狐の王国

2015-01-24

理想は実現するものではなく、定規にして測るもの

理想の社会なんて信じるのはやめましょうという記事。理想社会を実現しようとすると理想のために暴力や破壊活動を許容してしまいがちだよね、という話。まあ実例は枚挙に暇がないのも確か。

「理想」というのを「実現すべきもの」だと考えている人は多い。しかし、理想というものがなんなのかを考えていくと、実はそうではないことに気づく。

ドラッカーのどの著作だったかは忘れたが、「正しいことを知らなくては、正しい妥協はできない」という言葉がある。理想的な状態がどうなのかを知らないと、妥協も上手にはできないという事だ。だから経営者コンサルタントを雇い、理想的な会社の状態を教えてもらう。経営者はそこから妥協して現実に落としこんでいく。

理想とは、現実を測定するための定規のようなものなのである。

その定規をそのまま現実にしてしまうと、どうしたって無理が出る。ところがそうした完全性をなぜか求めてしまう人たちがいる。

よく自称フェミニストの人たちが性犯罪の特徴として「被害者の落ち度が指摘され叩かれる」と言うのだけれども、たいていの犯罪は被害者が叩かれる。泥棒に入られれば鍵はかけてなかったのかと言われるし、カツアゲにあえばおどおどしてるからだと叩かれる。ハイジャックくらいになるとさすがに乗客は叩かれないけど、航空会社や空港のセキュリティが問題視される。おおむね被害者というのは針のむしろに立たされるものなのである。ポイズン

こうした「被害者の落ち度」を叩いてしまう心理はそれだけで本が1冊書けるくらいいろいろあるだろうけれども、一つに「不完全なものは悪」という認識があるのではないかと思う。

最近食品の異物混入のニュースも多かったが、そりゃどんだけ気をつけて検査してても異物を完全に除去するのは不可能だろう。ソフトウェアバグだってゼロにすることはできない。

2011年原発騒動の時だって、その不完全性に憤ってた人たちがたくさんいた。逆に言えば、40年も前の老朽化した原発が災害が起きても安全に動作するという完全性を信じて動作させてしまってた人たちもいたわけだ。政治家の発言の言葉尻を取り上げては叩く連中なんかも同じだろう。完璧に話せる人なんているはずもないのだが、なぜかそこを叩く。

西洋だと「神」という完全で無限な存在があって、その対称として不完全で有限な人間という認識が生まれる気がするんだけれども、日本だと神様もしょっちゅうずっこけてるのでそんな認識も難しいのかもしれない。

ともあれ人間とは誰もが不完全で有限な存在だ。そして人間が作り出すものも不完全で有限なのである。無限に動き続けるものも、ぜったいに壊れないものも、人間には作れない。決して間違えること無く動くことだって人間にはできない。

けど、だからこそ理想は持ち続けなくてはならない。理想を定規にして、現実に落としこむことをやめてはいけない。正しいことを知らなくては、正しい妥協はできないのだから。

不完全であるがゆえに、理想というのは必要なのである。

2015-01-18

「好きなことで生きていく」ことの現実

「好きなことを仕事にする」「好きなことで生きていく」。そんなことをよく聞くようになってきた。別に悪いことではない。好きなことをして生きていけるならそのほうがいいに決まってる。

だがその先にある現実を語る人はあまりいなさそうなので、気晴らしがてらここに書いておこうかという気になった。

俺は好きなコンピュータいじりをしてたらそのまま仕事の話がいただけるようになったので、よくうらやましがられる。どこからが趣味でどこからが仕事なのか、自分でもわからないことが多い。まずはそのメリットとデメリットから書いていこう。

趣味を仕事にするメリット

お金になるというのがわかりやすいメリットだが、それよりもすばらしいメリットは、趣味のレベルでやっていては出てこない発想の目標が立てられることだ。スケールも趣味では手が出せないレベルのことができるようになる。

例えて言うなら、鉄道模型を趣味にしてたら6畳間を埋めるのも難しいだろうけれども、仕事としてやればその何倍もの大きさのジオラマに鉄道模型を走らせられる、という感じ。

また、自分でできると思うレベルより高いレベルを要求してもらえることもある。それも趣味でやってたらチャレンジできなかったんじゃないかと思う。締め切りがあるのもいい方に働くことが多い。

趣味を仕事にするデメリット

趣味ではなくなること、それが一番のデメリットだ。趣味でやる分の気力は残しておかなければいけないが、それもなかなか難しいことが多い。また仕事にしてしまうと書類やら何やらやりたくなかった周辺の作業というのがどうしても発生する。

また、コンフォートゾーンというか、「楽しい」という範囲を踏み越えないといけないこともある。それは本当につらいことで、あんなに好きだったのに嫌いになってしまったりすることもある。

こうしたメリット・デメリットを踏まえた上で、次は「好き」を仕事にした時に現れる壁を見ていこう。

第一の壁「スキルアップの壁」

「好き」だから夢中になるしスキルも上がる。それは当然のことなんだけれども、「好き」というだけでやってる人と、体系的にきちんと努力して学んだ人とはやっぱり差がある。

また、やはり「好き」でやってる人たちというのはこの世にたくさんいて、そういう人たちの猛烈なレベルアップと競争するハメになる。

彼らと戦えるほど「好き」かどうか、「好き」の本気レベルが試される。好きなことをするために好きじゃないことも精力的にやれるか。好きなことにどこまで本当に夢中になれるか。

第二の壁「好きであることに慣れてしまう」

どんな熱烈に愛し合った夫婦も長年一緒にいるとそれに慣れてしまう。それと同じで、慣れてしまって「好き」だということを忘れてしまうことがある。浮気が始まるのである。

これで不器用で他のことをやってみようとしてもうまくいかなくて、やっぱりあいつじゃないとダメだ、と再確認できればいいのだが、そこそこうまくできてしまうと泥沼にハマることもあるだろう。

第三の壁「老化で情熱が枯れる」

好きなことを仕事にして順風満帆だとしても、そうした情熱はいつか枯れる。人間は老化もすれば病気にもなる。その時、本当に助けてくれるのは「好き」なんて気持ちじゃなくて、日々の習慣である。

習慣として仕事をしていれば、少々調子が悪かったり気力が枯れてたりしてもまあなんとかこなせる。こなせれば生きていけるのである。

ところが「好き」なんて気持ちを原動力にしていると、老化や病気で気力や体力がなくなったときに本当に何もできなくなってしまう。生きていけなくなるのである。

終わりに

「好き」を仕事にするというのは、メリットも大きいが概ねどうでもいいことを仕事にするよりずっとキツいものだというのはお分かりいただけたのではないかと思う。仕事に感情なんか入らないほうがずっと楽なものだ。

それでも「好き」なことで生きていきたいと思うなら、まずは健康に気をつけて、規則正しい生活と体に良い食事を心がけて欲しい。そんなものを気にしなくても「好き」に一直線でいられる人は、そもそもが超人なのである。「好きなことで生きていく」というのは、そんな超人たちと同じ舞台に立つということに等しい。それには、それ相応の覚悟と準備がいるものなのである。

2014-11-28

英国鶏肉の70%が食中毒菌汚染、対して日本は?

英国で販売の鶏肉、70%に食中毒菌というニュース。さすがイギリス、清潔という意味では日本の足元にも及ばない、まったくもってどうしようもないな欧米とかなんとか思いながらも、最後の一文が気になった。

カンピロバクター菌は加熱されることによって死滅するが、英国では毎年28万人がこの菌によって食中毒となっている。

英国で販売の鶏肉、70%に食中毒菌 写真1枚 国際ニュース:AFPBB News

加熱すれば死滅する菌になぜ毎年28万人もの食中毒を生み出すのだ?

我らが清潔なジャパンの汚染率も調べてみよう。

Q5 鶏肉はどの程度カンピロバクターに汚染されているのですか?

A5

(略)市販の鶏肉についてカンピロバクター汚染調査を行ったところ、カンピロバクター・ジェジュニが鶏レバー56検体中37検体(66.1%)、砂肝9検体中6検体(66.7%)、鶏肉9検体中9検体(100%)から分離されました。(後略)

カンピロバクター食中毒予防について(Q&A)

100%汚染されてますってよ奥さん!!

しかも発生件数的にも500件程度、人数も年間3000人くらいらしい。

なんでまたこんなもんで28万人も食中毒になるんだイギリス?

ちょっと考えてみたのだが、

  1. レアとかミディアムレアで食べてる
  2. 鶏肉を切ったまな板をろくに洗わずで生野菜サラダなどを調理してる
  3. 鶏肉はじつは無関係

くらいしか思いつかない。

どなたかイギリスの食生活に詳しい人、解説してくれないかなあこれ。

2014-11-10

にわか力を高める文章の書き方

頭が良さそうに見える文章の書き方という記事があったのだけど、なんとなくそのパロディとして表題のようなことを思いついたので。にわか力に関しては以前書いた「ニワカのうちに語っておけ」という記事を参照。

話を整理してみる

にわか力を高めるためには、話をとりあえず自分なりに整理してみることが大事です。わからないことはわからないでいいので、とりあえず筋をつなげて整理してみましょう。間違ってたら誰かがツッコんでくれますから安心してください。

今のこと以外のことも考えてみる

にわかの時期は存外短いです。せっかくにわかでいられるんですから、大胆に未来のことも考えてみましょう。詳しすぎると情報に縛られた狭い発想しかできないこともあります。情報が少ないがゆえに大きな視野で見られるというのはにわかの大きなメリットの一つです。

多角的に物を見てみる

にわかというのは先述の通り、持ってる情報が少ないがゆえにより広い情報を組み合わせて思考することが可能です。それも情報が増えるに従ってだんだん窮屈になっていきますから、今のうちに思い切って全然別の確度から見てみましょう。おもいきり明後日の方向にいくかもしれませんが気にしてはいけません。大胆に間違えられるのはにわかの特権です。

数字に触れる

とりあえずデータを見てみましょう。グラフを見てると相関関係が見えてくることもあります。にわかと言っても知らなくていいわけじゃないので、少ないなりに情報は増やして行きましょう。知ったことはどんどん知ったかぶってください。知識は人に語ることで脳味噌に定着します。誰かの迷惑だと思うのであればブログTwitterにでも書きましょう。間違ってれば誰かが指摘してくれますから細かいことは気にしないことです。

同じ単語を繰り返し使う

新しく知った単語はどんどん使いましょう。その単語を知らなかったということは自分の中にその概念がなかったという事です。概念を身につけるためには覚えたての単語をどんどん使いましょう。

覚え立ての専門用語をどんどん使う

専門用語も同様です。使わなければ覚えないんだからどんどん使いましょう。他人がとやかく言うのを気にしてたら何も学べません。

批判から入る

中二病と言われようがなんだろうが、批判から入るのはいいことです。物事は批判的に見ましょう。批判的に見るというのは、言い換えれば評価しながらみるということです。常に対象の評価を更新しながら物事を見て行きましょう。

締め

他人からどう見えるかという事と、自分がどうしているかということは、まったく別のことです。立ち止まっている人間が激烈な思考の中にいるのか、それとも単にぼうっとしているのかは、他人の目からはわかりません。

にわか知識をどんどん語り、圧倒的成長でもなんでもいいので一歩ずつでも前進しましょう。繰り返し語ることであなたの理解は深まっていきます。どうせにわかから脱したら何も語れなくなっていくので、にわかのうちにどんどん語っておきましょう。

2014-11-04

文系と理系の違い

どうも世の中では文系と理系を間違って区別してる人たちが多いようである。そのせいか教育現場などでも「数学のできる子は理系」みたいな誤った進路指導がされてるという話も聞くし、理系は頭が良くて文系は頭が悪いみたいな印象を持ってる人もいらっしゃるようである。

こうした考えは間違いだという事をもう一度確認しておいたほうがいい。

学問における文系と理系の違いは、その研究対象である。

文系とは、主に人間の活動を研究の対象とする学問の系統とされており、理系とは、主に自然界を研究の対象とする学問の系統とされている。

文系と理系 - Wikipedia

言うなれば、

  • 「人間とは何か」という問いに答えるのが文系
  • 「世界とは何か」という問いに答えるのが理系

ということである。

これらの問いに答えるのにどちらかにしか数学は必要ないと考えてしまうのはおかしいだろう。ましてや人間に関する研究は医学からのフィードバックもあり、ずいぶんと科学的な研究もたくさんあるのだ。また人間の経済活動を分析する経済学に数学は欠かせないし、人間の内面を研究する心理学統計の塊である。

さらに言えば、現代は数学の時代と言ってもいい。「世界は数学でできている」と言った人がいたそうだが、実際に数学というツールを使って世界を観測・推測すると見事に説明できるものがたくさんある。そのことに気付いた人類が自然科学を発展させ、現代文明を作り上げてきたのは確かなことだ。そうした科学の手法社会科学などで人間研究にも応用されるようになってきた。

人間というのは不思議なもので、個々人の動きというのはそう予想できるものではないのだが、これが集団になるとほぼ予想が可能になる。ある個人がどういう行動に出るか、というのを予想するのは難しいが、ある集団のうち何%がこういう行動に出る、というような予想はかなり正確にできるそうだ。

こうして考えてみると、そもそも文系と理系を明確に分けて考えることが難しいことも見えてくるだろう。たとえば人工知能の研究ははたして理系だろうか、文系だろうか。人型ロボットはどうか。

学問というのはその境目も曖昧である。古代ギリシアでは学問は3系統しかなかった。哲学、医学、法学である。中世に入りここに神学が加わったが、その後は自然科学の発達もあり、膨大な知識が再編成されたくさんの学問が分化して現在に至る。専業化が進んだとも言える。医学が科学の進歩によって飛躍的に人類の平均寿命を伸ばしたように、各分野はお互いに影響を与え合うし、明確なボーダーというのがそこにあるわけではないのだ。

文理両道はこの曖昧なボーダーを飛び越えて広範囲に膨大な知識を見なくてはならないのでとてもたいへんではあるのだが、現代のジェネラリストというのはそういうものだろう。

人類が積み重ねてきた知識というのは膨大だ。それをすべて吸収しようというのでは人間の寿命がいくつあっても足りない。どこかの分野に特化して身につけるしかない。そこで文系か理系かというのはあまりにも大雑把である。

大学側もあまり変な学部を作って子供たちを惑わせず、どういう学問でどういうことが学べるのかというのをもう少しちゃんと示してほしいなと思う。