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「お世辞をいうのは、愛情のない証拠です。お世辞をいうぐらいなら、皮肉をいってあげた方が愛情です」(川島雄三)

2016-08-30

Kurobaku2016-08-30

[]ゴーストバスターズ(米2016 ポール・フェイグ監督)

1984年の同名作品を、主役の4人組を女性に入れ換えてリメイクというか、リブート(「再起動」「仕切り直し」の意味)。オリジナルは公開当時に映画館で見ているが、いかにもアメリカのお笑いという感じでノレないところがあり、決して面白い映画とは思わなかった。だから逆に今回は面白くなっているかもと期待して見に行ったが、あまり印象は変わらなかった(笑)。

今回のポイントは女性を主役にしたことで、女同士の悪ふざけが笑いの中心になっていることか。中でも『マイティ・ソー』の筋肉男クリス・ヘムズワースが演じる、どうしようもないほどのアホ男がヒロインの観賞用として秘書に雇われるというネタは、ちょうど男社会におけるセクハラが裏返しになったキツいジョークである。そもそも主役のクリステン・ウィグメリッサ・マッカーシー、監督のP・フェイグといったメンバーは下品なギャグ満載の女子映画『ブライズメイズ 史上最悪のウェディングプラン』のつながりである。そのノリが本作にも多分にあるというわけだ。

しかし『ブライズメイズ』がどんなにふざけていても女同士の友情がしっかり描けていたのに、本作ではそれがうまく描けてないのはどういうわけか。ちゃんと前半にウィグとマッカーシーに確執があるという話があって、後半にマッカーシーのピンチをウィグが救い、仲直りするという構成になっているのにだよ? そこを押さえないでスルーしてしまうのはもったいない。この手の娯楽映画ではベタでもそういう感動を入れた方がいいと思う。

またリメイク映画によくあるパターンに前作のキャストがカメオ出演するというのがあって、この映画もそれをやっている。よかったのがビル・マーレィで、ここでは心霊現象を一切信じない堅物教授役で登場する。思わずにんまりする使い方である。ところがあとがいけない。この映画にはマーレィ以外にも前作のダン・エイクロイドシガニー・ウィーバーらもカメオで出てくるのだが、これがただ顔を出しました、という程度の使い方でガッカリ。ウィーバーらに至っては本編に入れられずに最後の方にまとめて出てくるというのもあんまりである。マーレィの出し方はあんなに気が利いていただけに、ね。かようにあちこち詰めの甘い映画なのであった。

<8/30(火) TOHOシネマズなんば 別館シアター11、座席J−6にて鑑賞>

[]ディアスポリスDIRTY YELLOW BOYS(日:エイベックス・ピクチャーズほか2016 熊切和嘉監督)

東京に住む密入国者たちを守る裏都庁の警察組織・ディアスポリスである主人公の活躍を描く原作コミックおよびそのTVドラマシリーズの映画版。

マンガもTVドラマの方も見ていないのでよく知らないが、この映画版もおなじみディアスポリス松田翔太と浜野謙太のコンビが密入国者がらみの事件を解決するというフォーマットは同じようだ。しかし映画が始まってみると、二人が追う凶悪なアジア人犯罪組織:ダーティ・イエロー・ボーイズの二人の中国人(須賀健太とNOZOMU)に比重がかけられていて、主役の松田翔太たちはほとんど傍観者と言ってもいいくらいだ(おそらくTVドラマのレギュラーであると思われる柳沢慎吾などは、前半で出番がバッサリ終わらせる気持ちよさ)。故国の貧しい環境で育った二人が日本に留学するもうまくいかず、反社会組織と関わって誘拐ビジネスを請負う。金ほしさに雇い主のヤクザを殺し、さらに現金輸送車を襲い、最終的には大阪にある裏組織の地下銀行の襲撃を計画する。そういう裏社会に生きる中国人二人の暗黒ストーリーが回想混じりに描かれ、かなり面白い。

前半のアジア人犯罪組織が田舎で一人暮らしする老人の家に押し入ってそこを根城にする設定や、そこで行われる相撲取りみたいなボスの血なまぐさいバイオレンス描写などリアリティがあって凄い迫力。他にも出番は少ないが安藤サクラ演じる大阪のヤクザの女も実際にいるような感じですごくイイ。

それだけにクライマックスの地下銀行の設定が急に絵空事っぽくなり、また金庫の横に都合よく扉があるなど、脚本の詰めの甘さが目に付いたのは残念だ。しかしそれでも虫けらのようなチンピラが一攫千金の大逆転に賭ける暴力まみれの青春という感じが二人の中国人にあり、高級ブティックでいい服を買うも途中で似合わないと思ったのか、道頓堀川に投げ捨て、戎橋の上を駆け抜ける場面にはグッとくるものがあった。

全体的に井筒監督の『ガキ帝国』や『ヒーローショー』といった諸作品やかつての東映セントラル作品および東映Vシネマといったアウトローもののテイストを思い出させる。それゆえに今の若い子にはおっさん臭い懐古映画に見えるかもしれないが…こういうジャンルはどうすれば復活させることができるのだろうか。

最後に、ダーティ・イエロー・ボーイズの中国人・周を演じた須賀健太の迫力ある好演が素晴らしかった。ほとんど原型を留めていないほどのメーキャップ(片目が白い)で、『ALWAYS 三丁目の夕日』の吉岡秀隆んところのガキとはまったく気づかなかった。本当の中国系の俳優だと思ってみていたほどである。それに比べて松田翔太父親のTVドラマ『探偵物語』や兄貴のTVドラマ『まほろ駅前番外地』を意識したようなところがあるが、ちょっと貫禄不足に思えた。ギプスをしたままのアクションなど面白いのだが、ところどころ青臭さが見えるんだよね。

<8/30(火) なんばパークスシネマ シアター7、座席L−19にて鑑賞>

2016-08-26

Kurobaku2016-08-26

[]8月に見た映画(その2)

『シアター・プノンペンカンボジア2014 ソト・クォーリーカー監督)→アホな女子大生が不良とつきあう青春映画かと思ったら、ポル・ポト政権下のカンボジア映画女優だったヒロインの母親がいかに過酷な運命を辿ったかを描いた作品だった。クメール・ルージュ時代、それまで作られていたカンボジア映画は焼き払われ(1975年以前の映画はほとんど残っていないとの事)、映画人は他の文化人らと同様、強制収容所へ送られ虐殺されたそうだ。その強制収容所のことは深作健太監督の『僕たちは世界を変えることができない。』で少し触れて知っていたが、映画および映画人たちの話は初耳だった。そういった意味で大変有意義で立派な映画だと思うが、不良娘が母親の女優時代の過去を知って、急に歴史や映画に興味を持ち始めるという展開はいささか出来過ぎてて安っぽい。失われた映画の続きを新たに撮影するというのもオリジナリティはどうなるのか、とか余計な心配をしながら見ていた。 <8/19金 シネ・リーブル梅田4、C-6>


×『華魂 幻影』(日:渋谷プロダクション2016 佐藤寿保監督)→ご贔屓の佐藤寿保監督だし、映画館の話だというので期待して見たが、いまひとつであった。そもそも前作の『華魂』もいまいちだったしなあ。河原でレイプされる少女を助けられなかった映写技師のトラウマ話と、映画館が閉館して最後の映画上映を見て関係者が乱れまくるという話との関連性が薄い。映画の中に少女の姿を発見した主人公の映写技師が、フィルムを必死で確認するという前半の展開はちょっとアントニオーニの『欲望』を思い出した。 <8/19金 第七藝術劇場


ゲッタウェイ(米1972 サム・ペキンパー監督)→午前十時の映画祭。2K上映のようだが、画質は悪くない(一ヵ所、最初の刑務所の場面で一瞬画像乱れがあったけど)。困った…俺、この映画なら何度でも見れる。本当に面白い。敵役のアル・レッティリが強そうに見えて実はでくの坊なのだが、まあ、あんな男くさいツラがまえは近頃とんと見かけないので許す。車の中でキレて、チキンを投げ合うところなんか最高におっかしい。それにしても今回見直して思ったのだが、ストーリーはあってなしのごとしで、自由奔放である。そして浮かび上がってくるのは男と女の寓話。昔はマックイーンのガンアクションに痺れて見ていたが、今回は脇役も含めた登場人物の人間くささを楽しんで見ていた。ある程度の齢を取らないとわからない滋味がこの映画には溢れている。ペキンパーなら私は『ワイルドバンチ』よりもこっちの方が好きだ。 <8/22月 TOHOシネマズなんば別館12、I-9>


×『秘密 THE TOP SECRET』(日:松竹、WOWOW2016 大友啓史監督)→死者の脳から生前の記憶を甦らせるMRIスキャナーが発明され、それを犯罪捜査に活用する警察組織が出てくる近未来の話だが、この機械や組織のことを説明するセリフが多くてうんざり。上映時間149分の長尺はこのせいか。それなのに原作に出てこないキャラクターを増やした挙句(原作は読んでいないが)、人間関係を複雑に、秘密めかして入り組ませるので、ますます長ったるく、鬱陶しい映画に。生田斗真は謎に包まれた知的な変人というキャラクターをワイシャツの中にタートルネックを着るというので表現(笑)。新人捜査官の岡田将生は一応主役なのに影が薄く、有能なのか無能なのかもよくわからず。栗山千明のキャラクターなど本当に要るのかと思う。さらに猟奇犯罪者の描き方をはじめ、熱血刑事やらの脇役はいずれもステロタイプで薄っぺらい。いくらマンガが原作とはいえ、これはちょっとヒドいぞ。大友監督は次回の『ミュージアム』も猟奇犯罪の捜査ものみたいだけど大丈夫か? <8/22月 なんばパークスシネマ11、I-6>


『健さん』(日:ガーデングループ、レスペ2016 日々遊一監督)→2014年に亡くなった俳優・高倉健を、生前を知る関係者が語るドキュメンタリー。『単騎、千里を走る』で中国人ガイドを演じた(というか本当にガイドさんだったと聞いた)チュー・リンが案内役になるというアイデアが面白いが、最後まで一貫していないのが残念。彼が新世界東映高倉健の映画を見る場面があるが、健さんが画面に登場すると場内から「ヨ、健さん!」「待ってました」と声があがる。いつの時代の話なんだ(笑)。スコセッシ監督やジョン・ウーらは何の関係があるのかと思うが、かつて高倉健の出演を望んだことがあったが実現しなかったとのこと(スコセッシは来年公開の新作『沈黙』で高倉健を出演させるつもりだった)。他にも『ブラック・レイン』で共演したマイケル・ダグラスなども出てくるが、こういう海外の人たちより、もっと東映の関係者に話を聞くべきだろう。実際多くの人が畏まってリスペクトするのに対し、梅宮辰夫や八名信夫らは健さんの神格化を崩すような面白い話をする。そういえば、高倉健東映やくざ映画に出なくなったのはある宗教家に「たとえ映画の中でも人を殺していると不幸になる」と説教されたから、というような話が出てくるが、それが本当ならバカな話である。どうもこの映画は高倉健の死に便乗した企画で、付け焼刃的な印象は拭えないが、それでもTVのドキュメンタリー番組には出てこないような話もあり興味深い。 <8/26金 第七藝術劇場


×『眼球の夢』(日、米:アレット・トン・シネマ、スタンス・カンパニー2016 佐藤寿保監督)→海洋ドキュメンタリー『リヴァイアサン』のプロデューサーが出資した日米合作の佐藤寿保作品。眼球をめぐる物語であるが、ストーリーがよくわからなかった。目の幻影肢もピンとこない。ジャンル的にはホラーのような、ポルノのような感じなのだが、どっちつかず。もしかして芸術映画か。歩道橋でのゲリラロケ(?)は初期のピンク作品を思い出させるが、あれほどのパワーはもうなく、自己模倣しているような印象。眼球舐めは鈴木清順が先にやっていたので驚かず。眼球破壊にしても『アンダルシアの犬』とは言わないまでもせめて『サンゲリア』ぐらいの衝撃は欲しかった。あと第七藝術劇場は夜一回のレイトショーで、先週は『華魂 幻影』、今週は本作という形で公開したが、十三に2週続けて足を運ばなければいけないこっちの身も考えてくり(笑)。 <8/26金 第七藝術劇場

2016-08-20

Kurobaku2016-08-20

[]ハイ・ライズ(英2015 ベン・ウィートリー監督)

J・G・バラードの原作小説は大学のとき友人から借りて読み、えらく面白かった記憶があるけど、この映画はクソつまらなかった。

近代文明の粋を集めたハイテクビルディングには階層が出来ていて、上の階に行けば行くほど上流階級の人間が住んでいて、下の階に行けば行くほど下層階級になる。あるとき停電が起きて、ビルの機能は停止し、虐げられてきた下層階級の人たちが上階にあがってきて、めちゃくちゃになるとかいうのが原作の話だったと思う。こんなのいくらでも面白くできると思うのだが、エイミー・ジャンプの脚本が無能で、観客を物語に引き込む努力が何も感じられない。とりとめのない出来事がだらだらと並べられ、いつのまにかビルは大混乱で、秩序崩壊という感じ。

そもそも語り部たる主人公(トム・ヒドルストン)が本当にただ存在しているだけで、何も主張しないし、何も行動しないというのがヒドい。一応、主人公なのだから少しくらい観客に感情移入(もしくは同情)させるようにするのがほんとだろう。当然ながら脇役にも感情移入できることはおろか、興味の持てる魅力的なキャラクターすら皆無。まるで自分とまったく関係のない集会に紛れ込んでしまったような退屈さでずっと見ていた。そもそも上流階級の人も、下層階級の人もステロタイプな描き方で、これで面白がれ、という方がどうかしている。

それでも少し面白かったのは、この映画に登場するファッションや車などがレトロなことで、おそらくこれはバラードの原作が書かれた1975年に舞台設定をしているからだろう。また、このハイテクビル=高層マンションの中にスカッシュコートやスーパーマーケット、プールなどがあるのも凝っていて面白いが、これも原作にあったものだろう。しかし逆に言えば、そんなことしか褒めるものがない。

何よりもこの映画が致命的なのは、原作にある狂気やヤバさを表現できていないことだろう。デビッド・クローネンバーグ監督の『クラッシュ』(1996)はバラードの同名小説を映画化したものだが、ちゃんとヤバさが出ていた。ベン・ウィートリー監督にはそういうヤバさを表現できる才能がない。ちなみにこの監督の一本前の作品『サイトシアーズ 〜殺人者のための英国観光ガイド〜』というのも見ているが、あれも私には面白くなかった。本当にこの人、才能あるの? と思う。

<8/19(金) シネ・リーブル梅田 劇場3、座席G−4にて鑑賞>

2016-08-19

Kurobaku2016-08-19

[][]生誕百年 映画監督・鈴木英夫の全貌(於シネ・ヌーヴォ) 後編8/12〜8/18

シネ・ヌーヴォ鈴木英夫特集の後半である。


『脱獄囚』(日:東宝1957 鈴木英夫監督)→自分を逮捕した刑事の池部良に復讐するために、池部の妻・草笛光子の命を狙う脱獄囚の佐藤允。なかなか草笛に近づけない佐藤は向かいの中北千枝子の家に押し入り機会を狙う。その心理戦と攻防が見せ場のサスペンスもの。草笛が脱獄囚に気づくのが早いか、脱獄囚が草笛に近づくのが早いか、のサスペンスがあの手この手で繰り返され、観客は何度もやきもきさせられるのだが、ちょっとクドいような気もする。少しサスペンス演出が洋画のそれと比べて洗練されてないかな(『彼奴を逃がすな』は洗練されていた)。また最後の池部と佐藤の直接対決が今一つ盛り上がりに欠けるのも不満。<8/12金>


『その場所に女ありて』(日:東宝1962 鈴木英夫監督)→レビュー済み。少し追記。男社会の中で働く女性を描いた作品だが、声高に男たちのズルさを訴えるような作品にはなっていないところがあらためていいと思う。うっかり男に気を許してしまったために失点をしてしまったヒロインが、一時落ち込むも、すぐに自分を取り戻す物語で、最近のアホなドラマのように男に仕返ししたり、必要以上にやり込めたりするようなことはしない。現状維持で終わるところがリアルだし、随所に抑制が効いてて素晴らしい。ラストの二回繰り返される電話口の「さようなら」にヒロインの矜持が感じられ、司葉子のキリリとした美しさと共にいつまでも記憶に残る。<8/12金>


『黒い画集 第二話 寒流』(日:東宝1961 鈴木英夫監督)→銀行員の池部良は、自分の惚れた顧客の女(新珠三千代)を上司の常務(平田昭彦)に横取りされ、その腹いせに平田の浮気を暴露しようと画策するも、すべて平田に先回りされ、コテンパンにやっつけられる、という話。日本の縦社会では下の社員が上司に逆らうなど全く不可能であるというサラリーマン残酷物語。数年前のヒットドラマ『半沢直樹』のようなカタルシスを期待すれば、あまりのリアリズムに自殺したくなるだろう。狙いはわからないこともないけど、見終わったあと「で?」と言いたくなる映画である。基本的にリアリズムが基調の作品なのだが、後半の、丹波哲郎の大親分に「手を引け」と池部が脅される部分は、ちょっと今見るとシュールでおっかしい。ちなみに本作と『非情都市』の二本は、主人公が勝ち目のない勝負を挑んだ末に自滅するという話の構造がまったく同じで、私は「鈴木英夫のひとり相撲二部作」と勝手に呼んでいる。<8/16火>


『悪の階段』(日:東宝1965 鈴木英夫監督)→山崎努をリーダーとする四人の金庫破り(他のメンバーは西村晃加東大介久保明)が工場の給料四千万円を強奪する。すぐに使うとバレるので半年間ほとぼりを冷ますその間、カタギの仕事を続ける四人。ところが山崎の企みによって、三人は仲間割れを始めて殺し合い、一人消え、二人消え…と分け前が増えていく。最後に笑うのは誰か、という話。二本立ての添え物か(モノクロ・スタンダードなのでその可能性はおそらく高い)、二番館・三番館(もうないけど)あたりでふらりと見ると意外な掘り出し物として語られるような類いの犯罪映画だが、こうやって監督特集とかいう形で構えて見るとちょっともの足りない。誰が最後に笑うかも、この手の映画を好んで見ている人ならすぐに予想がつく。土屋嘉男の生真面目な刑事は鈴木作品ではもはや定番。<8/16火>


『爆笑野郎 大事件』(日:東宝1967 鈴木英夫監督)→レビュー済み。その後、お笑いコンビが主役の東宝サラリーマンコメディは、森田芳光の『そろばんずく』(1986)まで待たなくてはならない(いや、適当)。ん、待てよ? 『そろばんずく』の会社って広告代理店なのか! マヂで森田は鈴木英夫リスペクト? とんねるずは嫌いだが、『そろばんずく』は個人的にシュールな傑作だと思う。<8/18木>


『やぶにらみニッポン』(日:東宝1963 鈴木英夫監督)→二回目の東京オリンピックが四年後に迫っているこの時期に見るのもオツかと思ったが…。元祖東京オリンピック直前の東京の混乱ぶりと当時のマスコミ、風俗といったものをスケッチした社会風刺映画。今見ても風刺が効いているところもあるが、基本的には工事現場の責任の擦りつけ合いなど、ベタな笑いで処理されていてつまらない。原作は「週刊新潮」の連載で、匿名外人記者ヤン・デンマンが日本の諸問題を外国人ならではの視点から風刺的に書いたリポート。映画も来日中の外国人が多数登場し、日本人の無宗教や外国コンプレックスが早くも指摘されている。しかし彼らと日本人との恋のゴタゴタが描かれるラブコメ部分はおそらく映画のために付け加えられた要素で退屈。当時の東京の街を活写したロケーションは効果的なので、いっそモンド映画的なドキュメンタリーにしたら面白かったかもしれない。<8/18木>

[][]生誕百年 映画監督・鈴木英夫の全貌(於シネ・ヌーヴォ) まとめ

最後に総括的なことを書いておく。

『その場所に女ありて』のところでも書いたが、結局、鈴木英夫とは彼の好む、好まないに関わらず、サスペンスからコメディ、メロドラマ、ホームドラマ、児童ものまで何でも器用にこなす職人監督だと思った。東宝の、当時の多くの監督がそうだったように、映画作家として好きな企画を自由に撮られる立場にはいなかったように思う。

再評価された90年代にはサスペンス/スリラー映画の優れた作家として掘り起こされたようなので、それまで鈴木監督の作品をほとんど見ていなかった私は、今回サスペンス/スリラーもの的色合いを持つ作品を中心に選んで見た。しかし、ざっとまとめて見た上での感想だが、その系列の作品でも私には出来不出来が激しいように思われた。なので、正直、鈴木監督が本当にスリラーを積極的にやりたい、とか、サスペンスにこだわっている、とかいったことは私にはよくわからなかった。

さらに日本のサスペンス/スリラー映画の中でも、とりわけ鈴木監督独自の演出がズバ抜けて個性的だとか優秀であるとか、いう風にも感じられなかった。ネットのどこかで読んだ話によると鈴木監督が最初に評価されたのは監督第2作の『蜘蛛の街』(大映1950)ということらしく(今回上映なし。ぜひ掘り起こして上映してほしい)、彼の出発点がサスペンス/スリラー映画なのは間違いないが、それにしても作家として独自のカラーが出るにはもう少しサスペンス/スリラー作品の撮る本数が必要だったように思われる。優れたサスペンス/スリラーの作り手というにはあまりにも他ジャンルの挟雑物が多すぎた(まあ、中川信夫のようにフィルモグラフィーに数本しかなくても怪談映画の巨匠になってしまう場合もあるが)。

そういえば彼のフィルモグラフィーの中でもおそらくベストだと思われる『その場所に女ありて』はハードボイルドタッチではあるが、サスペンスあるいはスリラーなのかといえば、ちょっと首を傾げる。ただこれは今見ても驚くほど面白い傑作であり、このクラスの作品を何本か残していれば、もうちょっと評価も早く、自由に好きな企画も通せたと思うのだが、当時黙殺されてしまったことははなはだ残念なことである。

かように不遇な映画監督という印象が強い鈴木英夫だが、今回彼の作品を飽きずに見ることができたのは、その作品のほとんど全てに懐かしい50〜60年代の日本の情景が印象的に挿入されていたからである。『花荻先生と三太』の山奥の学校、田舎バス、河を渡す鉄橋。『彼奴を逃がすな』の黒煙をあげて走る汽車、駅前の小さな商店街、ちんどん屋の巡業。『目白三平物語 うちの女房』の下町の商店街および八百屋のやり取り。『脱獄囚』の雑木林に囲まれた静かな住宅地、注文取りの豆腐屋さん…などなど。また『魔子恐るべし』の戦後7年目の新宿周辺からはじまり、『その場所に女ありて』の銀座界隈、『やぶにらみニッポン』のオリンピック前であちこち工事中の街など、戦後の高度経済成長で発展していく東京の記録として見ることもできる。鈴木監督の作家性としてはサスペンス云々より、むしろこちらの方を高く評価するべきかもしれない。

実際、鈴木作品は製作当時を舞台とした現代劇がほとんどであったし(ひょっとして時代劇はない?)、ロケーション撮影を効果的に使いつつ、セット場面と区別がつかない演出が巧みなように思う。最近私は古い日本映画をよく見るようになったが、鈴木監督ほど当時の日本の情景を意識させる監督もいないような気がする。『その場所に女ありて』の屋上場面を当時の銀座の地図と引きあわせ、ヒロインの勤めていた広告代理店の位置を調べてネットに公開している人を見つけたときは、何かそうしたくなるような気持ちがわかるような気がした。今後は「ロケーション撮影の名手」という視点からも語られてほしいところである。

それにしてもマイナーな監督なので、映画ファン人口の多い東京では採算がとれても、関西ではさほど動員できないのではないか、と少し心配した。しかし私の見たところではけっこう客の入りはよかったように思った。特にフィルムセンターから借り出した『非情都市』はたった二回きりの上映だったので、補助席を出すほどの混雑ぶりであった。鈴木英夫特集の第二回がもしあれば、今度はメロドラマの方面にもチャレンジしたいと思う。

2016-08-18

Kurobaku2016-08-18

[]爆笑野郎 大事件(日:東宝1967 鈴木英夫監督)

鈴木英夫最後の劇場用作品で、内容は60年代に活躍した晴乃チック晴乃タックの漫才コンビを主役にした東宝得意のサラリーマンもの。他愛のないプログラムピクチャーといってしまえばそれまでが、なかなかどうして私にはけっこう楽しめた。

ストーリーはチックとタックの営業マンコンビが結婚生活を前に命じられた九州出張で、最後の女遊びと張り切るが、いつもいいところで邪魔が入り…というお約束を繰り返すというもの。男女差別だとか言って自主規制され、その結果、ガキ向け映画が氾濫してしまった今と違って、明らかに大人向けの内容で娯楽映画が作られていて、個人的には好きである。

その一方で博多から始まり鹿児島まで行く九州縦断のロードームービーであり、その旅先のエピソードごとに女優(春川ますみ桜井浩子、北あけみ、久保菜穂子、沢たまき、三浦布美子、浦山珠実など)をはじめ、名優・名脇役(有島一郎、石山健二郎、千石規子中村是好堺左千夫、沢村いき雄など)、当時売れていた芸人(桂米丸桂歌丸三遊亭歌奴圓歌牧伸二、トリオ・ザ・パンチ)などが次々顔を出す。60年代の東宝および日本映画ファンなら大喜びの豪華さである。

ことに桜井浩子の登場は円谷特撮ファンには嬉しいサプライズだ。友達とバーで飲んでいるところをタックに口説かれる役で、セリフはあるが出番は短い。ネットで調べていて知ったのだが、晴乃チックタックのコンビは『ウルトラQ』(1966)の放送前特番「ウルトラQは怪獣の世界」の進行役を任され、さらに本編でも第七話「SOS富士山」で作業員役としてゲスト出演している。ひょっとしたらそのお返しで『Q』の桜井はこの映画に出たのかもしれない(東宝の専属女優なのでただの偶然だと思うけど)。いやー、昔のことは調べれば調べるほど面白い。またこの桜井さんが真っ赤な服でオシャレしていて、滅茶苦茶かわいい。『ウルトラQ』の報道記者や『ウルトラマン』の科特隊員とはまた違う、普通の女の子を演じているのが新鮮なのかもしれない。他にも有島一郎は恐妻家の専務を、もはや名人芸を見せるかのようにおっかしく演じているし、トリオ・ザ・パンチのフリップを使ったコントが劇中でほぼ最後まで収録されているのも当時の芸能的記録として貴重だ(今見たら面白さがわからないが、内藤陳の芸人時代を初めて見た)。

途中で挿入される主題歌「チック・タック・ゴーゴー」というのも当時の東宝プログラムピクチャーならではの楽しさ。歌詞から二人のコンビ名が時計の針の長針・短針(長身・短身)から来ているというのもわかった。作曲は神津善行だが劇伴も担当し、明るくかっこいい曲を提供している。

本作は鈴木監督の最後の劇場映画ということで、こういうお仕着せの仕事に嫌気がさしてTVに移ったとか、鈴木英夫のやっつけ仕事の最低作とか批判されることが多い。しかし先に書いたような時代風俗的な面白さを差し引いても、プログラムピクチャーとしては及第点だと思う。ラストの、シネスコ画面にホテルの窓が二つ並び、パッと電気が消えてエンドマークが出るなんてかなり洒落た趣向で、そんなにやる気がなかったとも思えないけどね。

そもそも本作は1966年から始まる『落語野郎』シリーズ(全四作)の姉妹編として企画され、『落語野郎』が主役がその都度変わる時代劇であるのに対し、こちらは晴乃チックタックが主役の現代劇で、シリーズ化も予定されていたとのこと。東宝の流れ的には明らかにクレージーキャッツの『無責任』シリーズから始まる現代サラリーマンコメディの系列であり、鈴木が『その場所に女ありて』を発表した同じ年に明暗を分けた因縁があるわけだが、それを職人的に割り切って、いかにも東宝サラリーマンコメディらしいプログラムピクチャーとして仕上げたのはやはり凄いことだと思う。本作が興行的に成功していたら、きっとシリーズの監督として二作目、三作目と任されていたと思うのだが、そうならなかったのは、その頃すでに東宝サラリーマンコメディが下火であったからだろう(そもそも日本映画自体も下降していた)。

晴乃チック・タックの主演作は結局この一本で終わり、1969年にコンビを解消する。ちなみに1970年生まれの私はこの落語家コンビをまったく知らない。鈴木英夫はこのあとTVドラマ方面に進み、『恐怖劇場アンバランス』や『傷だらけの天使』などで少しは名を残すも、劇場用映画に復帰することなく2002年に八五歳でこの世を去った。

<8/18(木) シネ・ヌーヴォにて鑑賞>

2016-08-12

Kurobaku2016-08-12

[]その場所に女ありて(日:東宝1962 鈴木英夫監督)

今回、鈴木英夫特集ということでまとめて作品を見る機会を得たが、確かに標準〜標準ちょっと上レベルの作品を作るが、結局は東宝のプログラムピクチャー要員として重宝された職人監督くらいに思って見ていた。しかし、代表作とされる本作は、もう冒頭数分見ただけで「何かこれは違うな」と思い、襟を正した。鈴木監督の「今回は勝負を賭けた」という感じがピリピリと伝わってきた。それくらい画面にピンと研ぎ澄まされた鋭いものが張りつめているように思われた。

映画は、広告代理店で働くキャリアウーマンを主役にしたもの。おそらく1962年当時にこういう題材を扱うのはかなり早かったと思われる。現在ではTVドラマなどで広告代理店を舞台にしたものが普通にあるが、それらは結局のところ男女間の恋愛ゲームを描くことを目的としたもので、この映画で描かれているベクトルとぜんぜん違う。この映画でも男女の色恋は登場するものの、むしろヒロインはそういったものに警戒心を抱いている。メインで描かれるのは、男社会の職場の中で、女ひとりがどうやってずっと働き続けることができるのか、である。

私は当時まだ生まれていないから断言はできないが、女性が主人公のサラリーマン映画はおそらくなかったと思われる。東宝はそれまでにも森繁の社長シリーズをはじめ、多くのサラリーマン映画を作っていたが、そこに登場する女性社員の描かれ方は、あくまで主人公の恋人であるOLとか秘書とかいったものだったり、そうでなければ旦那の浮気を心配する口やかましい社長夫人=副社長や会長だったりした。だから当時花形の広告代理店で、第一線に出て働く女性社員を描くことは未知の領域だったはずだ。

私がこの映画を見始めてまず驚いたのは、ヒロインたちの喋っている言葉がまるでまったく新しい言語であるかのように感じられたことである。ちょっと大袈裟に書いているが、本当にそれくらい新鮮に聞こえた。タイピスト役の大塚道子などは完全に男言葉で喋り、ヒロインの司葉子も男言葉までいかなくても、独特の語気を含んだ、はっきりとした喋り方をする。そしてキビキビと動く。ちょっと他の日本映画でこういうのは見たことがない。未知の領域に踏み込んだのだから、新しいものが出てくるのは当然である。

さらに司葉子は酒を飲み、煙草を吸い、男たちと一緒に麻雀までやる。男と対等に渡り合うということはこういうことなのだ、とズバリ描いている。それを司は当たり前のように平然と演じていて実にカッコイイのだが、これも未知の領域だっただろう。おそらく鈴木監督がこの未知の領域を映画にするにあたって採った戦略は、女性が男のようになるということだった。

なぜ彼女たちは男のようにならなければならなかったのか。二年前の鈴木監督作品『非情都市』で、司葉子は先んじて広告代理店で勤めるキャリアウーマンを演じていた。だがそこで司が演じたヒロインは、恋人・三橋達也のために企業に探りを入れるスパイのような役回りだった。会社の重役から情報を聞き出すために、自らの女を武器にするような面が少なからずあった。しかし本作での司は違う。女の色香を武器にすることは断固としてしない。それは会社の男たちに舐められないためである。

だがこの映画に登場する男たちのほとんどはヒロインたちを舐めていた。ライバル広告代理店の宝田明は、彼女の理解者として司に近づき、まんまと司を利用してコンペに勝利する。デザイナーの山崎努は司をたらし込んで宣伝コピーを考えてもらい、それで広告の大賞をもらうとすぐに会社から独立し、最後は「俺の下で働けよ」とまで言う。その他にも上司は得意先の重役が設けた見合い話をしきりに司に勧めるし、顧客の部長相手に酒の席の接待をやらされ、足を触られたりする。どんなに彼女たちが男っぽく振る舞っても、男たちにとってはしょせん女は女であり、自分や会社の都合のいい踏み台程度にしか思っていない。

そういった状況に苦しみ、迷いながらも司はそれらに立ち向かっていく。司の周囲には男になりきれずに女であることを受け入れて働く女性社員も何人かいる。しかし彼女たちは決して幸福そうには描かれていない。どちらかというと暗くて不幸だ。中でも好きな男のために会社の金を使い込んでしまった挙句、逃げられ、ついには自殺する水野久美はその代表だろう。司はそういう女たちの姿を横目で見つつ、自分は絶対、そちら側には取り込まれないぞ、と決意を固めているように見える。

特集上映のチラシに寄せた文章で木全公彦は「感傷や抒情を排した女のハードボイルド」と本作を評しているが、まさにそのとおりだと思う。鈴木監督は男社会の中で生き抜くキャリアウーマンの姿をハードボイルドの文法を使って描いた。実際、カラー映画なのに色彩は極力押さえられ、全体的にモノクロ映画のような雰囲気がある。司の働く広告会社のオフィスは、同年に始まった無責任シリーズに登場するオフィスのモダンなセットとは正反対のくすんだねずみ色をしていて殺風景といってもいいくらいだ。当時のことはいざ知らずだが、広告会社ならば本来モダンできらびやかなオフィスであってもいいはずだ。それをあえてこういう世界にしたのは本作がハードボイルドであり、それがヒロインにとってのある種のリアリズムだと考えていい。池野成の電子音楽も無機質な感じで、得体の知れない不安感が全編に漂い、効果をあげている。

こういった未知の領域に踏み込むために鈴木監督がとった演出――女が男のように話し行動する、ハードボイルド映画の文法を使って描く――はそれまでの旧弊な日本映画とは一線を画する革新的な作品へと昇華させたと私はみる。それはなんといってもヒロインの新しい女性像にある。

先に書いた水野久美のエピソードと同様に、女であることに甘んじている(?)キャラクターとして司葉子の姉である森光子のエピソードがある。森は年下のダメ男:児玉清を亭主に持ち、生活が苦しくなると働いている司をアテにして金を無心にくる。司はおそらく、この、ダメ男と別れられず生活を続ける姉を軽蔑している。不幸になっても男との愛にしがみつく女を軽蔑している。

私にはこの森と司の姉妹における関係が、当時の日本映画の状況と本作との関係を象徴しているように思えた。それまでの日本映画は一途な愛に生きる女性が主役のメロドラマが多く作られていた。森光子の女性像はその代表として描かれているように思う。一方の司葉子の女性像は、そういったメロドラマから脱却しようとする1950年代後半から現れた、新しいドライな日本映画の代表を思わせる。「男に生きる」のではなく、「仕事に生きる」という新しいヒロイン=女性像が、本作を優れて画期的なものにし、今見ても面白いという佳作にしたのではないかと思うのだ。

ただ新しいものがすぐに評価されるとは限らない。この作品はおそらく当時、理解されないほど新しすぎたと思われる。1962年度のキネマ旬報ベストテン*1を見ても、テンはおろか、投票された全49本の日本映画の中にも本作は入っていない。完全無視である。先にも少しだけ触れたが、この年、同じ東宝の同じサラリーマン映画で、『ニッポン無責任時代』(古沢憲吾監督)が公開されている。こちらは主人公の植木等が無責任と軽薄さを武器にどんどん出世街道を邁進していくという、これまた新しい感覚の画期的な作品で、当時大島渚小林信彦が高く評価した。確か先のキネ旬ベストテンにも後ろの方の順位にしっかりタイトルが入っていたように思う。興行的にも成功しただろうことは、すぐにシリーズ化されたことからも察しがつく。つまりこの年、同じ東宝で『ニッポン無責任時代』と『その場所に女ありて』という二本の画期的なサラリーマン映画が発表されたわけだが、片や大好評で迎え入れられ、片や黙殺に近い扱いをされたわけである*2

このときの鈴木英夫監督の落胆ぶりは想像に難くない。まさに早すぎた傑作だった。惜しむらくは鈴木監督がこの、生涯のベストと言っても間違いのない秀作を撮って以降、ついにパッとせずにフェイドアウトしていったことである。

<8/12(金) シネ・ヌーヴォにて鑑賞>

*1結果は以下のとおり。 1位『私は二歳』(市川崑) 2位『キューポラのある街』(浦山桐郎) 3位『切腹』(小林正樹) 4位『破戒』(市川崑) 5位『椿三十郎』(黒沢明) 6位『人間』(新藤兼人) 7位『おとし穴』(勅使河原宏) 8位『秋刀魚の味』(小津安二郎) 9位『にっぽんのお婆ちゃん』(今井正) 10位『秋津温泉』(吉田喜重) この中で私の見た範囲(1位、2位、3位、5位、8位、10位)で言うと『秋刀魚の味』は『その場所に女ありて』より落ちると思う。小津の遺作だから入るのはしょうがないが。あとはだいたい同レベルか。なお、読者から寄せられたベストテンで一人だけ『その場所に〜』を選んでいる人がいた。決して上位ではなかったが、先見の明である。

*2私はどちらの作品も同じくらい面白いと思う。まあ同じサラリーマン映画といってもぜんぜん違う方向の映画なんだけど。

2016-08-11

Kurobaku2016-08-11

[][]生誕百年 映画監督・鈴木英夫の全貌(於シネ・ヌーヴォ) 前編7/26〜8/6

7月23日からシネ・ヌーヴォでは「生誕百年 映画監督・鈴木英夫の全貌」という特集上映が一ヶ月近くにわたって行われた。監督作全36本のうち、23本上映。今回も私は五回券を二枚買った。そしてまたしても「鈴木英夫生誕百年記念特典」として五回券を買うと招待券を一枚くれるサービスをやっていた。「シネ・ヌーヴォだいじょうぶ?」と思いつつ、ありがたく恩恵にあずかる。おかげでトータルの半分以上はかろうじて見ることができる。

さて、鈴木英夫作品は今までほとんど見ていない。わずかに成瀬巳喜男特集のときにやった『くちづけ』(オムニバスの三話のうちの一話を担当)、三島由紀夫特集のときにやった『燈台』の2本を見ているだけである。90年代に東京のミニシアターで特集上映が組まれていたが、関西にそのフィルムは入ってこなかった。一度だけテアトル梅田の朝イチ上映でささやかに特集が組まれたくらいか。そのときは確か夜勤をしていて朝の上映は見られなかった。

というわけで満を持して、ようやく伝説の監督の作品に出会えることとなった。


『花荻先生と三太』(日:民藝、大映1952 鈴木英夫監督)→近年発見されたフィルムをニュープリントした、というので見た。都会からやってきた女教師とわんぱく小僧の交流を描いた明朗快活な学童もの。原作は青木茂の『三太物語』(1951)をはじめとするシリーズ(元々はラジオドラマ?)。当時は大変人気があったようで、本作以外にも映画化、TVドラマ化がされている。今見ると素朴で他愛がない内容といってしまえばそれまでだが、鈴木作品的には、三太が捕まえたヘビを先生の使っている急須の中に入れてしまい、先生に気づかれる前にヘビを出さなければ、というサスペンスが延々続く前半が印象に残る。あと、余談だが映画ファンには『イジワル映画批評家エンマ帳』の著者として有名な大黒東洋士が脚本を担当している。<7/26火>


『魔子恐るべし』(日:東宝1954 鈴木英夫監督)→●こちら<7/29金>


『彼奴を逃がすな』(日:東宝1956 鈴木英夫監督)→ラジオ修理店を営む木村功が向かいの不動産屋で店主が殺されるのを目撃する。翌朝、「警察に話すとお前ら夫婦の命はない」という脅迫状が届く。以降、警察が聞き込みにきても、ダンマリで通す夫婦。志村喬の刑事部長が夫婦をなだめたり賺したりして追求する腹芸が見もの。それに対してやっかい事に巻き込まれないよう必死で抵抗する二人。思わず嘉門達夫の「♪あああ〜、小市民」の歌が頭に流れる(笑)。ところが殺人者は木村の口を封じるため、ある夜、客を装って店を訪れる! 日常が一転して、疑心暗鬼な世界に変貌する恐怖が見事に描かれている。冒頭の列車から伏線が張られ、ラジオやちんどん屋の音が効果的に使われているのにも舌を巻く。サスペンス映画のテクニックがふんだんに使われた鈴木の代表作の一本だと思う。<8/3水>


目白三平物語 うちの女房』(日:東宝1957 鈴木英夫監督)→平凡なサラリーマン・目白三平の日常を描いたほのぼのホームドラマで、東映で二本、東宝で三本作られたシリーズもの。東宝の三本はすべて鈴木英夫が監督している。目白三平役は、いつもは笠智衆だが、本作のみ佐野周二。もちろん典型的な家庭喜劇なのだが、主人公が泊まった旅館で黒いカバンを持った怪しい男が現れ…という展開は鈴木監督らしいサスペンス調。癖が出るのか、こちらがそういう意識で見ているせいか? 後半は八百屋の娘・団令子と浮気しているのではないかという疑惑が持ち上がるが、こっちは別にサスペンス調ではなく、誤解だとすぐわかる安心設計。散りばめられたエピソードが最後にすべて丸く収まる、という脚本のうまさも光る(脚本:井手俊郎)。物乞いの女性が登場し、奥さんが親切にしてあげる人情話は時代だなあ。その他、商店街などの風景も懐かしい。<8/3水>


×『非情都市』(日:東宝1960 鈴木英夫監督)→このあたりから私は鈴木英夫と合わなくなってくる。特ダネをモノにした敏腕新聞記者(三橋達也)が、事件の背後にある巨大企業の圧力によって記事を握りつぶされる話。当時実際にあった事件が元ネタになっている「社会派もの」みたいだが、事件の背景が今見るとよくわからず、主人公の記者が必死になってがんばっているのはわかるのだが、あまり共感できない。事件を配慮してか、新聞社名も企業名も架空の名前になっているが、『スポットライト』のような映画を見たあとだと、余計に「社会派映画ごっこ」に見えてしまう。/また一見ハードボイルドのような風采をとっているが、どちらかというと主人公は熱血漢で、後先考えずに暴走することも共感できない原因の一つである。さらに恋人・司葉子と別れる場面などだらだら続いたりして軟弱。この場面、コンクリートの柱を使って、演出的にヘンなことをしているのだが、それでも湿っぽい印象は拭えなかった。川島雄三岡本喜八の作品であれほどクールだった三橋が、この映画ではまるで魅力を感じなかった。/最後に話は変わるが、鈴木英夫監督が意味もなく(?)俳優をいびることは、当時の撮影所では有名な話で、この映画ではデスク役の俳優(おそらく稲葉義男)がダメ出しを食らい、同じセリフを明け方まで延々繰り返させたという恐ろしい話が児玉清の本『負けるのは美しく』(集英社文庫)に書かれている。<8/6土>


『危険な英雄』(日:東宝1957 鈴木英夫監督)→この夏の東京都知事選挙の直後に見たのだが、自民党の立候補者の応援演説を頼まれた石原慎太郎が、対立候補の小池百合子のことを「厚化粧の女」と言って、叩かれる騒動があった。あまり知られていないが、弟・裕次郎と共に兄の慎太郎も俳優デビューしている。裕次郎ほど長くは生き残れなかったようで、本作も含めて主演作はたったの三本だそうだ。で、この映画で石原慎太郎は特ダネを取るためには手段を選ばない、やり手の若い新聞記者を演じている。男児誘拐事件が起こるとこれ幸いにと動き、警察発表よりも先に記事を載せ、結果的にそれが犯人を追いつめて誘拐した子どもを殺す結果になる。それでも平気な顔をしているのだから、まさに映画と現実の本人像がばっちり重なり、憎たらしさ百倍なのであった(笑)。それにしても暴走するマスコミを批判した社会派ものを狙ったのだろうが、傲岸不遜な記者が主人公というのはやっぱり感情移入しにくい。最終的には彼も新聞社から尻尾切りされてしまうので、石原もマスコミの被害者、という風に言えるのだが、一方で単に石原個人の人格の問題ではないのか、という印象もあり、当初の狙いであるマスコミに対する怒りにブレーキがかかってしまったのは否めない。これが被害者側の司葉子が主役だったら、マスコミへの怒りということで単純に共感できるのだが…それだと平凡か。難しい。<8/6土>


後半6本へつづく

2016-08-10

Kurobaku2016-08-10

[]8月に見た映画(その1)

『ヤング・アダルト・ニューヨーク』(米2014 ノア・バームバック監督)→ドキュメンタリー映画監督のベン・スティラーは新作がなかなか完成せずスランプ中。ある日、ファンだと訪ねてきた20代の若者A・ドライバーと意気投合。彼らのライフスタイルに理解を示し、まだまだ自分も若いと上機嫌。だがドライバーの真の目的はスティラーを足がかりにして新人ドキュメンタリー監督としてデビューすることだった。体よく利用され、おまけに妻のナオミ・ワッツまで取られ(自分はドライバーの元彼女A・サイフリッドと浮気している)、さあ、スティラーはどうする? というお話。いうなれば若者にしてやられる中年の話で、コメディとして作られているものの、見ていて痛々しくつらい。どこの業界でもありうる話だが、ニューヨークで活躍するドキュメンタリー映画作家周辺の話、という設定が渋い。フレデリック・ワイズマンとかいった名前が会話の中でポンポン飛び出したりする。しかしチャーミングなセンスが炸裂していた前作『フランシス・ハ』よりはずっと落ちる。<8/1月 大阪ステーションシティシネマ・5、H-8>


『好きにならずにいられない』アイスランドデンマーク2014 ダーグル・カウリ監督)→空港の荷物配送員をしている43歳独身、親と同居、趣味ジオラマ作り…の冴えないデブ男が、ダンス教室で出会った中年女性に初めて恋をする、というラブストーリーだが、こういう北欧の厳しい風土が舞台になっている作品は絶対甘い話にならない。案の定、主人公とつきあったとたん、女性は精神が壊れ始める。仕事に行けなくなるほど塞ぎこんで、何日もトイレに閉じこもったりする。つきあい始めた頃は普通の、いい女性だったのに…やはりいい年齢なのに結婚していない女性というのは、何かあるというわけだ。しかし、愛の力は強し。主人公は仕事を休んで、彼女の世話を甲斐甲斐しく始める。彼女の仕事を引き継いで、掛け持ちをしたりする。何もできないと思っていた気の弱い男が、意外なまでに男気を見せ始める。それから彼は、職場の同僚からバカにされていたのが友達づきあいできるようになったり、変質者扱いされた近所の住人とよい関係を築いたりして、少しずつ周辺が好転してくる。あとは彼女がマトモに戻って、一緒に新婚旅行へ行ければと願うのだが…やっぱり北欧圏の映画は現実と同じくらい厳しいな。主人公の幸せを願わずにはいられなくなる、いい映画だった。<8/5金 シネ・リーブル梅田2、D-6>


裸足の季節(仏、トルコ、独2015 デニズ・ガムゼ・エルギュベン監督)→両親を亡くし祖父母の家で育てられた5人の姉妹。だが年頃になると外出を禁止され、祖父たちの決めた結婚相手の元へ強制的に嫁がされる。昔の日本の田舎の名家でもあったような女性の人権無視の、封建的な慣わしが、現代のトルコの地方村で行われている。家を脱走して、サッカー観戦に行く場面は『オフサイド・ガールズ』というイラン映画を思い出した。やはりイスラム圏というか、中東あたりはまだまだ女性は虐げられているのだろうな。結局二人の娘が嫁ぎ、一人は自殺。残った二人がイスタンブールまで逃げのびる。ただお世話になった教師の家に行くというラストは現実的だが、また連れ戻される可能性もある(この教師がまったく描かれていないので何もわからない)。二人だけで自活していくくらいの覚悟がほしい、というのは無理な話なのだろうか。/ところで私は男なので、女の子を肩車で乗せてみたいと思うし、その程度には彼女たちをハシタナイと思う。また途中、つきあっている男たちに助けを求めないところも不自然に思った。<8/5金 テアトル梅田1、H-4>


『下衆の愛』(日:Third Window Films 2015 内田英治監督)→ワークショップの女優に手をつける監督、いい役を得るために枕営業する女優の卵…インディーズ映画業界に集まってくる下衆な人々を描いた欲望喜劇。「下衆」はわかるが、この「愛」っていうのは…驚くことに「映画愛」なのである。確かにただ単に女や金がほしいのであれば、映画業界に行く必要はないか。渋川清彦が堕落したインディーズ監督を好演。体で役を得ようと必死な女優役の内田慈もよかった。こういう懲りない人々が主役の映画ってなんか久しぶりに見たような気がする。かつての今村昌平森崎東とかの映画がそうだった。そのぶん、古くさい感じがするのは致し方ないか。<8/5金 第七藝術劇場


『花芯』(日:東映ビデオほか2016 安藤尋監督)→瀬戸内寂聴が1957年に発表した原作小説は「エロ小説」だと叩かれたらしいが、この映画化されたものを見るとそれほど大したことはないように思う。愛のない夫を裏切って、好きになった夫の上司と性愛に溺れる話などもはやありふれてしまっている。なにを今さらという感じで、乗れず。役者に関しては浮気される夫役の林遣都がよい。こないだまで子役だと思っていたのにすっかり貫禄がついた。安藤政信毬谷友子もいいが、いかんせんヒロインの村川絵梨に魅力がない。濡れ場だけで精一杯という印象である。<8/10水 テアトル梅田2、F-2>

2016-08-06

Kurobaku2016-08-06

[]ロスト・バケーション(米2016 ジャウマ・コレット=セラ監督)

見逃しているのだが、前に『フローズン』という映画があった。スキーに来た若者が乗っているリフトを途中で止められ、その上で一夜を過ごすというサバイバル映画である。見た人に聞くとリフトの下にオオカミが集まってきて、襲いかかるそうだ。本作はそのサメ版で、誰もいない秘密のビーチへサーフィンしに来た女性が、サメに襲われ、たどりついた岩礁でたった一人サバイバルするという話。一度噛まれているので傷口から血液はどんどん流れ出るし、おまけに満潮になればその岩場は海の底へ沈む。回りには襲ったサメが彼女を狙って回遊している。もちろん脱出しようにも船もなければ、携帯もない。なかなかよく考えられた絶望的シチュエーションである。

ヒロインはそれでも医学生としての知識を使って傷を応急処置したり、腕時計のストップウォッチでサメの周回するタイムを計ったりする。前半に登場する何気ない小道具が後半で役に立ったり、サンゴやクラゲといった彼女を邪魔立てする存在が後半でうまく活かされたり…という映画ならではの仕掛けがいくつもあり、脚本が実によく練られている。

蝋人形の館』の監督(どうでもいいけど、この監督の名前ジャウマは以前、「ジャウム」と表記されていたはずだが、どうなってるの?)なので、クジラの腐乱死体に掴まるときのドロドロの気持ち悪さや、傷口を縫い合わせるときの直接描写など手加減がなく素晴らしい。またラスト近くのヒロインとサメとの1対1の死闘はこれまた『ラン・オールナイト』の監督らしく、手に汗握るたたみかけで思わずヒロインに「ナイスファイト!」と声をかけたくなる。

ヒロインのブレイク・ライブリーはそれほど美人でもかわいくもないんだけど、スタイルがよく、水着からのびた長い脚を見せてくれる。ちなみにこの映画、ほとんど彼女の一人舞台である。

ちょっと最後の方、ブイを留めてある鎖を切ると海底に引き込まれる仕様になっているとか普通は知らないだろうから御都合主義的な感じがしないでもないが、まあ、許せる範囲かな。『激突!』とかそういった昔からある、ワンアイデアだけで勝負をかけた、正しいB級アメリカ映画の血統を引き継いだ映画で、じゅうぶん楽しんだ。

<8/6(土) なんばパークスシネマ、シアター9、座席H−4にて鑑賞>

2016-08-01

Kurobaku2016-08-01

[]トランボ ハリウッドに最も嫌われた男(米2015 ジェイ・ローチ監督)

1940年代〜50年代、赤狩りの犠牲になってハリウッドから干されながら、なおも戦い続け、ついには一線に返り咲いた伝説の脚本家:ダルトン・トランボ(昔はドルトン・トランボという表記だったと思うが)の生涯を描いた作品。

赤狩りのこと、トランボとその作品のことは知っていたが、具体的に誰がどうかかわって、何があったのかはよく知らなかった。だからエドワード・G・ロビンソンがトランボと交流があり、公聴会で仕事ほしさに裏切った、なんていう話は、この映画で初めて知った。ヘレン・ミレン扮する元女優の業界記者ヘッダ・ホッパーなどの話も興味深い。アメリカ映画の永遠のヒーロー、ジョン・ウェインが嫌な奴として出てくるのも面白い。どうせなら同時期のエリア・カザンの話などにもちらりと触れてほしかったとか、変な欲も出てくる。ブルース・クックの原作評伝は読んでいないのでわからないが、おおむね事実に沿って描かれているのだと思う。

しかしこの映画の本当の魅力は、そういった赤狩りやトランボの勉強だけに留まるわけではない。そういうのが目的なら本を読めばよい。

私はこの映画の、トランボが『ローマの休日』の脚本を友人のイアン・マクラレン・ハンターに託す場面が好きだ。ハンターは最初断るけど、トランボの事情を察して、仕方なく受け取る。その際、ハンターは『王女と無骨者』というタイトルがよくないと進言し、少し考えてから「『ローマの休日』はどうだ」と言う。一緒に連れてきたトランボの娘がサンデーか何かを食べながら「私もそれがいいわ」。トランボはその場で表紙に書かれたタイトルをペンで書き直す。…これは史実なのか? 一説によると『ローマの休日』というのは皮肉的な意味合いが込められているらしいが、このやりとりだとそんな雰囲気はない。だけども、この場面は最高に温かくて好きだ。どうしてこんなに温かさを感じるのだろう。勝手な想像だが、もしかしたらハンターがタイトルを考えたとすることによって、トランボの手柄を奪ってしまった彼の後ろめたさを少しでも軽減してあげようという、作り手の優しさが背後にあるからかもしれない。実際ハンターはアカデミー脚本賞を受け取っても、後でトランボにオスカー像を渡しに行くようないい奴なのだから、そういうことがあってもおかしくない。

この映画にはそういう人間的な温かさが随所にある。トランボが小さな娘に「共産主義者」とは何かを教える場面もいいし、トランボにB級映画の脚本を書かせた小さな映画会社の社長フランク・キングがトランボをかばう場面もいい(演じたジョン・グッドマンは、『マチネー』でウィリアム・キャッスルに、『アルゴ』でジョン・チェンバースに扮したこともある)。変人的な雰囲気で描かれるオットー・プレミンジャーも、旧いハリウッドの体質を壊そうとするカーク・ダグラスも愛すべき人物として描かれている。また『スパルタカス』の試写を見たケネディがTVカメラに向かって「いい映画だ、これはヒットすると思うよ」と語り、赤狩りの時代が終わりつつあるのを示したのも印象的だった。そこには優れた映画人トランボと彼を評価し、愛した人たちに対する畏敬の念が感じられる。

トランボを演じたブライアン・クランストンが巧い。逆境に立たされ、屈辱的な目に合わされても、飄々とした態度は崩さず、頑固にたくましく立ち向かっていく姿を演じる一方で、仕事のために家庭を犠牲にしたことを妻に指摘され、我に返る一家庭人である姿も演じて見せた。ちなみにバスルームでタイプライターを打つ姿が「全身脚本家」という感じでかっこよかったが、あれは他に家で邪魔されずに書く場所がなかったため、とこの映画では描かれていた。

<8/1(月) 大阪ステーションシティシネマ、シアター7、座席H-5にて鑑賞>