南北戰爭の虚像と實像

日本のメディアではほとんど話題にされないけれども、今年はアメリカ南北戰爭(1861-65年)開戰百五十周年の節目にあたる。アメリカでは終戰百五十周年までの五年間、數々の講演、展覽會、シンポジウムが豫定されてゐるといふ。

南北戰爭は兩軍あはせて六十二萬人といふ、第一次世界大戰以前では最大の戰死者を出した大戰爭だつたが、そもそもなぜ起こつたのか。おそらく多くの人は「奴隸を解放するため」と思つてゐることだらう。だが實際は違ふのである。
南北戰爭の遺産
ロバート・ペン・ウォーレンといふと、日本ではあまり知られてゐないが、二十世紀アメリカを代表する作家の一人だ。そのウォーレンが開戰百周年にあたる1961年に出版した『南北戰爭の遺産』(留守晴夫譯、圭書房、2011年)で、戰爭の實像について次のやうに指摘してゐる(65頁)。奴隸解放の父と呼ばれる合衆國大統領、リンカーンを擁する共和黨は、1860年の政策綱領で「奴隸制が存在する地域では、その擁護を誓つてゐた」。また1861年には「聯邦への復歸の餌として、南部に於ける奴隸制を喜んで保證する積りでゐた」。結果的にはすべての州で奴隸制は廢止されたものの、事前には、南部が聯邦に復歸すれば奴隸制の維持を認めるといふ方針を打ち出してゐたのである。

奴隸制は南北對立の重要な一因ではあつたが、對立の理由はそれだけではなかつた。ウォーレンはかう列舉してゐる。「聯邦離脱、南部の増大する北部への債務、經濟的對立、包圍される事への南部の恐怖、北部の野望、文化的衝突等々」(27頁)。たとへばここでいふ「經濟的對立」とは次のやうな事情を指す。當時、工業地帶としてイギリスと競合關係にある北部は、保護貿易の姿勢を強めてゐた。ウォーレンも記してゐるが、リンカーン政權は發足直後、モリル關税法(1861年)を制定し、税率を二五パーセントに引き上げてゐる。それにとどまらず「續く四年間、議會は開催される度に關税を引き上げた」(29頁)。これに對しイギリスの綿工業向けに棉花を多く輸出してゐた農業地帶の南部は、いまの日本とあべこべだが、自由貿易を望んでゐたのである。

だが戰爭の原因として決定的だつたのは、ウォーレンも舉げてゐる「聯邦離脱」である。これについてはリンカーン自身が開戰後の1862年、知人に宛てた手紙ではつきりと書いてゐる。「この戦争における私の至上の目的は、連邦を救うことにあります。奴隷制度を救うことにも、亡ぼすことにもありません。もし奴隷は一人も自由にせずに連邦を救うことができるものならば、私はそうするでしょう。そしてもしすべての奴隷を自由にすることによって連邦が救えるならば、私はそうするでしょう」(高木八尺斎藤光譯『リンカーン演説集』、岩波文庫、163頁)。つまり戰爭の目的は奴隸解放ではなく、南部諸州が合衆國から獨立するのを食ひ止め、聯邦を以前のまま維持することにあつたのだ。

奴隸制をなくすためだけなら、なにも多くの犠牲を拂つて戰爭をやる必要などなかつた。事實、南北戰爭の時代以降、オランダ植民地、ブラジル、プエルトリコキューバなど世界各地で奴隸制が相次ぎ廢止されたが、暴動を伴つたハイチを除き、すべて平和のうちに實現してゐる。資本主義が發達するにつれ、奴隸制は自由な勞働サービスとの競爭にさらされ、不經濟で維持できないものとなつてゐたのだ。

それでは聯邦から離脱しようとした南部聯合と、それを沮止しようとした聯邦政府の行動に着目した場合、どちらが客觀的にみて正しかつたのだらうか。これについてウォーレンは一方的な斷定を差し控へてゐる。しかし私自身の考へでは、明らかに南部聯合が正しく、聯邦政府に非がある。

なぜなら「民族自決」といふ言葉が示すやうに、歸屬する政治組織をみづからの意志にもとづいて決定するのは、法律に優先する、人間の自然の權利だからだ。そもそもアメリカ自身が、この自然の權利を根據に、イギリスから獨立して成立した國家だ。もし南部の獨立を聯邦政府が否定するのなら、自分自身の存在をも否定することになつてしまふ。
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さて、もし將來、たとへば沖繩や大阪、あるいは原發事故に懲り懲りした東北地方が日本からの獨立を宣言し、そのとき私たちが日本政府の側にあつたとしたら、どのやうに振る舞ふべきだらうか。少なくとも私は、「老若男女を問はず、全南部が吾々に刄向かつてゐるのだ」と述べ、ジョージア州の家屋や農場を燒き拂つた北軍のウィリアム・シャーマン將軍のやうに、日本の分裂沮止を大義として那覇や大阪、福島を焦土と化すべきだとは思はない。「奴隸解放のための戰ひ」などといふ皮相な解説に惑はされず、戰爭の正義とは何かをじつくり考へるために、私たちは南北戰爭の實像を知るべきなのだ。

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