エイガ・デイズ このページをアンテナに追加

「お世辞をいうのは、愛情のない証拠です。お世辞をいうぐらいなら、皮肉をいってあげた方が愛情です」(川島雄三)

2016-05-29

Kurobaku2016-05-29

[]ヒメアノ〜ル(日:日活、ジェイ・ストーム2016 吉田恵輔監督)

職場の先輩(ムロツヨシ)に、喫茶店で働くかわいい子(佐津川愛美)の仲介を頼まれた冴えない主人公(濱田岳)。仲介をしているうちに佐津川が濱田に惚れてしまい、二人はムロ先輩に隠れて付き合うことに…といったラブコメディ。かと思ったら、佐津川にはもう一人、怪しいストーカーの男(森田剛)がいて、こいつがトンデモない奴だった…。

いや、最初はそれでも二人の変態の間に挟まれる濱田―佐津川カップルの苦悩を描く変化球ラブコメディだと思ったんだけど、途中で唐突に映画のタイトルが出てから、まさかこんな猟奇連続殺人映画に突入するとはねえ。吉田監督の映画を全部見ているわけではないが、私が今まで見ている範囲では明らかに異色の作品である。

ジャニーズに興味があるわけでなく、V6なんて今までそれほど意識したことないけど、この森田剛の演技にはビックリした。特に最初の惨殺場面。山田真歩を失禁するまで鉄パイプで何度も打ちつけるところは生々しく酸鼻を極めていた。そのあとはまるで毎日の食事するかのようにどんどん平気で人を殺して渡り歩く生活になるのが、ごく自然に演じられていて、すごかった。もう今後、森田はどんなに爽やかな役を演じても、裏で何か悪いことをしているんじゃないだろうか…と疑いを持つぐらいのレベルにまで到達してしまった。

そんな森田剛の演技につられたわけではないだろうけど、これまで他の映画で見かけてもパッとしなかった佐津川愛美が大胆な濡れ場を演じてて、これまたビックリした。幼児体型なので、そのギャップが余計に背徳感を煽って困る。そしてまさかの濱田岳までもが、裸になって濡れ場を演じることになるとは…。改めて考えてみたらこれ、とんでもない映画だ(笑)。

しかし、物語の最終的な帰結が「昔いじめられていたから」とちゃんと整合性に基づいた理由付けがされていて、いまいちだった。こういうのは理由がない(理由がわからない)から怖いのだと思うが、説明されてはなあ…。しかもラストカットは中学生時代の、ある夏の回想になって、なんだかいい話風に終わらされると、偽善性すら感じる。さっきまで森田が奪ったライトバンが、道端に倒れていた運転手をちゃんと踏んづけていくような鬼畜な演出をしていたくせに、とすら思った(笑)。でもまあ、ここまでエゲつない日本映画もなかなかないので、じゅうぶん面白かったです。

<5/29(日) MOVIX堺 シアター3、座席H−10にて鑑賞>

[]ディストラクション・ベイビーズ(日:DLEほか2016 真利子哲也監督)

うっかり『ヒメアノ〜ル』と同じ日に見てしまったが、こっちの暴力はまた別のアプローチである。『ヒメアノ〜ル』が実録風リアリズムだとすると、こちらは暴力を寓話的・象徴的に描いたという感じ。

なにが寓話的なのかというと、柳楽優弥扮するこの芦原泰良というキャラクター、ただ人を見れば理由もなく殴りかかる存在というのがまずありえない…ありえないけれども、もしもこんなヤツが実際にいたら、という形で、映画が作られているのが寓話的なのである。で、この泰良は何を象徴しているのか考えると、人を暴力へいざなう起爆剤、人を暴力へ導く挑発そのものといったところだろうか。人は泰良の前では、かしこぶって取り澄ましていることができなくなる。なにしろ取り澄ましていたら、ボコボコに殴られるのだから、こっちもやり返さずにはいられないのである。こうして暇をもてあましているチンピラ学生はもちろん、街のヤクザ(三浦誠己)も泰良の挑発に乗って、生き生きと暴力に参加する。ただ彼らは暴力世界の住人であることでまだ救いがあるが、部外者の裕也(菅田将暉)が参加することによって、泰良はその外部へと解き放たれる。

この裕也というキャラクターは暴力世界の住人ではない。おそらく泰良と出会うまでは、普通の高校生だとか、友達だとか、息子だとかいう日常の仮面をかぶって、平凡に生きてきたはずである。だが泰良との出会いで、隠していた「女への暴力衝動」という本性が爆発する。同様にキャバクラ嬢那奈小松菜奈)も万引癖からもわかるように、内面に闇を抱えているのだが、泰良たちと出会うことによって、その闇が暴力という形で解放されることになる。

面白いのは泰良が、裕也や那奈の暴力や非道な行いを見ても、ただニヤニヤと傍観しているところだ。泰良にとってモラルは関係ない、どうでもいいことだ。この暴力的世界に参加してくれればそれでいいのだ。で、結局、この泰良という存在とは一体どこから生まれ出てきたものなのか、となるのだが、それはこの映画の最後にヒントがある。愛媛県松山の喧嘩神輿である。大阪にも岸和田のだんじり祭りという過激なイベントがあるが、祭りとしての暴力、暴力としての祭り、そういったものが浮かび上がってくる。誤解を怖れずに思いきって書くが、人は祭りの前では暴力衝動は抑えられないのである。そして祭りが一度始まってしまえば来る者は拒まず、ブッ倒れるまでそれは続くというわけだ。

なお泰良の弟、将太(村上虹郎)が必死になって兄を探す姿が同時平行して描かれる。これは監督のインタビューによると、泰良ではなく、その家族に十字架が背負わされるという重みを描きたかったということらしいが、それほど伝わってこなかった。というのは、やはり泰良という存在が、先にも書いた暴力の起爆剤としての象徴であり、最初から人間扱いされて描かれていないからだと思う。ラストも銃声で終わらせようとしたようだが、最終的にやっぱり生きていたというワンカットが追加されている。結局、人の内面から暴力衝動は決して消えることはない、ということを描いているのだ。

それにしても主要キャスト3人の役者はみんなよかった。柳楽優弥はほとんどセリフなしで、ひたすら凶暴な生き物という感じで演じている。菅田将暉も不愉快なイヤな奴を好演。しかし何といっても小松菜奈。正直、こんな役者根性のある女優とは思っていなかった。撮影現場の殺伐とした感じが画面から伝わってくるね。相当な追い込みがないと、あのキレた那奈の演技はできなかったと思う(役名が同じっていうのもヒドい仕打ち)。昨今、毒にも薬にもならぬ少女マンガの映画化が流行っているが、そこでヒロインを演っているような女はみんな真利子哲也の映画に出て、徹底的にいたぶられればいいと思う(←あ、こっちも泰良に煽られて暴力的になってしまった)。

<5/29(日) MOVIX堺 シアター1、座席H−8にて鑑賞>

[]テラフォーマーズ(日:ワーナー・ブラザース映画ほか2016 三池崇史監督)

のっけから『ブレードランナー』みたいな未来の無国籍タウン(というか、十三あたりの飲み屋街)が出てくるが、パロディなのか、一生懸命やってコレなのか、判断しがたい。全編ずっとこんな調子で、本気なのか、冗談なのか、よくわからない。ハリウッドみたいにちゃんとできないので、冗談っぽくしてごまかした? いや、むしろ冗談みたいな設定で、ビジュアルも冗談で、冗談も冗談(なんだそりゃ)なんだけど、一応ストーリーはちゃんとあるよ、みたいな感じなのか。それだったら、ストーリーも冗談にして統一しないといけないのではないか?(かつての『D.O.A.』みたいに)

一応、伊藤英明たちが、小栗旬に騙されて火星に行ってヒドい目に遭うが、復讐心で伊藤一人が生き残り、小栗をシバキに地球に戻るというストーリーはマトモだと私は思うのだが、他がふざけているので、真剣に見てられないという最近の三池映画によくある現象が本作でも起こっているわけである。

それでもがんばって好意的に見れば、三池監督としては懐かしい石森章太郎のヒーローものをやりたかったんだろうな、という気もする。火星に送り込まれた登場人物は対テラフォーマー(進化したゴキブリ)用に、それぞれ何かの昆虫のDNAが組み込まれていて、その昆虫を模した姿に変身して戦えるという設定。まんま「仮面ライダー」や「イナズマン」を彷彿とさせる(というか、後者は見ていて思いだした)。たぶん三池監督は昭和の「へんしんヒーロー」ブームの直撃世代じゃないのかな。そういえばその昆虫の設定もいちいち凝っていた。菊地凛子が変身するエメラルドゴキブリバチなんか知らなかったので昆虫の勉強にもなった(笑)。たぶん最新VFXでそういうのをやってみたかったんだろう。しかしここで異論を挟むと、あれはあくまで昭和時代の着ぐるみで、大野剣友会の技斗だったから、よかったんじゃないかと思うんだ…。

どちらにしろ、子ども向けのヒーローものを作るのなら、何より作り手の方が本気になっていないといけない。冗談は不要である。

<5/29(日) MOVIX堺 シアター4、座席I−10にて鑑賞>

2016-05-26

Kurobaku2016-05-26

[][]ガルム・ウォーズ(日:バンダイナムコエンターテインメントほか、カナダ2014 押井守監督) ※日本語版で鑑賞

最初に世界観の設定説明が出るのだが、とても一度でわかるようなものではない。はるか昔、創造主ダナンによって作られた惑星アンヌンでは、ガルムと呼ばれる8つの部族が互いに覇権争いをしていて、5つの部族が全滅し、残りのコルンバ、ブリガ、クムタクの3部族が…とか云々。もうこれだけでもカタカナの固有名詞が多く、さっぱり頭に入ってこない置いてけぼり状態である。こういう複雑な設定のものは小説(あるらしいが)やTVのアニメシリーズなどでじっくりやった方がいいと思うのだが、それをまた93分でまとめてしまおうというのだから無謀としか思えない。

それでも結局、自分の所属部隊から脱出したヒロインが、敵対する他部族の三人たちと一緒に旅をしているうちに、連帯感や愛に目覚めるというわかりやすい展開になる。しかしいくら登場人物たちがクローンで、機械化されているという設定とはいえ、観客が彼らに何の感情移入できないというのは困りもの。はっきりいえばキャラクターが薄っぺらいのだ。最終的にヒロインは自分の存在に疑問を持ち、創造主の怒りに触れて最終戦争が始まるみたいなことになるのだが、これまたどこかで聞いたような既視感のある物語で、見ていて引き込まれるものが何もない。ついでにいうと、戦闘やアクションといった見せ場も特になかった。

あとはご自慢の特撮映像ということになるが、これもヒドい代物であった。元々は1997年に製作費60億をかけた一大プロジェクトとして企画されたもの(今回はその三分の一の20億と公称)。製作総指揮にジェームズ・キャメロンの名前まであった(ランス・ヘンリクセンが出演しているのはその名残りか)。当時ならデジタルCGと実写の融合もまだ珍しかっただろうが、今の映画界ではそれがごく普通の状態になってしまっている。

当然のことながら登場するイマジネーションも古びてしまっている。例えば戦闘空母の描写など『ファイナルファンタジー』系のゲームで見るようなありふれたもので、何の驚きもない。わざわざカナダまで出かけて撮影したという森林も、緑色がデジタル特有の、目がチカチカするような不自然さで映像美にはほど遠かった。たまたまNHKが作った4K実写ドラマ『精霊の守り人』をちらっと見る機会があったが、似たり寄ったりのイメージであった。いったいどういうCG特撮スタッフが担当したのだろうと思うが、公式HPやチラシにそういう情報が一切ないので、宣伝になるような優れた人は参加していないのだなと想像できる(というか、プロデューサーといった基本情報すらない。もしや汚点なので隠したいのか?)。

押井監督の昔のアニメ作品の映像イメージは、独特の、息を呑むような美しさが随所にあったのだが、近年の作品ではそういう美しさは完全に失われている。ピンボケのデジタル映像ばっかりだ。新しいメディアに貪欲なのはいいが、ちゃんと見せられるレベルのものになってから発表してほしいものだ。

つまりこの映画には何の魅力も感じられなかった。

最後に。私は鈴木敏夫が監修した日本語版(声優吹替え版)で見たのだが、圧倒的に日本語版の上映回数が多く、しかも字幕版は限られた劇場のみであった。おそらく先に行われた北米公開の結果が思わしくなったので、日本での宣伝は鈴木に全て任せたのだろう。当然、その日本語版が優遇される。大笑いなのは、先にも触れたとおり、公式HPやチラシには映画を実際に製作したスタッフ名(押井と音楽の川井憲次は除く)が一切なく、代わりに日本語版プロデューサーの鈴木と、宣伝コピー担当の虚淵玄の名前が載っていることである。コピー担当者の名前って…なかなか前代未聞だよ? 苦肉の策にもほどがある(笑)。せめて「日本語版協力」ぐらい書いてあげろよ。鈴木は自分にネームバリューがあると思っているのかどうか知らないが、その甲斐あって、大阪では2週目以降は一日1〜2回程度の上映しかなく、結局ひと月も持たずに上映は終了した(6月19日記)。

<5/26(木) TOHOシネマズなんば スクリーン3、座席H−9にて鑑賞>

[]ヘイル、シーザー!(米2016 ジョエル&イーサン・コーエン監督)

1950年代のハリウッド。撮影所内のトラブル処理を専門に請け負う男(ジョシュ・ブローリン)が、歴史スペクタクル大作出演中のスター俳優(ジョージ・クルーニー)の誘拐事件解決に向けて奔走するって話だけど、シリアスな犯罪ミステリーではぜんぜんない。当時のハリウッドを題材にしたナンセンス・コメディ、という感じ。コーエン兄弟は『ノーカントリー』や『トゥルー・グリット』みたいな本格的な映画を作る一方で、どうしょーもなく意味のない、ふざけた映画も作る。『ビッグ・リボウスキ』や『バーン・アフター・リーディング』などがそうだった。本作もその路線の一本である。

コメディとしては西部劇俳優(アルデン・エーレンライク)が、現代劇に出演して、西部なまりが抜けず、何回もNGが出るところがおかしかった。この場面のコーエン兄弟のしつこさは特筆もので、ついには監督の名前、ローレンス・ローレンツレイフ・ファインズ)のどっちが姓でどっちが名かこんがらがってくるあたりなど笑わずにはいられなくなる。双子の芸能記者(ティルダ・スウィントンの二役)も面白かった。二人が同一画面に決して現れることがないのはたぶんギャグだ。

しかしなんといっても白眉は、1950年代のハリウッド映画を完璧に再現したことだろう。スカーレット・ヨハンソンの水中レビューのミュージカル映画は、おそらくエスター・ウィリアムズの『百万弗の人魚』あたりの再現だろうか。映画の中では清純そうな彼女が、撮影が終わるとアバズレ風になるのが笑わせる。それからチャニング・テイタムが水兵姿で踊りまくるミュージカル映画の再現もお見事(元ネタは『踊る大紐育』あたり)。テイタムは『マジック・マイク』のような映画もやっているから、ちゃんと踊れるんだね。ここはワンシーンまるまるやっていて、コーエン兄弟ミュージカル映画にも一度チャレンジするべきではないかと思った。

他にもアルデンが馬に乗ってアクロバティックなアクションを披露する『ロイ・ロジャース』風の西部劇。その場面よりも、彼がギターを弾くまでのくっだらない会話(月をいただくとか言って、水桶に映った月に飛び込む)なんか当時のB級西部劇の雰囲気がよく出ていた。また先のローレンス・ローレンツが作った映画のオープニングがチラリと映されるが、これがまたいかにも当時のインテリ監督が撮りそうな感じでさもありなん。一番手抜きなのは、案外、メインになっている歴史劇の再現じゃないかと思えるほどだ。

かように、本作はコアな映画ファン向けに作られているので、そういうのがわからない人にはさっぱり面白くないかもしれない。もっとも赤狩りのくだりなど、わかってもあまり面白くない部分もあったけど。またドルフ・ラングレンやクリストファー・ランバートがどこに出ていたか、といったさらに上位ランクな映画マニア向けクイズもある(違う)。

まあ、多分にお遊び的要素の強い一本なので、こちらも気楽に見られた。

<5/26(木) TOHOシネマズなんば 別館シアター11、座席J−7にて鑑賞>

2016-05-24

Kurobaku2016-05-24

[]いらっしゃいませ(日:東宝、東京映画1955 瑞穂春海監督)

シネ・ヌーヴォ名画発掘シリーズvol.2、女優・香川京子の第4弾。

今回は、香川京子は脇役で、主役は41歳の男やもめの森繁久彌。画家をやっていた彼が、どういうわけかデパート(百貨店)の面接を受け、婦人服売場の誂部(オーダーメイドで服を作る部署)に採用されるところから始まる。新人で、場違いな感じもある森繁が、だんだん仕事を覚えて馴染み、ついには誂部のデザイナーにまで成長するのを、デパート(擬人化)が語るナレーション形式で進められるコメディである。ドラマ仕立てで、ある業界の裏側を見せるというジャンルの、これはデパート版であるが、この映画が作られたのが1955年だから、さらに時代風俗的な映像価値も発生していると思われる。ちなみに劇中では「高砂デパート」という架空のデパート名であるが、当時あったどこかの有名デパートがモデルに違いない(セットにしてはよくできている箇所もある)。東京なので私にはわからないが。

しかし、途中から森繁久彌が、同僚の香川京子、専務の2号である瑳峨三智子、下宿の未亡人である中北千枝子の三方から一度に言い寄られ、右往左往するという喜劇の方がメインになる。いわば森繁版『モテキ』といったところか。森繁といえば私はエロ親父のイメージなのだが、この頃は「駅前」シリーズすら始まっていないので、女から言い寄られてもオロオロと困ってしまう真面目半分のキャラクター。まだはじけておらず、あまり面白くなかった。

一つ、ニヤリとしたエピソード。婦人服売場の誂部でデザイナーになった森繁が、客相手に「伊東絹子なんて私の弟子ですよ」なんてホラを吹きまくり、控え室に帰ってみると、椅子に坐ってファッション誌を読む伊東絹子本人がいる。森繁がびっくりすると、伊東が笑って立ち上がり「センセ、また教えてくださいね」とかなんかと皮肉を言って去っていく。この場面だけの特別出演である。私はちょっと前まで伊東絹子なんて知らなかったのだが、今年2月に市川崑特集でやった彼女主演の『わたしの凡てを』(1954、「2月に見た映画・中」参考)をたまたま見ていたので、このギャグがすぐわかった。伊東はミス・ユニバース入賞で有名になり、日本のファッション・モデルの先駆けとなった人物である。

<5/24(火) シネ・ヌーヴォにて鑑賞>

[]園子温という生きもの(日:ネツゲン、日活2016 大島新監督)

見たときのタイミングが悪かったな。イメージフォーラム・フェスティバル2016で掟破り・型破りの衝撃ドキュメンタリー『俳優、ヘルムート・バーガー』を見た後だったので、「なんだ、このぬるいドキュメンタリーは?」となってしまった。せめて園子温を怒らせるぐらいまでやらないとダメだ、とかは言わないけど…いや、やっぱりそれぐらいやってほしかったよね。

内容は園監督のバイオグラフィー(および回想)と、新作映画『ひそひそ星』のメイキングの二本柱でまとめた、という感じ。園の信奉者のインタビューとかぜんぜんいらないし。ちょっと珍しいな、と思ったのは園の実家を訪ねるところぐらいかな。学生時代に園が書いた映画ノートとか見ると、ごく普通の、地方の映画ファンだったことがわかる。みんなやっているんだな、と親近感が湧いた。でもそれくらいで、あとは日本映画ファンならだいたい知っているようなことばかり。

チラシによると、大島監督はテレビの「情熱大陸」で園を一度取り上げたけど、「テレビに収まりきらない規格外の園の魅力を描きたい」とこの映画を作った、となっているが、この程度のドキュメンタリーならぜんぜんテレビに収まると思う。もし収まらないとしたら、視聴率がとれないとか、その程度のことだろう。ちなみに…これもチラシにわざわざ書いてあったから言うけど、監督は大島渚監督の次男らしい。本作を見る限りでは、ぜんぜん大したことないと思った。

<5/24(火) テアトル梅田 劇場2、座席F−3にて鑑賞>

2016-05-22

Kurobaku2016-05-22

[]64-ロクヨン-前編(日:TBSテレビほか2016 瀬々敬久監督)

昭和64年に起き、未解決になった少女誘拐事件が本筋であることはわかるが、この「前編」では警務課の広報官という役職を描く方に重点が置かれている。ある交通事故が起き、加害者の名前を明かせと迫る記者クラブと、加害者が警察の偉いさんの関係者だから絶対に身元を明かすな、と強要する上司との間で板挟みになる佐藤浩一。刑事ものはたくさん見てきたが、これはあまり描かれていない役職だけに、なかなか新鮮で面白かった。警察が記者たちに接待するような部分もちゃんと描いている。しかし、警察などの公務員はどれだけがんばっても数年で部署の異動があるので、信頼関係を築いてもあまり意味がないと思うけど…そんなん言うたらアカンか(笑)。

まるで日本映画の実力俳優をずらりと揃えた豪華キャストも本作の売りの一つであるが、昔のパニック映画のような顔見世で終わらせるのではなく、適材適所という言葉がぴったりな巧い使い方に好感を持った。特に記者クラブ代表の瑛太、佐藤の上司である滝藤賢一、県警本部長の椎名桔平、広報室の少し鈍い感じの金井勇太がよかった。刑事関係は奥田瑛二三浦友和小澤征悦などちょっと刑事役は見慣れている感じで新味がなかったが、菅田俊の役どころなどは『ポチの告白』を思わせる感じで面白い。わかってての起用に感じられた。また『あん』で枯れた演技を見せた永瀬正敏も、後半でやさぐれた父親の演技でその力を発揮している。しかし前半でスーツケースを持って、全力で走り回っているようにしか見えない演技は若き日の『ションベン・ライダー』の体当たり演技を思わせ、相米の教えは忘れず、という感じもあった。

あと斉藤幸一の、グレーがかった、昭和の時代を思わせる渋い色合いの撮影も素晴らしかった。この色だけでも映画館で見る価値はあるなと思う。

しかし毎度のことながら、前編、後編という公開のされ方だと映画の評価は難しい。『ソロモンの偽証』のように後編でガクンと落ちることもあるし。

<5/22(日) MOVIX京都 シアター5、座席J−11にて鑑賞>

2016-05-20

Kurobaku2016-05-20

[]奥様は大学生(日:東宝、東京映画1956 杉江敏男監督)

シネ・ヌーヴォ名画発掘シリーズvol.2、女優・香川京子の第三弾。

大学を卒業し、就職も決まった木村功は、在学中からつきあっていた香川京子と結婚に踏み切る。だがまだ香川は大学に在籍中で、勉学と家庭の間に挟まれて悩む、という物語。といっても深刻なタッチではなく、香川の親友役の中村メイ子が観客に話しかける気さくなナレーションで始まるラブコメタッチ。田舎から訪ねてきた木村の父親藤原釜足)に気に入られるためにいろいろ画策するドタバタや、学生仲間たちから祝福されての温かい学生結婚式などが描かれる。当時のキャンパスライフや、木村の新入社員の苦労話も興味津々。木村は『七人の侍』で一番年少の侍を演じていたが、いつもはこういう青春スターみたいな役を演っていたのか。また『黒い画集 ある遭難』では出番が少なくてわからなかった香川京子の魅力も本作ではじゅうぶん伝わってきた。見終わった後、清々しい気分で劇場から出られる一編である。

<5/20(金) シネ・ヌーヴォにて鑑賞>

[]世紀の光(タイ、仏、オーストリア2006 アピチャッポン・ウィーラセタクン監督)

あまり面白くなさそうだったので飛ばすつもりでいたが、『真昼の不思議な物体』がかなりよかったので、毒喰らわば皿まで精神で本作も鑑賞。

前半は地方の緑豊かな病院。後半は大都会の近代的な病院という二部構成。そして同じ俳優が似たような役でどちらのパートにも登場し、似たようなドラマを繰り返すという、変な感触が味わえる作品のようだ。なぜ「ようだ」という書き方になっているのかといえば、残念ながら私は事前にそのことを聞いていたからである(私も書いてしまった。ごめん。でもこの映画について何か書こうと思ったら、どうしてもネタバレになる)。おそらく、何の情報も知らないで見たら、ビックリしただろうなあ、と思う。

また後半の話は前半の話からどんどんかけ離れていくが、だからといって面白くなるわけでもなく、私は退屈した(どちらかというと前半の話の方が私は面白かった)。ハマる人はハマるのかな? ちなみに、いかにもありがちな、緑豊かな病院の方がよくって、都会の病院はヒドいとか、そういう文明批判めいたことは描かれていない(ように私には見えた)。

『真昼の不思議な物体』を見た後だからいえるが、本作もフィクションというものをとことん突き詰めていって、その過程から出てきたアイデアを元に作った映画だと思う。こんな実験的な映画によく出資者が現れるなあ、と感心する。

<5/20(金) シネ・ヌーヴォにて鑑賞>

[]山河ノスタルジア(中、日、仏2015 ジャ・ジャンクー監督)

大手のバカなシネコンと違ってフレームマスクがきっちりしているシネ・リーブル梅田で、なぜかマスクを開きっぱなしのスタンダード上映していたので、文句言いに行こうかと迷っていたら、途中でビスタサイズに変わった。なんか最近流行の、場面によってスクリーンサイズを変える演出だな…やれやれ。作り手の方がマスクが開きっぱなしを利用した映画を作ってどうする? とか思う。

さておき。

映画は1999年、山西省・汾陽(フェンヤン)から始まる(画面はスタンダードサイズ)。小学校教師タオ(チャオ・タオ)を巡って幼なじみの炭坑労働者リャンズー(リャン・チントン)と実業家ジンシェン(チャン・イー)が争う三角関係が描かれる。結局、強引にプロポーズをするジンシェンに根負けしたタオは彼を受け入れて結婚。一児を出産する。名前は米ドルにちなんでダオラー(ドン・ズージェン)。一方、炭坑夫のリャンズーは地方へ去っていく。

続いて2014年(=現代)の汾陽(画面はビスタサイズ)。タオはジンシェンと離婚している。ダオラーはジンシェンが養育権を勝ち取り、上海へ移住していた。長年姿を消していたリャンズーが自分の妻と子どもを連れて帰ってくるも、リャンズーは身体を悪くしている。タオは昔のよしみで、治療費を出す。一方、タオの父親が亡くなり、葬儀のために、息子ダオラーを汾陽に呼び寄せる。懐かしさを覚えつつも、母親として厳しく接するタオ。別れ際にジンシェンとダオラーはオーストラリアに移住することがわかる。

2025年、オーストラリア(画面サイズはワイド)。19歳になったダオラーは中国語を忘れている。父親ジンシェンともソリが合わず、中国語教師のミア(シルヴィア・チャン)に母親の記憶を追い求めるダオラーは、やがて母親のタオに会いに行こうと決意する…。

親子二代にわたる大河ドラマといえるが、通常の大河ドラマと違って、最後の章が未来に設定されているところが異色である。他にも画面サイズを変える仕掛けなど、この監督らしい奇の衒いはあるが、現代中国の経済成長とその未来を見据えた上で、最終的にはいつの世も変わらない母と子の愛情を描くという主題は素晴らしいと思う。

普通こういう2時間5分という、大河ドラマとしては決してじゅうぶんとはいえない尺で、三部形式にしたりするとダイジェスト的な仕上がりになるものだが、ジャ・ジャンクーは細部の肉づけを充実させることによって、大河ドラマ的な時間の流れをうまく醸し出している。例えば、2000年のお祭りの花火。ペット・ショップ・ボーイズの「GO WEST」が流れるディスコ。中古のステレオを売る場面で流れるサリー・イップの歌。未来編に出てくるシルヴィア・チャンもそうかもしれない(私にとって彼女は80年代の香港映画『悪漢探偵』で止まっている)。音楽などは監督の個人的な思い入れもありそうで、懐かしさが漂う。ダイナマイトやスポーツカー、家の鍵といった映画的な道具立てもうまかった。

<5/20(金) シネ・リーブル梅田 劇場2、座席E−5にて鑑賞>

2016-05-19

Kurobaku2016-05-19

[]殺し屋人別帳(日:東映1970 石井輝男監督)

『実録・私設銀座警察』と同様、2014年、ラピュタ阿佐ヶ谷で渡瀬恒彦特集をやったときにニュープリントされたフィルム状態良好の一本。

石井輝男作品で見ていないものが上映されれば、私はなるべく駆けつけるようにしている。この新世界東映でも『忘八武士道』や『キンキンのルンペン大将』、『異常性愛記録ハレンチ』など、たくさんの石井作品を拾った。いつもお世話になってます(笑)。

話そのものは『網走番外地』の焼き直しだそうだが、それに気づかないほど寄せ鍋のようにいろんな要素がブチ込まれていて満腹になる。出だしは題名にあるとおり(本当にタイトルバックに殺し屋たちの写真を貼り付けたアルバムみたいなのが出てくるけど、笑)、鈴木清順『殺しの烙印』のような、ヘンな殺し屋たちが次々と現れるマンガチックなギャング映画なのに、途中からメロドラマ的要素を含んだ任侠映画へと変わっていく。そしてそんな仁侠映画的生真面目さを、主人公の渡瀬が、一歩離れてニヤニヤ笑いながら見物しているようなヘンな映画である。

佐藤允扮するモンマルトルの鉄っていう殺し屋が、白い背広のキザな野郎で、いちいち「ウイ、ムシュー」とかフランス語を言う。それを聞いて渡瀬が首を傾げると、佐藤がめんどくさそうに日本語で言い直すという繰り返しが笑わせる。あと嵐寛寿郎が流しの歌手…というか、大正琴で客のリクエスト曲を演奏して回る流し、というヘンな役。正体は八人殺しの熊寅で、ちゃんと見せ場もある。さらに当時、丸善石油「Oh!モーレツ」のCMで売れていた小川ローザも顔を見せる。ちなみに本作は渡瀬恒彦のデビュー作だったりする。

<5/19(木) 新世界東映にて鑑賞>

[]関東やくざ嵐(日:東映1966 小沢茂弘監督)

知らなかったのだが、『関東流れ者』(1965)から始まる「関東〜」から始まるタイトルのシリーズ5作目だそうである。これも何かの機会にニュープリントされたのか、きれいな状態で感激。典型的な当時の任侠やくざ映画だが、主演は高倉健ではなく鶴田浩二。ヒロインは桜町弘子。異色なのは新東宝のイメージが強い天知茂が、鶴田と対立する悪玉代貸(後に組長)を演じていることで、鶴田の恋人である桜町を横から強引に奪おうとしたりする悪辣なキャラクターを憎々しげに演じている。脚本も同じ新東宝出身の宮川一郎(中川信夫の『地獄』など)なのは偶然か。あと鶴田と意気投合する、荒っぽい土方の親分に扮した山本麟一がなかなかの好演で印象に残る。最後、鶴田と一緒にショットガンで殴りこみに行く。そのとき山本麟一は、ちゃんと排夾してから弾を込める細かい演技までしていて感心した。

<5/19(木) 新世界東映にて鑑賞>

[]あのひと(日:松竹撮影所2014 山本一郎監督)

戦時中の1944年に織田作之助が書いたとされる未映画化脚本を、松竹のプロデューサー山本一郎が自らメガホンをとって自主映画化した作品とのこと(樋口尚文の千夜千本 第63夜「あのひと」参照)。見ようかどうしようか、迷っていたのだが、大阪市交通局がタイアップしていて、PiTaPaを見せたら1100円で見られるというので、見た。

内容は戦死した上官の遺児を、四人の部下たちが育てていて、町の人たちもそれに手を貸すといった明朗な人情話なのだが、どんどん男たちが消えていく展開や、四人の女たちが揃って体操をしたり、歌を歌ったりする場面など、どこか薄気味悪さが立ち込めている。

中でも舞台設定が、一見、脚本が執筆された当時の太平洋戦争末期のようでいて、現代と地続きであるようなSF的演出が施されていて、不気味さに拍車をかけるのに成功している(ロケ場面で自動車やアスファルトなど明らかに現代のものが映る、カレンダーに昭和88年と書いてある、等)。

ただ、メタ映画的なラストも含め、どこまでがオダサクの脚本どおりなのかを考えると、首を傾げるところもある。そのままでもじゅうぶん「ほのぼのとした設定なのに、なぜか恐い(チラシより)」のなら、そういう演出は不要だったのではないかという思いも頭に浮かぶ(セリフは一切変えていないとのことらしいが)。また神戸浩の役など明らかに狙いが過ぎるところがあり、もっとメジャーな俳優が普通に演じていた方がよかったような気もする。

役者に関しては、主役の男女8人は劇団とっても便利の役者たちだろうが、やはりどこか小劇団っぽさが漂う。子役が極端に下手なのも困りもの。その点、田畑智子は好演で、劇中若いのにババアと呼ばれているが、ババアというあだ名なのか、本当は歳をとった役者が演るべきなのか、よくわからなかったが、それでもうまく演じていた。

ちなみに川島雄三監督のデビュー作として知られる『還って来た男』は同じ1944年に織田作之助の脚本を映画化したものである。川島の回想によると軍の検閲があって、思うように撮影できなかったとのこと。『還って来た男』は昔見ているけど、ほとんど記憶にない。ただ軍部を批判した内容ではなかったと思うし、もちろんSF要素などなかったように思う。果たして本作『あのひと』の脚本は本当に、今回の映画化のように、戦時下の不気味さを描いた作品だったのだろうか。読んで確かめてみたくなる。いずれにしろ1944年当時に映画化されていたらどんな風だったろう、とか興味はつきない映画ではある。

<5/19(木) なんばパークスシネマ シアター1、座席J―6にて鑑賞>

2016-05-16

Kurobaku2016-05-16

[]その他の5月に見た映画(上)

ズートピア(米2016 バイロン・ハワード、リッチ・ムーア監督 ※字幕版で鑑賞)→わかりやすい動物キャラを使って、人種差別や管理社会といったテーマを浮かび上がらせるなかなか考えられた作品。映画ファン的には、バディムービーやフィルムノワール的な探偵ものの要素が本格的に取り入れられていて、そちらでも満足できる。ただ動きを楽しむアニメーションとして見た場合は、前半のひったくり追跡や後半の暴走電車があれど、時間が短い上、物語要素の方が圧倒的に強いのでそちらでは印象に残らない、という結果なる。あとディズニージャパンはレリゴーのヒット以来、日本語版主題歌を前面化するようになった気がする。


×『フィフス・ウェイブ』(米2016 J・ブレイクソン監督)→まるで宇宙人侵略のパニック映画のような予告編だったが、実際はティーンエイジャー向けの青春サバイバルSFであった。要するに『ハンガー・ゲーム』や『メイズ・ランナー』みたいなもので、クロエに騙された。シネコンとデジタルCG普及の影響で、アメリカでも映画の幼稚化が始まっている。いろいろとつっこみどころがあるが、何よりもバカにしているのは、根本的には何の解決もせず、「なおも彼らの闘いは続く」みたいな引きで終わっているところ。ヒットすれば続編を作ろうというスケベ心がまる見えである。どうでもいいことだが、クロエはリキむ芝居をすると、すぐ鼻の穴がヒクヒク動くのが気になる。


『レヴェナント 蘇えりし者』(米2015 アレハンドロ・G・イニャリトゥ監督)→のっけのアメリカ先住民の襲撃場面が、『プライベート・ライアン』のノルマンディ上陸場面を思い出せる臨場感で表現されていて圧倒される。矢がピュンピュン飛んできて、白人がバタバタと倒れていく。その他にも全編痛い場面、エグい場面がてんこ盛りだ。アメリカの西部開拓民の話なんだが、古き良き砂埃ウエスタンのイメージは微塵もない。行けども行けども雪と氷と針葉樹林しか出てこない、寒々とした死の世界だ。/一見ディカプリオの復讐物語に思えるが、仇となるトム・ハーディの方にも先住民に頭の皮を剥がされかけた恨みと憎しみがある。この映画に登場する人々の多くは狙ったり狙われたり、殺したり殺されたりを繰り返す。これは今の世界情勢の暗喩と考えていいだろう。憎しみの連鎖を断ち切るにはどうすればいいのか、ある結論が描かれている。/関係ないけど、凍死を免れるために馬の体内に入って朝を待つのは、アイルランド映画『馬々と人間たち』で先に見ていた。もっともこの映画の原作が書かれたのはもっと古いはずだけど。

2016-05-15

Kurobaku2016-05-15

[]イメージフォーラム・フェスティバル2016

イメージフォーラム・フェスティバルは実験映画や個人映画といった映像アートの祭典であり、私個人はそれらにあまり興味はない。しかしたまに招待作品などの中に『クラム』のように面白いドキュメンタリー作品などが混じっていることがあるので、内容だけはいつもチェックしている。今回は30周年記念ということもあり、チラシを見ると面白そうな作品がやたらと目に付いた。中でも『俳優、ヘルムート・バーガー』はジョン・ウォーターズが絶賛したとあり、これは見に行くことに決めた。で、チラシの料金表を見ると「前売4回券は2500円」となっており、これは大阪アジアン映画祭やプラネットの回数券よりずっと格安じゃないかと感激。どうせなら他に面白そうなのを3本適当に見てやるか、ということになってしまった。しかしよくよく考えてみると会場は京都の京都芸術センター。電車賃を考えればぜんぜん高いのであった(笑)。かつては大阪のキリンプラザや扇町ミュージアム・スクエアでやっていたものだが…大阪は文化不毛都市だといつも思う。


一本目は5月14日(土)、『デイ・イズ・ダン』(米2006-09 マイク・ケリー監督)を見た。169分の長編。よくわからないのだが、アメリカのちょっと変わった高校生たちの文化祭(?)の出し物や寸劇をマイク・ケリーが再演させて映画にしたもの…だと思う。そこにはアングラやオタク、キッチュゴスロリといったメインストリームから外れるサブカルチャー的な題材が立ち現れるが、しょせん高校生の出し物なので、洗練されておらず、大半は退屈した。音楽は独特で楽しいけど…。デジカメ映画なので、スクリーンに投影すると画質は悪く、虹彩が残像として残るのも辛かった。イメージフォーラムに限らず、映像アートはデジタル・ビデオ作品が多いのだが、私がそれらに興味が持てないのはそれらの画質の悪さにもよる。


二本目は5月17日(火)に見たV3のプログラム「アイ・ショット・ミー 90年代女性監督の時代」である。これは過去の公募受賞作の中から選んだ回顧特集の一つで、8ミリ3本、16ミリ1本が上映された。内容は次のとおり。『みみのなかのみず』(1994、歌川恵子監督、8ミリ、36分)、『眠る花』(1991、小口詩子監督、16ミリ、7分)、『あながちまちがっているともいえない空』(1996、才木浩美監督、8ミリ、18分)、『桃色ベビーオイル』(1995、和田淳子監督、8ミリ、16分)。私の見たところ『眠る花』以外は、すべて自身の性別である「女」に向き合っている私映画(セルフポートレート)だと思えた。上映前にイメージフォーラムのクロコ(ネットで調べたところ黒小恭介氏だと思われる)という人が解説で出てきて、そのとき言っていた女性監督の「気がついたら、カメラの前で脱いでいた」という言葉が印象に残った。確かにこの三作品はみんな自ら裸になっていた。私はいつも女性に強くて美しいイメージを抱いて憧れているのであるが、これらの作品では女性が女性であることのコンプレックスがあますことなく描かれていて、現実とはそういうものなのか、と思った。あと『眠る花』は自分の祖母を題材にした詩的とも言うべき作品。


三本目、同じく5月17日(火)に上映された『テラ・ヌリウス:ナショナリストになる方法』(米2015 ジェームス・T・ホン監督)を見た。「テラ・ヌリウス」とは所有者のいない土地という意味のラテン語尖閣諸島を自分ところの土地だと主張する日本・中国・台湾それぞれのナショナリスト=右翼の人たちの行動を追跡したドキュメンタリー。これは絶対面白そう!と思ったのだが、見終わった感想はなんかいまいち…。彼らが同時に尖閣諸島へ出発するような編集になっているが、そんなことはあり得ない。台湾右翼は早々に諦め、中国右翼は香港海上警察に何度も出港停止させられ、諦めさせられる。日本右翼だけ唯一尖閣諸島のそばまでたどり着き、日本の海上保安庁の監視の下、みんなで船の上でお祈り(?)をして帰る。結局、誰も上陸はせえへんのかい! なんか盛り上がらないなあ(笑)。監督も不満だったのか、秘かに黄色いアヒル型の風船(大阪の中之島に浮いていたラバーダックの小型版)を尖閣諸島に向って流し、それがたどり着いたというyoutubeの映像を見せて終わる。お茶目なオチでまとめたつもりだろうが、真面目に見ていたこちらとしては拍子抜け。そもそも上陸が禁止されている尖閣諸島で誰がビデオ回せるんだよ? 最後のyoutubeはフェイクだと思う。


最後の四本目は今回のお目当てである『俳優、ヘルムート・バーガー(オーストリア2015 アンドレアス・ホルヴァート監督)。5月22日(日)に見た。ヘルムート・バーガールキノ・ヴィスコンティ監督の『ルートヴィヒ』『家族の肖像』などに出ている美形のスター俳優である。しかしそれも今は昔。今ではすっかり容貌は衰え、ザルツブルグのアパートで偏屈な爺さんとなって老後を送っている。最初、彼の華やかな映画人生を振り返るドキュメンタリーなのかなと思っていたが違った(違うも何も、この映画のファーストカットからそれは決定的にわかる)。いや、そういうドキュメンタリーにしようとしていた片鱗はあるのだが、この90分ある映画の前半60分くらいは彼の部屋を定期的に掃除しにくるおばちゃんを撮ったり、バーガーが食べて寝てTV見ているところを撮ったりしているだけだ。もっとひどいときにはただ外の風景を映して時間稼ぎしているとしか思えない場面もある。これは退屈だな、またハズレかな? と思い始めた頃、バーガーとこの映画の監督ホルヴァートが口論をし始める。どうやらホルヴァート監督は撮影に非協力的なバーガーに対して頭にきたようだ。バーガーの方は元スターの傲慢さなのか、監督に対してお前は才能がないだの、お前なんか悪評を広めて映画界から追放してやるだの、言いたい放題で悪態をつくばかり。ああ、これはそういう監督と被写体である俳優が対立して、ご破算になったメタ・ドキュメンタリー映画なのか、と思っていたら、さらに急転直下の展開が! ある晩、バーガーが監督に言い出す。「実は君に対して冷たい態度をとっていたのは、君のことが好きだからさ」。笑撃…いや衝撃の告白である。さらにバーガーは「かつてのヴィスコンティと私のように良好な関係になって、いい映画にしようじゃないか」とか言って誘う。あわや監督の貞操の危機だ!(でも監督も初老のおっさん) もちろんノンケの監督に受け入れられるはずもなく、二人の関係はますます険悪になる…。もうね、おっかしいやら、気持ち悪いやら、呆れるやら。見ている方はあんぐりと口があいたまま塞がらない。この映画、どこから情報を嗅ぎつけてきたのか、ほぼ満席の入りであった(それまでの上映では一度もそんなことはなかった)。そのお客さんたちが反応よく、一斉にどよめくのである。そしてラスト5分にはとんでもない事態が映し出されるが、もう私にはこれ以上恐ろしくて書けない。たぶん一般公開されることは難しいと思うけど、ここは実際に映画を見てもらうしかない。まだ名古屋会場で見るチャンス(6月26日)はある…けれど、かつてのヘルムート・バーガーファンやヴィスコンティ映画が好きな人はショックを受けると思うのでそちらにはお勧めはしない。最後に「2015年の最低にして最高傑作」というジョン・ウォーターズ監督の言葉をチラシより引用してこの映画のレビューを終わりたいと思う。

2016-05-14

Kurobaku2016-05-14

[]世界から猫が消えたなら(日:東宝ほか2016 永井聡監督)

私は映画ファンなので、どうしても気になったので書いておくが、まず時代設定がいつの話なのか、わからなかった。

宮崎あおいが勤めるミナト座には『ファイト・クラブ』(1999)と『花とアリス』(2004)のポスターが公開中ってことで貼ってあるけど、封切り館だとしたら5年の誤差があるし、名画座だとしたら変な二本立てだ(まあ、2スクリーンあって別々の上映かもしれないが)。濱田岳の働くDVDレンタル屋には『第5惑星』のポスターが貼ってあるけど、1985年公開のこの映画、決して有名な映画とはいえず、DVD発売に際してわざわざ単独でポスターを作るとは思えない。濱田のお気に入り作品なので貼ってあるとも考えられるが…。どうも時代設定が曖昧で見ていてもどかしい。なにかヘンである。

同じくこの映画には、映画が好きな三人の登場人物が出てくるが、彼らが映画好きであることの描かれ方もヘンである。宮崎あおい佐藤健が知り合うきっかけになる『メトロポリス』。宮崎は電話口でその音声を聞いただけでどこの場面か即座にわかるという描かれ方である。毎日『メトロポリス』ばかり見ている人ならわかるかもしれないが、普通の映画ファンにそんな人はいないと思う。一方、濱田岳佐藤健が知り合うきっかけは、濱田が大学の教室で「キネマ旬報」を読んでいたからである。こっちはわかりやすすぎる。本当の映画好きなら、キネ旬は恥ずかしくてあまり人前では読まないように思う(笑)。

一応映画の中で、三人(宮崎あおい濱田岳佐藤健)の映画好き度合いに濃淡があるように描き分けされていることはわかる。しかし宮崎あおい濱田岳がどういう傾向の映画が好きなのかはあまり見えてこない。さらに宮崎あおい濱田岳は共に映画好きで、同じ大学に通ってすらいるのに佐藤健は二人を引き合わせていないようなのも気になる。まあ、映画好きにもいろいろ派閥があるからな(笑)。あるいは宮崎を濱田に寝取られる心配でもしているのか。…いや、そういうリアルな話じゃなくって、やっぱり劇中の佐藤健の性格から考えると、三人で一緒に映画を楽しむ場面がないのは不自然に思える。

他にもこの映画に登場する映画は、本編とリンクするような目配せがあると指摘する人もいる。『ファイト・クラブ』は主人公が二つの人格に分かれているとか、『太陽を盗んだ男』は主人公の余命がわずかであるとかいったことが本編の主人公の設定と重なる。なるほどと思うが、それでは『花とアリス』にはどんな意味が? 『ライムライト』にはどんな意味が? 私には首尾一貫されているように思えない。

かように最初に書いた時代設定の曖昧性も含めて、なにかこの映画に出てくる映画および映画好きの描かれ方が私にはヘンに思えてしょうがない。なにか表面的、記号的なような気がしてならないのである。

こういったことは本編に関してもいえる。

脳腫瘍で余命わずかという主人公・佐藤健が、自分と同じ姿をした悪魔と「大切なものを一つ消すことで一日生きながらえる」という契約をする。「電話」「映画」「時計」…と消されていくのだが、それは自分とのつながりのある人との大切さを思い起こすための想像だった、という物語。

悪魔と取引して自分の人生を振り返るっていう話は、昔からよくあるパターンでフランク・キャプラの『素晴らしき哉、人生』(ここでは天使)とか、ディケンズの「クリスマス・キャロル」(ここでは三人の幽霊)あたりを想起させる。一種のファンタジーであるといっていいだろう。

ファンタジーにつきものといえば、特殊効果である。本作でも電話が世界から消えるときには電車の乗客の持っている携帯電話がドロッと溶けて消えていくというのを、CGを使ってわかりやすく見せる。世界から映画が消えるときも濱田岳のDVDレンタル屋のDVDが一斉に本に変わっていくというのをCGでスペクタクルに見せる。アカデミー視覚効果賞でも狙っているのかとツッコミたくなるほどだ(日本映画だからムリなのはわかっている)。ところがこの映画、どういうわけか途中からそういった派手な見世物的CG特殊効果はなりを潜めてしまう。そして最後の奥田瑛二原田美枝子のエピソードになるとファンタジー性はまったく消えてなくなる。このギャップに私は違和感を覚える。

ここで改めて確認するために書いておくが、この映画は「消されていく大切なもの」を並べることによってストーリーを進める物語形式になっている。「電話」=宮崎あおいの恋人編、「映画」=濱田岳の友情編、そして「時計」「ネコ」=原田と奥田の両親編といった風に、一種のオムニバス映画みたいな構成になっているわけなのだが、「電話」「映画」が世界から消えると、次はいきなりなぜか佐藤健宮崎あおいのアルゼンチン旅行の話になる。それまで「電話」「映画」は現在進行形で進んでいたのに、ここで消えたはずの宮崎あおいが平然と復活していてびっくりする。どうやらこれは佐藤健の回想場面のようなのだが、急にそんなことをされてもこっちは戸惑うばかりである。

しかもこの場面、予告編で宮崎あおいイグアスの滝でずぶぬれになって「絶対生きてやる〜!」とか叫んでいるのが印象的だったけど、どれほど重要な場面かと思ったら、旅行先で知り合ったバックパッカーのにいちゃんが事故で死んだのを見て(このエピソードも唐突)、私たちは死なないぞーと叫んでいるのだった。これがきっかけで二人は別れたようなのだが、この村上春樹の小説あたりに出てきそうなエピソードはそれまで描かれていた余命を延ばす悪魔との取引とは繋がりがなく、別の映画のようである。

さらにその後、「時計」の消えるエピソードは曖昧に済まされて、「ネコ」の話で両親の話が始まるわけだが、先にも書いたように特殊効果はなく、急にまともな家族映画みたいになる。しかも母親の原田美枝子が癌だという展開で、難病ものの中にまた難病ものがあるという、難病ものの入れ子構造。いくら泣かせの映画とはいえ、これでは泣かせの大安売りである。しかも内容の重さから、これだけで一本の映画を作れそうなぐらいの話なのだ。バランスがおかしくないか。そして一応、悪魔に感謝する場面はあるが、映画の最終目標がまるで父親との和解みたいになっている。なんかヘンである。これは明らかに入口と出口が違っているからで、「クリスマス・キャロル」の形式を借りるのなら、やはり主人公が死ぬのではなく、自分を愛してくれた人たちと一緒に生きていく、とならなければダメだろうと思うのだ。

で、結論なのだが、この映画、全体的な統一感に欠ける。ストーリーは一見つながっているように見えるが、個々のエピソードを並べてみるとつぎはぎのパッチワークなのがよくわかる。だから登場人物もステレオタイプが多く、ただの記号みたいになっている。雰囲気によるごまかしも多く、細部まで詰められていない。出てくる映画や映画ファンがインチキなのも当然なのだ。

一応、劇場を出るときにはなんかいいものを見たなあ、という気分になるのは、エンディングで流れるHARUHIの「ひずみ」という主題歌がよくできているからだろう。しかしこの映画全体に立ち込める違和感は、ずっと後になってもしこりのように残り続けるのだった。

<5/14(土) TOHOシネマズ二条 スクリーン1、座席M―8にて鑑賞>

2016-05-13

Kurobaku2016-05-13

[]真昼の不思議な物体(タイ2000  アピチャッポン・ウィーラセタクン監督)

巻頭に山形ドキュメンタリー映画祭のロゴが出た。それと関係があるのかどうかわからないが、本編はビスタサイズの左右に黒い余白があり、さらに英語字幕用のスペースなのか、下にも黒い余白がある。こんな変則的なサイズの映画は初めて見た。ちなみに本編はモノクロ。

山形ドキュメンタリー映画祭の上映用フィルムであったことから推測できるように、この映画はドキュメンタリー的要素がある。しかしドキュメンタリーとは言いにくい。またフィクションとも言いにくい。いろいろと規格外な映画である(笑)。

ライトバンで海産物の行商をするおばさんにインタビューするところから映画は始まる。彼女は子どもの頃貧乏で、父親にどこかへ売られたとかいった話をするが、インタビュアーはもっと他の話はないですか? 本とかで読んだ話でもいいです、とか訊く。そこから場面が変わって、車椅子の少年と女性家庭教師が勉強している姿が映し出される。家庭教師は突然倒れ、その身体の中から、丸いボールのような物体が転がり出てくる。その物体はやがて男の子の姿に変わり、あわてて倒れている女教師をクローゼットの中に隠す。そしてまたしばらくすると男の子は女教師の姿に変わる。驚く車椅子の少年は女教師に問いただす。女教師は男の子なんて知らない、自分はちょっと買い物に出ていただけだ、とごまかす。

最初、語り手は海産物を行商するおばさんだったのに、いつのまにか別の人物が話を語り継いでいる。さらに突然、市民劇団みたいな人たちが車椅子の少年と女教師の話を、舞台の上で再演していたりする。そうかと思うと、この映画の作り手かと思われる男女が現れて「車椅子の少年はなんで足が悪いんだ?」「これは設定しないとダメね」とか言い出し、急遽、飛行機が墜落して、少年はその生き残りという設定になったりする。そこでなんか古くさいTV番組がブラウン管に映って、その司会者がゲストである少年に「ただ一人生き残った少年です」みたいな紹介をして、会場がパチパチと拍手し…感動バラエティ番組みたいになっている。

さらにその設定から、飛行機は太平洋戦争中の日本軍が撃ち落したことになり、当時の占領下の記録写真らしきものまで挿入されたりする。一方、女教師の方は女教師の方で、電車や船でどこか遠い町に行き、悪い男にひっかかったり、場末のキャバレーでショーガールとして働いていたりする。なんか話がどんどん膨らんで、あらぬ方向へ転がっていく。

実はそういった話の途中に物語を楽しそうに語る人たちが次々登場している。二人の少女が手話を使って語ったり、学校の教室で小学生たちがめいめい好き勝手に続きを作ったり…。どうやら海産物売りのおばさんが考えた最初の話を、いろんな語り手が勝手に続けて、それをウィーラセタクン監督が自由な視点から映像化したようなのだ。そしてわずかではあるが、物語作りに参加した一般の人々の背景もドキュメンタリー的に挿入されている。

これはいったい何についての映画なのだろうか。わけがわからないが、面白い。そして冷静に考えてみると、おそらく人が物語を想像することそのものについてのドキュメンタリーなのだと思う。車椅子の少年とその家庭教師と人に姿を変える謎の球体を起点として、人が想像することの無限性、多様性、その自由奔放さを追求すると同時に、その想像する人々の姿もドキュメンタリーとして記録した。

しかし、この映画はそれだけで終わっていない。本作はSFであるし、ファンタジーであるし、戦争の記録映画でもあるし、メロドラマでもある。ジャンルの変化だけではない。演劇になったり、撮影風景が出てきたり、テレビ番組になったり…と映画の形態までもがどんどん変化する。あたかも男の子に変わったり、教師に変わったりするあの丸い謎の物体のように。私はこの映画を見ているとき、困惑しながらもいろいろなことを想像した。強く想像力が刺激された。映画に登場する多くの人々が物語の続きを勝手に想像したように、観客もまた、いつのまにか車椅子の少年と女教師の物語の創作に参加している。この映画を見るだけで誰もが参加できるのだ。

こんなユニークな映画は前代未聞といっていい。おそらくアピチャッポン・ウィーラセタクン監督の長編デビュー作にして最高傑作であろう。

なお、途中、小学生が語る別の物語――虎の精霊になった男の話はウィーラセタクン監督の『トロピカル・マラディ』(2004)と似ている気がする。この映画から派生して新たな映画を作っているのにも驚かされた。

<5/13(金) シネ・ヌーヴォにて鑑賞>