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ラディカルな経済学(旧館) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2013-05-03

自衞權はいらない

自衞權は國家固有の權利であり、獨立國である以上、自衞權を持つのは當たり前だ――。政府はこのやうに主張し、國民の多くもさう信じてゐる。しかし國家が自衞權を持つといふのは、個人の正當防衞權とは異なり、けつして自明の理ではない。とりわけ日本においては、憲法により、國家の自衞權は否定されてゐると考へるべきである。これは日本人にとつて幸ひである。なぜなら國家の自衞權は、守るべきはずの國民の安全をむしろ脅かすからだ。だから自民黨の改正草案のやうに、憲法で國家の自衞權を認めるのは、改惡でしかない。

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現代の平和主義と立憲主義

もう二十年近く前に出たものだが、自衞權に關する通念を覆してくれる本がある。憲法學者の浦田一郎による『現代の平和主義と立憲主義』(日本評論社、1995年)である。日本國憲法における自衞權について、代表的な學説は三つに分かれる。(1)自衞權自體は認められてゐるが武力の行使は許されない(武力によらない自衞權論)(2)自衞權は認められてをり武力の行使も許される(武力による自衞權論)(3)自衞權自體が認められてゐない(自衞權否認論)――である。このうち(1)は多數説、(2)は政府見解で學會では少數説、(3)は少數説である。浦田は(3)の自衞權否認論をとる。日本國憲法の下では、國家に自衞權はないといふ見解である。

おそらく多くの人々は、なんと現實離れした考へかと思ふことだらう。私もこの本が出るさらに十年ほど前、さう思つた。といふのも、浦田は大學時代の先生だつたからである。不勉強な私はろくに講義にも出ず、一二年生の頃、他の學生から「あの先生は自衞權否認論といふとんでもない少數説を信奉してゐるらしい」と聞いただけで、非現實的で、非論理的でさへあると思ひ込んだ。個人にとつて正當防衞は當然の權利である。それなら國家にとつても、侵掠戰爭はともかく、自衞戰爭を行ふのは當然の權利ではないか。三年生になり、どういふ縁か浦田ゼミに入つた後も、自衞權について深く問ふこともなく過ごした。

憲法による政治の拘束

しかし私の思ひ込みはやはり勉強不足のせゐだつたことが、恥づかしながら最近になつてわかつた。なぜ國家の自衞權は當然の權利でないのか。理由は二つある。第一に國際法上の問題がある。本書で浦田が指摘する(141頁)やうに、現代においては國際法上、自衞權は個人の正當防衞權のやうな自然權(法律で定めるまでもなく、生まれながら有する權利)とはみなされてゐない。あくまでも國際慣習法や國連憲章に基づいて初めて認められる權利と考へられてゐる。これは二度の悲慘な大戰を經て、それまで自衞權が自衞以外の戰爭の口實として利用されたことへの反省からである。それでも國連憲章や日本の防衞省は自衞權を「固有の権利」「固有の自衛権」と表現してゐて、あたかも自然權であるかのやうな誤解を招きかねない。

第二に、より重要なこととして、憲法上の問題がある。そもそも近代における憲法の目的は、國家による勝手氣ままな權力の行使を防ぎ、個人の權利を守ること、すなはち「憲法による政治の拘束」(143頁)である。この考へを立憲主義といふ。だとすれば、國家には憲法に定めがなくても行使できる固有の權利があると想定すること自體、立憲主義に反する。國際法とは別の次元で、國家が自衞權を持つかどうか、持つ場合にどのやうに行使できるかは、個人の權利が不當に侵されないやうに、それぞれの國で「憲法による基礎づけが必要である」(146頁)。

日本の場合はどうか。それは憲法をどう解釋するかによる。浦田は立憲主義を徹底する立場から、自衞權を肯定する説を次のやうに批判する。まづ武力行使も認める政府見解は、自衞力は憲法九條で禁止された戰力には當たらないとしてゐるが、「自衞力が戦力でないとするのは、日本酒が酒でないとするに等しい」(144頁)から、立憲主義を完全に否定してをり論外である。

次に武力行使を認めない多數説は、戰爭抛棄といふ憲法上の禁止規定に觸れない範圍で、自衞の理念や目的を實現するための手段を正當化しようとするけれども、「これでは立憲主義の意味は半減してしまう」(146頁)。憲法の禁止に觸れないかぎり、抽象的な目的を實現するためのあらゆる手段が正當化されてしまふからである。海外における自衞隊の「平和維持活動」などはそれであらう。かうして浦田は、戰力の保持を禁じた九條の文言を嚴格に解し、少數説の自衞權否認論をとるのである。

じつは自衞權否認論は、かつては少數説でなかつた。終戰後まもない1940年代の憲法學會では「否認を明言するものを含めて、実質的にそれ〔自衞權〕を否定する見解が強かった」(10頁)。そればかりか政府も同意見だつた。1946年6月、總理の吉田茂は「正当防衛、国家の防衛権に依る戦争を認むると云うことは、偶々戦争を誘発する有害な考へ」(8頁)と述べた。國家の防衞權、つまり自衞權を「有害」として實質否定してゐたのである。

しかし東アジア情勢が緊張し、世界各地で紛爭が激化する現在、憲法九條そのものを見直す必要はないだらうか。浦田は、その必要はないどころか、むしろ九條を擁護せよと説く。なぜなら、國家は戰爭を正當化する理由として國民の生命や財産の保護を掲げるにもかかはらず、「自衛戦争を含めて戦争は、国民の生命や財産を根こそぎ奪うような被害を与える」(41頁)からである(政治哲學者の松元雅和も『平和主義とは何か』で同樣の指摘をしてゐる)。とりわけ軍事技術が飛躍的に發展した今日においてはさうである。灣岸戰爭は核兵器を使用しない通常戰爭だつたが、廣島原爆より多い死者を出した。國連の集團安全保障を含め、「戦争は国際問題の解決能力を失っている」(42頁)。だとすれば、九條によつて政府に戰爭を許さないことこそ、賢明である。

リバタリアンと共鳴

私も浦田に同意する。以前は九條を改正し自衞隊を國軍として認めるべきだと思つてゐたが、今では考へを改めた。それは米國のマレー・ロスバードを中心とするリバタリアンの平和論を知り、その正しさを確信したからである。いま詳しく述べる餘裕はない(參考はこれこれ)ので核心だけいへば、ロスバードらは政府と國民を區別し、戰爭の加害者は政府(權力を握る政治家、官僚)およびそれと結託した一部の國民であり、被害者は政府の勝敗にかかはらず國民(ただし政府と結託した一部を除く)であると正しく指摘する。そして政府の權力を縛り、究極的には政府をなくし、戰爭をできなくすることこそ、國民の安全を高める道だと主張する。これは浦田の考へと共鳴する。

私は浦田の主張すべてに賛同するわけではない。浦田は「個人が企業社会から解放される必要」(120頁)を説くが、政府が福祉政策や解雇規制で雇傭のコストを上げ、轉職しにくい環境をつくらないかぎり、過勞死するほど人をこき使ふ企業からは皆逃げ出し、自然に淘汰される。また浦田は、國家に組織されない國民の軍事活動は能力と技術が足りないとして否定的だが、企業活動の自由が廣がれば、プロの警備會社がその役割を擔ふだらう。企業は人の生命・身體・財産を不當に侵害した場合、賠償責任を負ふので、國家による戰爭のやうな無差別の殺戮や侵掠戰爭は起こさない(警備會社による國防については蔵研也『無政府社会と法の進化』を參照)。誠實で優秀な自衞官の多くは喜んで轉職するに違ひない。

浦田の本を讀んで驚くのは、上記の點を含め、リバタリアンと共通する指摘が多いことである。たとへば浦田は「まえがき」で、自由論の立場から福祉政策への批判が出てゐることに觸れ、「福祉の基礎づけはきちんと議論する必要がある」と認めたうへで、かう問ふ。「しかし、人間の自由から正当化を問題にすべきものが、どうして軍事より福祉なのであろうか。どう考えても、それは福祉より軍事である。…軍事の問題に真正面から立ち向かう自由論なら、それは本物の自由論であろう」。これはロスバードの次の發言とほとんど同義である。「リバタリアンは価格統制や所得税については適切にも怒りをおぼえるのに、大量殺戮という究極の犯罪に対しては肩をすくめるか、あるいは積極的にこれを支持さえするというのだろうか?」(森村進他譯『自由の倫理学』勁草書房、25頁)

戰爭を正當化する國家の自衞權などいらない。個人の生命と財産を守る仕事は、政府に任せるにはあまりにも重大すぎる。

(「『小さな政府』を語ろう」「Libertarian Forum Japan」に轉載)

こちらもどうぞ

筆者の本

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 自由叢書

デフレの神話――リバタリアンの書評集 2010-12〈経済編〉 自由叢書

梅沢梅沢 2013/05/04 01:22 共産党に一票ですね。

KnightLibertyKnightLiberty 2013/05/04 07:07 さういう言ひ方は残念です。そもそも日本共産党の見解は「憲法九条は、国家の自衛権を否定していない」です。
http://www.saturn.sannet.ne.jp/kura/ritouriyu.htm

muumuu 2013/05/04 09:14 ヤクザに対して「抗争するな」なんて言うだけ無駄、言う必要もないように思いますが。
ヤクザだって、無益な抗争など別にしたくはないわけで。

ヤクザはあくまで日陰者。
ヤクザの抗争はカタギとは無関係。

というマトモな状態に戻ることが先なのでは?

「カタギのみなさんに迷惑をかけてはいけない」というマトモな任侠道を忘れたヤクザは、
カタギに見放されて消え行くのみ。

まあ、ヤクザの抗争にカタギを参加させることを正当化しようとする、
キチガイどもに対して書かれているのでしょうけど。

梅沢梅沢 2013/05/04 16:05 さうなんですね。段階的にでも自衛隊消滅を掲げてゐたので自衛権も否定してるのかと思つてました。
ロスバードの理想は遥かに遠さうだし腹癒せに共産党にでも入れたくなるなと思つたんですが。言葉足らずですみません。

KnightLibertyKnightLiberty 2013/05/04 21:40 muuさん
おっしゃるとおり、ヤクザとその応援団のキチガイに騙されるなといふ趣旨です。政府がヤクザであり、その抗争に付き合ふ必要などないとは、ほとんど認知されてゐませんから。

梅沢さん
ああさうでしたか。こちらこそ勘違ひで怒ったりして、すみませんでした。

遠山信男遠山信男 2013/05/04 23:34 「と思ひ込んだ」あと、正しい考へに至つたといふことですか。で、いまの考へは確實といふことですね。

KnightLibertyKnightLiberty 2013/05/05 00:45 確実かどうかはわかりません。今の考へも誤りだといふ可能性は排除できません。もし間違ひなら改めます。しかし現在は、この考へが正しいと信じてゐます。

yuuntimyuuntim 2013/05/09 07:11 個人の武装は認めるということでいいですか?

KnightLibertyKnightLiberty 2013/05/09 21:52 はい。個人の武装は認めます。

遠山遠山 2013/05/10 00:00 こんばんは。先日突然「コメント」などしました。
あのですね、どうも最近の木村さんの書いてゐることがよく分からないのです。が、何となくですが、これを讀めばといふことで、「荻窪中央図書館」で『ヒューマンアクション』をかり、今讀んでます。で、これと同時にプラトンの「国家」を讀んでゐます。
御陰で英語の勉強にもなりました。

KnightLibertyKnightLiberty 2013/05/11 05:17 遠山さん、恐れ入ります。以前と大きく考へを変えたところがあり、まだ十分に説明しきれてゐません。『ヒューマン・アクション』には、上記本文と関連する文章として第三十四章「戦争の経済学」があります。ロスバードの『自由の倫理学』もおすすめです。

神様神様 2013/05/11 12:38 ● 国家の危機 ●

国家総動員法、配給制、徴兵制

の練習をしとかにゃ間に合わん。

   バブル →バブル崩壊 →世界経済の崩壊 →貿易の途絶・食糧難・飢餓

   帝都直下型大地震、東海東南海巨大地震、富士山大噴火

   大陸動乱と核の炸裂


国権の縮小に血道を上げる左翼ゴケン派の大粛清も密かに
準備しとかにゃイカン

志保パパ志保パパ 2013/05/30 11:54 個人の武装は認めるかぁ。
ちゃんと合わせて主張していただかないと誤解してしまいます。
銃火器や兵器の個人所有を認めて、国の自衛権を認めないとね。

あっ、もしかして個人の武力の行使の相手は日本人も
ありなのかしら?

KnightLibertyKnightLiberty 2013/05/30 21:36 個人の武装については以前こってり書いたことがありますので、こちらをご覧ください。
http://d.hatena.ne.jp/KnightLiberty/20110302/p1

日本人から攻撃されたら、当然、その日本人は武力行使の対象になります。もちろん正当防衛の範囲内でですが。

志保パパ志保パパ 2013/05/31 23:19 う〜ん、市民vs国という構図で語られているのは理解できますが、
まさに万人の万人に対する闘争状態が起こりうる話ですね。
国は性悪だが市民は性善であるという大前提があるように思えるのですが
私の理解不足でしょうか。

KnightLibertyKnightLiberty 2013/06/01 06:25 国家は暴力をちらつかせて市民の財産を日常的に奪ひますから、紛れももなく性悪です。一方、民間にも強盗は存在しますが、その割合は低く、奪ふ財産の額も国家に比べれば大きくありません。

これに対して、民間に強盗が少ないのは、国家が存在してにらみをきかせてゐるからだといふ反論があるかもしれません。しかしこれは奇妙な主張です。なぜなら、小さな強盗を減らすためには大きな強盗が存在するべきだと言ってゐるのと同じだからです。

志保パパ志保パパ 2013/06/02 12:27 「国家は暴力をちらつかせて市民の財産を日常的に奪」うというのはもしかして税金とか土地収用とかのことでしょうか。
これを強盗いうのはどうでしょうかねぇ。どうも、お話を伺っていると啓蒙思想の前の状態に
戻れとかのお考えに近いようにお見受けいたしますが、人が集まって生活すると
社会ができ、その規模が大きくなれば自然と国家になっていくのでは
ないかと思います。王権天賦か社会契約かおおざっぱに言って
両者の選択しかないような気がします。

自らの財産を守るために武器の所有を認めるのも一つの手段であるとは思えますが
自らの財産という考えを万人が共有できれば機能すると思いますが
人それぞれなのでしょう。食うためには奪うのが当たり前という考えの人と
食うためには耕すのが当たり前と考える人がいればうまくいかないのでは
ないかなと思います。

いかがでしょうか。

KnightLibertyKnightLiberty 2013/06/02 14:55 >「国家は暴力をちらつかせて市民の財産を日常的に奪」うというのはもしかして税金とか土地収用とかのことでしょうか。
はい。こちらをご覧ください。
「課税は強盜である」http://d.hatena.ne.jp/KnightLiberty/20100323/p1

>人が集まって生活すると社会ができ、その規模が大きくなれば自然と国家になっていく
いいえ。こちらをご覧ください。
「國家は共同體か」http://d.hatena.ne.jp/KnightLiberty/20100617/p1

>食うためには奪うのが当たり前という考えの人
さういふ人がゐるからこそ、自衛手段が必要です。もちろん自分で武装せず、警備会社に任せる手もあります。

志保パパ志保パパ 2013/06/03 12:44 だんだんどういう世の中を目指したいのかわかってきました。
国という悪を消滅させて、自分の利益は自分で守るというものなんですね。
国に強奪されるよりは、個人に強奪される方がまし。それは自衛手段があるから。
でも、弱い人は奪われるだけになりますよね。で、警備会社に契約ですか。
自主的に民間会社を選んで契約するのはOKだけど、無条件に国というものと
自動的に契約することになってるというのが市場原理が働いていないから認めれられないわけですね。

こういう理解でよろしいでしょうか。誤解ありますか?

KnightLibertyKnightLiberty 2013/06/03 20:28 おほむねそのとほりですが、「弱い人は奪われるだけになる」ほど、世間に悪人は多くないとも思ってゐます。

西川昌宏西川昌宏 2013/06/04 08:59 弱い人が弱い人同士団結して自衛かつ警備会社と契約という選択もありますね。

志保パパ志保パパ 2013/06/04 21:41 ずいぶん、都合のいい前提なんですね。

KnightLibertyKnightLiberty 2013/06/04 23:20 前提じゃあありません。事実です(私がお人好しすぎるといふ可能性もありますけどね)。しかしかりに世間が悪人だらけなら、政府は間違ひなく悪人で構成されるでせうから、合法な権力といふ特権を握る政府を廃絶せよとの私の主張は、むしろ説得力を増すことになります。

志保パパ志保パパ 2013/06/05 12:36 自分の利益は自分で守るという状態になっていない段階で、
弱い者は奪われるだけになるほど世間に悪人がいないのが事実であると言い切るところはすごいと思います。
こうなるともはや宗教ですね。
逆に、悪人は多くないのなら、政府に悪人は多くないので、政府を残しておいても害はないとも考えられますよね。
政府内の一部の悪人を駆逐すればいいだけですから。それとも世の中に悪い人は多くないが、政府は
悪いやつだけから成り立ってるということでしょうか。

別のところで、仲裁会社に従わない者は制裁を受けることになるとありましたが
制裁を行うものは受ける側からすれば、合法(法があるのかどうか疑問ですが)な権力という特権を行使されていると
感じるのではないでしょうか。

 どうも、政府に代る権威みたいなものの存在は否定されていないようですが、
この権威みたいなものが市場原理ということなのでしょうか?

KnightLibertyKnightLiberty 2013/06/05 23:52 >こうなるともはや宗教
現に世の中に犯罪者は(政府を含めても)一握りしかゐないし、大地震が起こっても(政府を除けば)それに便乗した犯罪は少なかったのだから、的外れではないと思ひますよ。むきになって否定するのは、それこそ宗教でせう。

>政府は悪いやつだけから成り立ってる
暴力や脅しで他人の財産を奪ふこと(=課税)や無理やり軍隊に入れて戦争をさせること(=徴兵)は、悪いことです。悪いことをするのは、悪いやつです。

司法が民営化された社会では、あらかじめ「仲裁会社Aの命令に従ふ」と契約した者は、Aの下した罰金支払い命令に従はなくてはなりません。このように、政府がなくても、当事者同士の契約によってルール形成は可能です。詳しくはこのブログで紹介した蔵研也さんの『無政府社会と法の進化』をお読みください。

志保パパ志保パパ 2013/06/06 02:15 ちょっとずれてしまってますね。今の世の中に、弱いものから奪う人が多いということではなくて、
政府のない社会というようなものになれば、そういう人が出てくるのではないかということを私は言いたいわけです。
こればっかりは、社会実験してみなければわからないじゃないかと思うのですが、
今の社会に少数なのだから、社会が変わっても少数であるに違いないと推論することはあるでしょう。
これを「事実」と主張されてるので、宗教といわせていただきました。
住む社会が変わっても人間は今と変わらない行動をとるという保証はどこにもないと思うのですが
社会が変わっても同じ行動をとるのは事実だと言い切るのはかなり苦しくないですか?

警察・司法も民営化という選択肢もまったくは否定しないですが、
私は、ここに書いたとおり社会が変わると人間の行動も変わって
思っていた通りにならないのではないかという不安があり、いろいろ
書かせていただいてます。

KnightLibertyKnightLiberty 2013/06/06 07:45 仲裁会社についてのコメントにも書きましたが、民間だけでルールの形成は可能ですから、政府がなくなったとたんに誰もが悪事に走ると考へる理由はありません。

志保パパ志保パパ 2013/07/12 00:38 仲裁会社については、別のところで脱線してしまっているので
こちらで、整理してほしいと思います。

私の疑問はただ一つだけです。予め契約状態にないXY間に
事故が生じてXがYから損害を与えられた場合に、Xはその賠償を
Yにどうやって求めるかというものです。

これにはいろいろな段階があり
1.Xが要求した額をすべてYが支払う。 いわゆる示談成立
2.Yは支払う気はあるものの要求額すべてに応じるつもりがない。 額の争い
3.Yは責任がないとして支払いすべてを拒否する  責任の争い

1.の場合には仲裁会社は必要ないですが2.3.はXY間に争いがあり
これを収める必要が生じます。国家が司法を独占している現在では
XはYの住所地において訴えを起こすことが原則です。裁判所は
ただ一つ決まります。Yが出頭しなければ敗訴確定で、究極的には
民事執行により支払いを強制されます。

仲裁会社の場合、Xが自分の住所地(思想)に近い仲裁会社を選んだ場合
Yは必ずこれに応じなければならないのかどうかが最大の疑問です。
Yは自分の住所地に近い仲裁会社にしたいと主張した場合どうなるのか?

Yには応じる義務があるというルールができていたとした場合、
これは市場原理に基づくルールであるというのでしょうか?
市場原理は売買の価格決定以外にも生き方のルールみたいなものも
決めうるということでしょうか。
価格は相対でこの額で売る買うという交渉を経て決まるので、なるほどと
思うわけですが、手続きに関して市場原理で決定されるメカニズムが
よくわかりません。

上のXYの紛争が、無政府社会になってから初めてのケースだったら、
まだルールがないわけですから、このときに
どうやってXY間の争いが仲裁会社で解決されていくのか、そのメカニズムが知りたいです。


自力救済ありとすると、XはYに対しこの仲裁会社がいやならば全額自力で回収させていただきますと
脅すことも可能だと思いますが、Xが自分に甘い判決を出してくれるであろうとして選んだ仲裁会社に
Yが出頭しても利益がない。つまり、Yの主張を受け入れてもらうことはほとんどなくなるのではないか。


 偏向した判決を出す仲裁会社は淘汰されるか?

 少なくともXに有利であると思われる仲裁会社はXからのニーズがあるので、
その意味では淘汰されない。逆にYに有利な判決を出すであろう仲裁会社は
Yは訴えを起こす側でないからニーズがない。
 完全中立ならば、Xは自力救済で満額をゲットするのが一番効率が良い。
ということで、中立会社は原告に都合の良い判決を出すことが淘汰されない
ために最良の選択となる。Yはそこに応じるることは損になる。が、応じなけければ
Xの自力救済が待ち受けている。

 なるほど、こうして考えてみると自力救済ありとすれば、
仲裁会社は原告Xが選定するということで成り立ちますね。

 というより、いったん事故を起こすと大変なことになるということが
わかりました。みな、慎重に行動して、やむを得ない場合は示談を
選ぶんでしょうね。

 判決に市場原理が働くという場面はなさそうです。

ワタンワタン 2013/08/06 05:34 >私の思ひ込みはやはり勉強不足のせゐだつたことが、恥づかしながら最近になつてわかつた。なぜ國家の自衞權は當然の權利でないのか。

>以前は九條を改正し自衞隊を國軍として認めるべきだと思つてゐたが、今では考へを改めた。

やはりさうでしたか。木村さんの思索努力と知的勇気の成果とおもひます。

>(國防の役割を擔つたプロの警備會社は)國家による戰爭のやうな無差別の殺戮や侵掠戰爭は起こさない。誠實で優秀な自衞官の多くは喜んで轉職するに違ひない。

最近の「国防軍(皇軍)」論など痴呆としかおもへませんね。またまた戦前の大本営のやうな「知的怠惰」に回帰せんとする勢力には、抵抗せざるをえません。

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