自閉症って何だ?

 趣向の違う二題を読んだ。小児専門を自称しながら、発達障害は専門外としていた。が、そうも言ってられなくなった。ので、早速幾つかを読み漁った。
 従来の自閉衆論に異議を唱える村瀬氏は、私が属していた派閥の一人だということが分かった。ボスのI先生は、自閉症を含めた発達障害は、個性であり、世界の中を自由に動き回れる存在としていた。理屈は分かる。精神の病は我々自身の中にあるという論法だ。だが、考えてほしい。「個性」としてしまえば、全ての病は「病気」ではなくなり、「治療」の対象から外されてしまう。村瀬氏は自閉は関係性の中で論じられるべきで、そこにあるのは「ちえのくれ」だという。では、そう認めたとして、私たちは何ができるだろう。より自由な関係性が保てるだろうか?。「ちえのおくれ」のある人それぞれに個性はある。しかし、個性とはいいきれない、際だった「偏り」がある。その「偏り」に対して、触れあった人間たちはそれを受け入れようとし、理解しようとする。そこには知識や経験の継承はない。その場でしか生まれない「関係性」だからだ。
 全く見聞きしたことのない空間に放り出されると、誰でも不安になるだろう。村瀬氏の言うように、私たちは存在の座標を求め「序列」を探そうとする。怒りっぽい相手には時に腫れ物に触るように対し、悩める人には共感的になるだろう。では「ちえのおくれ」のある人に対して私たちは何ができるだろう。村瀬氏は「ちえのおくれ」のある人を「症例」として扱うのは間違いだと主張する。本当にそうだろうか。何らかの問題が生じたときに、それに適切に対処する方策を、特有な「ケース」としてまとめあげ、相手を理解しようとする試みは間違いだというのだろうか。
 確かに病気としてまとめ上げて相手を見ないのは問題かもしれない。しかし、「ちえのおくれ」のある彼らと、真っ正面から向かい合える人がどれほどいるのだろうか。そういう人たちが「症例」を分類し、「囲い込む」ことで安心を得ようとしても良いのではないか?。世間は特別優れた人ばかりが住んでいるわけではない。少なくとも私にはその能力はない。あるいは、彼らを真正面からとらえようとする気持ちは、彼らに失礼ではあるまいか。私はあなたを理解しようとしています、というのは傲慢ではないか?。
 考え出すと眠れなくなるので、これまで。