2012-01-23
■あるべき大人像を模索していく
最近「生きる」とは何か、ということについてよく考える。定義するのは簡単だ。生きるとは、食べるものと着るものと寝るところを用意することだ。それらを用意する力を生活力という。
昔はこれがとても難しいことだった。コンビニもないし外食は金銭的に無理があった。服だって、ユニクロもなければしまむらも無かった。だから人は力を合わせて生きなくてはならなかった。それはジェンダーという社会的な性役割を生む結果にもなった。
その当時の大人像は、ただ黙々と働き、食べるものと、着るものと、寝るところを用意する日々を送ることだった。
だが時代は変わってしまった。資本主義経済、グローバリゼーションが生み出したものは、安くておいしい食事、安くて丈夫な服、安くて粗末だけど充分な寝床だった。少々のお金さえあれば、人は生きていけるようになった。
だからこそ、孤独の2文字が浮き立った。
人々は依存せずに繋がれる場所を求めた。それは今世紀に入って急激に広まったインターネットであり、ソーシャルネットワークだった。孤独は少し、追いやられたように見えた。
だがどうだろうか。人々はまだ孤独だ。インターネットは人々の出会いの場を広げることに成功したが、人肌のぬくもりを提供することは無い。孤独はそのぬくもりをもって初めて解消される。
昔は出会いの場は少なかった。だから狭い世界で出会った人と、多少のことは目をつむって暮らしてきた。昔の大人は我慢強かった。世界が狭いがゆえに、そこで生きて行くしかないことをよく知っていた。狭い世界は、15年や20年も人生を送れば一通りのものが見られた。その世界の外側があることは認識してても、届くものではなかった。好奇心は失われ、黙々と生きる日々を送ることができた。
いま、世界は事実上の無限に広がっている。人々との出会いはいくらでもある。聞いてすらもらえなかった話を聞いてくれる人々にもどんどん出会える。
住みたいところに住み、食べたいものを食べ、寝たいところで寝る。そんなのもそう難しい話ではなくなった。
広がりすぎた世界にいると、好奇心の満足することがない。飽きることがない。だって世界は無限だし。
好奇心を失うことが大人になることだった時代は、そこで終りを告げる。昔の大人から見れば、いつまでたっても子供のままに見えるだろう。落ち着くことがない。だってまだまだ新しいものが見えるし。
どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要ですという記事。この内容には大きく共感するものがある。無限の時代に生きる我々は、新しい大人像を模索する必要がある。
古代社会の大人たちは、過去から未来へと続く永続性のなかに生きていた。社会を良い状態に保ち、気が遠くなるほど遠い未来の子孫たちにもそれを残すことを責務としていた。しかし科学により神話がチカラを失い、人々の行動は「永遠」ではなく「人生」へとスケールダウンした。その結果、いまの大人たちは未来に責任を負わなくなった。
なにが大人だ、恥を知れ。
どう考えても若者論より「大人論」のほうが必要です
これはもう一つ、大人像を模索する軸となる。無限の世界と種の永遠。
この無限の世界で、種の永遠を意識しながら、つねに100年後200年後の子孫たちに思いを馳せながら生きて、子を育てていく。それが新しい大人像の一端となるであろう。
世界が無限ということは、可能性も無限ということだ。死ぬまで可能性を模索していくこともできるが、それはたぶん大人ではない。大人はどこかで決断しなくてはならない。
永遠をその手にするために。
2012-01-10
■困難な時代を生きる僕たちへ
なんとも陰鬱とした見出しと内容の記事があがっていたので。
このふたりは50代、60代であり、バブルまでの高度経済成長の中、社会に出て大人になった人たちだ。嫌な言い方をしてしまえば、社会に望まれて社会人になった人たちだ。
我々の世代は違う。団塊Jr、氷河期世代が社会から最初に受け取ったメッセージは「君たちは要らない子」だ。それはこの20年、日本社会が若者に向けて発してきたメッセージだ。
人生設計? そんなものに意味があるのかすらわからない。何がどう動くのか、自分は何に巻き込まれるのか。まったく想像が付かない。安全な場所なんてどこにあるんだろう。
年寄りは言う。若者よ、もっと視野を広げろ、努力しろ。
視野を広げてみた。中国が成長していた。東南アジアが熱かった。韓国の家電に、日本が負けているのが見えた。
努力してみた。覚えるべきことは年々増えていく。便利にはなったけど、その分ひとつのことだけをやって食える時代じゃなくなっていた。変化も早い。これをやっていて生き残れるのか? そう自問自答する日々が続く。
視野を広げれば広げるほどに、努力すればするほどに、絶望の朝を迎える日々が増えていく。
視野を広げろ、努力しろ、そう言った彼らは俺たちと同じ年齢のときに何をやっていたのだろうか。大学は遊ぶところだと言われていた。会社からぜひ入ってくれと懇願されていた。インフレに乗って大口の仕事を取って来ていた。
何一つ我々には無かったものだ。
10代の頃、すべてに絶望して何もかも捨て去ってみようとしたことがある。そうしたら、どうしても捨てられない3つのものが残った。哲学と文学と計算機だった。
哲学とは、思考すること。知を求めること。
文学とは、言葉と物語を慈しむこと。
計算機──コンピュータは、自分が自由であるための大事なパートナー。
仕事になったのは計算機だった。けれど俺の思考と言葉は、インターネットを通してたくさんの人に読んでいただけるようになった。
どんな学問や仕事を選ぶにしても「私にはこれしかできない」ことを基準にして下さい。これしかできない「これ」がわからなければ、死んでしまってはいけないけど、どん底まで落ちてみるのもいいし、友だちみんなちゃらにしてしまうのもいいでしょう。自分の死の形というのをくっきり見つめることができたら、グローバルスタンダード的にどう「格付け」されるかなんて、どうだっていいじゃないですか。自分の前に避けがたい一本の道が見えてきたら、それがあなたの人生なのです。
困難な時代を生きる君たちへ - finalventの日記
私自身は20代からずっと哲学の本を読むことと武道の稽古に打ち込んできました。とても楽しい時間でした。結果的にそれで生計を立てることができましたが、若いときは「そんなことやって何になるんだ」と言われ続けました。でも、気にしなかった。みなさんも「それが何の役に立つのかわからないけれど、どうしてもやりたい、やっていると楽しい」ことをみつけてください。そうすれば、「努力したけれど報われなかった」という言葉だけは口にしないで済むはずです。
困難な時代を生きる君たちへ %28内田樹の研究室%29
俺はふたりのこの言葉を実践していたことになる。思考することも、言葉を愛することも、計算機と戯れることも、これしかできなくて、楽しくてしょうがなかったことだった。
それでもまだ未来は真っ暗闇だ。今年の新成人は120万人だという。
総務省が31日発表した1月1日現在の人口推計によると、今年の「新成人」は122万人(前年比2万人減)で、5年連続で過去最少を更新した。
ピーク時の1970年(246万人)の半数を初めて下回った。男女別では男性62万人、女性60万人で、前年より1万人ずつ減った。
新成人122万人、ピークの半数初めて下回る : 社会 : YOMIURI ONLINE(読売新聞)
70年に成人した団塊世代。その子供世代である団塊Jrもボリュームがある。彼らの消費によって日本の経済は伸びて来た。だがもうそれも終る。100万人が買ってたものが50万人になり、もっと下がる。売上は半分以下になる。どうあがいても、国内需要は下がり続ける。
困難な時代を生きる我々がしなくてはならないことは、仕事を見付けて来ることじゃない。仕事を作ることだ。既にある仕事は徐々に後退していく。未来があるはずもない。新しい仕事を作りだしていく必要がある。
小さな規模でもいい。誰かの仕事を作ることが、自分の仕事になる。チャレンジは多い方がいい。万に一つの成功は、1万人がチャレンジして一人が成功するという意味だ。我々はそこに踏みこまねばならない。
絶望の朝を、希望の朝に変えるために。
2012-01-08
■あれが悪人だと指さす者の主観が悪を定めてる
かつてソクラテスは「善とは何か」を問いかけた。みな善や悪についてわかったつもりでいる。あれはいいもの、悪いものだと簡単に判断している。特に悪に対する判断は非常に軽薄だ。
中田宏「政治家の殺し方」という連載がある。政治家の殺し方という本の抜粋だそうだ。ここで無実の横浜市長がメディアや民衆によって「悪」にしたてあげられる様子が描かれている。
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こんなことは日常茶飯事だ。でなければこれほど日本の首相がころころ入れ代わるものか。誰かを悪にしたてあげることは、バカみたいに簡単だ。だって誰も本当の「善」も「悪」もわかってないのだから。
「悪」というものを考えるとき、とてもよい材料がある。昨年その子供向けのようなタイトルと絵柄からは想像もできないほどハードな展開でアニメファンの外側にまで流行した「魔法少女まどか☆マギカ」に登場する「キュゥべえ」というキャラクターだ。
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キュゥべえがどのような存在かというのはキュゥべえ先生から学ぶ交渉術という記事あたりでも参照してもらえればいいだろう。
さてこのキュゥべえ、一見すると少女達を言いくるめ、その命と魂を不当にだまし取る悪の存在に見える。本当にそうだろうか?
キュゥべえは目的を持っている。宇宙のエントロピー増大を食い止めるという目的だ。
「まどか、君はエントロピーっていう言葉を知ってるかい?」
(中略)
「僕たちの文明は、知的生命体の感情を、エネルギーに変換するテクノロジーを発明した」
「ところが生憎、当の僕らが感情というものを持ち合わせていなかった」
「そこで、この宇宙の様々な異種族を調査し、君たち人類を見出したんだ」
「人類の個体数と繁殖力を鑑みれば、一人の人間が生み出す感情エネルギーは、その個体が誕生し、成長するまでに要したエネルギーを凌駕する」
「君たちの魂は、エントロピーを覆す、エネルギー源たりうるんだよ」
「とりわけ最も効率がいいのは、第二次性徴期の少女の、希望と絶望の相転移だ」
魔法少女まどか☆マギカ WIKI - ネタバレ考察/台詞集/キュゥべえ
現実の物理学は置いておくとして、彼等は宇宙の均衡を守ろうとしている。大きく見ればそれは種の保存であり、世界の崩壊を遠ざける善行である。
彼等のやってることは身近な事例と何が違う? 収入の多いものを見付ければその半分を税として徴収し国家運営の資金としたり、資産の豊富な家庭に生まれた者からはそれを相続するときに最大50%もの課税をするのと何が違う?
法律だからだというのなら、そのような法律に同意した覚えはない。我々が選挙権を得る前に成立した法律なのだから当然だ。まだ契約をせまるキュゥべえのほうがマシではないのか?
人権? 彼等は人間ではない。異種生命体の命を軽んずるのは人間も同じじゃないか。鳥や豚を食べるのと何が違う?
簡単なことなのだ。我々は善や悪を絶対視しがちなのだ。考えてみればあたりまえのことで、善悪にはそれを定める主観が求められる。その主観の主体が個人であることもあるし、大なり小なりの共同体や組織であることもある。
ひとことで言えば、「我や我等に害なすものが悪」なのである。善はその反対、我や我等に利するものということになる。
善悪は主観で決まる。客観した世界に善悪はない。
誰かがそれを悪だと言うとき、そこには誰かの主観がある。誰かが「それは我等に害なすものだ」と言っている。その「我等」が誰かということを、一人一人が考えなくてはならない。
そう、自分自身が発する「我等」という言葉に、どこまでが含まれるのかということも。
2011-11-21
■食料自給率の前にエネルギー自給率とか考えようぜ
なんだか食料自給率の話が出てたので。
日本の食料自給率(カロリーベース)
39%。
日本の食料自給率(金額ベース)
69%。
同じく図録▽日本および各国の食料自給率の推移より。いきなり30ポイントもあがるのね。
日本のエネルギー自給率
18%。
ただし原子力含む。含まないと5%だってよ……。
東京の食料自給率(カロリーベース)
1%。
北海道の食料自給率(カロリーベース)
187%
図録▽都道府県別の食料自給率より。圧倒的。
日本の文字自給率
0.53%。
JISX2004により日本語の漢字は13145文字使えるようになった。ひらがなはJISX208で83文字、片仮名も86文字規定されている。ということで漢字+平仮名片仮名の文字数から平仮名片仮名のみの文字数を計算するとだいたいそんな数字に。
日本のOS自給率
0%
ソース無し。だってWindowsもMacもAndroidもiOSもアメリカ産だぜ? ガラケーだってLinuxベースやSymbianベースだし。昔はTronもあったけど……。
日本の萌え自給率
100%。
これは文句無いでしょ。輸出量もあるから100%は確実に越えてるはず。関税障壁などなくても米自給率より高いに違いない。しかし昨今は韓国台湾タイ等々からよい萌え絵師たちが育って来ているので油断はできない。
ちなみに昨今は韓国からの輸入によりイケメン自給率の下がってる日本でありますが、さてはて本当に強い産業ってなんだろうね。
2011-11-06
■いつか孤独死する自分と、土の家の家族
タイ王国北部、新都の意味を持つチェンマイという古都に ディンディーという名のカフェがある。チェンマイ大学美術館の敷地にたたずむ、土のドームで作られたカフェだ。
オーナー兼店長の日本人女性はとても素敵な方で、その手から生み出される料理は日本をベースにしながらも日本食ではなく、かといってタイ・ローカルにも染まらない、深くて素朴な味わいを提供してくれる。
昨年たまたまこの店を訪れて以来、すっかり虜になった俺は、再訪の機会を伺っていたのだが、ようやく来ることができた。うれしいことにオーナーさんも俺のことを覚えててくださり、帰り際に「よろしければ」とひとつの案内状を手渡してくれた。
11月5日土曜日よりカフェ・ディンディーを舞台に開催されるギャラリー「Family」の案内だった。
家族。イラストレーター戸田桃子さん、アイアン・アーティストのルカーさんというご夫妻と、その息子さん、娘さん。4人の家族。
その4人が、土の家に自身のアートを飾り付ける。その開催パーティに、チェンマイで暮らす人々が集まって来ていた。日本人もタイ人もハーフもいた。それぞれが家族だった。
故郷の家族、共に暮らす家族。そしてきっと、ここに集まるひとつの村としての家族も。初日は4人の家族が揃って、挨拶をしていかれた。そこで読まれた息子の視点から描かれる詩は、ひとつのテーブルに集う家族のあり方を、淡々と、そして深く読み上げた作品だった。俺はその姿に、涙を堪えるので必死だった。
挨拶が終ると、ルカーさんの友人というオカリナ奏者が、心地よい音色を聞かせてくれた。著作権とか演奏権とかじゃない、楽しむとか楽しませるでもない、ただそこにいる人々とひとつになる、そんな音色だった。
アーティスト、芸術家、作家。そんな日本語が生み出す印象とは違う。もっと地に足が付いてて、根を張って、人と人との間に静かに入り込んでいく。アートというのは変人の言い訳でもなければすかしたオシャレでもなく、ましてや別世界の話でもない。日常に根差し、土にまみれ、共同体の中に深く根をおろしていく。
本物のアーティストとはこういう人たちのことを言うのだろう。
彼らはその生き方と生活と作品をもって、家族を表現してる。それはてらうものでもなく、ただそこにある、自然な人の生き方。
かつて俺が切望した家族の姿が、そこにあった。
俺は家庭というものによい印象をもっていない。自分で家庭を作る気もない。だが団塊ジュニア世代として当然迎える事になるであろう孤独死に、ささやかな怯えはある。かつて普通だったもの。年老いて、若い世代に見送られ、現世を旅立つ。それが叶わない時代に、俺たちは突き進んでいる。
家族。それは人の自信の源でもあり、もっとも小さな社会。そこに幸福があるから、人はふん張って生きていられる。そういった家庭形成のプロセスは、とても興味深いものだ。
一人でも多くの人に、自信の源になる家庭を形成して欲しいと思う。誰かの依り所となる家を、作って欲しいと思う。そのあり方は、従来の概念にとらわれる必要は無いのだし。
若者のいない社会は、我々団塊Jr.世代が老後を迎えたときに最大化する。俺たちは、その時迎える死を幸福にするために、新しい形の家族を探し続けねばならない。
あの土の家に集う、家族のように。









