持てるように。努力したい人たちが頑張れる環境を作れるように。願っての一歩、である。頑張るよ。

2010-11-26

カムアウトとは、sexの話である。

sexualityについて、あたしは自分の内面からにじみ出てくるものだと感じている。自分の中にあるものだから、自分の外側に対して特にそれを求めたつきあいを欲しがることは少ないのだが、困ったことに「そのこと」に対する葛藤を強く意識したことがない人とのつきあいは、「そのこと」を押し殺す羽目になるケースが往々にして起こる。それがいわゆるクローゼットな状態。あまり強くsexualityを意識していなかった分、他者に引かれた線はものすごくくっきりと見えて、それが辛い。当人はまったく線を引いたつもりがないゆえに、なおのこと辛い。

「なぜわざわざ同性愛者だとか周りに言う必要があるの?」とカムアウトをやんわり拒否されたとき。そういう善良な人たちの理屈は、

「同性愛も異性愛も同じ愛なんでしょ。わざわざ「同性愛者です」なんて言う必要ないじゃない?」

でもその人は世の中に自分以外の考えの人、自分のようにリベラルな考えでない人たちがいることを知らない!

あたしは何も好き好んで「あたしの恋人は女性です」なんてプライバシーを個人的に親しくない人に言うわけではない。それはつまり、「あたしは同性とセックスしてます」「あたしはあなたが夜寝室で奥さんとするようなことをこの人としています」と告白しているようなもので、当然居心地悪い。よく「同性愛は生き方そのものであってセックスだけのことではない」というのは紛れもない事実だし、「すぐAVもどきの想像をされるのにうんざり」するのは経験済みだけれど、カムアウトに限っては事情が異なる。何故言いづらいか、それは性生活が含まれていることを自分自身が重々承知しているからだ。というか、それがカムアウトの全てだから言いづらいし、聴く方も(センシティブな人だと)まるで目の前で裸になられたように、セクハラでも受けたように、不愉快な気分になったりする。では何故「わざわざ」そんなことを言わねばならないのか。つまり、世の中が「誰とセックスするか」を重視しているからに他ならない。

「ひとさまのセックスには興味が無い」と言う御口の綺麗な人こそ、耳元で言いたい。本当にそうだろうか。例えば結婚や出産を至上の幸福のように語り始めるあなた。あなたはそれが人として最高の幸せだと思っている。それが自然なことだと。それはセックスなんてものではなく、生活だと。愛だと。人生だと。云々。そのあなたの前で、あたしが「あたしの人生のパートナーは女性です」と告白すると、あなたは動揺する。あたしの告白は、「あたしは、あたしと、あるいはあなたと同じような肉体の構造をもった女性とセックスをします」と聴こえ、まさにあなたにとっての「自然」を揺るがす「不自然」に他ならない。あなたは「結婚」や「出産」を語ることによってあなたのセックスも語っているのだということに気付いていない。あなたが「出産」を素晴らしいと語るとき、周囲のほとんどは目を細めて同意したり、あるいは眉をひそめてうるさいなあと反応したり、ぴくりとも動じなかったり。でも概ねそこに流れる空気はあなたを優しく包んでいるはずだ。それはその場を構成する大多数があなたのセックスを「自然」と受け入れているからだ。けれどあたしが誰かにカムアウトするとき、その空気はぴりりと張りつめ、あるいは異常な興奮を持って受け止められる。あたしのセックスは、肯定にしろ否定にしろたいていの場の大多数によって「不自然」と受け止められるからだ。

「あたしは結婚していることも、離婚していることも、子供がいることも、子供がいないことも、わざわざ人には言わないわ」というあなた。リベラルなあなた。個人主義のあなた。制度なんて面倒くさいと思っているあなた。そんなあなたにでも、あたしがカムアウトせねばならない理由がある。

「あたしは結婚するしないを選ぶ自由が欲しいし、子供も持つ持たないを悩みたいし、人に幸せだと、不幸だと、あなた以外の世の中の全ての人に対して気兼ねなく言う言わないを選ぶ自由が、自由が、欲しい。言わないことによって、居ないことにされている現実を知って欲しい」

当たり前にこの社会を、あなたのその立場を利用し謳歌していることに気付かず相手の口だけを塞ごうとするあなたにこそ、そう言いたい。

言う自由を、ください。いつか将来、言わない自由さえも手に入れられるように。

2010-11-21

彼女の螺旋。

おそらくあたしにとっては気になる数々のことども、彼女にとってはどうでもいい数々のことども。あたしが忘れてしまったあれこれ。彼女がこだわっているあれこれ。「こだわっていない」と言い切れるのが彼女の強さなら、その拘りを引き摺ったまま山を乗り越えるのがあたしの強さ。強さ弱さの種類や人によって千差万別で、どれがより強いなんて評価できるものではない。ただ、違う。

あたしが長い年月つきあった最初の恋人であった彼女は、同時にあたしに「人と人がこんなにも違う」ことを教えてくれた人間でもある。間違いなく情熱を抱き思い合っていると信じられた当時、頻繁に起こった衝突に膿み果てながらも、いつまでもその情熱を抱き続けられると疑わなかったあたしに対して、疲れてしまった彼女。その彼女は夕べ店で会う知り合いごとに大きな声で「あたしが十年前につきあっていたひとで」と紹介していて、繰り返すうちにあたしはおかしくなって、最後には噴き出して笑ってしまっていた。「今はパートナーがいて、友達で」

彼女はこんなふうに言葉にして形にしてちゃんと彼女の身近な人たちの中に浸透させることで、今のあたしとの関係の位置を探って決めていっているのかもしれない。あたしがつい笑った紹介の繰り返しは、彼女なりの周囲への礼儀であったり、あるいはあたしへの思いやりであったり、または彼女自身の納得であったり、単なる事実の容認であったり。そうして螺旋を描きながら紹介言葉はあたしたちの関係を巻き込んでふいっとこの店の空気へとしみ込んでゆくのか。

店を出て、珍しく酔っぱらったあたしを彼女が腕をかけて支えながら歩くうちに、二人腕を組んで歩き始めた。

「なんか懐かしいね」

思わず言葉に出たあたしに、彼女も笑って

「いやあ、ほんとに」

流れた時間に二人で笑いながら、腕をしっかり組んだまますごいスピードでBYGSビルの横を通り抜けていった。

暖かい夜だった。