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「お世辞をいうのは、愛情のない証拠です。お世辞をいうぐらいなら、皮肉をいってあげた方が愛情です」(川島雄三)

2016-07-06

Kurobaku2016-07-06

[]『シン・ゴジラ』は怪獣映画ならぬ、会議映画!?

いよいよ『シン・ゴジラ』の公開一週間前になった。

今回は試写会をしない方針(戦略?)らしく、本当に公開日のフタを開けてみないとどういう映画になっているのか、わからないとのこと。ネットではいろいろな情報が飛び交っているが、私が聞いて「おや?」と思ったのは「『シン・ゴジラ』は怪獣映画ではなく会議映画」というもの。ゴジラ出現という未曾有の災害に対して、政府の各部署がひたすら会議しまくるという話(笑)。えー、まさか、と思うかもしれないが、これが最近発表されたキャスト表を見ると、けっこう信憑性のある話なのだ。

ざっとこんな感じである↓


キャスト

矢口蘭堂内閣官房副長官: 長谷川博己

赤坂秀樹内閣総理大臣補佐官: 竹野内豊

カヨコ・アン・パタースン米国大統領特使: 石原さとみ

環境省官僚: 市川実日子

古代生物学者: 犬童一心

内閣官房長官: 柄本明

内閣総理大臣: 大杉漣

海洋生物学者: 緒方明

官邸職員: 片桐はいり

外務省官僚: 神尾佑

自衛隊関係者: 國村隼 / KREVA

原子力規制庁: 黒田大輔

消防隊隊長: 小出恵介

内閣官房副長官秘書官(防衛省出身): 高良健吾

自衛隊関係者: 小林隆 / 斎藤工

外務省官僚: 嶋田久作

防災課局長: 諏訪太朗

文部科学省官僚: 高橋一生

生物学者: 塚本晋也

厚生労働省官僚: 津田寛治

自衛隊関係者: 鶴見辰吾

文部科学大臣: 手塚とおる

内閣府特命担当大臣(防災担当): 中村育二

…キリがないので以下略(こんな感じで延々続く)


これを見てもわかるように、登場人物のほとんど全員が政府官僚や自衛隊関連、生物学者などである。これはもう間違いなく、いろんな会議が開かれるナ(笑)。

えー、会議が延々続く映画なんて面白いの? 劇場によっては4DXやIMAX版も用意しているのに会議シーンばかり? まあ、いくらなんでも会議ばかりってことはあり得なさそうだけど。

あるサイトではリアルな「大怪獣災害シュミレーション映画」という好意的なとらえ方をしていて、あー、なるほどと思った。というのは、このキャスト表を見て、私はある作品を思い出した。岡本喜八監督の『日本のいちばん長い日』(1967)である。

『日本の〜』は1945年8月14日、当時の政府関係者や宮内省関係者、軍部などがどのように終戦の日を進め、迎えたか、というのをドキュメント・タッチで描いた作品である(昨年、原田眞人監督でリメイクされた)。鈴木内閣総理大臣:笠智衆、東郷外務大臣:宮口精二、米内海軍大臣:山村聡、阿南陸軍大臣:三船敏郎…といった風に内閣官僚等をそのときの大御所俳優、有名俳優に割り振ったのだが、今回のキャスト表はそれを思わせる。そして庵野秀明は熱烈な岡本喜八監督ファンとして知られる。これはもしかしたら、ゴジラが東京にやって来た24時間を内閣や自衛隊関係者がどのように処理していくのかをドキュメント・タッチでとらえた「ゴジラ版日本のいちばん長い日」になるということも考えられる。まあ、ぜんぜん的外れだったら、ごめんだけど。

一応、私はがんばって公開初日に見に行く予定です(あくまで予定だけど)。

(7/22金、記す)

2016-07-04

[]故郷への道を教えて――マイケル・チミノ監督追悼

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マイケル・チミノ氏死去=「ディア・ハンター」監督(2016/07/03-17:19)

米紙ニューヨーク・タイムズ(電子版)などによると、ベトナム戦争を題材にした「ディア・ハンター」で知られる米映画監督のマイケル・チミノ氏が死去した。77歳だった。友人と連絡がつかなくなり、2日にロサンゼルスの自宅を訪れた警官が遺体を発見した。死因は明らかでない。

 ニューヨーク生まれ。ミシガン州立大、イエール大で学んだ後、CM監督から映画界入り。クリント・イーストウッド主演の「ダーティハリー2」などの脚本を担当後、「サンダーボルト」(1974年)で監督デビューを果たした。

 ベトナム戦争で傷ついた若者たちの姿を描いたロバート・デ・ニーロ主演の「ディア・ハンター」(78年)で、作品賞や監督賞を含むアカデミー賞5部門を受賞。しかし、移民問題を取り上げた「天国の門」(80年)では制作費が予算を大幅に超過し、興行的にも失敗に終わった。

 このほかの監督作品に「イヤー・オブ・ザ・ドラゴン」(85年)など。

(時事通信社 2016/07/03 日 閲覧)


映画人の死去の知らせはどんどん入ってくるが、マイケル・チミノには個人的に思い入れのある監督である。といっても全作品を見ているわけではないので、うるさい人たちからすると怒られるかもしれない。しかし大好きな監督の一人だったことは確かなので、許してほしい。

マイケル・チミノの残した監督作品は、短編一本を合わせても、たったの八本しかない。ざっと簡単に振り返る。『ダーティハリー2』の共同脚本でイーストウッドに認められ、1974年に『サンダーボルト』で監督デビュー。

監督第2作の『ディア・ハンター』(1978)でアカデミー作品賞、監督賞など五部門をさらい、あっという間に一流監督の仲間入り。しかし次の『天国の門』(1980)は巨額の製作費を投じた大作であったが、興行的に惨敗、ユナイテッド・アーチスツを破産に追い込んでしまう。トップに駆けあがるのも早ければ、墜落も早いという、まさにサンダーボルトのような監督である。

その後、呪われた監督として長年干されているかのような印象があったが、五年後の1985年にはディノ・デ・ラウレンティスの下で『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』を撮っている。ここでようやく私はリアルタイムで彼の作品を鑑賞(それまではTVやビデオ鑑賞です、すみません)。この映画は、今でも見終わった後の興奮の余韻に浸りながら、ABCホールから大阪駅まで歩いた夜の道を思い出すことができる。しかしその次の『シシリアン』(1987)は見逃し。そして再びミッキー・ロークと組んだ『逃亡者』(1990)、最後の長編になってしまった『心の指紋』(1996)は封切りで見ている。このあたりは順調に撮っていたと思うのだが、それから2007年まで飛んで、『それぞれのシネマ』というオムニバス映画の中の一話(私は未見)を撮ったきり、沈黙してしまった。で今回の、突然の訃報である。それはないよ、と思う。

天国の門』は2013年のデジタル修復完全版でやっと見たけれども、私はそれほど面白いとは思わなかった。一瞬たりとも手抜きのない、力を入れすぎの疲れる映画だと思った。『ディア・ハンター』は優れた映画だと思うけど、公開当時ベトナム兵を鬼畜のように描いていると批判され、日本でもキネマ旬報で、劇中で描かれたようなロシアンルーレットゲームをベトナム兵が本当にやっていたという事実はあるのか、という質問状をチミノに送るというようなことをした(あれは創作です、という回答だったと記憶している)。政治や歴史を扱うと映画は賞レースに引っかかりやすいし、一流の映画作家として栄誉に預かれる。それが悪いことだとは言わないけど、私が彼の映画が好きだった理由はそういうところにはない。多くの優れた映画監督と同様、誰にも真似できない独自のビジュアル感覚やクセを持っていたからだ。

天国の門』以降の、『イヤー・オブ・ザ・ドラゴン』、『逃亡者』、『心の指紋』といった作品は低迷期の作品とされている。しかし私にはどうしてどうして…どれもチミノの烙印が押された佳作として大いに楽しんだ。うまく説明できないが、どの作品も内容(脚本)的に欠点はあったりするのだが、映像的には文句なく、ここぞというところでグイグイと力でねじ込んでくる感覚というのがあった。画面上でのアクションの密度が高く、かつ切れ味は鋭い。ショットや構図も独特のクセがある。そして時には詩情といったものも漂い始める。そういったチミノの美点がより際立って現れているのは、大作ではなく、商業的要請に則って作ったこれらの娯楽作ではないかと私は思っている。

私のマイケル・チミノ監督のベストは、やはりデビュー作の『サンダーボルト』である。残念ながら劇場のスクリーンで見たことはないし、おそらく今後もう二度と上映されることもないだろうけど、これをテレビで見たおかげで映画にハマることになったきっかけの一本であることは間違いない。以下の画像はラスト近くのカットだが、これだけでも彼の映画のすごさがよくわかると思う。

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青空に浮かぶ雲がこんなに美しく撮られている映画はあまりないと思う。そして遠くの山脈、湖、河といった大自然。この映画はこの場面に限らず、そんな風景が何度も出てくる。マイケル・チミノ監督のトレードマークといった映像で私は勝手に「チミノ空」と呼んでいる。それは『天国の門』や『逃亡者』、『心の指紋』でも見られた。

心の指紋』が公開された頃だったか、やはりキネマ旬報だったと思うが、マイケル・チミノが性転換したという記事が出ていた。ショックを受けたのは、あんな男くさい映画を撮る監督なのに…ということだった。しかし繊細な感覚は確かにあるし、ひょっとしたら、とも思った。でも『サンダーボルト』のイーストウッドジェフ・ブリッジスの関係や、『ディア・ハンター』のデニーロとウォーケンの友情も同性愛にされてしまったら嫌だなあ、と思ってしまった。チミノの昔の写真と近年の写真を比べれば、とても同一人物とは信じられないくらいに変化していて、近年の方は確かに女性に見えなくもない容貌ではあった。その後、チミノ本人は性転換をしていないと否定したらしく、あくまでも噂レベルで終わったようだ。

ちょっと触れるつもりがすっかり長文になってしまった。

いずれにしろ、マイケル・チミノは私にアメリカ映画の本当の面白さを教えてくれた監督の一人だった。

彼が監督デビューした1974年、アメリカン・ニューシネマはほとんど終焉を迎えていた。『サンダーボルト』はそんなニューシネマの徒花であった。時代に遅れてきたチミノは、先にも書いたとおり電光石火のようにトップに登りつめたが、いかんせん、時代の潮流は大きく変化していて、彼が憧れたようなアメリカ映画はもう歓迎されなくなっていた。それでもマイケル・チミノは、SFXとブロックバスターが跋扈するハリウッド映画の中で、自分が場違いだと知りつつも、なお90年代中頃まで懸命に走り続けた。

私はチミノの作品を追いかけることで、ほんの少しだけ、渇きを癒すことができた。そこには本当のアメリカ映画があった。その後、ハリウッド映画はデジタルCGを得て、ますます幼稚映画の量産体制に入ったが、もうチミノの作品を見て、癒されることはこれで永遠になくなった。もうチミノの澄み切った青い空を見ることは二度とないのだ。

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2016-06-23

Kurobaku2016-06-23

[]クリーピー 偽りの隣人(日:松竹ほか2016 黒沢清監督)

久しぶりに面白かった黒沢清監督作品。やっぱりジャンルがホラー映画になると本領を発揮するような気がする。

前半はわりとオーソドックスな猟奇犯罪系ホラー映画になっている。ちょっとモノマニアックな犯罪心理学者(西島秀俊)が過去の一家失踪事件の生き残りである少女(川口春奈)の記憶を辿ったり、現地調査したりしている一方で、西島の妻(竹内結子)は新しく引っ越した先の薄気味の悪い隣人(香川照之)にじわじわと侵食されていく…。

大学の職員室みたいなところで、西島が川口の過去の記憶を質問攻めで手繰ろうとする場面は、徐々に暗闇が画面を覆ってくるという照明の演出がなされていたり、竹内が香川の家を訪ねるとき、入口にあるシートが風に揺れていたりと、この監督特有の映画演出がビンビンに冴えわたる。

登場人物には誰一人として安心できる人物はおらず、主人公たる西島も、その友人の刑事・東出昌大も、どことなく虚ろで信用できない。香川照之の異常さにいたっては、この監督の映画でしか味わえない不可解な言動を見せ、強烈な気味の悪さを残す。一番驚いたのは『ソロモンの偽証』で優等生タイプを演じた藤野涼子で、まさかこういう使い方をするか! という衝撃があった。全体的にかつての黒沢の傑作『CURE』にかなり近い雰囲気があって、ゾクゾクする。ここまでなら多くの人にも勧めたいホラー映画といっていい。

ところが東出昌大扮する刑事が香川照之の家に入る場面から、この映画はその後の展開についていける人とそうでない人をきれいに峻別する。そう、東出が家の中に入った瞬間、出現するのは明らかにセット丸わかりの部屋である。それも家の構造的に、こんな部屋は絶対あり得ないと誰でも思う異常な部屋なのだ(ちなみにこの部屋の壁は『怪奇大作戦』のLDジャケットで見たような記憶がある)。

それまでの場面でも、先に挙げたような、いろいろな演出を黒沢監督はしていたが、基本的にリアリズムからはハミ出していなかった。それが、この場面から一気にリアリズムが崩れ出す。私はまた『回路』以降の悪い癖が始まったな、と思った。

そこから後はどんどん整合性が崩れ、笹野高史の刑事が一人で行動してあっけなく罠にハマったり、変な麻薬(?)が入った注射器で香川が人を操ることができるとわかったりと、奇妙なご都合主義が映画を支配する。

挙句の果てには、香川たちが車に乗って高速道路を走る場面を(大昔の手法である)バックスクリーンでスモーク焚いて撮影していたりするのには、逆にスゲエ!と感激してしまった。黒沢監督が、映画をリアリズムから解放しようとしているのだということは、長年黒沢映画を見てきた映画ファンには理解できるのだが、多くの普通のお客さんが「なんじゃこりゃ」と戸惑うことは目に見えてわかる。私も『叫』や『リアル〜完全なる首長竜の日〜』などで何度かそんな目に遭わされているし(笑)。

しかし、最終的に私の中で本作は面白い、という評価の方に傾いた。それはおそらくデタラメな映画でありながらも、今回はストーリーに一本筋が通っていたからである。要するにこれは、失敗続きの犯罪心理学者が、そのスキルを駆使してようやく犯罪者から一本取るという物語だ。乱暴なことに西島がいつ香川の魔力(?)から逃れる術を得たのかは触れられていないが、そこは関係ない。香川が殺しをやるときに自分の手を汚そうとしない、という法則を見つけた西島が勝利する、という結論が重要なのだ。つまり、これは名誉回復の物語である。

それにしてもホラー映画でこんなに爽快な結末にするなんて、以前のこの監督ならあり得なかったことである。これを黒沢清監督の円熟ととるか、堕落ととるか。しかし繰り返すが、私はこの映画を、近年の黒沢作品の中でもかなり楽しんで見ることができた。

<6/22(水) TOHOシネマズ鳳 スクリーン9、座席J−11にて鑑賞>

2016-06-22

Kurobaku2016-06-22

[]10クローバーフィールド・レーン(米2016 ダン・トラクテンバーグ監督)

ひとつだけ。

ジョン・グッドマンがおかしくなったのは、ヒロインのメアリー・エリザベス・ウィンステッドがほとんど毎日、エロいタンクトップ姿で過ごしていたからじゃないだろうか。だいたい狭い密室で二人の男と一緒に生活するという状況なのに、あんな服装でいるのはどうかしている(笑)。

<6/22(水) TOHOシネマズ鳳 スクリーン3、座席I−8にて鑑賞>

[]64-ロクヨン-後編(日:TBSテレビほか2016 瀬々敬久監督)

【ネタバレあり】

昭和64年に起こった未解決誘拐事件を模倣した新たな誘拐事件が起こった! というところで終わっていた前編のつづきからである。その報道をめぐって、広報室と記者クラブは再び対立。前回で結んだ信頼関係は一瞬にして崩れるも、広報官の佐藤浩市が自ら刑事部の追尾車輌に乗り込み、犯人の電話での要求どおりに走り回される被害者父親緒形直人)の様子を何分か遅れで中継する。やがてわかってくる今回の誘拐犯の意外な正体。さらに同時に浮かび上がってくる14年前の誘拐犯…。なるほど、こうきたか、という後編ではある。

しかし残念ながら、前編で期待したほどの面白さではないと私は思った。

例えば前回キャスティングについて適材適所と褒めたが、最後まで見てみると「なんだ、結局あれだけだったのか」という人がいる。椎名桔平仲村トオルといった人たちが、もっと事件に絡んでくるのかと思ったが、ほとんど出てこなかった。これでは結局、顔見世と同じではないか。新たな被害者役の緒形直人は、前回の永瀬正敏と同様に犯人の要求どおり走り回るが、永瀬が上手すぎたので、必死さが伝わってこない。これは緒形は下手な役者だと昔から思っている私の偏見からかもしれないが。また同じく今回新しく登場したキャストに柄本佑がいるが、これはまあまあの好演だと思いつつも、この役にそれほど見せ場が必要か、とも思う。何か水増し感があるのだ。

またストーリー的にも真犯人の意外さはともかくとして、永瀬正敏が電話帳に載っている名前一人ひとりに片っ端から電話をかけ、その声から一度だけ聞いた誘拐犯の電話の声の記憶を思い出して、犯人を見つけた、というのは奇跡にも近い偶然がいくつも重ならないとできないような気がしてならない。誘拐犯はボイスチェンジャーで声を変えていたかもしれないし、たまたま電話して誘拐犯本人が電話口に出るとは限らない。仮に誘拐犯だと特定できたとしても、似た声、似た喋り方の人もいるかもしれないし、人違いだったでは済まされない。さらにその誘拐犯に都合よく同じ年頃の子どもがいるとは限らない…。そこまでやった永瀬の思い(あまりにダイヤルしすぎて公衆電話のボタンの文字が消えている、とか)に泣け、ということなのだろうけど、その前に以上のような疑問の方が先にきてしまった。

そういったわけで、どうにも私には肩透かしな後編であった。

『ソロモンの偽証』のときもそうだったが、前編・後編ものには、おそらく前編を見終わった段階で、後編への期待値のハードルがぐんぐん上がるということがあるように思う。だからそこそこ面白い、そこそこスゴい結末というのでは満足がいかなくなる。今後、こういう上映形態の映画をもし定着させようというのなら、その辺りのことを考慮して作らなければならないのではないか、と思う。

<6/22(水) TOHOシネマズ鳳 スクリーン5、座席K−5にて鑑賞>

2016-06-21

Kurobaku2016-06-21

[]ノック・ノック(米、チリ2015 イーライ・ロス監督)

えーっと、これは逆レイプだと思うんだけど…(笑)。

これは強姦魔の男が、その犠牲者の女たちから手酷く逆襲されるっていう、よくあるレイプリベンジムービーではない。女二人組の方から既婚者(キアヌ・リーブス)に罠をかけ、その罠にかかったキアヌはどんなことをやっても絶対に勝たしてもらえない。女二人組の方はキアヌを痛めつけるためなら、殺人だって平気でやる。そしてそっちの方の罪は一切、問われない(冷静に考えると、彼女たちが有罪の証拠は山ほどあるんだけど…)。そもそもこの女二人組がなぜこんなことをやっているのかという理由すら最後まで明かされないのだ。つまり、これは一種の不条理劇である(ついでに言うと劇中、ほとんどキアヌの屋敷の中だけで話が進行するので舞台劇っぽくもある)。

強いてこの映画からメッセージを読み解けば、家族持ちは絶対に絶対に浮気をするな! 若い女の子の方から言い寄ってきても、下半身はもちろんのこと、心すらも絶対に死んでも許すな! っていう映画である。いったいどうしてイーライ・ロスはこんな映画を作ったのか? 女二人組の一人は『グリーン・インフェルノ』でヒロインを演じたロレンツァ・イッツォで、彼女はロス監督の奥さんだが、私生活で何かあったのかと思わず心配してしまう。もちろんこんな映画はただ不愉快なだけで、男性である私にはぜんぜん楽しめなかった。ひょっとして女性が見れば、楽しめるのだろうか。女性の意見が聞きたいところだ。あ、女性から一方的にいじめられたいマゾ男なら、もしかして…。

あと先日見た台湾映画『若葉のころ』に引き続き、この映画でもたくさんのレコードをバキバキに割る場面があるので、レコード大好き人間の立場としても、見ててつらかった。

ちなみにソンドラ・ロック、コリーン・キャンプ(コリーンは本作にもゲスト出演してる)が出ていた『メイクアップ』(1977)のリメイクだと聞いたが、そちらは見ていないのでどれくらいオリジナルどおりなのかはわからない。

<6/21(火) シネ・リーブル梅田 劇場2、座席D−5にて鑑賞>

[]エクス・マキナ(英2015 アレックス・ガーランド監督)

最近ニュースなどでも取り上げられるAI(人工知能)もので、映画の題材的にはこれまでにもスピルバーグの『A.I.』(2001)や『アイ,ロボット』(2004)、最近でも『トランセンデンス』(2014)『チャッピー』(2015)『オートマタ』(2014)などがあった。SFのジャンルではそれこそ大昔からあるので、吸血鬼ものやゾンビものなどと同様、よほどのことをしないと目新しさは感じられないだろう。

この『エクス・マキナ』はAIを扱いつつも、上記に挙げたようなハリウッド式娯楽映画とは完全に異なっていて、主要な登場人物はたったの四人。しかもそのうちの二人(二台)は人間ではない。場所は限定されていて、一種の密室ものと言っていい。そのまま舞台化も可能なくらいだ。そして内容は、登場人物たちのかけひきが中心となる心理劇である。

巨大なIT企業ブルーブックで働く主人公の青年ケイレブ(ドーナル・グリーソン)がある日、抽選で選ばれ、ネイサン社長(オスカー・アイザック)の自宅兼研究所で、社長自らが新しく開発した女性ヒト型AI:エヴァアリシア・ヴィキャンデル)がどこまで人間そっくりに出来ているかの試験官役を依頼される。社長を尊敬するケイレブは喜んで引き受けるが、エヴァはあるときこっそりと「社長を信じるな」とケイレブに告げる…。

一見、社長の作った人工知能のテストをするというだけの話だが、社長とエヴァそれぞれがケイレブの知らない裏の目的を持っており、ケイレブはケイレブで自分の信じた考えを実行しようとする。映画はこの三者(ケイレブ、社長、エヴァ)の、キツネとタヌキの騙しあいにも似た心理戦を描くことになる。誰が誰を操り、誰が誰に操られているか、二転三転する面白さが狙いであると言っていいだろう。

だが、こういった面白さは先にも書いたように舞台劇的な面白さであり、映画の面白さとはまた違うように思える。それは例えば、ここまで危険なAIなのに安全対策に関してはほとんど何もしていないとか、最後の撃退にしてもせめてショットガンくらい用意してないのかとか、外へ出るためのヘリコプターを呼ぶ仕組みがよくわからないとかいったリアリティに関する部分である。ちょっとご都合主義的な印象がしないでもない。

また劇中に登場するIT企業は、インターネットの検索エンジンで有名な会社という設定で、実はエイヴァの思考プログラムはその検索エンジンの検索ワードのデータを元に作られたということになっている。なるほどと感心させられたが、これもまた小説としての面白さだと私には思えた。

ではこの映画に映画的な魅力がないのか、というと、そういうわけではない。それは何といっても女性ヒト型AI、エヴァのデザインである。なんと顔と手の平の部分だけが人間と同じ肌色で、丸坊主の後頭部や喉、腹部や腕、脚は透明なスケルトン仕様。中の機械や配線が透けて見えている。そして胸と臀部はレオタードのような、体形にフィットするグレーの素材で覆われていて、当然胸やお尻の膨らみが外からはっきりわかるようになっている。主人公の青年ケイレブが彼女に骨抜きにされるのも無理はない。女性型アンドロイドといえば、空山基がデザインしたものあたりが従来のイメージだったが、これははっきりと新しく、アカデミー視覚効果賞も伊達ではないことがよくわかる(ただし私の見た劇場ではエヴァが出ている場面のピントがボケてる箇所があった。撮影は4Kデジタルらしいが、上映に関してはまだまだだと思ったことはここで忘れずに言っておく)。ちなみに後半でエヴァは人間の姿になるが、それは最初の姿のときほど魅力的でなかった。これはアリシア・ヴィキャンデルが悪いのではなく(笑)、きっとそういう演出なのだろう。

あと細かいことになるが、包丁がスーッと抵抗なく肉体に入る感じが、素晴らしかった。AIが、人の殺すときの、ためらいや感情のない感じがうまく表現されていると思った。

もう一台のお手伝いロボット、キョウコが顔の皮をめくって機械を晒す場面は懐かしや『ウエスト・ワールド』を思い出した。人間そっくりのロボット=AIが出てくる映画といえば元祖はやっぱりこれだろう。心なしか意識しているように思えた。まだまだAIものはこれからも作られそうである。

<6/21(火) テアトル梅田 劇場1、座席H−3にて鑑賞>

[]デッドプール(米2016 ティム・ミラー監督)

アメコミヒーローものはデジタルCGとシネコンの発達によって、おそらく最も発展したジャンルだと思うが、現在はほとんど飽和状態で、以前にも書いたように私は少々飽きてきている。しかし、作り手の方もそんなことは心得ているのか、まじめな正義のヒーローばかりじゃ面白くないだろうってんで、番外編的な方向からヒーローらしくないヒーローを主役にした映画も作り始めた。

思えばかつての『アイアンマン』の主人公もわがままでやる気がなく、あまりヒーローらしくないところが魅力だった。ところがそんな彼も「ヒーロー大戦」の方に行ってしまったので、その穴埋めにというわけでもないだろうが、出てきたのが本作『デッドプール』という感じだ。『アイアンマン』の主人公の性格的にダメなところをさらに推し進めたようなキャラクター造形が素晴らしく、おまけに観客に向かって馴れ馴れしく語りかけたりする(楽屋落ちもたっぷり)。

『アイアンマン』と正反対なのは、主人公ウェイド(ライアン・レイノルズ)が金持ちではないところ。かつて特殊部隊に所属していた男で、今は暗黒街の酒場を根城にするトラブルシューターをやっているという設定だ。ひと目惚れした恋人も元娼婦でストリッパーというところがまた念が入っている。一年間毎日楽しくセックスして、というのを、ニール・セダカの「カレンダー・ガール」に合わせて延々見せるのだが、こういう描写も『アイアンマン』には絶対あり得ない。

基本的にはフザケきった主人公だが、ストーリーは、意外にもハードな復讐もの。末期がんを患ったウェイドがその治療のために恋人には内緒で、怪しい組織の人体実験の被験者になるが、過酷な実験の結果、ふたと見られぬ醜い姿に変貌してしまう。がん細胞を跳ね除ける不死身の肉体は手に入れたが、醜い姿は見せられないので恋人の元には帰らず、自作の赤いレザーの着ぐるみを身につけて、自分をこんな姿にした組織の医師に復讐を誓う、という内容。『アイアンマン』というよりは、どちらかというとジョージ秋山の『デロリンマン』に近い気がする。

不死身(再生する)の身体なので、手錠から逃れるために自ら腕を切り落とし、『127時間』って映画知ってる? とか聞いたりするブラックなギャグが可能。敵の組織のザコたちには人権などまったくなく、軽ノリでバンバン殺戮していく。こういった趣向はマシュー・ヴォーン監督が人体破壊を軽快に描いてみせた『キック・アス』(2010)以降の流れだと思われるが、先のセックス描写と合わせて、アメコミヒーローもの=子供向け、ファミリー映画という公式からは完全に外れている(ちなみに本作はR15+)。本作はまだ『X-MEN』シリーズの番外編という扱いみたいだが、今後こういった過剰さがアメコミ映画にどのような影響を与えていくのだろうか、気になるところである。

<6/21(火) TOHOシネマズ梅田 別館スクリーン9、座席L−8にて鑑賞>

2016-06-18

Kurobaku2016-06-18

[]今週のひとりごと

アポロシネマで『海よりもまだ深く』を見に行った。平日の昼間だし、終映も近いので、お客さんは少ない。なので、自ら座席が選べるアポロの券売機で、自分のお気に入りの席が楽勝でとれた。

上映時間が近づき、気分よく劇場に行って見ると、私の席の隣にじいさんが座っている。「え!」と思った。だって、他にいっぱい席は空いていて、選び放題なんだよ。それなのにわざわざ私の横の席を選ばなくてもいいじゃないかと。せめて一席ぐらいはあけてくれよ。屈辱を覚えながら、私は仕方なく一席あけて座った。

こういう頭にくる経験は、かなり久しぶりだ。昔は自分で席を選べなかったので、こういうことがよくあった。そういえばアポロシネマは昔、空いているのに端から順に積めて行くという無神経な座席配置をよくやっていた…。ひょっとしてこのじいさん、券売機でなく、窓口でチケットを買ったのではないだろうか、とふと思う。じいさんならややこしい機械ではなく、人対応の方に行く可能性が高いからだ。そしてここの店員は相変わらずそんな席選びをやっている…と。証拠はないが、やりかねないと思う。

さらにこのじいさん、タチの悪いことに本屋で買ってきた書籍を、ずっと膝の上に置いて鑑賞している。これが本屋のビニール袋に入れられていて、じじいがちょっとでも動くとそのたびにカサカサ音が鳴る。こういうのは一度気になり出すと、ずっと気になるので映画に集中できなくなる。膝の上じゃなくて、隣の席に置くとか、なんとかしてよ! と叫びたくなる。幸いじじいは途中で書籍を床にポトッと落とし(ひょっとして寝てる?)、拾いあげてからは隣の席に置いた(最初からそうしろよ!)ので、以降は音が鳴らなくなったのだが、ホント、最悪。

[]海よりもまだ深く(日:フジテレビほか2016 是枝裕和監督)

是枝監督十八番の家族もので、話につながりこそないものの、2008年の『歩いても 歩いても』と同じく歌謡曲の一節をタイトルにしたシリーズの第2弾、といった感がある(一部キャストがかぶっているし)。

物語は、過去に一度だけ文学賞をとっただけの自称作家で、今は探偵事務所に勤めながらそのピンハネと、団地で一人暮らしをしている母親(樹木希林)のへそくりを頼りに生きているダメ男(阿部寛)が、ある台風の晩に、母親の家に泊まった元妻(真木よう子)と息子の四人で久しぶりに家族らしい一夜を過ごすというお話。

この映画はもちろんそれで阿部と真木がヨリを戻すとか、そういう話ではない。では何をテーマにした映画なのかと考えるに、題名になっている「海よりもまだ深く」である。これはテレサ・テンの歌「別れの予感」の一節で、劇中それをラジオで聞いた樹木が「わたしはそんなに人を愛したことはないけど、今まで楽しく人生を送ってきた」といった感じのセリフを言うのだが、そこに集約される気がした。さらにこの映画のキャッチコピーの一つである「夢見た未来とちがう今を生きる、元家族の物語」というのも合わせて考えるとよくわかる。つまり誰もが若い頃に想像していたような、仕事で大成したり、大恋愛をしたりするわけではないけど、それでも人生を楽しく生きることはできる、といったことだろう。

是枝監督の作品でいつも感心させられるのは、その人生のささやかな楽しみを丁寧に描いているところだ。樹木が言う、道を歩いていたら蝶々が後をついてくる、あれはお父さんだったのか、といった会話。カレーきしめん(?)、小林聡美が自分の店から持ってくる串ダンゴ、モロゾフのガラス容器にカルピスを入れて凍らせたやつなど、毎度のことながら登場するおいしそうな食べ物の数々…。そういった些細な日常エピソードを積み重ねることによって、人生はいくらでも豊かに過ごすことができる、と言っているかのようだ。

ただ、気になったのは半小説家、探偵業という阿部の職業が、ちょっと「夢見た未来とちがう」人生を描くにしてはユニークすぎないか、ということ。本当に「夢見た未来とちがう」人生を描くのなら、公務員とかサラリーマンとかそういった平凡でつまらなさそうな職業の方が、観客の共感を得られると思うんだけど。もっとも映画としては地味すぎて、絵にならないのはわかるが。

あと阿部ちゃんは巧い役者なんだろうけど、やっぱりスターなのか、あまりダメ男に見えなかった。いい齢になっても親の金を盗むとか、依頼者と勝手に話し合って追加の依頼料を着服するとか、元妻と二人きりになったとき劣情を催すとか、これほどサイテーなことをやっているにもかかわらず、えげつなさが感じられない。清潔でスマートにすら見える。これは阿部寛=是枝作品の弱点であるといってもいい。

しかし他の演技陣はさすがに達者で使い方も巧い。樹木は言うまでもないとして、子役(吉澤太陽)も自然な演技。これにはいつも感心する。それから真木よう子がほとんど全編、怒りっぱなしの演技。美人は怒ったらきれいに見えるのを熟知してのことだと見た(笑)。おそらく是枝組初参加だと思われる小林聡美もハマっている。彼女で感心したのは、食卓に座った彼女が、冷蔵庫のドアを開け閉めする際、当たらないようにいちいち頭を下げる動きを本当にごく自然にやっていたこと。阪本順治の『団地』と比べて本作は団地の描き方が劣るみたいなことを言っている人がいたが、いやいやどうして。この冷蔵庫のドアに合わせて自然に頭を下げる小林聡美だけでもその空間の狭さが見事に表現されていると私は思うんだけど?

リリーフランキーはすっかり是枝組の常連になっているが(まあ、今回も別に彼でなくてもいい役だった)、これから秋にかけて出演作の快進撃が始まりそう。すでに予告編でその姿を確認できる作品だけでも『二重生活』『秘密 THE TOP SECRET』『SCOOP!』とある。

<6/17(金) あべのアポロシネマ スクリーン5、座席L−9にて鑑賞>

2016-06-17

Kurobaku2016-06-17

[]素敵なサプライズ ブリュッセルの奇妙な代理店(オランダ2015 マイク・ファン・ディム監督)

母親を亡くした億万長者が、生きる希望をなくし、偶然知った自殺請負業者に自分の殺人を依頼する。けれどもその店で知り合った女性と恋におち、自殺を取りやめるように頼むが、一度契約したらやめれないと言われ…という話。ちょっとしたブラック短編みたいな感じだが、似たような話にアキ・カウリスマキ監督の『コントラクト・キラー』(1990)という先行映画がある。そちらと比べると、ちょっとこっちの方が弱いかな。

ネタバレになるけど、恋に落ちる女性が実は代行業者の娘で、殺し屋だった、というのはどんでん返しのつもりかもしれないけど、逆に物語を無難に閉じていく方向性がありありで面白くない。もっとこっちの予想を斜め45度の角度で飛び越えていくようなサプライズ展開がほしかった。まあ、言うは易しだけど(笑)。

また演出的なことでいえば、後半、主人公の屋敷と財産が弁護士の陰謀で危うく手放すことになりそうな展開がある。売却契約をとりやめるのにタイムリミットが設けられているので、これがハリウッド映画なら、主人公が役所に駆けつけるまでに様々な妨害を入れて大いに盛り上げるところだろうけど、このオランダ映画は一応、妨害要素を入れつつも演出的にはちっとも盛り上げる気がないようで、すごく中途半端な印象を受けた。なんかいつのまにか間に合っていた、みたいな処理。特に金属探知機のところなど丁寧に伏線まで張ってあったのに、引っぱらずに軽くスルー。うーん、そんなのでいいのか。

ただ、主役の億万長者を演じるイェルン・ファン・コーニンスプルッヘは目つきの悪い、癖のある顔の俳優で、少し変人であるこの主人公にぴったり。ヒロインのジョルジナ・フェルバーンも一見どこにでもいるような普通の女性なのだが、時おり可愛く見えたり、艶っぽく見えたりする不思議な女優さん。ハリウッド映画にありがちな美男美女を使っていないのがヨーロッパ映画の魅力である。

あと日本の配給会社が「言語によって字幕を色分けしています」みたいな試みをしていたけど、実際見てみたらそれほど分量が多くないので、従来どおりメイン言語以外は丸かっこで閉じるとかで別によかったと思う。

<6/16(木) なんばパークスシネマ シアター1、座席J−4にて鑑賞>

[]任侠野郎(日:吉本興業ほか2016 徳永清孝監督)

最初、チラシに福田雄一の名前が大きくあったので、彼の監督作品かと思っていたら、福田は脚本だけで、監督はTV「世界一受けたい授業」などのバラエティ番組出身の新人監督だというので「おやおや」と。福田もTV界出身だが、この徳永がさらにその上を(下を?)行く三流TV演出家だとわかるのは、冒頭から登場人物にいちいち「○○組構成員 誰々」といった風なテロップが出ることからもよくわかる。

そもそもこの映画、狙いがよくわからなかった。仁侠映画のパロディって…今さら? 高倉健が死んだからってわけでもないと思う。狙いは蛭子能収にシリアスな侠客を演じさせて笑いをとる、というところにあると思うのだが、面白いのは最初だけで、ほとんど出オチである。その証拠にたった69分しかない映画なのに、間がもっていない。こんなの居酒屋でする仲間内の与太話だけで終わらせておけばいいのに、よほど金とヒマが余っていたのだろう。

その後、佐藤二朗がいつもの悪ノリギャグをやったり、シリアス侠客だったはずの蛭子がなぜかクレープ屋をやったりと、当初の方向からどんどんズレていく。シリアスな任侠映画の主役が蛭子さん、というのが面白いはずなのに、そこへギャグを入れたらその意図が壊れるんじゃないのか? 首尾一貫していない。またトリンドル玲奈がなぜか海岸のクレープ屋の前の道を、いつも偶然通りかかるという、ギャグなのか何なのかわからない部分もある。そしてつきあいのいいことに『HK 変態仮面 アブノーマル・クライシス』にゲスト出演していた柳楽優弥がここにも出ている。どうでもいいことだけど、『HK 変態仮面〜』とメガネと服装を変えただけで髪形は一緒。演技も一緒。思わず撮影は同時に済ませたんじゃないのかと疑う。『HK 変態仮面〜』に出てきた同じ橋がこの映画にも出てくるし(笑)。

蛭子能収は当然のことながら演技はもちろん、殺陣もできていない。それがおっかしい…となる予定だったが、演技の方はこっちも見ているうちにアタマがおかしくなったのか、だんだん巧くなっているように見えてきた。中尾明慶がクレープ屋の車の運転席に隠してある長ドスを見つけたとき、「オイッ、それに触るな!」と蛭子が声を荒立てたのにはちょっと凄味すら感じた。これではギャグにならない。計算違いである。殴り込みのとき、蛭子本人が歌う主題歌が流れるのも意外と声がよく、これまたパロディになりきっていない。さすがに殺陣やアクションはダメだが、それは演出的に激しいカット割りやCG血のりでごまかしたからというのもある。本人は意外と真剣だったのではないか。

それでもこの映画のキャンペーンで蛭子は「69分の映画だから忙しい人にとってはイイよね」(ガジェット通信2016.06.03より)と素敵なコメントを残した。わかっている人である。

<6/17(金) TOHOシネマズなんば 別館シアター12、座席I−3にて鑑賞>

2016-06-16

Kurobaku2016-06-16

[][]松竹120周年祭(於シネ・ヌーヴォ) 後編 6/3〜6/16

先の前編に引き続き、後編の6本をとりあげる。

今回見た12本の選択はもちろん自分の好みで選んだ。元々アンチメロドラマ、アンチ大作主義なので、『君の名は』三部作はパスした。真面目そうな映画も苦手なのでパス(『鐘の鳴る丘 隆太の巻』『この広い空のどこかに』など)。

そうなると別に意識したわけでもないのに自然と特集になっていたのが野村芳太郎。以前にシネ・ヌーヴォでこの監督の特集が組まれていて、そのときにもけっこう見たつもりだったが、まだまだ監督作品はたくさんあった。今回は4本見た。犯罪サスペンスものには冴えるが、流行を追いかけたような風俗コメディには退屈した。

あと桑野みゆきが出ている作品にも多く出くわした。『夜の片鱗』『日本の夜と霧』など5本。ちょっとした桑野みゆき特集である(東京のラピュタ阿佐ヶ谷で特集を組まれたときのプリントが流れ込んできたのか)。私はこの女優を今まで意識してみたことがなかったが、あまり好みでないのか、どうにも垢抜けない顔立ちに思える(ファンの人がいたらごめんなさい)。ちょっとイイかなと思ったのは『馬鹿まるだし』『恋の画集』くらい。この2本ではぜんぜん違うタイプを演じているので、演技力はあると思う。

あと、けっこう好きな小津の『東京暮色』を久しぶりにフィルムでもう一度見直したい、と思ったが、貧乏性が祟り、結局一度も見たことのない映画を選んでしまった。また次回の機会を…と思うが、次はデジタル化されてたりして。


『小さなスナック』(松竹1968 斎藤耕一監督)→GS歌謡映画というジャンルで、パープルシャドウズ(出演もしている)の「小さなスナック」という歌と曲が印象的に流れる。ある雨の夜、いつも仲間たちと過ごすスナックに、謎の娘(尾崎奈々)が突然現れる。主人公・藤岡弘は彼女に声をかけ、たちまち意気投合して一晩を喋り明かし、そのまま朝からデートとしゃれ込む。『仮面ライダー』以前の藤岡弘が若く、初々しい。尾崎奈々はあまりに可愛いので当時のアイドル歌手か何かかと思ったが、れっきとした松竹の女優だった。二人はデートを何度か重ねるが、尾崎はなかなか自分の素性を明かさない。藤岡はこっそり後をつけ、忘れ物を届けに来たと彼女の実家の、美容院に上がりこむ。家族はいい顔をしなかった。尾崎は途中で「私にもこんな青春が送れたんだ」みたいなセリフを言うので、ははぁ、またしても難病ものか、と思うとさにあらず。現代では考えられないようなことで、彼女は真剣に悩んでいた。クサいセリフに恥ずかしいデート場面。しかしそれはこの当時の若者の透き通るような純粋さを描いているのであり、それゆえに一度思いつめるとガラスのような脆さを見せるのだった。ラスト、何も知らないまま早朝の街を歩く藤岡弘がふと振り向いた瞬間に、画像が静止し、エンドマークが静かに出るその鮮烈さが忘れられない。まるで『いちご白書』や『断絶』などのアメリカン・ニューシネマを思わせる。というか日本でもほぼ同時期にニューシネマが発生していたと考えていい。この頃の斎藤耕一の作品は映像がフォトジェニックで美しいが、今回は16ミリでの上映で、せっかくの映像が潰れていたのが残念。松竹さん、これは35ミリでニュープリントすべき!(6/3金)


『七人の刑事 女を探がせ』(松竹1963 高橋治監督)→人気TV刑事ドラマの映画化だけど、昨今のシネコンでやっているようなものとはレベルが違う。ちゃんと作ってある。ただ本作における私の興味は山下毅雄のサントラにあった。これが予想以上の迫力で、水島早苗(実写TV版『悪魔くん』のOPの恐ろしいダミ声は彼女)のスキャットも狂気を孕んでいてインパクト大。クライマックスのカーチェイスでは映像が音楽に負けていた(アカンがな)。ヤマタケの『七人の刑事』のサントラは主題曲(例の♪む〜む〜、というハミング曲)関係以外、音源化されておらず、どこか素晴らしいレコード会社がCDを出してくれないかなあ、といつも思うのだった。(6/3金)


×『お嬢さん乾杯』(松竹1949 木下恵介監督)→映画が始まって、横長のシネスコサイズの画面を見て「あれ?」と。確かワイド上映(=シネスコ上映)が発明されたのは50年代に入ってからではなかったのかな。けど、それは私の思い込みで、本当はそれ以前にもあったかもしれないし、現に画面の天地は切れていない。でもなんか人物のアップばっかりだし、画面構成が不自然である。映写ミスではなさそうなので苦情は言わず、家に帰ってからネットで調べてみた。おやおや、どうやらこの作品は現在「ワイド版」しか松竹に上映プリントがないらしい。この「ワイド版」というのは、70年代以降、ワイドサイズが映画上映の主流になったので、そういう劇場でも対応できるように、元々スタンダード(以下SDと表記)の作品をわざわざ横長のワイド画面風に焼き直したものだそうだ(そういえば『風と共に去りぬ』も何回目かのリバイバルのとき、シネスコで上映されたという話を聞いたことがある。オリジナルはSDなのにシネスコなんてヘンだな、と思ったが、これだったのかも)。ちなみにプラネット+1でよく上映される「SD版」は、元々横長のワイド(もしくはビスタ)画面の作品をTV放送用にSDサイズに焼き直したもので、つまりこれの逆だ。SD版は知っていたが、逆のワイド版もあったなんて私は知らなかった。少なくとも実際にお目にかかったのは今回が初めてだ。シネ・ヌーヴォも事前に入り口に書いててほしかった。気づいていたハズだ。次回からは断固抗議する。それにしてもなぜ松竹は、木下恵介ほど有名な監督の作品を、正しいSD版のプリントを作らないでほったらかしているのか。木下監督を冒涜しているのはもちろん、単純に見づらいったらありゃしない。松竹は『お嬢さん乾杯』のSDオリジナルのネガを紛失した、という記述もネット上で見られたが、ウソでしょ。事実、松竹から発売されているDVDはちゃんとSD(1.33:1)で収録されているから、そんなことはありえない。正しく映画館でお金を払って見る客をコケにしているのだ。許せない。よって最低の評価としておく。(6/8水)


『恋の画集』(松竹1961 野村芳太郎監督)→最初に野村芳太郎のコメディはつまらない、みたいなことを書いたが、この作品は別。それどころか、隠れた傑作といってもいい。おそらく物語の主軸に犯罪サスペンスの要素があるからかもしれない。最初、川津祐介がゆすり屋をするので、モラル的に感情移入できないなあ、と思うが、実は出てくる登場人物のほとんどがインモラルな人物で、これは一種のブラック喜劇である。先の読めない二転三転する面白さに加えて、登場人物一堂が会するクライマックスの混乱ぶりはまさに抱腹絶倒。オチも気がきいてて、こういう脚本を山田洋次(野村との共同)が書いていたというのも意外である。悪辣な探偵役で加藤嘉が不似合いなコメディ演技をしているが、やっぱりこの人、オーバーアクトで下手な役者だと思う。これを有島一郎あたりが演じてたらもっと瓢々とした味が出てよかっただろうなと思う。(6/9木)


×『黒い花粉』(松竹1958 大庭秀雄監督)→『東京暮色』をやめて、こちらの有馬稲子を鑑賞した。ところが面白くなくてがっかり。チラシの解説に「先読みできない波乱万丈な展開で描かれたメロドラマ」とあるが、「先読みできない」というよりは「話にとりとめがない」だけ、「波乱万丈」というより「支離滅裂」といった方がぴったり。最後まで見ても何が言いたいのかよくわからなかった。タイトルも意味不明。舟橋聖一の原作を脚色したのは、かつて教養文庫の「日本映画俳優全史」シリーズなどで田山力哉と共著していた猪俣勝人だが、この程度の脚本家だったのか。大庭監督の作品もおそらく初めて見たと思うが、印象悪し。あと笠智衆がロクに演技ができないのも再確認(笑)。(6/16木)


×『観賞用男性』(松竹1960 野村芳太郎監督)→『恋の画集』が思わぬ拾い物だったので、期待した野村芳太郎コメディだったが、こちらはハズレ。流行のファッション業界をネタにしたラブコメだけど、いくらなんでもこんなアホな、ということを前提に話が進むので、ついていけなくなった。冒頭のアニメーションのタイトルをはじめ、当時の日本人の西洋コンプレックスなど、時代風俗的な面白さを見るくらいか。以上、つまらない野村芳太郎作品『踊る摩天楼』から始まり、つまらない野村芳太郎作品で終わる、という松竹120周年祭でした(笑)。(6/16木)

2016-06-14

Kurobaku2016-06-14

[]渦(日:松竹大船1961 番匠義彰監督)

シネ・ヌーヴォの名画発掘シリーズ、第三弾の岡田茉莉子特集より。

ヒロイン岡田茉莉子の夫・佐田啓二が洋画配給会社の社長をやっているという設定なので、気になって見た。しかし、その仕事が具体的に描かれるわけではないので、ちょっと肩透かし(わかってたけど)。

内容は、倦怠期の夫婦の危機を描いたメロドラマだった。夫の佐田が会社で使っている翻訳アルバイトの娘・岩下志麻と浮気しているのではないかと思い込んだ岡田が、夫へのあてつけにピアノ教師の仲谷昇(しつこく岡田に言い寄るイヤな感じの男を好演)と不倫しようとするが…てな話。実は今更ながらメロドラマっていうジャンルが私はあまり得意じゃなく、見ていてついおっかしくて吹き出してしまう。特にこの映画では岡田と佐田がつまらないことで真剣に言い争うので、なんだか笑いがこみ上げてきた。でも同じところで笑っているお客さんは他にもいたし…。昔の古い日本映画を見ていると、現代との感覚のズレで笑うことはよくあるので、そういう類いということにしておいてほしい。

佐田の洋画配給会社はどちらかといえば弱小の配給会社で、ビルのワンフロアを借りているという感じ。それなのに、自宅の方は当時としてもかなりいい暮らしぶりで、お手伝いさんもいる上流家庭風(でも当時の映画を見ているとお手伝いさんが普通に出てくる映画は多いが)。岡田は何か慈善団体に所属している関係で、戦災孤児の身柄引き受けなどもやっている。これなどは明らかに上流マダムのやることだと思う(いつも着物姿だし)。きっと岡田の実家が旧家かなにかで裕福なんだと見た。

結局、岡田と仲谷との不倫旅行は、その面倒見ていた戦災孤児の少年の活躍によって阻止され、岡田たち夫婦の間に大会社の副社長である佐分利信(岩下の伯父であり、少年の勤め先)の仲介が入ることによって大団円に向かうのを思わせて終わる。この佐分利信がすごい貫禄で、いい感じ。戦災孤児の少年の面倒を見て「オレにもあんな頃があったなあ」とつぶやいたり、岡田を説得するのに「いい茶碗と言われる名器ほどひびが入っているものなんです(夫婦も同じ)」とか言ったりする。彼は原作者・井上靖の視点か?

まあ、苦手なメロドラマなのにそこそこ退屈しないで見られたのは、やはり日本映画がまだ正常に機能していた頃の作品だからだろう。

ちなみに劇中で佐田が赤字覚悟で配給しようとしているドイツ映画『罪なき女』は架空の映画だけど、試写をしている場面があって、映像は映っている。これが何かと気になって調べてみたらどうやら『女』(1959、ヴィクトル・ヴィカス監督)という映画らしい。ジュリエッタ・マシーナの顔がアップになるので、そこから類推できる(最初はフェリーニ作品かと思った)。1960年の松竹セレクト配給作品なので、ほぼ確定。どうでもいいけど、映画の中でラストシーンをほとんど全部見せている。忘れられた作品なので、今後見る可能性はゼロに近いといえるが、それでもネタバレは困ります(笑)。

<6/14(火) シネ・ヌーヴォにて鑑賞>

[]団地(日:キノフィルムズほか2016 阪本順治監督)

【ネタバレあり】

近年、団地を舞台にした映画が多いような気がする。『みなさん、さようなら』『中学生円山』『クロユリ団地』『海よりもまだ深く』そして『ズームイン暴行団地』などだ(最後のは冗談だ。思ったより少なかったのでマンガからNHKのアニメになった『団地ともお』も挙げておく)。私にとって団地は昭和のイメージがあるが、果たして21世紀を迎えた現代で取り上げるのはどういう意図があってのことだろうか。マイナス面→貧乏、古い、共同体の煩わしさ、スラム化。プラス面→ノスタルジー、安全、老人と子ども、癒しや憩いの場…といったイメージか。正直、身近にないのでよくわからない。

阪本順治監督のこの新作は、これまたストレートな題名『団地』である。もっと他に付けようはなかったんかいなと思う。内容は…なんというか、「まんが日本昔ばなし」みたいな話である。むかーしむかし(いや別にむかしじゃないが)ある大阪の団地に善良なおじいさん(岸部一徳)とおばあさん(藤山直美)が住んでおったそうな。以前漢方薬局をやっておったおじいさんとおばあさんは、天から来た人たち(代表:斎藤工)が地球に適応できずに困っておったので、薬を調合して助けてやった。するとその天から来た人たちがお礼に「あなたたちの死んだ息子に会わせてあげよう」とおじいさんとおばあさんを天へ連れて行ったんだそうな…みたいな話である(笑)。人によってはSFと言うらしいが、どっちかというと、私にはおとぎ話といった方がぴったり来るように思えた。

阪本順治は以前にも『ビリケン』というファンタジーみたいな、わけのわからん映画を作っていて、それを知っていれば、また戻ってきたのかと思うが、知らない人はさぞやビックリしたことだと思う。平日の昼間なのにけっこう客席を埋めていたお客さんたちは、藤山直美岸部一徳のコテコテのオオサカン・コメディを期待していたようで、事実、前半の見事な大阪弁でやりとりされる会話劇にはいちいち反応よくウケていた。しかし後半は先に書いたような実験的なことをやるので、いつの間にか場内はシンと静まりかえっていた。映画が終わり、場内が明るくなると、前の席のおばちゃん二人組が「どうやった?」「なんや思てたような映画とちょっとちゃうかったなあ…」と戸惑い気味の会話をしていた。私も同じ気持ちだった。

そもそもUFO云々以前に、岸部一徳が団地の自治会長の選挙に負けて落ち込み、部屋の床下に何ヶ月も隠れるというのがよくわからない。そこから近所の人たちから直美が一徳を殺して捨てたんじゃないかという疑惑が持たれ、それがブラックな笑いに繋がるのはわかるけど、隠れるのに必然性というか、強引さしか感じられないので、どうにも納得がいかない。団地の他の住人たちのキャラクターも弱い。聞けば藤山直美のスケジュールに合わせて、一週間ぐらいであわてて脚本を書いたそうである(公式HPより)。せめてもう一人、プロの脚本家の手が入っていれば、同じおとぎ話でも、笑って泣けるいい喜劇映画に仕上がっていたような気がするのだが、どうだろうか。

それでもこの映画会社なき今の時代に藤山直美岸部一徳という、その名前だけでお客さんが呼べる役者がいることに少なからず驚いた。そういうお客さんたちを失望させて帰らせるようなことはあってはならないと思う。

<6/14(火) TOHOシネマズなんば 別館シアター10、座席H−4にて鑑賞>

[]マネーモンスター(米2016 ジョディ・フォスター監督)

マネーモンスター」は司会者のリー・ゲイツジョージ・クルーニー)がノリノリで投資の情報を提供する人気財テク番組だ。しかしその番組を信じて投資し、全財産を失った男(ジャック・オコンネル)が怒り狂い、生放送中に番組に乱入。司会者のゲイツに銃を突きつけ、番組をジャックしてしまう。番組のプロデューサーであるパティ(ジュリア・ロバーツ)はゲイツとこっそり連絡をとりながら放送を続け、この事件に乗じて、株の暴落を意図的に引き起こした企業の陰謀を番組内で暴こう動く、といった話。

一見、社会派映画のようなフリをしているが、実際はTV屋の目線に立った軽薄なエンタメである。つまり人の人生を弄ぶような番組をやっておきながら、文句が来たら、まるでクレーム処理するみたいに「うちが悪いんじゃないんです」と真犯人探しをして、それが見事、大スクープをゲット! っていう話なのだが、こんな胸クソが悪くなる話もないと思う。ここに出てくるTV屋は本当に少しも悪びれてないし、むしろ大成功、という風に描かれている。罪作りな番組をやっていたなんて反省はまったくなく、コケた奴が悪いのだという考え。アメリカ人の倫理観、いや作り手の倫理観を疑ってしまう(監督ジョディ・フォスター、マヂですかい)。

元々私は軽薄なTV局の連中にぜんぜん感情移入できないので、番組ジャックの男に司会者が撃たれそうになっても少しもハラハラしない。むしろ破産男の方を応援したりしてね。でも考えたらこの男もTVを信じて全財産つぎ込むなんて愚かもいいところ。で、結局誰にも感情移入できないので、早く終わらないかなあ、と思って見ていた。近年の映画にしては珍しくタイトに95分でまとめているけれど、それよりずっと長く感じられた。

<6/14(火) TOHOシネマズなんば スクリーン7、座席J−12にて鑑賞>

2016-06-09

Kurobaku2016-06-09

[]若葉のころ(台湾2015 ジョウ・グータイ監督)

台湾の青春映画は需要があるのか、ときどき日本で公開される。もうかなり前の作品になるが私も『藍色夏恋』(2002)ですっかり魅了された。台湾の青春映画の魅力はその透明感にある。映像もそうだけど、出てくる美男美女もそう。スレていない。日本の、近年の東宝系で公開されるような青春映画には絶対ありえない清潔感が漂っている。また、こういうことを書くと語弊はあるが、今の日本にはないノスタルジックな風景が残っているせいもある。建物や商店などが昭和の時代を思わせるのだ。さらに物語設定も過去の時代という場合もある。しかしよかったのは『藍色夏恋』ぐらいで、そのあと見た何本かはどういうわけか、あまりよかった印象がない。

本作もそれらと同様でいまいちだった。映像や女優さんは相変わらず透明感があって美しいが、内容的には感心しなかった。この映画は現代の女子高生の恋物語と、1980年代のその母親の若き女子高生時代の恋物語とが、同じくらいの分量で、同時平行して描かれる。普通こういう構成だと、二つの時代の物語をリンクしてダブらせるとか、連動させるとか、そういった仕掛けがあると思う。ましてや現代の女子高生とその母親の若き女子高生時代とを、同じ女優(ルゥルゥ・チェン)が一人二役で演っているともなれば、ますますそう思う。にもかかわらず、この映画にはそういう仕掛けはほとんどなかったように思う。娘の三角関係話と、母親の昔日の話とは、同じ学校を舞台にした青春恋話という共通点はあっても、まったく違う映画を見ているかのようである。

もちろん公式チラシに書いてあるストーリーのように、最終的には母親の出せなかったメールを、娘が送信して、母の昔の憧れの男(リッチー・レン)と会う、ということで話に繋がりはできる。できるけれども、でもそれが娘の三角関係の話に影響を与えるといったようなことはない。じゃあ、今まで二つの話を平行して描いた意図は何だったのか、と首を傾げる(ちなみにリッチーが娘に母親の面影を見るという意図はわかるが、その程度のことなら一人二役にしなくても別に大丈夫だ。強引なモンタージュでもいいし)。

しかも冒頭は母親の視点から物語が始まっているし、途中でリッチー・レンの離婚事情まで描かれる。いろんな人物からの視点にコロコロ変わるので、混乱して見づらいし、主役(語り手)が誰なのかわからないので感情移入しにくい。さらにクライマックス的な場面が何度も用意されているので、逆に映画全体が見せ場ばかりで平板化して、結局何を描きたい映画だったのかますますわからなくなる。せいぜい世間一般的でいうところの「青春はいつの時代も美しいね」ぐらいの平凡なものしか浮かび上がってこないのである。

映像の美しさや、女優さんのかわいさ、なんだか知らないけど甘酸っぱい女子高校生の恋がたっぷり描かれていた…ということでとりあえず見終わった直後は爽やかな気分にはなるけれど、それは表面的なものなのですぐ忘れると思う。

<6/9(木) シネマート心斎橋 劇場1、座席I−6にて鑑賞>