富岡製糸工場が世界遺産に登録!

 「女工哀史」を隠しての「遺産登録」、何かしっくりしません。
地域活性化、観光振興で歓迎の向きも分からぬではありませんが、「遺産登録」された地域にさまざまな新しく困難な課題❢が遭遇している事実も見るべきでしょう。最近では美保の松原、石見銀山熊野古道
 ネーミングにいささか?とは思うけれども、「ダークツーリズム」という視点での歴史継承に力を入れてる地域も増えてるようだし…


下記および写真は角南龍一様のFBからシェアさせていただきました。
 この度世界遺産に登録された富岡製糸場は、日本初の近代的国営製糸場として1873年に操業を開始しました。
フランス人技師ポール・ブリューナの指導により建設。生産設備だけではなく福利厚生施設、当時最先端の医療技術を備えた病院などもありました。日本のモデル製糸場として、女工のおおくは、士族・官吏の娘さんでした。 また就業規則もあり一日8時間労働、日曜は休み。夜学もありました。
 これに対し「女工哀史」に象徴される岡谷製糸場の場合、待遇に大きな格差がありました。
 雇用契約は双方の契約(合意契約)ではなく、女工側への一方的な約定という形式で、
 工場主の労働者に対する義務(賃金支払いの義務を含めて)について一切の言及はなかったそうです。福利厚生は全くなく、生存権さえも無視された状態でした。
 就労期間中女工は退職できず、就業ができなかった場合、代替人を出すことも定められていました。
それは その当時、 収穫の5〜6割にも達する小作料を課されていた農家が、貧困な家計を補う目的で、金銭と引き換えに娘さんを製糸工場へ就労させざるを得ない状況であったためです。
 さらに約定の違反の際、女工側が損害金を負担することも決まっており、その額も工場主の言い値でした。
これらの場合、女工は一般的な労働者と異なり、労働によって前貸金を返済するため工場に縛られていた労働者であったと言えます。その後労働争議を繰り返し、戦後それまでの反省を受け労働各法が確立。また命懸けの労働運動で権利を勝ち取ってきました。
 この度僕は、富岡製糸場世界遺産に登録されたことを受け、恵まれた製糸場の裏側で、その当時女工が置かれた労働実態と、その後の労働運動(他の産別でも)で勝ち取った権利を再度勉強することができました。
 この度の登録は、その権利を労働法改悪で崩そうとする安倍政権への警告に思えるのは僕だけでしょうか?