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「お世辞をいうのは、愛情のない証拠です。お世辞をいうぐらいなら、皮肉をいってあげた方が愛情です」(川島雄三)

2016-08-10

Kurobaku2016-08-10

[]8月に見た映画(その1)

『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(米2014 ノア・バームバック監督)→ドキュメンタリー映画監督のベン・スティラーは新作がなかなか完成せずスランプ中。ある日、ファンだと訪ねてきた20代の若者A・ドライバーと意気投合。彼らのライフスタイルに理解を示し、まだまだ自分も若いと上機嫌。だがドライバーの真の目的はスティラーを足がかりにして新人ドキュメンタリー監督としてデビューすることだった。体よく利用され、おまけに妻のナオミ・ワッツまで取られ(自分はドライバーの元彼女A・サイフリッドと浮気している)、さあ、スティラーはどうする? というお話。いうなれば若者にしてやられる中年の話で、コメディとして作られているものの、見ていて痛々しくつらい。どこの業界でもありうる話だが、ニューヨークで活躍するドキュメンタリー映画作家周辺の話、という設定が渋い。フレデリック・ワイズマンとかいった名前が会話の中でポンポン飛び出したりする。しかしチャーミングなセンスが炸裂していた前作『フランシス・ハ』よりはずっと落ちる。<8/1月 大阪ステーションシティシネマ・5、H-8>


『好きにならずにいられない』アイスランドデンマーク2014 ダーグル・カウリ監督)→空港の荷物配送員をしている43歳独身、親と同居、趣味ジオラマ作り…の冴えないデブ男が、ダンス教室で出会った中年女性に初めて恋をする、というラブストーリーだが、こういう北欧の厳しい風土が舞台になっている作品は絶対甘い話にならない。案の定、主人公とつきあったとたん、女性は精神が壊れ始める。仕事に行けなくなるほど塞ぎこんで、何日もトイレに閉じこもったりする。つきあい始めた頃は普通の、いい女性だったのに…やはりいい年齢なのに結婚していない女性というのは、何かあるというわけだ。しかし、愛の力は強し。主人公は仕事を休んで、彼女の世話を甲斐甲斐しく始める。彼女の仕事を引き継いで、掛け持ちをしたりする。何もできないと思っていた気の弱い男が、意外なまでに男気を見せ始める。それから彼は、職場の同僚からバカにされていたのが友達づきあいできるようになったり、変質者扱いされた近所の住人とよい関係を築いたりして、少しずつ周辺が好転してくる。あとは彼女がマトモに戻って、一緒に新婚旅行へ行ければと願うのだが…やっぱり北欧圏の映画は現実と同じくらい厳しいな。主人公の幸せを願わずにはいられなくなる、いい映画だった。<8/5金 シネ・リーブル梅田2、D-6>


裸足の季節(仏、トルコ、独2015 デニズ・ガムゼ・エルギュベン監督)→両親を亡くし祖父母の家で育てられた5人の姉妹。だが年頃になると外出を禁止され、祖父たちの決めた結婚相手の元へ強制的に嫁がされる。昔の日本の田舎の名家でもあったような女性の人権無視の、封建的な慣わしが、現代のトルコの地方村で行われている。家を脱走して、サッカー観戦に行く場面は『オフサイド・ガールズ』というイラン映画を思い出した。やはりイスラム圏というか、中東あたりはまだまだ女性は虐げられているのだろうな。結局二人の娘が嫁ぎ、一人は自殺。残った二人がイスタンブールまで逃げのびる。ただお世話になった教師の家に行くというラストは現実的だが、また連れ戻される可能性もある(この教師がまったく描かれていないので何もわからない)。二人だけで自活していくくらいの覚悟がほしい、というのは無理な話なのだろうか。/ところで私は男なので、女の子を肩車で乗せてみたいと思うし、その程度には彼女たちをハシタナイと思う。また途中、つきあっている男たちに助けを求めないところも不自然に思った。<8/5金 テアトル梅田1、H-4>


『下衆の愛』(日:Third Window Films 2015 内田英治監督)→ワークショップの女優に手をつける監督、いい役を得るために枕営業する女優の卵…インディーズ映画業界に集まってくる下衆な人々を描いた欲望喜劇。「下衆」はわかるが、この「愛」っていうのは…驚くことに「映画愛」なのである。確かにただ単に女や金がほしいのであれば、映画業界に行く必要はないか。渋川清彦が堕落したインディーズ監督を好演。体で役を得ようと必死な女優役の内田慈もよかった。こういう懲りない人々が主役の映画ってなんか久しぶりに見たような気がする。かつての今村昌平森崎東とかの映画がそうだった。そのぶん、古くさい感じがするのは致し方ないか。<8/5金 第七藝術劇場


『花芯』(日:東映ビデオほか2016 安藤尋監督)→瀬戸内寂聴が1957年に発表した原作小説は「エロ小説」だと叩かれたらしいが、この映画化されたものを見るとそれほど大したことはないように思う。愛のない夫を裏切って、好きになった夫の上司と性愛に溺れる話などもはやありふれてしまっている。なにを今さらという感じで、乗れず。役者に関しては浮気される夫役の林遣都がよい。こないだまで子役だと思っていたのにすっかり貫禄がついた。安藤政信毬谷友子もいいが、いかんせんヒロインの村川絵梨に魅力がない。濡れ場だけで精一杯という印象である。<8/10水 テアトル梅田2、F-2>

2016-08-06

Kurobaku2016-08-06

[]ロスト・バケーション(米2016 ジャウマ・コレット=セラ監督)

見逃しているのだが、前に『フローズン』という映画があった。スキーに来た若者が乗っているリフトを途中で止められ、その上で一夜を過ごすというサバイバル映画である。見た人に聞くとリフトの下にオオカミが集まってきて、襲いかかるそうだ。本作はそのサメ版で、誰もいない秘密のビーチへサーフィンしに来た女性が、サメに襲われ、たどりついた岩礁でたった一人サバイバルするという話。一度噛まれているので傷口から血液はどんどん流れ出るし、おまけに満潮になればその岩場は海の底へ沈む。回りには襲ったサメが彼女を狙って回遊している。もちろん脱出しようにも船もなければ、携帯もない。なかなかよく考えられた絶望的シチュエーションである。

ヒロインはそれでも医学生としての知識を使って傷を応急処置したり、腕時計のストップウォッチでサメの周回するタイムを計ったりする。前半に登場する何気ない小道具が後半で役に立ったり、サンゴやクラゲといった彼女を邪魔立てする存在が後半でうまく活かされたり…という映画ならではの仕掛けがいくつもあり、脚本が実によく練られている。

蝋人形の館』の監督(どうでもいいけど、この監督の名前ジャウマは以前、「ジャウム」と表記されていたはずだが、どうなってるの?)なので、クジラの腐乱死体に掴まるときのドロドロの気持ち悪さや、傷口を縫い合わせるときの直接描写など手加減がなく素晴らしい。またラスト近くのヒロインとサメとの1対1の死闘はこれまた『ラン・オールナイト』の監督らしく、手に汗握るたたみかけで思わずヒロインに「ナイスファイト!」と声をかけたくなる。

ヒロインのブレイク・ライブリーはそれほど美人でもかわいくもないんだけど、スタイルがよく、水着からのびた長い脚を見せてくれる。ちなみにこの映画、ほとんど彼女の一人舞台である。

ちょっと最後の方、ブイを留めてある鎖を切ると海底に引き込まれる仕様になっているとか普通は知らないだろうから御都合主義的な感じがしないでもないが、まあ、許せる範囲かな。『激突!』とかそういった昔からある、ワンアイデアだけで勝負をかけた、正しいB級アメリカ映画の血統を引き継いだ映画で、じゅうぶん楽しんだ。

<8/6(土) なんばパークスシネマ、シアター9、座席H−4にて鑑賞>

2016-08-01

Kurobaku2016-08-01

[]トランボ ハリウッドに最も嫌われた男(米2015 ジェイ・ローチ監督)

1940年代〜50年代、赤狩りの犠牲になってハリウッドから干されながら、なおも戦い続け、ついには一線に返り咲いた伝説の脚本家:ダルトン・トランボ(昔はドルトン・トランボという表記だったと思うが)の生涯を描いた作品。

赤狩りのこと、トランボとその作品のことは知っていたが、具体的に誰がどうかかわって、何があったのかはよく知らなかった。だからエドワード・G・ロビンソンがトランボと交流があり、公聴会で仕事ほしさに裏切った、なんていう話は、この映画で初めて知った。ヘレン・ミレン扮する元女優の業界記者ヘッダ・ホッパーなどの話も興味深い。アメリカ映画の永遠のヒーロー、ジョン・ウェインが嫌な奴として出てくるのも面白い。どうせなら同時期のエリア・カザンの話などにもちらりと触れてほしかったとか、変な欲も出てくる。ブルース・クックの原作評伝は読んでいないのでわからないが、おおむね事実に沿って描かれているのだと思う。

しかしこの映画の本当の魅力は、そういった赤狩りやトランボの勉強だけに留まるわけではない。そういうのが目的なら本を読めばよい。

私はこの映画の、トランボが『ローマの休日』の脚本を友人のイアン・マクラレン・ハンターに託す場面が好きだ。ハンターは最初断るけど、トランボの事情を察して、仕方なく受け取る。その際、ハンターは『王女と無骨者』というタイトルがよくないと進言し、少し考えてから「『ローマの休日』はどうだ」と言う。一緒に連れてきたトランボの娘がサンデーか何かを食べながら「私もそれがいいわ」。トランボはその場で表紙に書かれたタイトルをペンで書き直す。…これは史実なのか? 一説によると『ローマの休日』というのは皮肉的な意味合いが込められているらしいが、このやりとりだとそんな雰囲気はない。だけども、この場面は最高に温かくて好きだ。どうしてこんなに温かさを感じるのだろう。勝手な想像だが、もしかしたらハンターがタイトルを考えたとすることによって、トランボの手柄を奪ってしまった彼の後ろめたさを少しでも軽減してあげようという、作り手の優しさが背後にあるからかもしれない。実際ハンターはアカデミー脚本賞を受け取っても、後でトランボにオスカー像を渡しに行くようないい奴なのだから、そういうことがあってもおかしくない。

この映画にはそういう人間的な温かさが随所にある。トランボが小さな娘に「共産主義者」とは何かを教える場面もいいし、トランボにB級映画の脚本を書かせた小さな映画会社の社長フランク・キングがトランボをかばう場面もいい(演じたジョン・グッドマンは、『マチネー』でウィリアム・キャッスルに、『アルゴ』でジョン・チェンバースに扮したこともある)。変人的な雰囲気で描かれるオットー・プレミンジャーも、旧いハリウッドの体質を壊そうとするカーク・ダグラスも愛すべき人物として描かれている。また『スパルタカス』の試写を見たケネディがTVカメラに向かって「いい映画だ、これはヒットすると思うよ」と語り、赤狩りの時代が終わりつつあるのを示したのも印象的だった。そこには優れた映画人トランボと彼を評価し、愛した人たちに対する畏敬の念が感じられる。

トランボを演じたブライアン・クランストンが巧い。逆境に立たされ、屈辱的な目に合わされても、飄々とした態度は崩さず、頑固にたくましく立ち向かっていく姿を演じる一方で、仕事のために家庭を犠牲にしたことを妻に指摘され、我に返る一家庭人である姿も演じて見せた。ちなみにバスルームでタイプライターを打つ姿が「全身脚本家」という感じでかっこよかったが、あれは他に家で邪魔されずに書く場所がなかったため、とこの映画では描かれていた。

<8/1(月) 大阪ステーションシティシネマ、シアター7、座席H-5にて鑑賞>

2016-07-30

Kurobaku2016-07-30

[]魔子恐るべし(日:東宝1954 鈴木英夫監督)

信州八ヶ岳から、世話になった画家を訪ねて東京に出てきた野生娘・魔子(根岸明美)が、彼女を売り飛ばそうとするヤクザ(森繁久彌)を相手にひと騒動を起こす物語。

魔子は「ホイ!(ハイという返事)」とか「どうもお世話になりぶらさがりますだ」とか奇妙な信州弁(?)を使って、田舎者まるだし。すぐに他人を信用するので、彼女の若い肉体に目をつけた売春暴力団やストリップ劇場の作家(加東大介)に騙されて、たちまち窮地に陥る。ちなみに当時の根岸は野生的な魅力で売っていた(翌年『獣人雪男』で山娘役もやっている)ようで、後半には彼女のエキゾチックな踊りの場面もある。

しかし純粋無垢な反面、怪力の持ち主という設定で、国技館でプロレスの試合を本当の喧嘩と勘違いして乱入し、相手をのしてしまったりする。また村では身分の高い娘らしく、お目付け役の茂助(藤原釜足)という従者がいて、本当にピンチのときには参上して助太刀したりする。この釜足がすっとぼけていてイイ。二人がどこかのビルの屋上で「東京は広えーなー」と会話する場面は、当時の東京の風景も含めて情緒たっぷり。石ノ森章太郎の似たシチュエーションのアニメ『さるとびエッちゃん』を思い出した。

原作は宮本幹也の山窩(サンカ)小説。ストーリーは同じことの繰り返し(いかにも新聞連載モノっぽい感じ)で間延びしていて、おまけにラストは画家に会えず尻切れトンボで「魔子、何処へいく?」と文字が出て唐突に終わる。これは続編を作るつもりだったのが、不入りだったのでポシャったとのこと。かように決して成功作とはいえないが、幻の民族、山窩を、大都会で混乱を巻き起こす異世界からの住人として捉えているのが新鮮で、大人向けのファンタジーみたいになっているのが大変いいと思う。今リメイクしたら案外面白いかもよ、と思ったりもする(無理か)。カルト的怪作と呼びたい。

なお彼女が出演するストリップ劇場の看板に「水爆的新星」とか書かれていて吹き出すのだが、1954年といえば同じ年に東宝で『ゴジラ』が作られている。そういう時代だったのだ。

<7/29(金) シネヌーヴォにて鑑賞>

2016-07-29

Kurobaku2016-07-29

[]シン・ゴジラ(日:東宝映画ほか2016 庵野秀明総監督、樋口真嗣監督・特技監督

昨年の暮れあたりからシネコンで流れた特報を見たときは不安だった。「逃げろ、逃げろ、逃げろ!」と若者たちがバスの横を走り回り、その様子がグラグラ揺れる手持ちのビデオカメラで撮影されている。おいおい、今さら『クローバーフィールド』のPOV映画に逆戻りかよ、と。加えて、発表されたキャストが長谷川博己石原さとみというのは悪夢の『進撃の巨人』からの引継ぎだし。それでもって7月には「怪獣映画ならぬ会議映画」だって噂は出てくるし…本当に大丈夫なのかと心配した。

カリハ「ところが初日に映画を見に行って、あまりの面白さにびっくりしたんですよね。終映後、しばらくずっと興奮状態でしたよね、くろばくさん?」

誰だ、きみは?

カリハ「お久しぶりです。もうお忘れかもしれませんが、エイガ・デイズのイメージキャラクター担当のはずが、たった一回で終わったカリハ26才♀です。あれは2005年の『電車男』のレビューでした」

前回が2005年だとすると、あれから11年経っているから、もう37歳か。

カリハ「いいえ、私はイメージキャラクターなので、齢はとりません。だから永遠の26才ですけど、そんなことはどうでもいいんです。映画はどうでしたか」

うん。これはもう庵野=樋口両監督の集大成であり、二人の最高傑作と言っていいね! 『ナウシカ』の巨神兵、『トップをねらえ!』、平成『ガメラ』シリーズ、『新世紀エヴァンゲリオン』…すべて総ざらえ感がある。さらには二人が影響を受けたもの、『ゴジラ』シリーズはもちろんのこと『ウルトラマン』シリーズや『機動警察パトレイバー the Movie』などいろんなものが入っていた。あのね、ちょっと詳しく語っていい?

カリハ「どうぞ。更新が遅いから、どうせもう誰かに同じことを言われてるでしょうけど、一応がんばってみてください」

相変わらず口が悪いなあ。あの、米軍の爆撃機が地中貫通爆弾でゴジラを攻撃する場面があるけど、爆弾を受けたゴジラがプール一杯分ぐらいの大量の血を流す。ああいう表現は庵野が『新世紀エヴァンゲリオン』で攻撃されたシトが盛大に血を流していたことを踏まえてのことで、おそらく庵野監督以外、誰もやっていないと思う。

そのあと、ゴジラがいよいよ背ビレを光らせて、放射能を吐くという展開になるんだけど、これまた描き方が従来と違って、口が三つに割れたりする。さらに炎からビーム光線状に変化するのも新機軸で、何キロ先まで一瞬で焼き尽くす描写などは間違いなく『風の谷のナウシカ』の巨神兵庵野の原点だなあ、と感激した。そのあとの背中の四方八方から光線を出して爆撃機を撃ち落すのは、『伝説巨神イデオン』の全方位ミサイルを思い出させる。狙ったのか、偶然なのか、巨神兵も伝説巨神も、ゴジラと同様「神」という単語が入っているしね。

しかし何といってもあの光線に捧げられているのは『ゴジラ』シリーズをはじめとする円谷特撮なんだよね。つい最近も『光線を描き続けてきた男 飯塚定雄』(洋泉社)という本が出ていたけど、あの光の美しさはもう特撮映画そのもの。今回は光学合成じゃなくてCGだろうけど、それでもやっぱり美しい。この場面の最終カットは口から炎を吐いて、東京を焼き払うゴジラのロングショットになるんだけど、あれと同じ構図が1954年版の『ゴジラ』にあったと記憶する。ここをわざわざあの構図で終わらせたのは、『エヴァ』だの『ナウシカ』だのいろいろ引用して新しいゴジラを作ったんだけど、やはり最後はオリジナル『ゴジラ』じゃないと、っていう庵野監督の敬意の表れだよねえ。それだけで涙腺が緩んで…うう。

カリハ「…もう気が済みましたか」

まだまだあるけど、あと誰も言ってなさそうなのを一つだけ。蒲田に現れた最初のゴジラが水路を進むというのは、『ラブ&ポップ』のヒロインたちが渋谷の水路をつき進んでいくイメージとカブると思うんだけど、どう思う?

カリハ「コジツケですね(キッパリ)。しかしまぁ、この『シン・ゴジラ』が怪獣特撮映画の集大成であり、いかに優れているかということはよくわかりました。ところで今回のゴジラは、実際に巨大生物が現れたときの政府の対処法をかなりリアルにシュミレーションした作品ということでした。またオリジナルの『ゴジラ』が第五福竜丸および原水爆、東京大空襲の記憶を基にして作られていたように、今回は東日本大震災および福島第一原発事故の記憶を基にして作られているかと思います。それらについてはどう思いますか」

巨大生物に対応できる条文が憲法になくて、あーでもない、こーでもないと憲法の条文が画面いっぱいに表示される場面があるけど、あれを見て庵野改憲を支持しているとか、全体的に自衛隊を賛美して描いているとかいうのは、娯楽映画に対してヤボじゃないかと思う。

カリハ「お言葉ですが、今回のゴジラ映画を作るにあたって、シュミレーションとか東日本大震災とか現実の方に擦り寄ってきたのは庵野監督の方ですから。都合が悪くなると、これは娯楽映画だから、とか逃げを打つのはおかしいと思います」

うちのイメージキャラクターが失礼なことを言ってるけど(笑)、庵野監督にそんな政治的な考えがあってこの映画を作ったとは思えないんだけどね。

カリハ「私は尾頭ヒロミかー! 確かに改憲支持だとか、自衛隊賛美は私もないと思います。けれども、最後のヤシオリ作戦で、長谷川博己が作戦実行をする自衛隊隊員たちに向かって演説をするのは、戦時中『君たちはお国のために死んでくれ』とか言う日本軍に似た危険性を孕んでいると思います。そのあと実際に、作戦に参加した第一陣がゴジラの光線によって壊滅しますし…」

ヤシオリ作戦は、福島第一原発事故の対応に当たった政府関係者および東京電力の現場作業員の姿とダブらせているんだよ。ゴジラの口に血液凝固剤を投入するというのは、メルトダウンに向かう原子炉に冷却水を送り込む作業を思わせるわけだし。実際にその作業で命を落とされたり、被爆された人もいるわけで…そう考えるとよくここまで描けたな、よく東宝はOK出したなと逆に感心する。

カリハ「確かにそれは凄いことだと思いますが…。『シン・ゴジラ』を見たあと、『太陽の蓋』(佐藤太監督)という福島第一原発事故が起きたときの政府の対応をドキュメント風に描いた映画を見たのですが、そこで描かれる政府の混乱ぶりはまるでこの映画そっくりです。政府は最悪の場合、東京を捨て、都民を避難させる覚悟までしていたようなんですが、もうまんま『シン・ゴジラ』ですね。『太陽の蓋』は演出力、資金力が足りなくてそれほど優れた映画とは言えないのですが、内容の衝撃度と原発事故を描く真摯な姿勢は『シン・ゴジラ』に拮抗していると思います。現実の原発事故から見れば、やはり『シン・ゴジラ』は弱いですよ。在来線爆弾とか怪獣ごっこしてふざけているとすら思います」

えー…うちのイメージキャラクターが再度失礼なことを言ってるけど(笑)。一応、平泉成の新総理はこの作戦の責任をとって内閣を辞職するんだよね。最初からそういう腹づもりだったみたいだけど。ちゃんと庵野監督も考えて作っているかな、と。

カリハ「だったら作戦の陣頭をとった長谷川博己も政治家を辞めるべきです。巨大怪獣と対峙した政府をリアルに描いたのなら、そういう人間ドラマ面もリアルにした方が、バランスがいいし、映画に深みが出たと思うんです。この国を復興させるまでとか、最後にキレイ事を言うのもどうかと…ましてや石原さとみと将来はお互い国のトップになろう、と言い合うなんて、あまりにも楽天的過ぎます。ある意味、政治家のズルさを描いた映画だったのかと思うくらいです」

確かに竹野内豊の存在など、そういう一面を描こうとしたフシもあるんだけど、あまりうまくいってないような気がした。主役は政治家じゃなくて、あくまでゴジラだからね。

1954年のオリジナル『ゴジラ』と今回の『シン・ゴジラ』との大きな違いは、ゴジラの犠牲となる一般国民が描かれているか、いないかだと思う。オリジナルでは「もうすぐお父さまのところに行けますからね」という会話をする逃げ遅れた母子をはじめ、ゴジラに自分のいる鉄塔を襲われても最後まで実況を続けるアナウンサーなど、犠牲になった一般の人たちの姿が描かれている。私が印象に残っているのは、燃える街を遠巻きに眺める人たちが誰彼ともなく「…ちきしょう」「ちきしょう」と声を上げ始める場面。思わずもらい泣きしそうになった。こういった視点が、最後、平田昭彦扮する芹沢博士がたった一人でゴジラの犠牲となってすべてを終わらせることと繋がっている。おそらく映画の作り手は、もうこれ以上日本国民に犠牲を強いるようなことをしたくはなかったんだろうと思う。

一方の『シン・ゴジラ』はゴジラの犠牲になる一般国民を最低限しか描かず、あくまでゴジラ対策を講じる政府閣僚や自衛隊関係者の視点で映画を展開させた。少しでもメロウになるようなものは極力排除しているようにも思える。オリジナルと同じことをやってもしょうがないのはわかるし、その思い切りのよさを評価する向きもある。しかし震災や原発事故も、戦争や原水爆と同じくらい恐ろしいことなのだから、もう少し死んでいった者たちの視点に立って、平和への祈りが感じられるような重さが、ラストに必要だったかもしれないね。

カリハ「政治家だけの視点だと、どうしても大義名分を言ってるだけに思うんですよ。それに岡本喜八監督の写真を引用してオマージュを捧げていますが、岡本監督は政府閣僚が主役の『日本のいちばん長い日』に不満を感じてて、その反動で、ただの一兵卒が主役である『肉弾』をATGで作ったんです。一般人の犠牲者の立場を描かないのは岡本監督の精神にも反していると思います」

いやいや…どちらも岡本喜八の作品だし。反している、は言いすぎだよ。ちょっと水でも飲んで落ち着け(笑)。

カリハ「また引用が…。ただ私が言いたかったのは、娯楽性を重視するあまり、この題材を扱った限りは、決して飛ばしてはいけないものまで飛ばしてしまったのではないか、ということです。ま、こんなことを書いても、どうせ、ケムたいことを書くな、素直に映画を楽しめばいいんだ、なんて言われるんでしょうけど」

どうして君はそんな喧嘩を売るようなことばかり言うのか。怪獣特撮映画として楽しんだ上で、背景に描かれている震災や原発問題にもちょっと考えをめぐらせる、で別にいいんじゃないのかなァ。

とにかく才能はあるはずなのに、ずっと低迷し続けていた庵野=樋口両監督がようやく本領を発揮した映画を作ったということで、私は大いに喜びたい気持ちです。これは本当。

<7/29(金) TOHOシネマズなんば スクリーン2、座席R−12にて鑑賞>

<9/1(木) TOHOシネマズ梅田 スクリーン3、座席N−10にて鑑賞 ※2回目>

2016-07-26

Kurobaku2016-07-26

[]その他の7月に見た映画

×『ふきげんな過去』(日:東京テアトルほか2016 前田司郎監督)→エピソードや会話は部分的に面白いけど、ストーリーは脈絡がなく散漫な印象。私には何がやりたい映画なのかさっぱりわからなかった。昔から思っているのだが、小泉今日子ってアイドルのイコンではあっても、映画女優としては何の魅力も感じないのな(『快盗ルビィ』みたいな使い方はハマるが)。二階堂ふみも最近は不発ばかり。TVに出るとやはりダメになるのでは。<7/1金、なんばパークスシネマ・9>


『教授のおかしな妄想殺人』(米2015 ウディ・アレン監督)→生きる希望を失っていた哲学科の教授(ホアキン・フェニックス)が、完全犯罪を実行して生を取り戻すも、教え子の女学生(エマ・ストーン)に見破られ…というブラック犯罪コメディ。ヒッチコック風の犯罪ものに哲学ネタの蘊蓄を混ぜたようなアイデアは悪くない。しかし淡々と流すような味気ない進行で、いつもウディ作品はこんなんだっけ、と首を傾げる。それでも女優に対するこだわりはさすがで、エマ・ストーンは魅力的に描けていた。<7/1金、なんばパークスシネマ・3>


スティーヴ・マックィーン その男とル・マン(米、英2015 ガブリエル・クラーク、ジョン・マッケンナ監督)→脚本未完成のままのクランク・イン、ジョン・スタージェス監督の途中降板、予算や撮影日数の大幅な超過、撮影中のスタントマンの死亡事故…マックイーンは途中で製作権を剥奪され、自ら興したプロダクションも倒産する。つまり『栄光のル・マン』は『地獄の黙示録』や『天国の門』などと同様の厄災映画の一本だったということがわかるドキュメンタリー。ただこれ、再現イメージ映像がやたらカッコつけててドキュメンタリーとしてはかなりダサい。<7/7木、シネマート心斎橋・1>


『忘れえぬ慕情』(仏、日:松竹1956 イヴ・シャンピ監督)→珍しいフランスと松竹の合作で、シャンピ監督と岸恵子が結婚することになったきっかけの作品。舞台は日本の長崎。造船技師のジャン・マレーと呉服屋の娘;岸恵子は婚約していたが、マレーの昔の恋人のルポライター;ダニエル・ダリューが追いかけてきて、三角関係になる話。フランス人の恋愛観(マレーの「どちらも愛している」、ダリューの「恋愛はゲーム」的考え)と、日本人のそれとの違いがうまく描けている。クライマックスの台風上陸場面は、この映画の売りの一つで、公開当時、特殊技術賞を受賞している。確かに本物の台風にしか見えない。また後に007で憎たらしい悪役ゴールドフィンガーを演じることになるゲルト・フレーベが、この映画では親日家の心優しいスイス人を演じていて驚いた。<7/14木、シネ・ヌーヴォ


疑惑のチャンピオン(英2015 スティーヴン・フリアーズ監督)→実話の映画化。ツール・ド・フランスで7年間連続チャンピオンになったランス・アームストロング(ベン・フォスター)がドーピングをやっていた事実を暴くルポライター(クリス・オダウド)の話。隠す側と暴く側の激しい攻防! それにしてもこういうのが平然と行われていると知ると、オリンピックをはじめ多くのスポーツ競技が無意味なものに思えてくるなあ。<7/15金、シネ・リーブル梅田・4>


『セトウツミ』(日:ブロードメディア・スタジオほか2016 大森立嗣監督)→脚本もええし、役者もええし。つまり何も考えんで面白いんやけど、映画ってこんなんでホンマにええのんか? と逆に不安を感じてしまう。さすがに2時間は持たないので、1時間15分にしたのは正解。当初、二人が延々に河原で喋るだけだと思っていたので、他の登場人物が出てきたり、二人が出会うまでの話があったりするのは意外だった。逆に固定カメラでじっと二人だけを撮るというストイックな映画も見てみたかった気もする。一話15分ほどの深夜テレビの連続ドラマでやったら、きっと毎週見てしまう。<7/15金、テアトル梅田・1>


『ターザン:REBORN』(米2016 デヴィッド・イエーツ監督)→REBORNも何も、これ時制をいじっているだけで、普通にターザンの物語だよな。なぜ今さらターザンなのか? 日本でも今さら真田十勇士をやるくらいだから、古典は定期的に復活するのだろう。これまたなぜかS・L・ジャクソンとクリストフ・ヴァルツの二大タランティーノ系俳優で脇を固めているが、悪役のヴァルツはあまり冴えず。最後死ぬのでも、ちゃんとエゲつなくワニに喰われるところまで見せてほしいが、家族向け映画で遠慮したのか。一方のS・L・ジャクソンは久しぶりにノリノリで演技を楽しんでいる風。ジェーン役のマーゴット・ロビーは今度の『スーサイド・スクワッド』ではっちゃける予定。それにしても予告編で、主演のターザン俳優に「安心シテクダサイ、ハイテマスヨ〜」と流行のギャグを言わせる日本の配給会社よ…。<7/20水、大阪商工会議所・国際会議ホール(試写会)>


ONE PIECE FILM GOLD(日:集英社ほか2016 宮元宏彰監督)→ゲストヒロインのカリーナの声を満島ひかりが担当。2015年のTVドラマ版『ど根性ガエル』でピョン吉の声を演じて好評を得た彼女だが、本作でプロの声優(ナミ役の岡村明美)とからんでいるのを見たら、劣っているのがはっきりわかる。声量が足りないのかな。それでも「シシシ」と笑うのはなかなかかわいかったが。映画の出来は別にいつもどおり。<7/26火、なんばパークスシネマ・7>


『シング・ストリート 未来へのうた』アイルランド、英、米2015 ジョン・カーニー監督)→『ONCE ダブリンの街角で』『はじまりのうた』と音楽をテーマにした映画で良作を連打したカーニー監督が、今回は自分の高校時代のバンド話を元にして作った一本。80年代中頃に流行ったMTVに影響を受けて、仲間たちとプロモーションビデオを作るエピソードなど懐かしかったり、微笑ましかったり。規則づくめの学校の体制、貧しく荒んだ家庭…など閉塞的なアイルランドの環境と、それに対する主人公の鬱屈感、反発心がよく描けている。ただこういう題材の青春映画はわりとありふれているし、大人を主役にした前2作と比べ、こちらはさすがにガキっぽい気がして、少々落ちるように思った。オリジナル音楽はやはり優れている。<7/26火、シネ・リーブル梅田・1>

2016-07-15

Kurobaku2016-07-15

[] FAKE(日:東風フィルムズほか2016 森達也監督)

【ネタバレあり】『疑惑のチャンピオン』を見た後、佐村河内守ゴーストライター問題を扱った本作を鑑賞。偶然だけど、偽装を扱った作品の二本連続鑑賞となった。

しかし、これって結局何が言いたかったのか、煙に巻かれてなんだかよくわからないことになってないかい? というのが私の感想だ。

映画は例によって、森監督自ら、今回の取材対象である佐村河内守の家に入り込み、カメラを回して密着取材をする。で、これが何を目的とした取材なのか、よくわからない。最初、森は佐村河内守に同情し、彼を信じる、みたいなことを言うのだが、やっていることは佐村河内の取調べとそれほど変わらないように思える。その間も佐村河内の食事を丹念に撮影したり、佐村河内家の前の消火器がいたずらされているとかいった話も出てくる。しかし結局それらはどうでもいい話で、どうもこのドキュメンタリーは行き当たりばったりでカメラを回しながらネタを探しているような印象を受ける(それが森監督の手法であることは知っているが)。

それでも何となく浮かび上がってくるのが、。圍峩匹良埃造機↓難聴の真偽、I徂悗琉Δ箸い辰浸阿弔離董璽泙任△襦

しかし。圍峩匹良埃造気覆匹蓮△錣兇錣兇海留撚茲鮓なくてもわかりきっていることである。世の中TVほど信用のできないものはないと私は日頃から思っている。

そして難聴の真偽に関しては、いかに専門家を登場させても、難聴を映像では証明することは難しいと思えた。なぜなら究極的には本人にしかわからないことだからである。の夫婦愛もまたしかりで、セリフで「愛している」とか言わせる場面もあるが、これだって、当人しか心のうちはわからないだろう。要するに、△皚も客観的な映像を使って第三者の観客に証明することが困難なことのように思えるのだ。

こういう証明できないようなことをこの映画はいつまでものらりくらりとやる。いい加減、これではラチがあかないのでは? と思って見ていると、海外のメディアが取材しにやってくる場面になる。このインタビュアーは当然外国人で、さすがは論理的な思考をしている。誰でも思う当たり前の疑問をズバズバ佐村河内本人に突きつける。それは「新垣との共同作曲はどうやってやるのか」「どうして自分で作曲法を学ばないのか」「あなた自身は何か楽器ができるのか」「じゃあ、何でもいいから目の前で弾いてみてくれ」といったものである。ここで佐村河内は言葉に詰まって、言い淀む姿を晒してしまう。

結局、このインタビューのあと、森の提案で、佐村河内本人が作曲に挑戦することになる。つまりここで新しいぁ嶌澗鴫脇發亘榲に作曲できるのか」というテーマが出てくるわけだ。確かにこれなら難聴や夫婦愛よりかは一応、証明しやすいように思える(完成品を聴けるという意味で)。それから佐村河内は家にこもり、パソコンの作曲ソフトを使用して自分の音楽を完成させる。映画はその音楽をエンドロールにして、感動的なエンディングを迎えることとなる。

しかし、それをそのまま鵜呑みにできない。というのは、森は以前に『ドキュメンタリーは嘘をつく』という本を書いているし、そもそもこの映画の『FAKE』という題名がトリッキーで、要するにどこまで信用していいのかわからない作りになっているからである。この映画のコピーは「誰にも言わないでください、衝撃のラスト12分間。」となっていたので、きっと最後にすべてをひっくり返すようなオチを用意しているんだろうなあ、と私は予想した。例えば『シベリア超特急』のような「ハイ、カットOK!」みたいなやつだ。もちろん、さすがに森達也はそんなバカみたいにわかりやすいことはしなかった。けれども、それに似たようなことをやった。ネタバレになるが、森は最後に作曲することを証明できた佐村河内に「で、守さん、ぼくに何か隠していることはありませんか」と言うのだ。佐村河内はそれを聞いて、戸惑った表情を見せ、映画は終わる。

私はこの映画を見終わってからの数日間、その「隠していること」とは何かをずっと考えていた。そしてそのポイントは、あの最後の完成した曲をみんなで聴く場面で、カメラが奥さんの姿をじっと捉える場面にあるのではないかと思った。あの場面で奥さんの手元で何かがキラリと光った。最初私はそれを、奥さんがケータイをやっている光ではないかと見た。だからその直後、森監督が言った「いいものが撮れました」というのは、シッポをつかんだ、という意味だと考えた。奥さんが主人である佐村河内の曲を、ケータイしながら真面目に聴いていない、ということはイコール佐村河内の曲は嘘っぱちと考えていいからだ。

だが、よく考えるとあれはそんな大きな光ではなかった。もっと小さな光である。あれは奥さんがはめていた結婚指輪に偶然、照明が当たって反射し、それが光ったぐらいが自然に思える。そうなると森監督の「いいものが撮れました」という言葉は素直に受け取っていいこととなる。つまり、これは当初のテーマの一つであった、の「夫婦愛」が見事にカメラに収められた瞬間ということだ。先に私は「夫婦愛」は映像では証明することは難しいと書いたが、逆に映像で証明しなければならないとすると、こういうロマンチックな表現になるわけである(笑)。しかしそれだと森が最後に言った「ぼくに何か隠していることはありませんか」という言葉は、単なる観客サービスのどんでん返し=『シベリア超特急』になってしまう。

またもう一つ、奥さんの手元の光以外にも同様の要素がある。それは佐村河内の作曲した最後の音楽をどう聴くか、ということだ。あの音楽を聴いて、感動的だと思った人には、森の最後の言葉はやはり観客サービスのどんでん返しとなる。しかし反対に、あの音楽をとてもチープな、ありふれたシンセのゲームミュージックみたいな音楽にしか聴こえなかった人(私だ)には、森の言葉はどんでん返しにならない。

要するに森達也は観客を試したのだろう。その観客の見方によって、最後のセリフの受け取り方が変わる、プリズムのような映画を作ったのだ。佐村河内は本当に難聴なのか、佐村河内は本当に作曲できるのか、佐村河内夫妻の愛は本物なのか、すべては映画を見た観客に委ねられてしまう。

かようにこの映画が一筋縄ではいかない、クセモノ作品であることはよくわかった。ただ最初にも書いたように、さんざんあちこちに振り回されて、結局ただ煙に巻かれて終わっているだけの気がしないでもない。自分で結論を出せない人にはしんどい映画だな。

それにしても、こういう、出てきた内容に合わせて、取材対象者まで裏切るというようなやり方で映画を撮ると、そのうち森達也監督は誰にも信用されなくなって、次回作がますます作りにくくなるのではないかと心配してしまう。

<7/15(金) 第七藝術劇場にて鑑賞>

2016-07-14

Kurobaku2016-07-14

[]ブルックリン(アイルランド、英、加2015 ジョン・クローリー監督)

『ハンナ』や『グランド・ブダペスト・ホテル』などを見て、すっかりごひいきにしているシアーシャ・ローナンが、アカデミー主演女優賞をノミネートした作品だというので見に行った。

1950年代のアイルランド、町の食料品店で働くエイリシュ(ローナン)は女店主の横暴な商売にうんざりする毎日を送っている。ある日、姉の勧めで、エイリシュは閉塞的なアイルランドを出て、たった一人でアメリカに渡る決心をする。

アメリカに移民してくる外国人の話といえば『ゴッドファーザーPART2』あたりが頭に浮かぶが、この映画にはああいうドラマチックさはなく、あくまでも一人の少女の視点から描いているのが良い。アイルランドからの移民も初期の頃はかなり苦労したんだろうということは、エイリシュが教会のボランティアで行く老人の慰労会(?)のくだりからなんとなく察せれるが、エイリシュの世代だともう移民の受け入れ態勢が完全に整っていることは見ていてわかる。なので、観客としては親戚を訪ねて東京へ出てきた地方出身者ぐらいの感じで見ることも可能である。

そして、この映画の素晴らしいのは、そんな田舎から大都会にたった一人でやってきた女の子が、一歩、また一歩と前に進んでいく姿を、小さなエピソードを具体的に積み重ねて描いていくところだ。例えば、寮で寮婦長と一緒に夕食をするとき、最初の頃は先輩の女性たちに笑われないかと慎重に言葉を選んで会話するところなど、エイリシュの怯え具合がよく伝わってくる。それが後の場面になると、寮婦長にどういうわけか気に入られ、さらに自分より後からきた後輩女性ができると心に余裕が出てくる。ついには先輩の女性と秘密の話までできるようになる。こういったエイリシュの心の動きまで含めた細かい状況描写が随所にあり、観客は彼女の成長していく姿をつい自分と重ね合わしてしまうのだ。

また登場する人物たちも一人ひとり、細かいところまで造形されていて素晴らしい。特に恋人になるイタリア系のトニー(エモリー・コーエン)は、最初胡散臭い奴に見えたし、アイリッシュとイタリアンが果たしてうまくいくのか、と見ていて心配させられるが、デートのどの段階で、彼女のどこまで踏み込んでいいか、ちゃんと考えているし、家族を紹介するタイミングもうまい。意外と利発で優しい男なのだ。

エイリシュが何回目かのデートをして悩んでいると、デパートの女上司が相談に乗ってくれるエピソードがいい。上司が「その彼氏は、母親の話か、野球の話ばかりする?」と訊き、エイリシュが「いいえ」というと「彼は当たりよ! 付き合いなさい」と言う(!)。それで彼の家に遊びに行くことになるが、家族に会ってみるとそこではブルックリン・ドジャーズの話ばかりしている、というオチがつく。こういうネタはさすが『ぼくのプレミア・ライフ』(=『2番目のキス』)の原作者ニック・ホーンビィらしい脚本だ。エイリシュがこの日のためにスパゲッティの食べ方を練習してくる、というエピソードもよく、さらにトニーの8才になる弟が場をブチ壊すかのようなナマイキ発言をするのも面白い。もう、このあたりは登場人物全員を片っ端から抱きしめたくなるような温かさなのだ。

二人はベッドインするところまで関係が進むのだが、そんなとき、アイルランドにいる姉が病死したという連絡がくる。後半は再びアイルランドへ舞台が移る。

姉の葬式を済ませ、これから一人で暮らすことになる老いた母親を前に、トニーとの婚約を言い出せないエイリシュ。おそらく人種の違いが背景にあって、しかも「どうせすぐアメリカに戻るのだから」という気持ちもあって黙っていたのだろうことが自然と二人の言葉少ない会話から伝わってくる。この映画、こういううまさが随所にあるが、黙っていたことがあとで落とし穴になる。

故郷のアイルランドではそれまでパッとしなかったエイリシュだったが、ニューヨーク帰りのエイリシュはそれまでとは違っていた。服装もおしゃれだし、喋り方も違う。たちまち幼なじみの友人たちの間で人気者になる(海岸へ遊びに行ったとき、水着を家から中に着てくるニューヨーク方式(?)を披露するだけで驚かれるエピソードが効いてる)。

さらにニューヨークで簿記を学んだおかげで姉のやっていた会計の仕事を任されるわ、上流階級の旧友ジム(ドーナル・グリーソン)から求婚されるわ、以前とは180度違う人生が開かれていく。ニューヨークへの帰還が、3日延び、1週間延び、やがてエイリシュの頭の中からはトニーとの婚約がすっかり抜け出ていく…。

エイリシュが尻軽女のようで好きになれないという批評もあったが、やはりこれは故郷の呪縛というものを描いているのだろうな、と思う。それまで冴えなかった故郷での自分がニューヨークから戻ってくると完全に反転して、憧れの人生を送ることができる。この誘惑に抗える人がどれだけいるだろうか。そして何よりも姉がいなくなって、母親一人ここに残していかなければならない現実も直視しなければならない。

しかしある出来事があって、エイリシュは急に魔法が解けたように我に返り、やっぱりニューヨークへ戻る人生を選択する。問題は残しつつも、大西洋を渡る船の上、かつての自分と同じ境遇だと思える若い女性に、アドバイスしてやるエピソード(ここは冒頭の渡航場面とかかっている)でエイリシュの選択は肯定されたような気がした。すべての女性に最良の人生を模索する権利はある。

戦争に巻き込まれて数奇な運命をたどるとか、人類の窮地を救う大活躍をするとかいった大きなドラマは一切ない、まったく地味な内容の映画だといえるが、一人の少女が、人生の中で幸せを一つ一つ積み上げていく様子を温かい視点で描いた秀作だと思う。いくつもの伏線を効かし、ウィットに富んだ会話と登場人物の繊細な心の動きを描いたニック・ホーンビィの秀逸な脚本と、シアーシャ・ローナンの自然な演技が素晴らしい。

<7/14(木) TOHOシネマズなんば セレクトスクリーン、座席K−10にて鑑賞>

[]TOO YOUNG TO DIE! 若くして死ぬ(日:アスミックエースほか2016 宮藤官九郎監督)

宮藤官九郎の映画にはずっと裏切られ続けているので、今回はパスするつもりだった。しかし本年2月6日公開の時期にタイミング悪く修学旅行のバスが転落する事故が発生し、不謹慎だということで公開日が6月25日に延期された。そしてたまたまこの時期は見るものがあまりなく、TVでもガンガン宣伝していたので「今回はひょっとしたら…」と、うっかりチケットを買ってしまった。で、結果はいつものクドカン映画で、やっぱりいつもどおりつまらなかった。

最初に書いておくが、クドカンのネタやギャグ自体はいつも悪くないのである。今回も地獄でロック大会が開かれているという設定もいいし、甦ったら小鳥やザリガニになるというギャグも面白い(アシカあたりになるとさすがにクドいけど)。長瀬智也(現世版)も尾野真千子も、これまで見たことのないまったく新しい風貌と演技を見せているのも新鮮でよかった。

しかし、残念なことにそれらはいつも部分点に留まってしまう。というのは全体的に見て、ぜんぜん映画としてマトモに作られているとは思えない完成度だからだ。はっきりいって脚本として、本当にプロかと疑いたくなるほどヒドいレベルなのだ。いやいや、宮藤官九郎といえば『あまちゃん』をはじめ数々のヒット作を書いているし、最近の『ゆとりですがなにか』も評判がいいと聞く。それなのに、映画となるとその才能はミジンも感じられない。

この映画の基本となっている物語軸は、地獄で開かれているロックフェスティバルでえんま大王(古田新太)に認められれば、現世に甦らせてくれるというものなんだけど、この肝心のロックフェスティバルのシステムが実にいいかげん。どういう期日で行われ、どういうルールで進められるのか、テキトーにノリでしか描かれていない(7回も転生するのでどうしても曖昧になる)。なので、それに向かってメンバーを集めるとか、ギターの猛特訓をするとかいった、基本となるバンドものの様式がまるで成立しない。いくらフザケてもいいんだけどさあ、ここはカナメなんだから、もっとちゃんと作ろうよ? と言いたくなる。

また一見、神木隆之介が好きな女の子とキスできずに死んだという悲恋物語に見せかけておいて、実は地獄のロッカー長瀬智也にも好きな人に歌を聞かせられずに死んでしまったという悲恋話があり、これは切ない青春ストーリーのダブルヘッダーと考えていいのだろうが、なんか構成的に据わりが悪い。私には一つの作品に多くを盛り込みすぎているように思えてならなかった。

音楽映画的側面を持っているのもこの映画のポイントなのだが、これがまた中途半端。劇中バンド「地獄図(ヘルズ)」の楽曲は楽しいのだが、メインとなる曲以外はそれほどバラエティーに富んでいるわけではない。ゲスト的に登場するのが憂歌団木村充揮だけというのも寂しくて、やはり中途半端。本格的な音楽映画として本腰を入れる気がないのなら、そういうことは変に気を持たせるので最初からやめてほしかった。

結局見終わった後の印象は、その場その場で思いついたアイデアのたれ流しだったんのではないか、と思わせる。先に「本当にプロかと疑いたくなる」と書いたが、ここが発端で、ここが山場で…といった2時間なら2時間の映画としてキチンと構成する能力に欠けている。発想そのものはいいのに、実にもったいない。こういうのは日頃から基礎となる映画を見ていれば、改善できるはずだが、きっと宮藤官九郎は忙しくて見ていない、あるいは自分の好きな映画しか見ていないのだろうな。

要するに宮藤官九郎は、演劇やTVドラマには向くのだが、映画には向かない三谷幸喜タイプの人なのである。今、映画会社や撮影所システムはほぼ完全に壊滅してしまったので、こういう余所のジャンルからやってきたニセモノがはびこることになってしまった。二人とも映画が好きなはずなのに、映画をどうやって作ったらいいのか、まるでわかっていない。解決策としてはもう一人誰か、プロの映画脚本家を入れて、手直しするということだが、まあ、そんなことはしないだろう。できればこっちの世界には来ないでいただきたい。

<7/14(木) TOHOシネマズなんば スクリーン6、座席K−5にて鑑賞>

2016-07-07

Kurobaku2016-07-07

[]すれ違いのダイアリーズ(タイ2014 ニティワット・タラトーン監督)

タイ映画といえば、ここのところアピチャッポン・ウィーラセタクン監督のアート映画ばかり見ていたが、こちらは首都バンコクで100万人を動員したという大ヒット・青春ラブストーリー。ウィーラセタクン作品の対極を行く、徹底したわかりやすさだ。とはいっても、チャラチャラした単なる青春ラブコメディーではない。

運動しか能のない青年教師ソーンは、都会から離れた山奥の湖にある水上学校へ赴任させられる。生徒は湖で漁師をやっている家の子どもたちで、人数もたった四人しかいない。その生徒たちもなかなか馴染んでくれず、ソーンは苦戦するが、ある日、前任の女教師エーンの日記を見つける。その日記には同じように水上学校に赴任してきた新人教師エーンが体験した苦闘の日々が記されており、ソーンはそれを読んで共感したり、生徒への教え方を学んだりしているうちに日記の書き手であるエーンに惹かれはじめる…という物語。

二十四の瞳』的な田舎に赴任してきた若い小学校教師の成長ストーリーと、日記を通じて知り合った男女のすれ違いラブストーリーという、「合わせ技」の脚本がこの作品のミソである。

前者は電気、水道、ガスもなし、現代が舞台なのに携帯電話も繋がらないという田舎の湖の水上小学校、という設定を生かしていろいろな見せ場を作っている。風景が美しいのはもちろんのこと、ヘビや台風、水死体といった地方色豊かな困難も待ち受けている。教師たちが生徒を守るためにそれらと必死で戦う姿が感動的である。後半に電車を知らない子どもたちに、モーターボートに水上校舎を繋いで電車ごっこする場面があるが、これはちょっと強引な印象を受けた。この挿話はヒロインの終盤の話と繋がる伏線にもなっているのだが、やはり子どもたちを引率して本物を見せに行かないと電車がどういうものかはわからないだろうと思う。

また漁師をやっている親に「算数など漁師の仕事と関係ない」と言われた生徒が不登校になり、エーンがその生徒に登校するように説得するエピソードがあって、昔の日本映画みたいな問題を扱っていて興味深いのだが、子どもたちのキャラクターの色付けがそれくらいしかされておらず、他の子どもたちには何のエピソードもないのが寂しい。なので、教師ものとして見た場合はややもの足りなく感じる。

その反面、後者の、すれ違いラブストーリーの方がどちらかというとメインになっている印象で、ソーンとエーンが入れ違いで学校にやってきたり、目の前で会っていても顔を知らないので気づかないといった黄金パターンが繰り返される。これがなかなか巧い。この二人の教師を演じたスクリット・ウィセートケーオも、チャーマーン・ブンヤサックもフレッシュな感じで魅力的。特にヒロインのエーンを演じたチャーマーン・ブンヤサックは愛らしく、『ミウの物語』や浅野忠信が出ていた『地球で最後のふたり』などですでに見ているようなのだが、意識したのは今回が初めてということになる。

しかしこの映画で最も感心したのは、日記という本来は書物などの活字媒体と親和性が高い小道具を、ちゃんと映画として見せるよううまく工夫されているところだ。例えば以前、私は『orange-オレンジ-』という日本映画で、正体不明の手紙が届けば、その日のうちに主人公は全部読んでしまうのではないか、と批判したことがある。この映画も同様に、古い日記を見つけたら、主人公のソーンはその日のうちに読んでしまうはずである。ところが、そういう疑問は感じさせないよう、ちゃんとこの映画は構成されていた。ストーリー紹介では、ソーンがエーンの日記を見つけて、それを読んで教師として成長していく…となっているのだが、映画はそうなっていない。ソーンとエーンの日常が、映画の冒頭から早くも同時進行で交互に描かれているのである。だから、先の疑問は生じない。私はもうこれだけで、この映画の作り手は映画のことをよくわかっている、と思った。日記そのものも若い女性らしい、ページいっぱいに同じ言葉が並んでいたり、大きく文字がデザイン的に書かれていたりするビジュアルで見せることを意識したものになっていて感心した。

ちなみに本作はその年の米アカデミー賞の外国語映画賞候補のタイ代表に選ばれたとのこと。いろいろと欠点はあるものの、やはりそういった日記の映画的処理が巧みだったからではないかと想像する。大ヒットした青春ラブストーリーの中にもバカにできないものはあるのだ。

<7/7(木) シネマート心斎橋 劇場1、座席I−7にて鑑賞>

2016-07-06

Kurobaku2016-07-06

[]『シン・ゴジラ』は怪獣映画ならぬ、会議映画!?

いよいよ『シン・ゴジラ』の公開一週間前になった。

今回は試写会をしない方針(戦略?)らしく、本当に公開日のフタを開けてみないとどういう映画になっているのか、わからないとのこと。ネットではいろいろな情報が飛び交っているが、私が聞いて「おや?」と思ったのは「『シン・ゴジラ』は怪獣映画ではなく会議映画」というもの。ゴジラ出現という未曾有の災害に対して、政府の各部署がひたすら会議しまくるという話(笑)。えー、まさか、と思うかもしれないが、これが最近発表されたキャスト表を見ると、けっこう信憑性のある話なのだ。

ざっとこんな感じである↓


キャスト

矢口蘭堂内閣官房副長官: 長谷川博己

赤坂秀樹内閣総理大臣補佐官: 竹野内豊

カヨコ・アン・パタースン米国大統領特使: 石原さとみ

環境省官僚: 市川実日子

古代生物学者: 犬童一心

内閣官房長官: 柄本明

内閣総理大臣: 大杉漣

海洋生物学者: 緒方明

官邸職員: 片桐はいり

外務省官僚: 神尾佑

自衛隊関係者: 國村隼 / KREVA

原子力規制庁: 黒田大輔

消防隊隊長: 小出恵介

内閣官房副長官秘書官(防衛省出身): 高良健吾

自衛隊関係者: 小林隆 / 斎藤工

外務省官僚: 嶋田久作

防災課局長: 諏訪太朗

文部科学省官僚: 高橋一生

生物学者: 塚本晋也

厚生労働省官僚: 津田寛治

自衛隊関係者: 鶴見辰吾

文部科学大臣: 手塚とおる

内閣府特命担当大臣(防災担当): 中村育二

…キリがないので以下略(こんな感じで延々続く)


これを見てもわかるように、登場人物のほとんど全員が政府官僚や自衛隊関連、生物学者などである。これはもう間違いなく、いろんな会議が開かれるナ(笑)。

えー、会議が延々続く映画なんて面白いの? 劇場によっては4DXやIMAX版も用意しているのに会議シーンばかり? まあ、いくらなんでも会議ばかりってことはあり得なさそうだけど。

あるサイトではリアルな「大怪獣災害シュミレーション映画」という好意的なとらえ方をしていて、あー、なるほどと思った。というのは、このキャスト表を見て、私はある作品を思い出した。岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967)である。

『日本の〜』は1945年8月14日、当時の政府関係者や宮内省関係者、軍部などがどのように終戦の日を進め、迎えたか、というのをドキュメント・タッチで描いた作品である(昨年、原田眞人監督でリメイクされた)。鈴木内閣総理大臣:笠智衆、東郷外務大臣:宮口精二、米内海軍大臣:山村聡、阿南陸軍大臣:三船敏郎…といった風に内閣官僚等をそのときの大御所俳優、有名俳優に割り振ったのだが、今回のキャスト表はそれを思わせる。そして庵野秀明は熱烈な岡本喜八監督ファンとして知られる。これはもしかしたら、ゴジラが東京にやって来た24時間を内閣や自衛隊関係者がどのように処理していくのかをドキュメント・タッチでとらえた「ゴジラ版日本のいちばん長い日」になるということも考えられる。まあ、ぜんぜん的外れだったら、ごめんだけど。

一応、私はがんばって公開初日に見に行く予定です(あくまで予定だけど)。

(7/22金、記す)