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「お世辞をいうのは、愛情のない証拠です。お世辞をいうぐらいなら、皮肉をいってあげた方が愛情です」(川島雄三)

2016-07-14

Kurobaku2016-07-14

[]ブルックリン(アイルランド、英、加2015 ジョン・クローリー監督)

『ハンナ』や『グランド・ブダペスト・ホテル』などを見て、すっかりごひいきにしているシアーシャ・ローナンが、アカデミー主演女優賞をノミネートした作品だというので見に行った。

1950年代のアイルランド、町の食料品店で働くエイリシュ(ローナン)は女店主の横暴な商売にうんざりする毎日を送っている。ある日、姉の勧めで、エイリシュは閉塞的なアイルランドを出て、たった一人でアメリカに渡る決心をする。

アメリカに移民してくる外国人の話といえば『ゴッドファーザーPART2』あたりが頭に浮かぶが、この映画にはああいうドラマチックさはなく、あくまでも一人の少女の視点から描いているのが良い。アイルランドからの移民も初期の頃はかなり苦労したんだろうということは、エイリシュが教会のボランティアで行く老人の慰労会(?)のくだりからなんとなく察せれるが、エイリシュの世代だともう移民の受け入れ態勢が完全に整っていることは見ていてわかる。なので、観客としては親戚を訪ねて東京へ出てきた地方出身者ぐらいの感じで見ることも可能である。

そして、この映画の素晴らしいのは、そんな田舎から大都会にたった一人でやってきた女の子が、一歩、また一歩と前に進んでいく姿を、小さなエピソードを具体的に積み重ねて描いていくところだ。例えば、寮で寮婦長と一緒に夕食をするとき、最初の頃は先輩の女性たちに笑われないかと慎重に言葉を選んで会話するところなど、エイリシュの怯え具合がよく伝わってくる。それが後の場面になると、寮婦長にどういうわけか気に入られ、さらに自分より後からきた後輩女性ができると心に余裕が出てくる。ついには先輩の女性と秘密の話までできるようになる。こういったエイリシュの心の動きまで含めた細かい状況描写が随所にあり、観客は彼女の成長していく姿をつい自分と重ね合わしてしまうのだ。

また登場する人物たちも一人ひとり、細かいところまで造形されていて素晴らしい。特に恋人になるイタリア系のトニー(エモリー・コーエン)は、最初胡散臭い奴に見えたし、アイリッシュとイタリアンが果たしてうまくいくのか、と見ていて心配させられるが、デートのどの段階で、彼女のどこまで踏み込んでいいか、ちゃんと考えているし、家族を紹介するタイミングもうまい。意外と利発で優しい男なのだ。

エイリシュが何回目かのデートをして悩んでいると、デパートの女上司が相談に乗ってくれるエピソードがいい。上司が「その彼氏は、母親の話か、野球の話ばかりする?」と訊き、エイリシュが「いいえ」というと「彼は当たりよ! 付き合いなさい」と言う(!)。それで彼の家に遊びに行くことになるが、家族に会ってみるとそこではブルックリン・ドジャーズの話ばかりしている、というオチがつく。こういうネタはさすが『ぼくのプレミア・ライフ』(=『2番目のキス』)の原作者ニック・ホーンビィらしい脚本だ。エイリシュがこの日のためにスパゲッティの食べ方を練習してくる、というエピソードもよく、さらにトニーの8才になる弟が場をブチ壊すかのようなナマイキ発言をするのも面白い。もう、このあたりは登場人物全員を片っ端から抱きしめたくなるような温かさなのだ。

二人はベッドインするところまで関係が進むのだが、そんなとき、アイルランドにいる姉が病死したという連絡がくる。後半は再びアイルランドへ舞台が移る。

姉の葬式を済ませ、これから一人で暮らすことになる老いた母親を前に、トニーとの婚約を言い出せないエイリシュ。おそらく人種の違いが背景にあって、しかも「どうせすぐアメリカに戻るのだから」という気持ちもあって黙っていたのだろうことが自然と二人の言葉少ない会話から伝わってくる。この映画、こういううまさが随所にあるが、黙っていたことがあとで落とし穴になる。

故郷のアイルランドではそれまでパッとしなかったエイリシュだったが、ニューヨーク帰りのエイリシュはそれまでとは違っていた。服装もおしゃれだし、喋り方も違う。たちまち幼なじみの友人たちの間で人気者になる(海岸へ遊びに行ったとき、水着を家から中に着てくるニューヨーク方式(?)を披露するだけで驚かれるエピソードが効いてる)。

さらにニューヨークで簿記を学んだおかげで姉のやっていた会計の仕事を任されるわ、上流階級の旧友ジム(ドーナル・グリーソン)から求婚されるわ、以前とは180度違う人生が開かれていく。ニューヨークへの帰還が、3日延び、1週間延び、やがてエイリシュの頭の中からはトニーとの婚約がすっかり抜け出ていく…。

エイリシュが尻軽女のようで好きになれないという批評もあったが、やはりこれは故郷の呪縛というものを描いているのだろうな、と思う。それまで冴えなかった故郷での自分がニューヨークから戻ってくると完全に反転して、憧れの人生を送ることができる。この誘惑に抗える人がどれだけいるだろうか。そして何よりも姉がいなくなって、母親一人ここに残していかなければならない現実も直視しなければならない。

しかしある出来事があって、エイリシュは急に魔法が解けたように我に返り、やっぱりニューヨークへ戻る人生を選択する。問題は残しつつも、大西洋を渡る船の上、かつての自分と同じ境遇だと思える若い女性に、アドバイスしてやるエピソード(ここは冒頭の渡航場面とかかっている)でエイリシュの選択は肯定されたような気がした。すべての女性に最良の人生を模索する権利はある。

戦争に巻き込まれて数奇な運命をたどるとか、人類の窮地を救う大活躍をするとかいった大きなドラマは一切ない、まったく地味な内容の映画だといえるが、一人の少女が、人生の中で幸せを一つ一つ積み上げていく様子を温かい視点で描いた秀作だと思う。いくつもの伏線を効かし、ウィットに富んだ会話と登場人物の繊細な心の動きを描いたニック・ホーンビィの秀逸な脚本と、シアーシャ・ローナンの自然な演技が素晴らしい。

<7/14(木) TOHOシネマズなんば セレクトスクリーン、座席K−10にて鑑賞>

[]TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ(日:アスミックエースほか2016 宮藤官九郎監督)

宮藤官九郎の映画にはずっと裏切られ続けているので、今回はパスするつもりだった。しかし本年2月6日公開の時期にタイミング悪く修学旅行のバスが転落する事故が発生し、不謹慎だということで公開日が6月25日に延期された。そしてたまたまこの時期は見るものがあまりなく、TVでもガンガン宣伝していたので「今回はひょっとしたら…」と、うっかりチケットを買ってしまった。で、結果はいつものクドカン映画で、やっぱりいつもどおりつまらなかった。

最初に書いておくが、クドカンのネタやギャグ自体はいつも悪くないのである。今回も地獄でロック大会が開かれているという設定もいいし、甦ったら小鳥やザリガニになるというギャグも面白い(アシカあたりになるとさすがにクドいけど)。長瀬智也(現世版)も尾野真千子も、これまで見たことのないまったく新しい風貌と演技を見せているのも新鮮でよかった。

しかし、残念なことにそれらはいつも部分点に留まってしまう。というのは全体的に見て、ぜんぜん映画としてマトモに作られているとは思えない完成度だからだ。はっきりいって脚本として、本当にプロかと疑いたくなるほどヒドいレベルなのだ。いやいや、宮藤官九郎といえば『あまちゃん』をはじめ数々のヒット作を書いているし、最近の『ゆとりですがなにか』も評判がいいと聞く。それなのに、映画となるとその才能はミジンも感じられない。

この映画の基本となっている物語軸は、地獄で開かれているロックフェスティバルでえんま大王(古田新太)に認められれば、現世に甦らせてくれるというものなんだけど、この肝心のロックフェスティバルのシステムが実にいいかげん。どういう期日で行われ、どういうルールで進められるのか、テキトーにノリでしか描かれていない(7回も転生するのでどうしても曖昧になる)。なので、それに向かってメンバーを集めるとか、ギターの猛特訓をするとかいった、基本となるバンドものの様式がまるで成立しない。いくらフザケてもいいんだけどさあ、ここはカナメなんだから、もっとちゃんと作ろうよ? と言いたくなる。

また一見、神木隆之介が好きな女の子とキスできずに死んだという悲恋物語に見せかけておいて、実は地獄のロッカー長瀬智也にも好きな人に歌を聞かせられずに死んでしまったという悲恋話があり、これは切ない青春ストーリーのダブルヘッダーと考えていいのだろうが、なんか構成的に据わりが悪い。私には一つの作品に多くを盛り込みすぎているように思えてならなかった。

音楽映画的側面を持っているのもこの映画のポイントなのだが、これがまた中途半端。劇中バンド「地獄図(ヘルズ)」の楽曲は楽しいのだが、メインとなる曲以外はそれほどバラエティーに富んでいるわけではない。ゲスト的に登場するのが憂歌団木村充揮だけというのも寂しくて、やはり中途半端。本格的な音楽映画として本腰を入れる気がないのなら、そういうことは変に気を持たせるので最初からやめてほしかった。

結局見終わった後の印象は、その場その場で思いついたアイデアのたれ流しだったんのではないか、と思わせる。先に「本当にプロかと疑いたくなる」と書いたが、ここが発端で、ここが山場で…といった2時間なら2時間の映画としてキチンと構成する能力に欠けている。発想そのものはいいのに、実にもったいない。こういうのは日頃から基礎となる映画を見ていれば、改善できるはずだが、きっと宮藤官九郎は忙しくて見ていない、あるいは自分の好きな映画しか見ていないのだろうな。

要するに宮藤官九郎は、演劇やTVドラマには向くのだが、映画には向かない三谷幸喜タイプの人なのである。今、映画会社や撮影所システムはほぼ完全に壊滅してしまったので、こういう余所のジャンルからやってきたニセモノがはびこることになってしまった。二人とも映画が好きなはずなのに、映画をどうやって作ったらいいのか、まるでわかっていない人たちである。解決策としてはもう一人誰か、プロの映画脚本家を入れて、手直しするということだが、まあ、そんなことはしないだろう。できればこっちの世界には来ないでいただきたい。

<7/14(木) TOHOシネマズなんば スクリーン6、座席K−5にて鑑賞>

2016-07-07

Kurobaku2016-07-07

[]すれ違いのダイアリーズ(タイ2014 ニティワット・タラトーン監督)

タイ映画といえば、ここのところアピチャッポン・ウィーラセタクン監督のアート映画ばかり見ていたが、こちらは首都バンコクで100万人を動員したという大ヒット・青春ラブストーリー。ウィーラセタクン作品の対極を行く、徹底したわかりやすさだ。とはいっても、チャラチャラした単なる青春ラブコメディーではない。

運動しか能のない青年教師ソーンは、都会から離れた山奥の湖にある水上学校へ赴任させられる。生徒は湖で漁師をやっている家の子どもたちで、人数もたった四人しかいない。その生徒たちもなかなか馴染んでくれず、ソーンは苦戦するが、ある日、前任の女教師エーンの日記を見つける。その日記には同じように水上学校に赴任してきた新人教師エーンが体験した苦闘の日々が記されており、ソーンはそれを読んで共感したり、生徒への教え方を学んだりしているうちに日記の書き手であるエーンに惹かれはじめる…という物語。

二十四の瞳』的な田舎に赴任してきた若い小学校教師の成長ストーリーと、日記を通じて知り合った男女のすれ違いラブストーリーという、「合わせ技」の脚本がこの作品のミソである。

前者は電気、水道、ガスもなし、現代が舞台なのに携帯電話も繋がらないという田舎の湖の水上小学校、という設定を生かしていろいろな見せ場を作っている。風景が美しいのはもちろんのこと、ヘビや台風、水死体といった地方色豊かな困難も待ち受けている。教師たちが生徒を守るためにそれらと必死で戦う姿が感動的である。後半に電車を知らない子どもたちに、モーターボートに水上校舎を繋いで電車ごっこする場面があるが、これはちょっと強引な印象を受けた。この挿話はヒロインの終盤の話と繋がる伏線にもなっているのだが、やはり子どもたちを引率して本物を見せに行かないと電車がどういうものかはわからないだろうと思う。

また漁師をやっている親に「算数など漁師の仕事と関係ない」と言われた生徒が不登校になり、エーンがその生徒に登校するように説得するエピソードがあって、昔の日本映画みたいな問題を扱っていて興味深いのだが、子どもたちのキャラクターの色付けがそれくらいしかされておらず、他の子どもたちには何のエピソードもないのが寂しい。なので、教師ものとして見た場合はややもの足りなく感じる。

その反面、後者の、すれ違いラブストーリーの方がどちらかというとメインになっている印象で、ソーンとエーンが入れ違いで学校にやってきたり、目の前で会っていても顔を知らないので気づかないといった黄金パターンが繰り返される。これがなかなか巧い。この二人の教師を演じたスクリット・ウィセートケーオも、チャーマーン・ブンヤサックもフレッシュな感じで魅力的。特にヒロインのエーンを演じたチャーマーン・ブンヤサックは愛らしく、『ミウの物語』や浅野忠信が出ていた『地球で最後のふたり』などですでに見ているようなのだが、意識したのは今回が初めてということになる。

しかしこの映画で最も感心したのは、日記という本来は書物などの活字媒体と親和性が高い小道具を、ちゃんと映画として見せるよううまく工夫されているところだ。例えば以前、私は『orange-オレンジ-』という日本映画で、正体不明の手紙が届けば、その日のうちに主人公は全部読んでしまうのではないか、と批判したことがある。この映画も同様に、古い日記を見つけたら、主人公のソーンはその日のうちに読んでしまうはずである。ところが、そういう疑問は感じさせないよう、ちゃんとこの映画は構成されていた。ストーリー紹介では、ソーンがエーンの日記を見つけて、それを読んで教師として成長していく…となっているのだが、映画はそうなっていない。ソーンとエーンの日常が、映画の冒頭から早くも同時進行で交互に描かれているのである。だから、先の疑問は生じない。私はもうこれだけで、この映画の作り手は映画のことをよくわかっている、と思った。日記そのものも若い女性らしい、ページいっぱいに同じ言葉が並んでいたり、大きく文字がデザイン的に書かれていたりするビジュアルで見せることを意識したものになっていて感心した。

ちなみに本作はその年の米アカデミー賞の外国語映画賞候補のタイ代表に選ばれたとのこと。いろいろと欠点はあるものの、やはりそういった日記の映画的処理が巧みだったからではないかと想像する。大ヒットした青春ラブストーリーの中にもバカにできないものはあるのだ。

<7/7(木) シネマート心斎橋 劇場1、座席I−7にて鑑賞>

2016-07-06

Kurobaku2016-07-06

[]『シン・ゴジラ』は怪獣映画ならぬ、会議映画!?

いよいよ『シン・ゴジラ』の公開一週間前になった。

今回は試写会をしない方針(戦略?)らしく、本当に公開日のフタを開けてみないとどういう映画になっているのか、わからないとのこと。ネットではいろいろな情報が飛び交っているが、私が聞いて「おや?」と思ったのは「『シン・ゴジラ』は怪獣映画ではなく会議映画」というもの。ゴジラ出現という未曾有の災害に対して、政府の各部署がひたすら会議しまくるという話(笑)。えー、まさか、と思うかもしれないが、これが最近発表されたキャスト表を見ると、けっこう信憑性のある話なのだ。

ざっとこんな感じである↓


キャスト

矢口蘭堂内閣官房副長官: 長谷川博己

赤坂秀樹内閣総理大臣補佐官: 竹野内豊

カヨコ・アン・パタースン米国大統領特使: 石原さとみ

環境省官僚: 市川実日子

古代生物学者: 犬童一心

内閣官房長官: 柄本明

内閣総理大臣: 大杉漣

海洋生物学者: 緒方明

官邸職員: 片桐はいり

外務省官僚: 神尾佑

自衛隊関係者: 國村隼 / KREVA

原子力規制庁: 黒田大輔

消防隊隊長: 小出恵介

内閣官房副長官秘書官(防衛省出身): 高良健吾

自衛隊関係者: 小林隆 / 斎藤工

外務省官僚: 嶋田久作

防災課局長: 諏訪太朗

文部科学省官僚: 高橋一生

生物学者: 塚本晋也

厚生労働省官僚: 津田寛治

自衛隊関係者: 鶴見辰吾

文部科学大臣: 手塚とおる

内閣府特命担当大臣(防災担当): 中村育二

…キリがないので以下略(こんな感じで延々続く)


これを見てもわかるように、登場人物のほとんど全員が政府官僚や自衛隊関連、生物学者などである。これはもう間違いなく、いろんな会議が開かれるナ(笑)。

えー、会議が延々続く映画なんて面白いの? 劇場によっては4DXやIMAX版も用意しているのに会議シーンばかり? まあ、いくらなんでも会議ばかりってことはあり得なさそうだけど。

あるサイトではリアルな「大怪獣災害シュミレーション映画」という好意的なとらえ方をしていて、あー、なるほどと思った。というのは、このキャスト表を見て、私はある作品を思い出した。岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967)である。

『日本の〜』は1945年8月14日、当時の政府関係者や宮内省関係者、軍部などがどのように終戦の日を進め、迎えたか、というのをドキュメント・タッチで描いた作品である(昨年、原田眞人監督でリメイクされた)。鈴木内閣総理大臣:笠智衆、東郷外務大臣:宮口精二、米内海軍大臣:山村聡、阿南陸軍大臣:三船敏郎…といった風に内閣官僚等をそのときの大御所俳優、有名俳優に割り振ったのだが、今回のキャスト表はそれを思わせる。そして庵野秀明は熱烈な岡本喜八監督ファンとして知られる。これはもしかしたら、ゴジラが東京にやって来た24時間を内閣や自衛隊関係者がどのように処理していくのかをドキュメント・タッチでとらえた「ゴジラ版日本のいちばん長い日」になるということも考えられる。まあ、ぜんぜん的外れだったら、ごめんだけど。

一応、私はがんばって公開初日に見に行く予定です(あくまで予定だけど)。

(7/22金、記す)

2016-07-05

Kurobaku2016-07-05

[]ハリーとトント(米1974 ポール・マザースキー監督)

久しぶりに「午前十時の映画祭」に足を運んだ。基本的にオリジナルがフィルムで作られた映画は、上映もフィルムでするべきという考えなので、あまりこの映画祭には気乗りがしなかった。けれども技術は日夜進んでいるし、今回は「4Kデジタル」とわざわざ銘うっていたので、念のために見ておこうという気持ちで見た。驚いた。ぜんぜん見ていて違和感を感じなかった。以前にあった、フィルムからデジタルにしたとき特有の欠点――動きの不自然さや細部の潰れは見つからなかった。4Kデジタル上映は以前にも『ブレードランナー』を見て、フィルムとの違和感のなさを確認しているが、この『ハリーとトント』でもそれは同じだった。それでも私はフィルムの作品はフィルムで上映するのに越したことはないと思っているが(ニュープリントの前提で、笑)、今後は4Kデジタル上映の方向で固まっていくのだろうなと思う。

ただしカラーよりフィルムの肌合いが繊細なモノクロ作品は、4Kでどこまで再現できるのか、それを確認してからでないとまだ手放しで褒めることはできない。またそれが仮に問題なかったとしても、まだまだ圧倒的に4Kデジタル上映の機会が少ないことも指摘しておこう。

さて、本題。

ニューヨークで猫のトントと暮らす72歳のハリー(アート・カーニー)は、市の区画整理のため住んでいたアパートを強制退去させられる。住むところがなくなったハリーはトントと一緒に、三人の子どもたちの家庭を訪ねるが、猫と同伴のため飛行機にもバスにも乗れず、中古車を買ってアメリカを横断するハメになるというロードムービー

妻を亡くして以来ニューヨークにずっと引きこもり、そのうえ大切な友人も亡くして、落ち込んでいたハリーが愛猫と一緒に旅に出ることによって、少しずつ元気を取り戻していく。大きなドラマや大事件は特に起きないが、三人の子ども、その孫、そして途中で出会うたくさんの人々とのやりとりが見ていておっかしかったり、ホロリとさせられたり、とまったく飽きさせない。

感心させられたのは、いかにもわかりやすい奇人も出てくるけど、そんな中に混じって、アパートの管理人の老婆や、タクシーの女性運転手、バスの隣に座ったサンドをトントにくれるおっさん、話し好きな中古車屋などなど、普通に生活している市井の人たちもしっかりスケッチしているところ。これが実に味わい深い。ハリーとトントの旅は、人生と同じで、多くの人々が行き交う。その中には上機嫌の人も不機嫌な人も一緒くたに混じっているけれど、これはハリーと出会ったときがたまたまそうだっただけで、その人たちの長い人生の中ではほんの一瞬の表情にすぎない。つまり雨の日もあれば晴れる日だってあるさ、ということだ。72歳という人生の最終ステージに立ったハリーが、自由気ままに広大なアメリカを横断する姿を見ていると、そういうおおらかな考え方が頭に浮かんでくる。狭い日本でセコセコ生きている若輩者の自分なんて、まだまだではないかと。

私には一人もわからなかったが、ハリーがナツメロを口ずさみ、歌手は誰だとトントに聞くクイズを全編にわたってやっているのが面白い。また「鬼警部アイアンサイド」の話が何度も出てくるのもいい。猫の名前のトントは「ローン・レンジャー」に出てくるインディアンの相棒から取ったらしいが、後半に有名なインディアン俳優のチーフ・ダン・ジョージが出てくるのも何か意味ありげだ。そういうサブカルチャーを取り入れたワザありの脚本なのが嬉しい。

長女役のエレン・バーンスティンが今まで見た彼女の中でもっとも美しい感じで出てくるのに驚いた。また家出ヒッピー娘の眼鏡少女を演じたメラニー・メイロンも魅力的。あまりに気に入ったのでプロフィールを調べたら、これがデビュー作だった。今でもTVドラマ方面で活躍されているみたいだが、映画の出演作で私の見ている作品が少ないのが残念。

あとビル・コンティの暖かくユーモラスな音楽も素晴らしかったが、確かサントラは当時出たLPのみで、一度も正規ではCD化されてなかったはず。どこかで発売してほしいなあ。

最後に猫好きの人から見ると本作のアート・カーニーの猫の扱いは、かなりヒドいとのこと。私は別に猫好きでもないし、飼ったこともないのだが、確かに最初、車に轢かれそうになったトントを持つカーニーの手つきは怪しいと思った。やっぱりな(笑)。でもメラニー・メイロンは正しく猫を持っていたように見えた。きっと彼女は猫好きなんだな。

<7/5(火) TOHOシネマズなんば 別館シアター12、座席I−5にて鑑賞>

2016-07-04

[]故郷への道を教えて――マイケル・チミノ監督追悼

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マイケル・チミノ氏死去=「ディア・ハンター」監督(2016/07/03-17:19)

米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)などによると、ベトナム戦争を題材にした「ディア・ハンター」で知られる米映画監督のマイケル・チミノ氏が死去した。77歳だった。友人と連絡がつかなくなり、2日にロサンゼルスの自宅を訪れた警官が遺体を発見した。死因は明らかでない。

 ニューヨーク生まれ。ミシガン州立大、イエール大で学んだ後、CM監督から映画界入り。クリント・イーストウッド主演の「ダーティハリー2」などの脚本を担当後、「サンダーボルト」(1974年)で監督デビューを果たした。

 ベトナム戦争で傷ついた若者たちの姿を描いたロバート・デ・ニーロ主演の「ディア・ハンター」(78年)で、作品賞や監督賞を含むアカデミー賞5部門を受賞。しかし、移民問題を取り上げた「天国の門」(80年)では制作費が予算を大幅に超過し、興行的にも失敗に終わった。

 このほかの監督作品に「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(85年)など。

(時事通信社 2016/07/03 日 閲覧)


映画人の死去の知らせはどんどん入ってくるが、マイケル・チミノには個人的に思い入れのある監督である。といっても全作品を見ているわけではないので、うるさい人たちからすると怒られるかもしれない。しかし大好きな監督の一人だったことは確かなので、許してほしい。

マイケル・チミノの残した監督作品は、短編一本を合わせても、たったの八本しかない。ざっと簡単に振り返る。『ダーティハリー2』の共同脚本でイーストウッドに認められ、1974年に『サンダーボルト』で監督デビュー。

監督第2作の『ディア・ハンター』(1978)でアカデミー作品賞、監督賞など五部門をさらい、あっという間に一流監督の仲間入り。しかし次の『天国の門』(1980)は巨額の製作費を投じた大作であったが、興行的に惨敗、ユナイテッド・アーチスツを破産に追い込んでしまう。トップに駆けあがるのも早ければ、墜落も早いという、まさにサンダーボルトのような監督である。

その後、呪われた監督として長年干されているかのような印象があったが、五年後の1985年にはディノ・デ・ラウレンティスの下で『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』を撮っている。ここでようやく私はリアルタイムで彼の作品を鑑賞(それまではTVやビデオ鑑賞です、すみません)。この映画は、今でも見終わった後の興奮の余韻に浸りながら、ABCホールから大阪駅まで歩いた夜の道を思い出すことができる。しかしその次の『シシリアン』(1987)は見逃し。そして再びミッキー・ロークと組んだ『逃亡者』(1990)、最後の長編になってしまった『心の指紋』(1996)は封切りで見ている。このあたりは順調に撮っていたと思うのだが、それから2007年まで飛んで、『それぞれのシネマ』というオムニバス映画の中の一話(私は未見)を撮ったきり、沈黙してしまった。で今回の、突然の訃報である。それはないよ、と思う。

天国の門』は2013年のデジタル修復完全版でやっと見たけれども、私はそれほど面白いとは思わなかった。一瞬たりとも手抜きのない、力を入れすぎの疲れる映画だと思った。『ディア・ハンター』は優れた映画だと思うけど、公開当時ベトナム兵を鬼畜のように描いていると批判され、日本でもキネマ旬報で、劇中で描かれたようなロシアンルーレットゲームをベトナム兵が本当にやっていたという事実はあるのか、という質問状をチミノに送るというようなことをした(あれは創作です、という回答だったと記憶している)。政治や歴史を扱うと映画は賞レースに引っかかりやすいし、一流の映画作家として栄誉に預かれる。それが悪いことだとは言わないけど、私が彼の映画が好きだった理由はそういうところにはない。多くの優れた映画監督と同様、誰にも真似できない独自のビジュアル感覚やクセを持っていたからだ。

天国の門』以降の、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』、『逃亡者』、『心の指紋』といった作品は低迷期の作品とされている。しかし私にはどうしてどうして…どれもチミノの烙印が押された佳作として大いに楽しんだ。うまく説明できないが、どの作品も内容(脚本)的に欠点はあったりするのだが、映像的には文句なく、ここぞというところでグイグイと力でねじ込んでくる感覚というのがあった。画面上でのアクションの密度が高く、かつ切れ味は鋭い。ショットや構図も独特のクセがある。そして時には詩情といったものも漂い始める。そういったチミノの美点がより際立って現れているのは、大作ではなく、商業的要請に則って作ったこれらの娯楽作ではないかと私は思っている。

私のマイケル・チミノ監督のベストは、やはりデビュー作の『サンダーボルト』である。残念ながら劇場のスクリーンで見たことはないし、おそらく今後もう二度と上映されることもないだろうけど、これをテレビで見たおかげで映画にハマることになったきっかけの一本であることは間違いない。以下の画像はラスト近くのカットだが、これだけでも彼の映画のすごさがよくわかると思う。

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青空に浮かぶ雲がこんなに美しく撮られている映画はあまりないと思う。そして遠くの山脈、湖、河といった大自然。この映画はこの場面に限らず、そんな風景が何度も出てくる。マイケル・チミノ監督のトレードマークといった映像で私は勝手に「チミノ空」と呼んでいる。それは『天国の門』や『逃亡者』、『心の指紋』でも見られた。

心の指紋』が公開された頃だったか、やはりキネマ旬報だったと思うが、マイケル・チミノが性転換したという記事が出ていた。ショックを受けたのは、あんな男くさい映画を撮る監督なのに…ということだった。しかし繊細な感覚は確かにあるし、ひょっとしたら、とも思った。でも『サンダーボルト』のイーストウッドジェフ・ブリッジスの関係や、『ディア・ハンター』のデニーロとウォーケンの友情も同性愛にされてしまったら嫌だなあ、と思ってしまった。チミノの昔の写真と近年の写真を比べれば、とても同一人物とは信じられないくらいに変化していて、近年の方は確かに女性に見えなくもない容貌ではあった。その後、チミノ本人は性転換をしていないと否定したらしく、あくまでも噂レベルで終わったようだ。

ちょっと触れるつもりがすっかり長文になってしまった。

いずれにしろ、マイケル・チミノは私にアメリカ映画の本当の面白さを教えてくれた監督の一人だった。

彼が監督デビューした1974年、アメリカン・ニューシネマはほとんど終焉を迎えていた。『サンダーボルト』はそんなニューシネマの徒花であった。時代に遅れてきたチミノは、先にも書いたとおり電光石火のようにトップに登りつめたが、いかんせん、時代の潮流は大きく変化していて、彼が憧れたようなアメリカ映画はもう歓迎されなくなっていた。それでもマイケル・チミノは、SFXとブロックバスターが跋扈するハリウッド映画の中で、自分が場違いだと知りつつも、なお90年代中頃まで懸命に走り続けた。

私はチミノの作品を追いかけることで、ほんの少しだけ、渇きを癒すことができた。そこには本当のアメリカ映画があった。その後、ハリウッド映画はデジタルCGを得て、ますます幼稚映画の量産体制に入ったが、もうチミノの作品を見て、癒されることはこれで永遠になくなった。もうチミノの澄み切った青い空を見ることは二度とないのだ。

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2016-07-01

Kurobaku2016-07-01

[]葛城事件(日:ファントムフィルムほか2016 赤堀雅秋監督)

『その夜の侍』を見て以来、すっかりほれ込んだ赤堀監督の最新作。今回も胃がもたれるくらい重たくて不快で救いがなくて、だからこそどこか笑えてくる物語…。

この映画に出てくる無差別殺人犯を出して崩壊する一家は、池田小学校殺傷事件をはじめ、最近の無差別殺傷事件をいくつか組み合わせて造型したとのこと。元々この『葛城事件』は赤堀の劇団「THE SHAMPOO HAT」で公演された戯曲で、こういう実際の事件を元に戯曲化するというのは大阪で大竹野正典が主宰していた「くじら企画」の芝居が得意としていた。この映画とは何の関係もないけど、フト懐かしく思い出した。話を戻す。

『その夜の侍』のときにも少し書いたが、この監督は舞台の人であっても、映画的な演出がよくわかっている。今回も冒頭、三浦友和が鼻歌を歌いながら、壁をペンキ塗りしている場面から入るが、カメラを引くと壁一面に「死ね」「出て行け!」とかスプレーで落書きされているのがわかるという見せ方。ここからただならぬ映画の世界に、一気に引きずり込まれる。また勤め先のない長男の新井浩文が母親:南果歩と隠れ住んでいるアパートの場面の照明の使い方も素晴らしかった。日が暮れてきて、だんだん部屋が暗くなってくるあの感覚は舞台の照明とはまた違う演出で、先日見た黒沢清の『クリーピー』にも負けてない凝りようであった。

私は赤堀雅秋の演劇の方も気になって、今年の3月、兵庫県立芸術文化センター中ホールで上演された『同じ夢』という芝居を見に行った。光石研麻生久美子大森南朋田中哲司が出ていた。舞台セットは一つの家の台所と居間になっていて、そのまま住めそうなくらい生活感漂うリアリズムで作られていた。普段の「THE SHAMPOO HAT」の公演は知らないが、この芝居を見た限りでは小劇団とは違う、ストレートプレイの人だな、と思った。そういう意味ではやはりリアルな映画寄りの人なのかもしれない。

出演者はいうまでもなく全員巧い。ことに抑圧的で暴君のように振る舞う父親を演じた三浦友和は、見事なゲスっぷりで、見ていてムカムカしてくるくらい。しかもオーバーアクトではなく、本当に成りきっている。特に中華料理屋の場面とカラオケ屋の場面、ダメ押しで田中麗奈に襲いかかる場面もサイテーで最高だった。こんな風な演技をちゃんとできる俳優は日本に何人もいないと、絶賛しておく。

また真面目で気の弱い新井浩文というのも面白い使い方だが、何といっても私が驚いたのは、死刑廃止という理想のために無差別殺人者と獄中結婚する田中麗奈。あまりに華がなくなっていて、最初、田中麗奈だと気づかなかったくらいだ。彼女もついにここまできたか、と感心した。

帰りのエレベーターで、私と同じ回を見ていた20代くらいのカップルが乗っていて、感想を言いあっていた。曰く、


「わたしねー、きっとあの父親さえおれへんかったら(いなかったらの関西弁)、うまく行ってたと思うねん。ほら、アパートでお母さんが最後の晩餐とか言うやろ、三人で」。

「ああ、あそこな」。

「口喧嘩もしてたけど、結局三人で笑い出して、うまいこと行ってたやん。けど父親が入ってきたとたん、めちゃくちゃになるやん」

父親さえおらんかったら、よかったのになあ」


まるで誰か知り合いの家族の話でもしているようだった(笑)。それくらい、まんまと作り手の手中にハマっているということで、微笑ましく会話を聞いた。

しかし、私はこの映画で一つだけ気に入らないところがある。それはすべての責任が三浦友和父親にあるというステレオタイプな描き方である。こういう無差別殺人事件が起こるとマスコミはすぐ容疑者の家族のせいにする。もちろん責任の一端は、少しはあるのだろうが、事件を起こしたのはあくまでも本人だ。私は今、あまりいい人生を送っていないが、それを親のせいにしようとは思わない(笑)。この映画のポスターは金物屋のカウンターに座った三浦友和がこちらを睨んでいて、その横に「俺が一体、何をした。」とコピーが書かれている。この見終わった観客は「全部アンタのせいだ」というのか、それとも「いや、アンタは何もしていない」というのか。そういう議論をするように作ってあると好意的に捉えてもいいが…やっぱり三浦をモンスターのように描いた映画であることは否めないなあ。

<7/1(金) 梅田ブルク7 シアター2、座席L−4にて鑑賞>

2016-06-28

Kurobaku2016-06-28

[]二重生活(日:スターサンズほか2015 岸善幸監督)

これは「尾行映画」の最高峰である。いや、「尾行映画」なんてジャンルはないかもしれないけど(笑)。大学院の哲学科の修士論文の関係で、近所に住む編集者:長谷川博己の尾行をすることになった院生:門脇麦の話なのだが、麦が長谷川を尾行する場面だけでこの映画の約半分を占めているような気がする。

リリーフランキーの教授から言われて、即興で尾行を始める麦が、見ていてとても危なっかしい。尾行していた長谷川が愛人と合流して突如ビルのスキマでエッチし始めるのを、三回もその横を歩いてチラ見する場面など、気持ちはわかるけどもうやめとけよ! バレるぞ! と言いたくなる。

他にもタクシーに乗った長谷川をこっちもタクシーで追いかけて、手持ちの残金が足りなくならないか気にしたり、ホテルのロビーで長時間張り込みをしていてフロントから不信がられたり、あまりに不器用な麦にハラハラドキドキさせられる。夏海光造の撮影も、長谷川を尾行する麦を、さらに尾行するカメラという感じで、ドキュメンタリー映画のような臨場感が漂う。

そして後半は尾行がバレていたことがわかり、窮地に陥る麦ちゃん。麦のアパートのゴミ捨て場に仕掛けられた防犯カメラの映像が、何度も映し出されるのが不気味だが、実は他人を見ているようでいて、同時に他人からも見られているという構造が暗示されている。実際麦の行動はアパートの管理人:烏丸せつこを通じて、長谷川に筒抜けだったのであり、麦の恋人である菅田将暉もしっかり麦の行動を見ている。見ることは、見られること。ぜんぜん作風は違っているが、テーマ的にはまるでブライアン・デ・パルマの映画のようでもある。

ソフィ・カルの「哲学的尾行」というのは正直、妥当なのかどうか、私にはよくわからない。長谷川にラブホテルに連れ込まれたとき、麦が哲学を専攻したきっかけについて語る。ちょっと忘れてしまったが、確か父親の友人と初体験をしたが、それっきり気まずくなって会わず、心にぽっかり穴が開いてしまったとかいった話だったように思う。ここでチラリと、今年見た同じ小池真理子原作の映画『無伴奏』の成海璃子の顔が浮かんでしまった。シチュエーションはまったく重ならないが、甘やかされて育った名家のお嬢さんというイメージは重なった。長谷川は陳腐だと罵りつつも、俺のことを論文にしていいと許諾する。

幸せな家庭を持ちながら愛人を作って浮気をした長谷川博己。大学教授という地位と引き換えに幸せな家庭を築かなかったリリーフランキー。そして恋人との共同生活を捨てて尾行と論文作成にのめり込んだ門脇麦。この三人は、能動的であれ、受動的であれ、満たされない何かを埋めるために、表面と裏面の二つの生活を送り、それが最終的に破綻するというところで共通している。哲学という題材を扱っているために、後半は少々セリフに頼る部分はあったが、いろいろ考えさせられる面白い映画になっていたように思う。

門脇麦はこういう闇を抱えた、どこかモロくも危なっかしい役がよく似合う。

<6/28(火) シネ・リーブル梅田 劇場3、座席F−4にて鑑賞>

[]日本で一番悪い奴ら(日:日活、東映ほか2016 白石和彌監督)

『凶悪』の白石和彌監督による実録犯罪映画第2弾。

北海道警の刑事:綾野剛が、自分の子飼いにしているヤクザや麻薬の運び屋から都合してもらった拳銃で、拳銃摘発をでっちあげ、その手柄の多さで道警のエースとしてのし上がる。さらに警察の上司たちも黙認どころか、むしろ月々の拳銃摘発の件数をあげるために積極的に綾野に協力、ついには警察がヤクザを使ってロシアから麻薬や拳銃を密輸してしまう。不勉強ながらこの事件はまったく知らず、一見ウソのようでありながらホントの話というのが面白いというか、恐ろしい。

ただ前作の『凶悪』と比べて、コメディタッチになっているのが弱い。ブラックユーモアの方向を狙ったとも考えられるが、三池崇史宮藤官九郎のくっだらない『土竜の唄』みたいなシロモノと区別をつけるためにも、もっとシリアスにした方がよかったと思う。綾野剛は軽薄な役が得意というか、重厚な演技はできないので、そちらに引っぱられてしまったのかもしれない。青白い肌が不気味な暴力団幹部を演じた中村獅童も、けっこうリアルなのだが、反面ギャグすれすれという気もする。その他、ミュージシャンや芸人など異色のキャストで固めていて、ちゃんと怪しい外国人に見えるという意味では悪くないのだが、やはり題材的にどうしても東映の実録ヤクザ映画路線の作品などを思い浮かべ、役者の層の薄さにもの足りなさを感じてしまう。例えば警察側の人間などにでも、もっと有名なベテランの職業俳優を使えなかったのかという憾みが残る。

とはいえ、今のこの時代、警察に弓ひくような題材の企画を通し、映画にしたことはなかなかできないことで、野心的な作品であることは認めたい。

<6/28(火) 梅田ブルク7 シアター7、座席K−3にて鑑賞>

2016-06-25

Kurobaku2016-06-25

[]貞子vs伽椰子(日:KADOKAWA2016 白石晃士監督)

貞子=『リング』シリーズも、伽椰子=『呪怨』シリーズも最初の方はけっこう見ていたが、あまりに頻繁に作られるので途中で飽きて、追いかけるのをやめてしまった。特に『呪怨』は初めて見たときからつまらないと思っていて、見るのも苦痛だった。しかしどちらもハリウッドでリメイクされたくらいだから、ジェイソンなどと同様、人気のあるホラーキャラクターといってもいいだろう。

今回も当初はパスしようかな、と思っていたのだが、意外とネットで評判がいいので、久しぶりに見てみた。結論から先に言うと、これがけっこう面白かった。

物語の導入はわりときちんとJホラー風に作っている。女子大生の二人(山本美月佐津川愛美)が貞子の呪いのビデオを見つける。霊とか信じていない山本がビデオを冗談半分で再生し、佐津川だけが見てしまう。責任を感じた山本が貞子の呪いを解こうとする。自分のせいで友達が呪われる、というのはなかなかイヤーな感じである。

考えてみればビデオは今や過去の遺物で、時代はDVDにとって替わられている。貞子の出る幕は本来ないはずだが、それを逆手にとって、リサイクルショップで見つけた古びたビデオデッキに入っていたというアイデアはなかなか良い。作動確認のため見たショップの子が、伝説どおり死ぬのもいい展開だ。

貞子の方は、ビデオを見ると電話がかかってくるとか、期日があるとか、段階を踏むようなルール性があり、そこから呪われた人たちのドラマが発生して面白いのだが、伽椰子の『呪怨』の方は、ただ家の前を通っただけとか理由にならない理由で、ある日突然呪われるので、やっぱり面白くない。ま、それはさておき、伽椰子の家の近所に引っ越してきた女子高生(玉城ティナ)が呪われる話も同時進行で描かれる。

ただこういう感じで進むと、いつものJホラーと変わらないので、白石監督はこの「VSもの」という企画にふさわしい飛び道具みたいなキャラクターを入れてきた。まず最初の甲本雅裕の大学教授がかなりマヌケで面白いのだがあっけなく退場し、入れ違いに出てくるのが安藤政信の霊能力者だ。珍しくパーマ頭で役作りした(?)安藤は指で九字を切り、呪文を唱えて、結界を張ったりする。孔雀王みたいなキャラでめちゃくちゃカッコイイ。そんな安藤が貞子と伽椰子にとり憑かれた被害者たちを助けるために、こんな解決法を言い放つ。「バケモノにはバケモノをぶつけんだよ」。予告編でもやっていたが、シビれるセリフである(笑)。このおかげで物語はようやく「貞子vs伽椰子」になるのである。

そしてクライマックス。本当に貞子と伽椰子が戦う! いや、普通は戦わないだろう(笑)。だけど、貞子が髪の毛を伽椰子に巻きつけたり、伽椰子が貞子のビデオをグニョっと握りつぶしたりして本当に戦っている。対決時間が短いとか、どうせ引き分けだろうとか、いろいろ不満の声も聞いたけど、私はどう考えても本来戦うはずのないものが戦っている、その映像の無茶ぶりだけで満足してしまった。『バットマンVSスーパーマン』なんかよりはるかに盛り上がったと思うんだけどなあ。まあ、オチは弱いんだけど。

最終的に本作は、ちゃんと作らなければならないところはちゃんと作り、遊んでいいところはしっかりと遊ぶという、そのサジ加減が絶妙で私には面白かった。あと貞子にはTVの中から出てくる見せ場があり、伽椰子には階段から這って降りてくる見せ場があり、山本美月にはシャワーシーンがあって(笑)、それぞれのスターを引き立てるよう、なかなかよく研究されていると思った。貞子のビデオの映像が違うとか、期日が一週間から三日に変わっているとか一部設定を変えているところもあるけど、この際、どうでもいいので許す。

<6/24(金) TOHOシネマズなんば スクリーン3、座席H−4にて鑑賞>

2016-06-24

Kurobaku2016-06-24

[]帰ってきたヒトラー(独2015 ダーヴィット・ヴネント監督)

1945年、死を目前にしたアドルフ・ヒトラー(オリヴァー・マスッチ)が、なぜか突然、現代ドイツにタイムワープ。

昔見た、中世の騎士ジャン・レノが現代にタイムワープするコテコテのコメディ映画『おかしなおかしな訪問者』(1992)をうっかり思い出したが、あれと同様、本作でも現代を知らないヒトラーが傲慢な態度でとんちんかんなことをやらかして、現代人から笑われるというベタなギャグが展開。そのヒトラーに絡む、新聞スタンドの店主や売れないTV監督、TVプロデューサーたちもなんだかぬるいキャラクターたちで、彼らのヘタレな言動がまたいちいちわざとらしくて面白くない(だいたい冒頭のヒトラーにマナーを教えるというコントは何なのか)。

ところがそんなつまらなさにじっと耐えて見ていると、途中から急に風向きが変わってくる。

売れないTV監督が、TV局に売り込むために、ヒトラーを連れて地方へ出る。そこで地方の住民たちとヒトラーが語らうのだが、この内容が「今、国に何を望むか」という真面目な内容なのである。そして広場へ行けば、ヒトラーを見た若者たちが大喜びで手を振ったりする。一部、背後の通行人にボカシが入っていたりするのだが、どうやら劇中のヒトラーと語ったり、手を振ったりする人たちは本物の地域住民や若者たちみたいなのだ。いや、実際はヤラセなのかもしれないが、とにかくヒトラー(の格好をした俳優)が地方都市へ行って政治を語らう、というメタフィクションみたいなことをしているのである。

さらに劇中でTV監督がその映像をYouTubeに流すということまでするので、ますます変なリアリティが画面上に漂い始める。途中にも実際のニュース映像や、首相の顔が映されたりもする。こういうのを見るにつけ、実は前半のくっだらないギャグは計算であり、意外と知的な映画なのだな、と考えを改める。

面白いのはヒトラーがインターネットに興味を持つところ。どうやらこの映画(原作)、もしヒトラーが本当に現代に現れたら、というのをシュミレートして書かれたフシがある。それは、最初のうちはヒトラーの物マネ芸人と間違われて戸惑っていたヒトラーが、やがてその立場を積極的に利用し始めるという展開からもわかる。前半のくだらない喜劇であるなら、芸人で成功して終わりという結末になるだろうが、後半のヒトラーはTV局が用意したユダヤ人差別ジョークを拒否し、したたかに立ち回って、政治の道へとゆっくりと進んでいく不気味な存在として描かれている。

彼を本物のヒトラーだと思っていないTV監督たちはいけいけドンドンでヒトラーを担ぎ上げるが、はっと目が覚めるのはTV監督の恋人の、認知症の祖母がヒトラーを前にしてこう叫んだ瞬間だ。「彼は本物よ! あのときもみんな、最初はバカにしたのよ!」。祖母は当時を生きたユダヤ人であった。さっと血の引くような演出である。

最後は、ヒトラーがヨーロッパの難民流入問題に触れ、ドイツ民族の純潔性は今こそ守らなければならない、みたいなことを語って終わる。風刺映画なのでそれ以上のものは出てこないが、こういったアクチュアルな視点を取り入れたところは素直に評価したい。中でもTV局の権力争いに負けたプロデューサーが『ヒトラー 最期の12日間』(2004)のある場面をまるまる繰り返すところはニヤリとさせられる。なぜならこの場面は日本のニコニコ動画でも無数のパロディが作られているからだ。かようにヒトラーが世界中の若者たちの間で大人気のキャラクターであることは確かなのである。

<6/24(金) TOHOシネマズなんば プレミアスクリーン、座席F−3にて鑑賞>

[]ダーク・プレイス(英、仏、米2015 ジル・パケ=ブランネール監督)

主演が『マッドマックス 怒りのデス・ロード』の記憶も新しいシャーリーズ・セロンニコラス・ホルト。脇役にクロエ・グレース・モレッツ。原作は『ゴーン・ガール』のギリアン・フリンで、監督・脚色は強烈だった『サラの鍵』のジル・パケ=ブランネールである。これはちょっと見逃せない、と期待したが…実際に見てみるとそれほど面白くなかった。

簡単なストーリーを書いておく。一家惨殺事件で一人生き残った八歳の末娘リビー。自分のあいまいな目撃証言によって兄が犯人として逮捕され、そのまま終身刑となった。それから28年後、大人になったリビー(シャーリーズ・セロン)は、とあるきっかけから事件に疑問を抱き、自ら再調査するという話。

リビーが事件の関係者を一人ひとり訪ね回って、当時のオボロな記憶を思い出そうとする展開になるのだが、これがダンゴの串刺し状態で、退屈。この中に真犯人がいるのではないか、といった語り口、悪魔崇拝小児性愛といった要素など、いかにもミステリー的なお膳立てなのだが、見るからに原作小説をそのままなぞったかのような印象で、映画的な面白味に欠ける。

結局、結末にそれほどの意外性はなく、ストーリーの道なりに進むまますべてが明らかになったという感じで、あまり盛り上がらない。また後から冷静に考えると、納得のいかない箇所もいくつか見受けられる。例えばいくらリビーが証言したからといって、兄一人での犯行だとは考えにくく、よほど警察がアホということになる。

もっともこの映画の作り手は、真犯人の意外性とかには興味がなく、どうやら自分の命と引きかえても子どもたちの将来を守ろうとした母親の愛を描くことに狙いがあったと思われる。しかしそれにしては夾雑物が多く、印象が薄まっているように思えてならない。それに『ゴーン・ガール』はそういったヒューマニズムに唾を吐きかけるような映画だったのだが、その原作者というのが売りの一つになっているにもかかわらず、どうにも肩透かしを食らった感がある。また背景になっているアメリカの田舎の貧乏一家のどうしようもない犯罪もの、という話も古くは『ロンリー・ブラット』から近年の『グランド・ジョー』まで、たくさんある。残念ながら本作がそれらの中で抜きん出ているというわけではない。

一つ面白かったのは、ヒロインが殺人事件のかわいそうな被害者として、慈善団体あたりから見舞金や寄付金を受け、それで生活していたという設定。そのおかげで28年間、何の定職にも就かず、自堕落な人生を送っていたので、事件が風化して寄付金が途切れると困り始める。一方で、過去の犯罪事件に猟奇的な興味を持ち、自分たちで研究している犯罪マニア友の会みたいなのがあって、そこで当事者が事件について何か語ったりすると謝礼金が貰える。リビーはその謝礼金目当てに集会に参加し、改めて過去の事件と向き合うことになる、というのがこの映画の発端だったわけだが、こちらの方がよほど『ゴーン・ガール』の原作者らしい。いやはやアメリカはエグいなあ、ゲスいなあと思った次第。

<6/24(金) TOHOシネマズなんば スクリーン6、座席K−7にて鑑賞>

2016-06-23

Kurobaku2016-06-23

[]クリーピー 偽りの隣人(日:松竹ほか2016 黒沢清監督)

久しぶりに面白かった黒沢清監督作品。やっぱりジャンルがホラー映画になると本領を発揮するような気がする。

前半はわりとオーソドックスな猟奇犯罪系ホラー映画になっている。ちょっとモノマニアックな犯罪心理学者(西島秀俊)が過去の一家失踪事件の生き残りである少女(川口春奈)の記憶を辿ったり、現地調査したりしている一方で、西島の妻(竹内結子)は新しく引っ越した先の薄気味の悪い隣人(香川照之)にじわじわと侵食されていく…。

大学の職員室みたいなところで、西島が川口の過去の記憶を質問攻めで手繰ろうとする場面は、徐々に暗闇が画面を覆ってくるという照明の演出がなされていたり、竹内が香川の家を訪ねるとき、入口にあるシートが風に揺れていたりと、この監督特有の映画演出がビンビンに冴えわたる。

登場人物には誰一人として安心できる人物はおらず、主人公たる西島も、その友人の刑事・東出昌大も、どことなく虚ろで信用できない。香川照之の異常さにいたっては、この監督の映画でしか味わえない不可解な言動を見せ、強烈な気味の悪さを残す。一番驚いたのは『ソロモンの偽証』で優等生タイプを演じた藤野涼子で、まさかこういう使い方をするか! という衝撃があった。全体的にかつての黒沢の傑作『CURE』にかなり近い雰囲気があって、ゾクゾクする。ここまでなら多くの人にも勧めたいホラー映画といっていい。

ところが東出昌大扮する刑事が香川照之の家に入る場面から、この映画はその後の展開についていける人とそうでない人をきれいに峻別する。そう、東出が家の中に入った瞬間、出現するのは明らかにセット丸わかりの部屋である。それも家の構造的に、こんな部屋は絶対あり得ないと誰でも思う異常な部屋なのだ(ちなみにこの部屋の壁は『怪奇大作戦』のLDジャケットで見たような記憶がある)。

それまでの場面でも、先に挙げたような、いろいろな演出を黒沢監督はしていたが、基本的にリアリズムからはハミ出していなかった。それが、この場面から一気にリアリズムが崩れ出す。私はまた『回路』以降の悪い癖が始まったな、と思った。

そこから後はどんどん整合性が崩れ、笹野高史の刑事が一人で行動してあっけなく罠にハマったり、変な麻薬(?)が入った注射器で香川が人を操ることができるとわかったりと、奇妙なご都合主義が映画を支配する。

挙句の果てには、香川たちが車に乗って高速道路を走る場面を(大昔の手法である)バックスクリーンでスモーク焚いて撮影していたりするのには、逆にスゲエ!と感激してしまった。黒沢監督が、映画をリアリズムから解放しようとしているのだということは、長年黒沢映画を見てきた映画ファンには理解できるのだが、多くの普通のお客さんが「なんじゃこりゃ」と戸惑うことは目に見えてわかる。私も『叫』や『リアル〜完全なる首長竜の日〜』などで何度かそんな目に遭わされているし(笑)。

しかし、最終的に私の中で本作は面白い、という評価の方に傾いた。それはおそらくデタラメな映画でありながらも、今回はストーリーに一本筋が通っていたからである。要するにこれは、失敗続きの犯罪心理学者が、そのスキルを駆使してようやく犯罪者から一本取るという物語だ。乱暴なことに西島がいつ香川の魔力(?)から逃れる術を得たのかは触れられていないが、そこは関係ない。香川が殺しをやるときに自分の手を汚そうとしない、という法則を見つけた西島が勝利する、という結論が重要なのだ。つまり、これは名誉挽回の物語である。

それにしてもホラー映画でこんなに爽快な結末にするなんて、以前のこの監督ならあり得なかったことである。これを黒沢清監督の円熟ととるか、堕落ととるか。しかし繰り返すが、私はこの映画を、近年の黒沢作品の中でもかなり楽しんで見ることができた。

<6/22(水) TOHOシネマズ鳳 スクリーン9、座席J−11にて鑑賞>