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ラディカルな経済学(旧館) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2010-05-26

リバタリアニズムは弱肉強食か

市場經濟の下では力のあるものだけが豐かになり、力のないものは貧しさを強いられる。市場經濟を信奉するリバタリアニズムは弱肉強食の無慈悲な思想だ――。これもよくある根據なき批判だ。

弱肉強食の世界では力こそ正義であつて、もめ事は暴力で解決する。だが市場經濟では暴力の支配は通用しない。私有財産制が暴力の行使を物理的に防ぐ役割を果たしてゐるからだ。物理的・社會的にどれだけ力のある者も、他人の家に勝手に押し入ることは法的に許されない。

ヒューマン・アクション―人間行為の経済学

力がすべての社會では、強者は弱者の財産を有無を言はさず奪ふことができる。一方、市場經濟の下では、野蠻な社會で暴君になつてゐたかもしれない人間も、他人を滿足させなければ生活の糧すら得ることができない。ミーゼスの言葉を借りれば、他人の成功が「自分の成功を達成するための手段」(村田稔雄譯『ヒューマン・アクション』 191頁)となる。

市場經濟は動物の社會と同じく「適者生存」の論理に支配されてゐると非難されることもある。さうかもしれない。だが問題は「適者」の意味だ。力が正義の社會では腕節の強い者が「適者」として生き殘るが、市場經濟では他人に奉仕する者が「適者」として評價される。マイクロソフトやマクドナルドが世界的大企業に成長したのは、少數の特權階級でなく、多數の大衆に奉仕し、滿足を與へたからだ。

市場經濟の下では、能力の優れた者も劣る者も、自分なりに得意とする仕事を引き受けることで、社會全體の效率を高めることができる。その結果、社會は物質的に豐かになり、弱者を助ける餘裕が生まれる。市場經濟が未發達な社會では命すら保てなかつただらう病人、老人、子供も生きてゆけるやうになる。市場經濟の發展とともに各國の人口が急増した事實は、市場經濟が弱者を切り捨てるどころか、弱者が生きやすい社會をつくることを雄辯に物語る。

むしろ弱者を守るためと稱して市場經濟を規制する政府こそ、弱者が生きにくい状況を生み出す。醫療の質を高めると稱して醫師數の供給を絞つたために醫師が足りなくなり、病院をたらい囘しにされて妊婦が死ぬ。勞働條件を改善するためと稱して最低賃金制や解雇規制を敷いた結果、企業が採用に愼重になり、失業者があふれる。

市場經濟は弱肉強食のジャングルではない。力の支配を否定し、弱者を助ける。政府の強制的な介入こそ市民社會の秩序を破壞し、野蠻状態に引き戻す。

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野嵜野嵜 2010/05/27 03:11 細かい所で爭ふ氣力がないのですが――

>市場經濟の發展とともに各國の人口が急増した

ヨーロッパではルネサンス以來の科學の進歩、就中、産業革命が大きな意味を持つてゐます。近代の市場經濟はその延長上で成立したものです。

また、ヨーロッパの場合、氣候が良くなつた事も人口が増えた大きな要因です。ペストが流行した中世もさうですが、近代に至つても結構長い期間、寒かつたらしい、と云ふ研究があります。これは全世界的にさうだつたらしく、日本でも江戸時代に飢饉が頻發してゐますが、「スケートをする人々のいる冬景色」のやうな繪畫にも見られるやうにヨーロッパでも――と言ふか全世界的に十七世紀邊は氣候が寒冷であつたのだとか。それがあたたかくなつた事で人口も増加するやうになつたと。

野嵜野嵜 2010/05/27 03:15 先日もアイスランドの火山の噴火でヨーロッパ方面は混亂が起きましたが、氣象やら何やらと言つた要因でも世の中動くものです。
となると、經濟理論もさうさう簡單には適用出來ないのであり、一概に「正義である」と主張する事も出來ません。

現状に對應する政策の決定の爲の理論として、何が良いか、といつた議論はあり得ますし、そこで或理論が「過去のもの」であるとされる事もあり得ます。けれども、或理論が現實に適用されれば、例外なしに、必ず或状況が出來する、とまでは言へないので、どの理論も「相對的に正しい理論」の域に留まります。

經濟學や社會學、或は政治の議論でこの邊の認識が意外な程缺けてゐるのが、私には不思議に思はれます。

KnightLibertyKnightLiberty 2010/05/27 08:13 明け方までご苦勞樣です。

>ヨーロッパではルネサンス以來の科學の進歩、就中、産業革命が大きな意味を持つてゐ
>ます。近代の市場經濟はその延長上で成立したものです。

それは因果關係が逆です。市場經濟の土臺が整つてゐたから、科學の進歩が産業革命に結實したのです。

>ヨーロッパの場合、氣候が良くなつた事も人口が増えた大きな要因です。

それはさうかもしれませんが、氣候が人口増加の主因だとすると、氣候が良い國ではすべて人口が増加しないといけないはずですが、そんな事實はありません。主因以外の話を持ち出すのは議論を混亂させるだけです。

>或理論が現實に適用されれば、例外なしに、必ず或状況が出來する、とまでは言へない
>ので、どの理論も「相對的に正しい理論」の域に留まります。

それはたんなる場當たり主義で、そもそも「理論」とは呼べません。經濟學は科學なのですから、普遍的・絶對的な理論の構築を目指すのは當然です。まあ現在の主流派經濟學が科學だとはとても言へませんが。

野嵜野嵜 2010/05/28 00:52 理論としては理想的な環境での因果關係だけを論じてゐればよろしいでせうが、現實に適用する段階では「主因」以外の條件が出來する事も考慮に入れておく必要があると思ひます。

木村さんは今、現實の社會にリバタリアニズムを適用せよと主張されてゐるので、さうなると、決してリバタリアニズムの理論だけで巧く行くわけでもなからうと、さう云ふ指摘は可能であると思ひます。そして、理論の話でなく、現實への適用の話である限り、木村さんはさうさうリバタリアニズムの絶對的な效能なんてものを説く事は出來ません。

が、それなら、そこまで居丈高な態度をとり、リバタリアニズムで他の理論をばつさばつさと斬り捲るのは、をかしいです。

野嵜野嵜 2010/05/28 00:54 >>ヨーロッパではルネサンス以來の科學の進歩、就中、産業革命が大きな意味を持つてゐます。近代の市場經濟はその延長上で成立したものです。
>
>それは因果關係が逆です。市場經濟の土臺が整つてゐたから、科學の進歩が産業革命に結實したのです。

「近代の市場經濟」が出現した背景には産業革命があります。もちろん、産業革命が出現した背景には「市場經濟の土臺」が整つてゐたと云ふ事もあるでせう。
けれども、「近代の市場經濟」と「市場經濟の土臺」とは、別物です。

KnightLibertyKnightLiberty 2010/05/28 10:04 近代以前の市場經濟の土臺が産業革命を可能にし、それによつてさらに發展した市場經濟が近代以降の物質的繁榮を導いたわけです。市場經濟の優位は二十世紀の資本主義國と社會主義國の例でも明らかです。

KnightLibertyKnightLiberty 2010/05/28 10:33 >が、それなら、そこまで居丈高な態度をとり、リバタリアニズムで他の理論を
>ばつさばつさと斬り捲るのは、をかしいです。

好印象を與へるためにもう少しソフト路線で行きますか。でも無政府資本主義はともかく、夜警國家的なリバタリアニズムなんて、ほんの百年前まで普通の考へ方だつたのですよ。先進國はみんな金本位制(政府の刷ることのできるカネの量に上限をはめる制度)でしたし、慈善は民間の仕事でした。福祉國家なんて考へ方の方が異常だつたのです。野嵜さんは「穩當に、穩當に」と仰いますが、もしわれわれが百年前に生きてゐて、私が福祉國家論を唱へて金本位制を廢止しろと言つたら(ケインズはそれをやつたわけですが)、やはり「穩當に、穩當に」と私を諭されたのでせう。私は客觀的な判斷基準なくして、中庸なんてあり得ないと思つてゐます。

まあ好きなやうにやります。

塗炭塗炭 2010/05/28 22:14 「居丈高な態度」といふのは普通に読んでリバタリアニズムが絶対の正義と考えてゐる態度を指すのでせう。思想それ自体、何を信じやうと自由なので好きなやうにやれば良いけれども、その思想が絶対であると考へてゐるならば、極めて傲慢かつ危険な事であるやうに思はれます。

そもそも現実の政治判断、経済判断に「客觀的な判斷基準」を設定可能でせうか。特定の情況、事象(市場の動向など)に於いて設定可能なだけで、固定された「判斷基準」は無い。むしろ固定されるべきではありません。といふより木村さんは「客觀的な判斷基準」である當用漢字などに反対されてゐた筈です。大事なのは現実の判断基準ではなく理念や原理原則。これを認識する事で現実には中庸の態度が採れるのだと思ひます。

私は自由主義経済の理念的な考へ方を支持する立場だけれども統制経済の考へ方も否定しません。ケインズがマル経ではなく近経の経済学者に分類されるのは、自由主義経済の理念に従いつつ現実の情況に合はせて「福祉國家」を考えたからではないでせうか。それぐらいの適当さは認めて良い。

KnightLibertyKnightLiberty 2010/05/31 08:09 統制經濟も惡くない、と言へるかどうかは、統制經濟がうまく機能したことがあつたことを實證的に示す必要がありますが、さうした事實はなかつたと私は理解してゐます。福祉國家についても同樣です。福祉國家の破綻はこれまでも指摘されてきましたが、誰の目にも明らかになりつつあるのが現在のヨーロッパの状況だと思ひます。

塗炭塗炭 2010/05/31 22:29 統制経済の考へ方(体制としては福祉国家など)が良いか悪いかに就いては一概に言へません。一応リソースを挙げて措きます。→ http://www.eva.hi-ho.ne.jp/nishikawasan/an1/marukei.htm

現在の通称西側諸國でも完全に資本主義といふのは採り得ない訣で、理念的に資本主義の立場を採りつつ、現実的には社会主義の考え方も一部採用するといふのが通常ではないでせうか。一部か何うか、機能してゐるか何うかは程度の差なのでいろいろあるでせう。また情況に依り変はるでせう。しかし理念として資本主義に従つてゐる限り資本主義國であると見做し得る。実証せよと仰るならヨーロッパをありのままに見て下さいと申し上げておきます。

ところでアナルコキャピタリズム(無政府資本主義)は引込められてリバタリアニズム一本で行く事にされたのでせうか。経済活動に於いて自由を可能な限り認めよといふ主張には私も同意してゐるのですが、自由を完全に認めよという主張には疑問があります。

KnightLibertyKnightLiberty 2010/05/31 23:09 橘木教授の記事、まさに私がこのブログで反駁しようと思ふ典型的な主張の一つです。

>実証せよと仰るならヨーロッパをありのままに見て下さいと申し上げておきます。

經濟的破綻、これがヨーロッパの福祉國家が現在向かひつつある現實です。

>ところでアナルコキャピタリズム(無政府資本主義)は引込められてリバタリアニズム一本で行く事にされたのでせうか。

いや別に引つ込めてゐませんよ。あんまり公言するとますます變人扱ひされるので、あへて言はないだけで……。しかし無政府まで行かない最小政府でも、たいへんな改善だと思ひます。税金1圓でも無政府とは呼べませんが、そんなことにこだはつても仕方ありません。

野嵜野嵜 2010/06/12 19:00 >だが市場經濟では暴力の支配は通用しない。私有財産制が暴力の行使を物理的に防ぐ役割を果たしてゐるからだ。物理的・社會的にどれだけ力のある者も、他人の家に勝手に押し入ることは法的に許されない。

最後には國家權力の介入が要請されるのですが、斯う云ふリバタリアニズムの主張を見ると、隨分氣樂だなあと思ふ。

「税金は個人からの私有財産の收奪である」と言ふのなら、その私有財産の收奪の結果として成立つてゐる國家權力が力をふるふ爲に存在する法を利用する事は、矛盾でないですか。

リバタリアニズムは、國家の防衞の爲の軍隊や治安維持の爲の警察の存在は認めるでせうが、その存在を維持する爲に、費用はどのやうにして誰が負擔するのですか。それが税金と云ふ形をとるのは、許されるのですか、許されないのですか。「軍隊や警察を必要とする人は御金を拂へば良い」と言ふのなら、ならば「軍隊や警察の庇護を受ける爲には、積極的な意思の表明が必要である」と云ふ事になります。が、それなら、意思の表明が不可能な子供等は、庇護されない事になります。それも何とか解釋で「庇護される」やうにするのがリバタリアニズムなのかも知れませんが、其處まで行くと最う、リバタリアニズムなんて考へ方をしない方が、すつきり説明できますよ。

野嵜野嵜 2010/06/12 19:11 と言ふか、無政府主義は認められないが、税金なしで成立つ何らかの形の政府の庇護の下でリバタリアニズムはそこそこ成立する、と木村さんは言つてゐるのですが、リバタリアニズムを徹底させ、無政府主義を徹底させて、考へなければ、木村さんの思想的な立場からは意味がないのではないですか。まあ、さう云ふ曖昧な考へ方では、矛盾が何うしても殘るし、「我々」としても納得のしやうもありませんが。

と言ふか、政府の介入を、木村さんは、或ところまでは積極的に認め(物理的・社會的にどれだけ力のある者も、他人の家に勝手に押し入ることは法的に許されない。)、或ところからは徹底的に排除します(政府の強制的な介入こそ市民社會の秩序を破壞し、野蠻状態に引き戻す。)。

その見極めは、誰がどのやうな基準に基いてするのですか。基準は時代や世間の情勢によつて變動するかも知れませんが、基準の變動を見極めて、變更を行ふのは、どのやうな方式に據るのですか。その方式を實施する費用は、どのやうにして調達するのですか。

と言ふか、無政府主義に至るのならば、法的な庇護は一切無いわけで、私的所有も法によつては守られないのであつて、自分の實力で守らざるを得なくなり、弱肉強食の・文明以前の状況が出來する事になると思ひます。

そもそも、リバタリアニズム自體が、無秩序な社會では成立ち得ない思想で、何らかの秩序が維持されてゐる社會でのみ可能な思想だと思ひます。全ての人が互ひに「自己所有」や「自由」の理想的な觀念を抱き、理想的な行動を取つてゐる社會でのみ、リバタリアニズムは成立し得ます。が、實際の社會では、帝國主義もあればナチズムもある、自由主義もある、社會主義もある――他人の私有財産を收奪してでも自分の財産を増やさうと考へる人もゐる。さう云ふ「危險思想」を持つた人がゐる社會で、政府なり何なりの國家權力の重石がない場合、リバタリアニズムが成立つか何うか。現實的に考へたら、リバタリアニズムは理想的な状況でなければ成立ち得ません。

エロゲの高橋氏の、理想的な餘りに理想的な「自由主義」を私は疑つて、氏と隨分やりあつたのですが、話が通じませんでした。今、木村さんには話が通じてゐません。

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