「デフレは惡い」のウソ(2)

高橋洋一氏は『日本経済のウソ』第2章で、歴史的なデフレ局面を取り上げ、名目經濟成長率がプラスなら「良いデフレ」、マイナスなら「悪いデフレ」と評價してゐる。名目成長率がプラスなら肯定的に評價するといふ前提にも同意しかねるが、それより問題なのは、デフレ局面前後に何が起こつたかについてほとんど觸れてをらず、歴史を見る視野が非常に狹いことだ。以下、批判的に補足してみる。

1837-1843年

高橋氏によれば、この期間は先進國で總じて名目成長率がマイナスであつたので「惡いデフレ」といふ。たとへば獨立してまだ半世紀だつたアメリカでは物價が5.6%下落した。しかしそれに先立つ1834年4月から1837年2月までの3年足らずで、ニコラス・ビドル總裁率ゐる第二合衆國銀行による通貨供給量の膨脹を背景に、物價は52%も上昇してゐる點を考慮しなければならない。このバブルの時代、アメリカの多くの州は借金で無駄な公共工事に乘り出し、後にそれが原因で債務不履行に陷つてゐる。

中央銀行による無制限のマネー供給が經濟を破壞することを理解してゐたアンドリュー・ジャクソン大統領は、ビドル總裁と「銀行戰爭」(Bank War)と呼ばれる激しい爭ひを繰り廣げた末、1836年、第二合衆國銀行を廢止に追ひ込んだ。翌1837年、バブルの反動でアメリカは不況に陷る。銀行倒産も相次ぎ、大恐慌以前で最も深刻な不況だつたとされる。

だが同年、ジャクソンの後を繼いで就任したマーティン・ヴァン・ビューレン大統領は、マネーの注入で人爲的に物價下落を止めたりせず、民間の經濟活動に介入しない姿勢に徹した。血税を投じた景氣對策に乘り出すのではなく、無駄な出費を切りつめた。任期中、聯邦政府の總支出を3090億ドル(1836年)から2430億ドル(1840年)まで、率にして21%も減らしてゐる。自由貿易を促すため關税を引き下げ、州政府の甘い判斷が招いた財政危機にも嚴しい態度で臨み、救濟を拒否した。

經濟史家ピーター・テミンによると、恐慌の翌年、1838年から景氣は早くも上向いた。しかも實質消費は1839年から1843年までに21%増え、實質國民總生産は16%増加するといふ力強い恢復だつた。政府によつて物の價格や賃金が人爲的につり上げられた大恐慌時と異なり、物價が柔軟に下落したため、生産活動や生活水準への惡影響がなかつたのだらうとテミンは示唆してゐる。デフレを止めなかつたことが經濟を救つたのだ。

1873-1896年

この時期、名目成長率が微増だつたので「良いデフレ」とは言へず「微妙なデフレ」だと高橋氏。しかしこの時期は「金メッキ時代」(The Gilded Age)と揶揄されることもあるが、アメリカ史上、經濟が最も發展した時代の一つだ。この時代の經濟が「微妙」だと言ふのなら、アメリカに良い時代は果たしてあつたのかと思ひたくなる。高橋氏は「実質所得が落ちたと感じた債務者、農家などの実質収が減った人々には激しい不満があり、しばしば破壊的な政治的騒動にもなりました」と指摘する。それはさうだが、農家(借金で土地を贖入したため債務者でもあつた)が不滿を募らせたのは、アメリカの農業の生産性が高まり、ヨーロッパの豐作も重なつて、農作物價格が下落したためだ。

この時代、インフレを望む農民に強く支持され頭角を現した政治家は、農業州ネブラスカ出身で、銀貨の無制限鑄造を唱へた民主黨の大統領候補、ウィリアム・ジェニングス・ブライアンだ。いはば當時のアメリカの代表的なリフレ派だが、農家の利益を代辯する農政族でもあつた。技術的進歩に伴ふ値下がりに怒つて誰かが暴動を起こしたからといつて、いちいちヘリコプターからカネを撒いてゐたのではきりがないし、高い生活コストといふ形で國民にツケを囘すことにもなる。

よく知られた話で、高橋氏も觸れてゐるが、ライマン・フランク・ボームが著した童話『オズの魔法使ひ』は當時の政治状況になぞらへたもので、主人公ドロシーと一緒に旅をするカカシは農民、ライオンは上記の大統領候補ブライアンを意味し、瞬く間に家に歸れるドロシーの不思議な靴は、ジュディ・ガーランド主演の映畫ではルビーの靴だが、原作では銀の靴だ。つまりこの物語は當時の急進的リフレ派の立場から描かれたものなのだ。

オズの魔法使い (岩波少年文庫)

オズの魔法使い (岩波少年文庫)

1919-1921年

名目成長率がアメリカでは18%も減り「明らかに、悪いデフレ」と高橋氏は言ふ。この時期は第一次世界大戰(1914-1918年)が終はつた直後。アメリカは大戰に伴ふ特需景氣の反動で嚴しい不況に襲はれた。リフレ派ならばここで大戰中に負けないくらゐのマネーを市場に注ぎ込むのだらうが、「常態への復歸」(Return to Normalcy)を唱へて1921年當選したハーディング大統領は違つた。公共事業に税金をつぎ込むやうなことはせず、戰時中に膨らんだ財政の縮小に踏み切る。所得税最高税率を1921年の73%から1922年に58%まで引き下げる一方、政府支出をウィルソン前政權の平時の水準から40%削減した。

デフレ時に財政規模を急速に縮小するといふ、ポール・クルーグマンが見たら卒倒するやうな政策だつたわけだが、效果はてきめんだつた。1920年に始まつた不況は1921年7月には完全に終結する。賃金についても政府の力で無理に押し上げるやうなことをせず、自然に下落するに任せた結果、雇傭は増加した。1921年に11.7%に達してゐた失業率はわづか1年半で6.7%まで低下する。物價の人爲的押し上げでなく、市場に任せた物價の下落が經濟を正常に立ち戻らせたのだ。戰後の混亂期のやうな非常時こそ、レッセ・フェール政策が效果を發揮する好例ともいへよう。ハーディングは無能な大統領と呼ばれることが多いが、それはジャーナリズムが作り出した神話にすぎない。

大戰後の不況への對處が對照的だつたのは日本だ。自由放任どころか、經營の苦しくなつた企業や銀行を政府・日銀が大々的に救濟し、不健全な企業を温存した。これがさらなる放漫經營を招き、1927年(昭和2年)の昭和金融恐慌の火種となつた。經濟評論家の高橋龜吉は次のやうに嚴しく指摘してゐる。

世界の戦後景気の大反動は、大戦中から戦後大好況に引継がれた異常時経済から、平時経済への大転換を意味するものであって、これに適応する財界の抜本的整理が必要であったのであり、欧米諸国はそうした大整理を敢行したのである。したがって、この世界的大反動の過程で、わが国も整理を積極的に推進すべきであったのである。しかし、わが国では(略)世界の戦後大反動そのものに必要な整理促進のための措置は何ら講ぜられなかった。むしろ整理を妨げる性格をもつ弥縫的措置を頻発することになったのである。(『昭和金融恐慌史』 講談社学術文庫、p.74-75)

高橋龜吉は金解禁に絡んでリフレ政策に同調的な論客として語られることが多いが、ここでは現在のリフレ派言論人から「シバキ主義」と揶揄されかねない、激しく、しかしまつたうな主張をしてゐる。

昭和金融恐慌史 (講談社学術文庫)

昭和金融恐慌史 (講談社学術文庫)

1921-1929年

世に言ふ「黄金の20年代」(Golden Twenties)。多くの國で名目成長率がプラスだつたため、高橋洋一氏も「良いデフレ」と太鼓判を押してゐる。たしかにこの時代は人々の生活水準が大きく向上してをり、その點は正當に評價すべきだ。しかし一方で、中央銀行による貨幣の供給量が膨脹し、1929年に始まる大恐慌の素地をつくつたことを指摘しなければ片手落ちだ。

1921年6月から1929年6月までの8年間で、アメリカの通貨供給量は61.8%も増えた。年7.7%の伸びだ。これは現在の主流派經濟學で望ましいとされる年2-3%の伸びを大きく上囘る。1921年6月から1929年12月までに全米の銀行預金殘高は190億ドル超増加した。これは第一次大戰が起こる直前の1914年6月時點の186億ドルに匹敵する。アメリカが大戰前までの歴史をかけて積み上げたのとほぼ同額の預金を、わづか8年で集めてしまつたわけだ。

カネ餘りを背景に株價や地價はうなぎ登りだつたが、高橋氏が「多くの国で1-2%の緩やかなデフレ」と指摘してゐるとほり、一般の物價は落ち着いてゐた。これは技術革新で生産性が向上し、安價な商品が大量に供給されたからだ。しかし表面上、物價が落ち着いてゐても、水面下では人爲的なマネーの注入が適正な資源の配分を歪め、經濟の健全性を蝕む。それが一氣に表面化したのが1929年10月のニューヨーク株大暴落だつた。物價指數の考案者であり、マネタリストの祖ともいはれる經濟學者、アーヴィング・フィッシャーが暴落の直前、物價の安定から經濟に問題はないと判斷し「株價は永續的に高い水準に保たれる」と宣言したのは有名な話だ。

歴史の教訓から言へるのは、インフレ目標政策で物價上昇率を數%に誘導したからといつて、健全な經濟が保證される可能性などなく、むしろ生産性が向上する時期には物價を押し上げるために大量のマネー注入が正當化され、經濟の變調を招く恐れが強いといふことだ。

最後は大恐慌だが、これは次囘に囘さう。

<參考文獻>
Murray N. Rothbard, History of Money and Banking in the United States: The Colonial Era to World War II
http://mises.org/resources/1022/History-of-Money-and-Banking-in-the-United-States-The-Colonial-Era-to-World-War-II
C.A. Phillips, T.F. McManus, and R.W. Nelson, Banking and the Business Cycle: A Study of the Great Depression in the United States
http://mises.org/resources/3046/Banking-and-the-Business-Cycle
G・エドワード・グリフィン『マネーを生みだす怪物――連邦準備制度という壮大な詐欺システム

マネーを生みだす怪物 ―連邦準備制度という壮大な詐欺システム

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Libertarianism Japan Projectへの寄稿を一部修正)

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