佐村河内守事件についての、演奏家と音楽愛好家へのお願い

現代日本の中堅作曲家が交響曲などの大規模な作品を書いても、ほとんどのクラシックの演奏家、演奏団体は、取り上げません。こういう日本の演奏界の状況をつくりだしてしまったのは誰でしょうか?新垣さんがご自身で、これらの作品を、オーケストラの事務局や様々な演奏家に真正面からプロモートしていたら、演奏されていたでしょうか。現代のほとんどの作曲家はオーケストラ作品を書く能力があっても、実際に演奏され聴かれる機会が十分ありません。この状況下、自分の名前を売る名誉欲も報酬への欲もなく、自分の書いた音楽が音になり広く聴かれる機会が目の前にあった時、つい作曲を引き受けてしまった心情を、作品演奏機会を渇望する作曲家同士として想像します。
佐村河内氏やNHKやレコード会社や演奏団体やマネジメントが、ヒロシマや震災や障がいを、あざとく利用した手法が暴走したことは社会的に許されることではありません。その暴走を新垣氏は許せなくなりブレーキをかけました。
一方、その安っぽい売りこみでしか、現代日本の作曲家の作品を演奏したり聴いたりしようとしなかった日本のクラシック音楽界の同時代音楽受容度の安っぽさも露呈しました。
実際に多くの聴衆を感動させた音楽の作曲家であり、非常に先鋭的な作品から佐村河内名義で演奏された調性の多くの人に親しまれる作風まで、様式を変えながら高いクオリティの音楽を書くことができる、いわば天才的カメレオン作曲家であったともいえる新垣氏の音楽が封印されてしまわないことを願います。
私は、独学の現代音楽作曲家ですが、優れた演奏家の方々に作品を演奏していただいき感謝しています。 これを見られるであろう演奏家の方々にも特別なお願いがあります。
どうか、新垣氏の作品を、新垣氏の作曲者クレジットのもと、積極的に演奏してください。それが新垣先生の名誉回復に最も力になると思います。
同時に、新垣氏以外の同時代の作曲家の作品を、どんどん演奏してください。

ただし、一つ補足します。
佐村河内名義で新垣氏が書いた曲は、クラシックにも同時代の曲があるという気付きと、20世紀以降のクラシック、現代音楽の第1級の作品を聴いてきたバックグラウンドの無い音楽愛好家の方に取っつきやすい現代日本の一般人等身大の感傷性をもっている入門用ピースとして一定の役割をもてる可能性はありますが、本来は、多くのクラシック演奏家も音楽ファンも、ストラヴィンスキー以降、メシアンブリテンショスタコーヴィチプロコフィエフ、新ヴィーン楽派、アイヴス、武満、黛、湯浅、ルトスワフスキから現代日本の多くの作曲家まで、十分に聴いて、耳を肥やさなければなりません。そのように耳が肥えた演奏家と聴衆が育った時には、佐村河内名で新垣氏が書いた曲は役割を終えると思います。
新垣氏以外の現代の多くの作曲家の作品が広く演奏される状況が生まれてきた時、新垣氏の作品が多くの現代作品の中で生き残るほどの曲であるかどうかは別問題です。
プロコフィエフショスタコーヴィチやニールセンやオネゲルやヴォーン=ウィリアムスやヘンツェなどの20世紀の第1級の名作を知っている音楽愛好家なら、この交響曲「Hiroshima」は、それらに比肩するような交響曲ではないと気付くと思います。