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2018-06-16 セックス・アンド・ザ・シティとか このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 セックス・アンド・ザ・シティや、プラダを着た悪魔

最近観た。女性を描く作品に興味が湧いてきていた。

 宣伝などで昔抱いていたのはニューヨーク肉食系女子ブランドに身を固めてイケてる強いリア充として若さ謳歌するイメージだったが、実際にはむしろ、そうしたイメージのなかで自分を見失わないために、自分自身や仲間との間で様々な関係で揉まれて強さと弱さと付き合って自分らしさを見いだしていく必要があることが描かれている。それは輝きというよりも泥臭くきつく痛々しい、苦しみと孤独と哀しみ、悲劇的な事態からの復活などが中心的なモチーフになっているように思えた。

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2018-06-15 幸せというものを探す

 幸せというものを探す。

 過去現在未来を探す。ふと、もう興味を失ってしまう。

 何を探していたのか、分からなくなる。探すべきもの名前

どのような姿の、匂いの、手触りの、大きさのものなのか知らないでいる。

 知らないうちに思い込んでいた。

 みんなそれを探しているんだと思っていた。だから自分も、それを探している気になっていた。

探すべき感性

10:06 | 探すべき感性を含むブックマーク 探すべき感性のブックマークコメント

 探すべき幸せを知らない。花が咲いていて幸せを感じる感性を知らない。

川が流れていて安らぎを覚える感性を知らない。樹木の幹に手をあててその中に息づく水の流れを感じる感性を知らない。

 ただ風が、土の香りが胸を一杯にし、気持ちが柔らかな安堵と汗の悦びに酔いしれる気持ちを知らない。知らないものは探せない。

 そうだろうか? 探すべきものを誰よりもはっきり知っていた。なのに頑なにそれを畏れて、拒んできた。探したくなかった。逃げ出したかった。幸せを感じてしまいたくなかった。

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2018-06-08 初めてのPerl このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

はじめてのPerl読み始めた。

初めてのPerl 第7版

初めてのPerl 第7版

練習問題コードを書いてみた。

練習3.9の2番のやつ。

chomp(@r = <STDIN>);

@list = qw(
		fred
		betty
		barney
		dino
		wilma
		pebbles
		bamm-bamm
	);

foreach $r(@r) {
	print @list[${r}-1]."\n";
}

スカラーコンテキストリストコンテキストというのがあるようだ。

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2018-06-07 対立は名付け行為に由来する このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

 対立というのは名付け行為に由来する。


 こんな風に仮定して考えを進めてみるとどうだろう。

 人間というのは、名前を付ける生き物である。おそらく、言葉というものは、もっと原始的な姿では名詞のみの声であったのではないか。根拠はなにもない。しかし、リンゴリンゴママ!パパ!それはみんな、名詞である


 生まれたばかりの赤ん坊世界には、まだ何の名前存在していないかもしれない。


 世界は巨大なひとつの何かで満たされているという風に、理解するほかない世界観を、赤ん坊は生きているのかもしれない。だが、やがてそこに一つの名前が与えられるだろう。それは「ママ」という声だ。自分を包み込み、母乳を与えてくれる存在と、それ以外とを区別する言葉が与えられる。その時、世界とは、まだ「ママ」とそれ以外のもののことであった。


 そうして「パパ」や「カレー」や「はんだごて」などの言葉を次々と獲得しながら、赤ん坊は新しい想像力を得ていくのだろうか? ある意味ではそうかもしれない。知らなかったことや見たこともないことを言葉から予期し、想像していくことができるようになる。だが変化は目の前でも起きるのではないか。つまり、当初「ママ」とそれ以外という風に感じられていた風景の中に、さまざまな微細な区別が生まれ、小さな違い、別々の物体が見つかるようになってくる。リンゴママの傍らにおいてあったことが見つかってくる。それまではそれは、リンゴではなかった。「ママ」以外という巨大な何かの一部分でしかなかった。


 我々はそのようにして得ていった言葉によって論理的思考を行っているように思われる。


 しかしここに哀しみの根源もある。

 何かに名前を付けるとき、人はそれを自分自身とは別の存在であるという風に、対象化することによって名付けられた対象から切り離されてしまう。場合によっては自分を現す名前によって、自分自身からさえ切り離されてしまう。知覚する視座と知覚される対象。視座は自分自身を見つめる時に自らの仮構へと引き離されてしまう。

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2018-06-04 意思の弱さと罪について

 むかし浄土真宗について調べていたとき悪人正機なる言葉めぐりあった。

 それは、悪人こそ救われるべきだ、という考え方だそうであるビックリ仰天ではないだろうか。善人というものがもしいるなら、その人はもう救われている。救いを必要としているのは、悪人なのだという。


 心に一転の曇りもないならば、その人は善人であるサイコパスでもない限り、人は誰もが自分の行いが正義なのか悪なのか確信を持たない。自分たちにとっては正義でも、社会にとって悪ということはありうる。例えばテロリストたちは実は正義を掲げて虐殺を行ってきたのだ。

 地球環境を守るためには人類抹殺すべきだという考えが正義なのか、無惨に命を落とす難民たちの住環境を守るために森林草原を埋め立てるべきだという考えが正義なのか、いくらでも議論することはできる。だが、身の丈に合わず何様のつもりなのかという気もする。


 何が正しいことなのかを人は延々議論してきたが、まだはっきりとはしていないのではないか。だから法律がいまだに作られるのではなかったか。そのための議論をかわりにやってくれる人たちを選挙で選んで、である


 何が正しいことなのか声高に叫ぶことができる人々が不思議に見える。その自信はどこから沸いてくるのだろう。自分はまだなにも知らず、信じていることも実は間違っているかもしれない。そう仮定しながら、常に土台から確かめ直す、考え続ける。そうしなければならないと思う私は、信じる正義をもたないという意味で、悪人なのかもしれない。


 道をはずした悪人であるがゆえに、思い悩む。そこにある罪とは、意思の弱さなのかもしれない。

ポール・グレアム氏のエッセイのように

19:01 | ポール・グレアム氏のエッセイのようにを含むブックマーク ポール・グレアム氏のエッセイのようにのブックマークコメント

 ポール・グレアム氏のあのハッカー画家というエッセイが好きだった。どこへいってしまったのかわからなくなったけど本屋に見つけて、続編のいくつかを買おうかなと思って立ち読みしたのだが、なんとなく迷って、止めてしまった。しかしああいう、コード随筆が入り混じったような文章が好きだ。それは美しく知的に見える。伊藤計劃氏のハーモニーを、彼女歯医者に付き添いで言った時、本棚に見つけて立ち読みしたのだが、もっと洗練された形があるように思っていたところで、思い出したのだと思う。プログラマーコードだけで何かを主張しようとしてしまいがちだ。コードはそれ自体思想からであるコード政治であり、哲学であり、法であり、現実に人々の選択肢支配しているように思える。アーキテクチャは人を駆り立てるエンジンのような働きをしている。だが、それ自体は、関係者しか読み解くことができない暗号にすぎない。今、必要なのはもっと公のコードだ。それはドレスコードのように、人々を引き立てあるいは制約する。

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